第三章
「ねぇ、沙衣。性欲を抑える薬とかないの?」
成得のその言葉に沙衣は怪訝そうな顔をした。
「ない訳じゃないが、診察もせずにほいほい処方はできないぞ。一応、お前、家庭を持ちたいって願望があるみたいだし、あまり長期で服用すると生殖機能が失われるリスクもあるしな。生殖機能失われてもいいっていうなら、完全に去勢するのが一番手っ取り早いが。」
平然と沙衣にそう言われて成得は、去勢はやめて、と呟いた。
「どうしたんだ?どうせくだらないことだろうが、聞くだけ聞いてやるぞ。」
そう促されて、成得は最近あったことなどを話し始めた。成得の話に耳を傾けていた沙衣の顔が、どんどんうんざりした表情になっていく。
「沙依がかわいすぎて、まじで辛い。これ抑えるとか本当に無理。高英の奴に声に出して言わされてからさ、本当もう抑えらんないんだけど。どうしたらいいの?他の男相手とはいえさ、何あのくそかわいい態度。それで同じ屋根の下に暮らしてるとかね、本当耐えられないから。あいつ本当に無警戒だし、無防備だし、かわいいし、ムラムラするじゃん。下半身が反応するの当たり前じゃない?こっちは必死で押さえてるっていうのにさ、あいつ本当に解ってないし。もう我慢できなくてちょっとあいつのこと考えながら一人で処理したら逆に火がついちゃってさ。手に負えないから、ちょっと女引っ掛けて発散させてこようかと思ったら、全然盛り上がんなくて逆になえちゃうの。そのくせ思春期男子かってくらいもうなんつうかさ。確かに元から自分が性欲強い方だって自覚はあったよ。でもさ、いくらなんでもこの年でこんな抑えられなくなるほど溢れるなんてないから。本当、もうヤダ。」
そう嘆く成得に沙衣は酷く冷ややかな視線を向けた。
「いっそのこともう二度とそういう欲が湧かないように完全に去勢した方がいいんじゃないか?わたしはそれを勧めるぞ。」
冷え切った声でそう言われて成得は背筋が冷たくなった。
「それはまじでやめて。お前なら本当にしそうで怖いんだけど。」
そう言う成得に沙衣は、半分本気だからな、と言い放った。
「薬を飲んだからといって沙依への気持ちが無くなるわけでもあるまいし、そんなもん薬で抑えても意味がないだろ。自分でどうにかしろ。というかそういう問題は男同士の方が解るんじゃないか?わたしじゃなくて友人にでも相談しろよ。病気でもあるまいし、わたしのところへ来られても迷惑だ。」
そう言われて成得は、俺にとったら重病みたいなもんなんだよ、と嘆いた。
「何でも話聞いてくれるって言ったじゃん。お前以外にこんな話できる相手がいないの。お前は守秘義務ちゃんと守るし、俺の事からかわないだろ。それに泣いてるとこも見られちゃったし、お前にだったら取り繕わないで話せるんだって。お願いだから話し相手になってよ。俺もう本当に耐えられない。」
そう喚く成得に呆れた様な視線を向けて、沙衣は深くため息を吐いた。
「まったく、お前にはまともな友人の一人もいないのか?」
沙衣にそう言われて成得は、どうせ俺にはまともな友人なんていないよと毒づいた。まず友人と呼べる相手がいるのかさえ疑問だった。結局、俺も人の事言えないくらい人と深く関わるの避けてたよ。まともに人と向き合う事からも自分と向き合う事からも逃げてましたよ。あからさまに壁作って避けてますって態度とってなかっただけでさ、本当、人の事言えねぇよ。そんなことを成得が心の中で毒づいていると、沙衣のため息が聞こえた。
「まったく仕方のない奴だな。仕方がないから聞いてやる。わたしがお前の友人一号になってやるよ。」
そう言うと沙衣は呆れた様な顔で笑った。その笑顔が優しくて、成得は何とも言えない気持ちになった。
「お前、本当優しいな。惚れていい?」
「だからやめろ。お前なんかに惚れられたら本気で迷惑だ。」
沙衣に即答で切り捨てられて成得は、だよな、と呟いた。
「本当、惚れたのがお前だったらさ、既婚者だし最初から無理だって明確に分かるじゃん。そうやってバッサリ切り捨ててくれるしさ。俺だって変な気起こしようがないじゃん。どうせ同じ見た目ならお前がよかった。」
