Hearts of Asia
アメリカ、ニューヨークにある、小さな美術館。
私は、その前に佇んでいた。
「ここで、いいのかな?」
ハドソン川の公園近く、ブロードウェイの四つ辻を入ったところ。
華やかな大通りからは、一歩離れると、そこは住宅街。
彼の美術館は、その住宅街の一角に存在していた。
あまりにも、地味で、
あまりにも、目立たない。
地元のニューヨーカーでも、知ってる人はわずかという
その美術館に、私はなぜか興味を持っていた。
普段、そういうところに行くなど、滅多にしない私が、
なぜ、ここに、しかも外国の美術館に、わざわざ足を運んだのか、ちっとも分からない。
でも、どうしても行かなければいけない。
その思いに突き動かされるように、私は歩いていたのだ。
空調の効いた室内、壁には額に入った絵が飾られている。
私は、とある絵の前