そう言って机に項垂れる成得に、見た目じゃなくて中身に惹かれたってことだろ、と沙衣は呟いた。
「まず、その発言が逃げだからな。ここまできて逃げてどうする。」
そう言って沙衣はまたため息を吐いた。
「でも、そうやって吐き出せるようになっただけでもお前にとったらいいことなんだろう。今考えると、お前の普段のあの人の感情逆撫でするようないけ好かない態度も、自信満々でさらっとなんでもこなして涼しい顔してるのも、房波線張って逃げてただけなんだな。」
そう言いながら沙衣はお茶を淹れて成得に差し出した。
「今まで張ってた房波線が破れた今、今まで通りを貫こうとしても無駄だぞ。無駄な抵抗はやめろ。でないとお前が壊れる。」
そう言う沙衣に成得は、じゃあ、どうすればいいんだよ、と毒づいた。
「抵抗しなければいい。」
さらっとそう言われて成得は思わず、はぁ?と声を上げていた。
「抵抗するから辛くなるんだ。なら開き直って抵抗するのを辞めればいい。」
そう言う沙衣に成得はうろんげな視線を向けた。
「言っておくが、欲求の赴くままに行動しろとは言ってないからな。気持ちを抑え込もうとするなという事だ。隠すことを止めて開き直ればお前の部下たちの恰好のおもちゃにはなるかもしれないが、それだってお前が抑えようとしているから辛いのであって、開き直ってしまえば気にならないだろ。実際、無自覚で開き直って好き放題していた時は楽だったろ?」
そう言われて成得は確かになと思った。でもさ、そんなことしたらそれこそ欲求が抑えきれなくなるんじゃない?そんなことを考えて成得はもやもやする。
「いけないと思うから余計抑えられなくなるんだ。抑制されると欲求は増幅するようにできている。騙されたと思って開き直ってみろ。今よりかはましになるはずだ。逆に、今のまま無理に抑え込んで何か起こしたら、本当にぶつごと綺麗に去勢してやるからな。」
「いや、まじで怖いから。わかったから。お願い、そういう脅し掛けてくるのやめて。本当怖い。」
どすの利いた声で放たれた沙衣の台詞を聞いて、成得は反射的に背筋を伸ばしていた。絶対こいつ本気だ。完全に縮み上がっちゃたじゃん。そんなことを考えて成得は肝を冷やした。
「でも良かったな。お前の場合あれだけ昔から本人に付きまとってた挙句、最近まであれだけ好きだのかわいいだの連呼してたから、今更ちょっとやそっと気持ちぶつけたくらいじゃ全く気付かれないぞ。本人に気持ちぶつけたい放題しても、お前が困るような反応をされる可能性がないなんて今のお前には願ったりかなったりだろ。」
さらっとそう言われて成得は頭を抱えた。そうね。あの鈍ちんは気付かないね。たぶん、下手に隠す方があいつは第六感で感じ取る。孝介のことが昔から苦手なのも、最近の高英がなんか怖くて逃げてきたって言うのも、ようはそういう目で見られるのがダメってことだもんね。今自分が感知されてないのは、癖で監察対象に視線を気づかれないように見てるのと、欲求を表に出さないように必死に抑えてるからだと思う。感知されたら俺も避けられるな。いや、その方がいいのか?いやいや、避けられる前に高英の時みたいに詰め寄られても困る。言いたいことがあるならはっきり言えなんて詰め寄られたら、まじで耐えられない。無理。そんなことを考えて成得は頭が重くなった。
「だからって本人にそんな直球で言えるわけないだろ。無理。前みたいにさらっと言えないから。」
そう叫んで成得は机に突っ伏して撃沈した。本当、今考えるとまじで恥ずかしい。無自覚って怖い。好きとかかわいいとかそんな他愛のない言葉だけじゃなくてさ、俺どんだけ恥ずかしい事言いまくってるの。本心だよ。本心だったけどさ。思い出しただけで軽く死ねる。あれだけ言われて自分に気があると全く思わない沙依も凄いと思う。沙依が本気で嫌がって避けるか、少しでも色っぽい反応してたらこうならなかったと思うんだ。何、あの純粋にお兄ちゃんからの愛情だって信じ込んでる感じ。ってか、お兄ちゃんだったら何やってもいいの?普通、あんなお兄ちゃん妹から嫌われて終わりだからね。
「まじで沙依の思考回路が理解できない。自分の唇奪って押し倒した奴と普通に仲良く友達してるし。それを治療行為だと信じて疑ってないし。それ絶対に下心だから。本当、何なの。何であんな簡単に人を信じ切って全部委ねられるの。」
そう嘆く成得の言葉を聞いて、沙衣が怪訝そうな顔をし説明を求めた。机に突っ伏したまま成得が沙依から聞いた話をそのまま伝えると、沙衣は納得した様子だった。なんでそんな冷静なの。それで納得できるって意味が解らない。そんなことを思いながら成得は沙衣を見た。
「確かに下心があったかもしれないが実際治療行為だしな。沙依に下心の方に重点をおけという方が無理だろ。実際に沙依の命を繋いでくれていたのは確かだし、わたしは感謝しているぞ。その時の腕を評価してわたしはあいつをここに誘ったんだしな。」
沙衣のその言葉を聞いて成得は怪訝そうな顔をした。
「わたしがあいつから聞き取って作成した治療記録を見せてやろうか?仙人達の使う術式はわたし達のそれと発達の仕方も違うしな。あいつの知識や技術は興味深くとても勉強になる。」
そう言って沙衣は棚からファイルを出して成得に見せた。それに目を通して成得は天井を仰ぎ見た。
「確かに相手が男だったらあいつは施術しようとしなかったかもしれない。でも下心だけで行うにはあまりにも術者のリスクが高い術式だぞ。例え下心だったとしてもだ、その時のあいつには沙依の為に命を懸けてやってもいいという覚悟があったんだ。それが解ってるから沙依はあいつを信頼して大切な友人だと思ってるんだろ。あいつだって後ろめたいことが何もないからこちらの要請に従って全部開示したんだろうしな。」
そう言って沙衣はお茶を一口飲んで補足した。
「あいつ元々女にだらしなかったらしくてな。女抱きながら相手の身体の不調治してやることばかりやってたから、そういう方法が一番身に沁みついていて得意なんだそうだ。春李と一緒になってから女遊びは止めたらしいがどうだかな。あいつがここに来てからずっと一緒の寄宿舎で暮らしてるお前が気付かないくらいなんだから実際やめたんじゃないのか。沙依が無警戒だからと言って心配することはないだろ。どうせもうすぐあいつは寄宿舎出て行くんだしな。」
沙衣が最後に言った言葉に成得は疑問符を浮かべた。それを見て沙衣も疑問符を浮かべる。
「磁生の訓練期間はもうすぐ明けるだろ。わたしとしてはとても残念なのだが、正式な入隊はしないそうだ。崑崙に戻るかどうかは決めていないとのことだったから、委託勤務医として残ってもらえないか打診するつもりでいる。訓練期間が明けたらあいつには正蔵の姓を与えるつもりだし、龍籠で暮らすなら民間医としても仕事には困らないだろう。もし残ってもらえるなら、以前わたしの養父が個人の研究室として使っていたうちの離れが空いているから、少し改築してあいつに住居兼職場として使ってもらおうかと考えている。」
それを聞いて成得は、そっかあいつきてからもう三年経つのか、等としみじみと思った。なんかずっとあのまま同居生活が続く気がしてたけどもう終わるんだな。最近にぎやかだったからな、あいついなくなったら…。
「ってあいついなくなったら、俺、沙依と二人になるの?無理だから。もうさ、実家帰ってよ。」
そう嘆く成得に沙衣は、ならお前が出てけばいいんじゃないか、と投げやりに言った。
○ ○
「浮かない顔してどうしたの?」
太乙に話し掛けられて成得は、別にと答えた。
「何?道徳と沙依ちゃんが仲良くしてるから嫉妬してるの?大好きな妹をとられてお兄ちゃんショックみたいな。」
成得が視線を向ける訓練場の中に道徳と沙依の姿を見つけて、太乙はニヤニヤしながらそう言った。
「別にそんなんじゃないよ。それに沙依は妹じゃないし。」
そうぼやく成得に、ついにお兄ちゃんやめたんだ、と太乙はニヤニヤ笑いのまま返した。
「じゃあ、好きな娘が他の男にとられそうになってるから普通に嫉妬してるんだ。あんなに兄妹主張してたのに、ついにね。妹に手を出すお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないって言ってたのにね。あ、もう妹じゃないからいいのか。本当、都合がいいね。そんな都合よく兄妹ってなったりやめたりできるもんだったなんて知らなかったよ。」
そんな軽口を完全に無視されて太乙は笑顔を引っ込めた。どこを見て何を考えているか解らない成得の横で、太乙は仲良く訓練に励む二人に目を向けた。道徳が沙依に何か教えこんでいる姿が目に写って、懐かしい気持ちになる。
「こうやって見るとあの二人昔と変わらないね。ただ、中身が逆転したみたいになってるけど。昔は道徳の方が沙依ちゃんを意識しててさ、沙依ちゃんの方が何も考えてないみたいだったけど、今は沙依ちゃんが道徳を意識しててあいつは本当に稽古つけてるだけなんだ。あいつ元々鍛錬にはストイックだからね。自分が強くなることもだけど、才能ある誰かを強くすることにも本当に心血注ぐ奴だし。沙依ちゃんの事本気で鍛える気なんだろうね。昔から沙依は強いけどこういう癖があるからこうすればもっと強くなるだのなんだの言ってたし、あいつにとって沙依ちゃんはいい原石なんだろうな。ついこないだまで沙依に勝てないだのなんだの言ってたのにすっかり師匠ぶっちゃってさ。」
そう語る太乙に成得は視線を向けて、発言には気をつけろよと釘を刺した。そんな成得に太乙は大丈夫だよと首をすくめて見せた。
「君だって気が付いてるでしょ?僕らの周りは空間を切りはなしてある。よほど注視でもされなければ、僕らがなにをして何を話してるのかなんて外には漏れない。」
そんな太乙に成得は呆れた様な視線を向けた。
「本当、お前って怖いもの知らずだよね。」
成得はいつもの薄ら笑いを浮かべてそう言った。攪乱系の術式ではなく空間断絶とか、しかも断絶させといて自分達には外の情報がそこにいるのと同じように認識できるとか、どんだけ高度な術式をこともなさげに組んでるんだよ、と思う。いくら緘口令が敷かれてる情報が含まれているとはいえ、こんなどうでもいい会話にわざわざそんなことをする意味が本当に解らない。
「もし漏れたとしても本人達には絶対に伝わらないし、誰かが聞いててもこれくらいなら問題ないでしょ?ちょっと新しく作った装置の実験もしたかったし、少しぐらいリスクがある話ししないと面白くないからさ。」
そう言って太乙は小さなリモコンのようなものを取り出した。成得が疑問符を浮かべると、太乙はそれの説明をした。それを聞いて、スイッチ一つでこれだけの術式を再現できるなんてどういう技術だよ、と成得は感嘆した。本当にそういう技術は仙人達の方がはるかに上をいっている。
「術式を自分で組まなくてもいいとはいえ錬気は消費するし、効果範囲や制度は術者の技量次第だし、軍事利用するなら誰でもある一定の効果を出せてもう少し錬気の消費も抑えたいところだけど。やっぱりこのレベルの術式になるとそこまでに落とすのは難しいね。小型化まではいったけど、まだまだ改良が必要だな。」
そんなことを楽し気に言う太乙を見て成得は、やっぱりこいつは敵に回したくないと思った。
「同盟の技術提供者なんて言っても、ようはお前人質だぞ?よくそんな脳天気でいられるな。」
呆れたようにそう言う成得に太乙はしれっと、実際今楽しいしね、と言った。
「僕に人質の価値なんてないの解ってるでしょ?僕ら世代以降の仙人は元々自分の求める何かをひたすらに探究し続ける世捨て人だよ?僕ならこういう技術開発。道徳なら純粋な武術のみでの神武不殺の強さ。沙依ちゃんなら古来からある術式の探求に精を出してた。そうやってそれぞれが自分の得意分野にのみ特化して追求するために自分の洞府に引きこもって過ごしてるんだから、協調性も何もあるわけがない。君もよく理解してるでしょ?僕ら仙人なんてろくなもんじゃない。基本的に利己主義で排他的で高慢。誰かのために何かなんてしないよ。君があれだけ脅すしさ、僕がこうしてここに来てるのも、自分じゃなくて良かったって思ってるだけなんじゃない?僕がどんな目にあったって助けになんか来ないし、僕の命なんか平気で切り捨てる。あそこにいるのはそういう連中さ。もし僕を助けに来てくれるとしたら、僕の命を守ろうとしてくれる奴がいたとしたら、それはここにいるあの二人くらいだよ。他にも少しは気に病む奴はいるかもしれないけど、実際に行動を起こしてくれるのはあの二人くらいだ。だから僕も崑崙の為になんかは働かないし、崑崙の立場が悪くなろうが何だろうが好きにさせてもらうよ。今まで好奇心の赴くままに色々作ってきたけど、こうやって何か目的をもって研究するのも面白いし、ここの技術もターチェが固有で持ってる術式ではない能力も興味深いし、本当に楽しいし。僕は何も我慢するつもりなんてないから、それで君らに殺されるならそれはそれで構わない。したいことをしたいだけしてそれで死ぬなら、その後がどうなったって別に構わないよ。」
淡々とそう言う太乙を見て成得はため息を吐いた。
「君はお人よしだから、こんな生き方理解できないでしょ?こんな僕の心配もしてくれるしさ。本当は殺したり殺されたりとかそう言う事なんて大嫌いだって顔に書いてあるよ。お願いだから殺さなきゃいけなくなるような事しないでくれってさ、そういう顔してる。君が思ってるほど君は取り繕えてなんかいないし、特にそういう部分は隠せてないよ。本当、よく今までそんな性格で生きてこられたなって思うくらい、自分はお人よしですって顔に書いてある。だから僕みたいな奴に付け込まれるんだ。悪い奴って言うのはそういう人の隙を見つけるのが上手いからね。」
どうでもよさそうに太乙はそう言って成得を見た。
「もっと自由に生きたら?僕から見ると君の生き方は本当に息苦しい。君達だって永遠に存在するわけじゃない。君がいなくなれば、君が背負ってきたものなんて誰かが肩代わりしてくれるかもしれないし、そうじゃなければそこでパーだ。なら生きてるうちに放棄したって結果は変わらないよ。早く来るか遅く来るか、自分自身が結果を目にするかしないかの違いだけ。君の想いも努力も、誰かに影響は与えることができるかもしれないけど、結局は君が生きてきた人生は君自身にしか返らないんだから、背負いたくない物なんて背負わなくていいし、好きに生きたもん勝ちだよ。」
しれっとそう言われて成得は苦しくなった。何か最近こんなことばかり言われてる気がする。開き直れとか、捨ててしまえとか、それが簡単にできたら苦労はしない。人を殺す時のことを考えずに済む様になったらそれは楽だと思う。でも、どうしようもないくらい癖になっている。好きだと伝えられたら、傍にいてほしいと素直に伝えられたら楽だと思う。そうして手に入れられたら本当に嬉しいと思う。でも、きっとこれからもずっと頭の隅で殺す時のことを考えている自分がいる。それが大切なら大切なだけ、失いたくなければ失いたくないだけ、それを自分の手で終わらせる未来を考えて精神が削られる。だからこれ以上想いが強くならないように遠く離れていてほしい。でもずっと傍にいてほしい。俺は本当にどうしたらいいんだ。そんなことを思って成得は辛くなった。
「何を考えてるのかだいたい想像つくけどさ、その思考自体もう君には必要がないものだよ。君に必要なのは殺す覚悟じゃない。殺さない覚悟だ。君はもう誰かを殺さないですむ様に立ち回ることができている。そのために必死にもなれる。君が最後に殺したくない人を殺したのはいつのことだい?ずいぶんと昔のことなんじゃない?君に足りないのは、殺したくない人を絶対に殺さないとうい覚悟だけだよ。覚悟をするものを変えるだけで、君はずいぶんと楽になれると思うけどね。」
太乙のその言葉を聞いて成得は目が覚める思いがした。
「お前、性格悪いけど根はいい奴だよな。」
そう言う成得に太乙は肩をすくめて見せた。
「ここでの僕の生活は君にかかってるからね。君の庇護下だから僕はここで窮屈な思いをせずに好きに動けてるんだから、君に潰れられると困るんだよ。君には元気に現役を続けてもらわないと面倒くさいことになる。僕は面倒ごとは嫌いだよ。」
そう言う太乙の頭を成得はぐしゃぐしゃ撫でて、ありがとなと言った。
「礼を言われる覚えはないけど、とりあえず頭をぐしゃぐしゃにするのは止めてくれる?」
どうでもよさそうに太乙はそう言うと、話題を変えた。
「正直さ、君はあの二人どうなると思ってる?」
太乙のその言葉に成得は、どうにもならないんじゃないの、と答えた。
「やっぱり?どうりで君も焦らないわけだ。」
ニヤニヤ笑いに戻って太乙がそう言ってきて、成得はため息を吐いた。
「色々水を差し向けてみたんだけど、あの道徳がさ、沙依ちゃんの強さには興味があるみたいだけど、沙依ちゃんの事全く女として見てないんだ。からかおうとしても全く面白い反応が返ってこなくて、興味が湧いて実際に見に来ちゃったけど、あれは完全に脈なしの反応だし、正直驚いたよ。」
そう言って太乙は好奇の目を二人に向けた。
「あいつは沙依ちゃんのこと庇護欲とか支配欲を満足させてくれる存在として好きだったのかな?それにしてはずいぶんと片思いに苦しんでたけど。昔からあいつの気持ちが愛なのか執着なのかよくわからなかったけどさ、こうやって見ると執着だったんだろうなって思うよ。ちょっと残念だ。僕はそういう感情に振り回されてるあいつを見るのが好きだったんだけどな。」
本当に残念そうにそう言って、太乙は二人を眺めていた。
○ ○
「お、今日はずいぶんとかわいい恰好してるじゃねぇか。それで訓練場行くのか?」
磁生にそう言われて沙依は、今日は訓練場には行かないよと答えた。
「ねぇ、変じゃない?」
不安そうにそう言う沙依に磁生は笑った。
「ちゃんと女に見えるから安心しろ。」
そう言われて、何その言い方、とぶーくされる沙依に磁生は、普段が普段だから仕方ないだろ、と返した。
「こうやって見るとあんたやっぱり美人だな。あんたにそんなかわいい反応ができるとか知らなかったぜ。出会った頃にそういう愛嬌が少しでもあればほかっとかなかったんだけどな。」
そう軽口をたたいて磁生は沙依に椅子に座る様に促した。
「道徳とデートしてくんだろ?せっかくかわいい恰好してんだから、似合うように髪も結ってやるよ。」
そう言うと磁生は器用に沙依の長い髪を編みこんで結っていく。沙依は、磁生って器用だね、などと感心したように呟きながらされるがままになっていた。
「化粧も少しした方が大人っぽくなるんだけどな。どうせあんた化粧道具なんて持ってないだろ?」
磁生がそう言って沙依はあるよと答えた。
「祭事用だけど。わたし神官だから、行事の際にはちゃんとしなくちゃいけなくてさ。儀式ごとに化粧の仕方とか使う色とか違うから、やたら色々入ったごつい化粧箱持ってる。」
それを聞いて磁生は持ってくるように促す。沙依が持ってきた道具を見て、少し考えてから磁生は沙依に化粧を薄く施した。
「普段してないのにあまりがっつりしても違和感が半端ないからな。出かける前に落とされても困るし、あんたは地がいいからこんくらいで充分だろ。」
そんなことを言って磁生は沙依に優しく微笑んだ。
「上手くいくと良いな。普段ない色気を十二分に作ってやったんだから、普段のガキっぽさとかがさつさ抑えてちゃんとして来いよ。」
そう言われて沙依は神妙な面持ちで頑張ると答えた。
成得は離れたところから千里眼を使って沙依の様子を見ていた。緊張した面持ちで道徳との待ち合わせ場所に向かう沙依の姿を見ると胸が苦しくなった。よく頑張ったと思う。訓練場での交流を重ね、勇気を振り絞って沙依は道徳をデートに誘った。何回か訓練場以外で会うことを重ねて漸くの今日。あんなかわいい恰好して、あからさまにさ、今日告白しますって言ってるようなもんじゃん。そんなことを考えて成得は遠くを見た。
「仕事さぼってのぞき見ですか、いい御身分ですね。」
楓にそう話し掛けられて成得は、一応仕事中、と答えた。
「訓練に関してはわたしたちに一任するんじゃありませんでしたっけ?しかも二人の邪魔が入らないようにお膳立てするとか、訓練の目的と反しているような事やっている様に見えますが。」
そう言われて成得は、これでいいんだよと呟いた。
「楓ちゃんはさ、どうなると思う?」
そう訊かれて楓はしれっと答えた。
「青木沙依がフラれてお終いでしょ。そういう実績を作るための今日ですからね。今日でこのふざけた訓練も終わりです。その実績さえできてしまえばあとはその情報をあなたがどう使うか次第ですから。」
それを聞いて成得は、やっぱりそうだよねと呟いた。そんな成得を見て、楓はため息を吐いた。
「全く、今日はもう戻ってこなくていいですから好きにしてください。」
そう言って楓は成得に酒瓶を渡した。
「お子様な青木沙依でも飲める果実酒です。フラれた時はお酒でも飲んでパーッと忘れてしまうのが一番です。酒盛りでもして慰めてあげればいいんじゃないですか?」
そう言って楓は去って行った。そんな楓の後姿を目で追って成得は、いったい何企んでるの?と不安になった。楓から渡された酒瓶を細工がないか確認してみる。特に何もないことを確認して瓶を開けて中も確認するが特に変わった様子もない。匂いを確認してもただの酒に思う。少し飲んでみるが、特に何も入ってないただの普通の果実酒だった。え?本当に楓ちゃんなに企んでるの?怖いんだけど。そんなことを考えつつ成得は酒瓶をしまった。
三年間なんてあっという間だと思う。今日を終えても、道徳の訓練期間が終わるまでまだ半年あるがそんなのは本当にすぐの出来事だ。今日、沙依がフラれたとして、二人の記憶が戻った時にどうするかはまた考えなくてはいけない。それに他にも考えなくてはいけないことはある。気がついたら磁生の訓練期間は明けていて、彼は軍人にはならなくても龍籠に残ることに決めた。沙衣の家の離れの改築が終わるまでという名目でまだ寄宿舎に残ってもらっているが、じきに寄宿舎を出て行く。沙依と二人で寄宿舎に残るということについても考えなくてはいけない。色々と助けもあって気持ちはだいぶ落ち着いたが、成得はまだ自分がどうするのか決めきれずにいた。自分の殻にしがみつくのはもうやめることにした。新しくちゃんと前に進もうとは思う。いつか殺さなくてはいけなくなることを恐れて人を拒絶する事とも決別を決めた。癖はなかなか治らないが、少しづつ改善はしていると思う。それでも沙依のことに踏み切れないのは、やはりそれが恋愛感情だからなんだと思う。そんなことを呆然と考えながら成得は沙依のデートの様子を見ていた。デートも終盤に差し掛かって、成得は立ちあがって移動した。
「そんなかわいい恰好してこんなところに一人でいたら悪い人に連れてかれるぞ。」
軽い口調で成得が話し掛けると、河原に腰かけてぼうっとしていた沙依が振り向いた。
「大丈夫だよ。わたしだって認識してなんかしてくる様な人、龍籠にはいないから。」
そう言って笑う沙依の隣に成得も腰かけた。
「それでも暗くなったら危ないだろ。」
成得がそう言うと沙依は、それもそうだねと言いつつそのまま座っていた。ぼうっと水面を見つめる沙依の横で成得は何も言わずに一緒に水面を眺めていた。しばらくそうしていると沙依が口を開いた。
「フラれちゃった。」
そう言って、沙依は泣きそうな顔で笑った。
「頑張ったんだけどな。ダメだったや。」
そう言葉にすると、沙依はぽろぽろと涙をこぼした。
「ごめん。少ししたら落ち着くと思って、落ち着いたら帰ろうと思ってさ。泣くつもりはなかったんだ。」
そう言う沙依に成得は、沙衣がそういう時は気が済むまで泣いた方がいいって言ってたぞ、と声を掛けた。
「なんなら俺の胸かしてやろうか?」
そう言う成得に、沙依はいらないよと言って泣きながら笑った。
「好きだったんだ。こんな気持ち初めてだった。特別な好きを受け入れてもらえないって、凄く辛い事なんだね。わたし初めて知ったよ。」
そう言って笑いながら泣き続ける沙依に成得はハンカチを差し出した。
「お前は頑張ったよ。本当に、よく頑張った。」
それを聞いて沙依が小さくありがとうと言うのが聞こえた。成得は沙依が落ち着くまでずっと隣に座っていた。本当に頑張ったと成得は思う。自分にはそんな勇気はない。今だって、何をしにここに来たんだか分からない。正直いない方がいいのかもしれない。それでも彼女が辛い時は傍にいたいと思った。彼女が拒絶しないなら、ここにいようと思った。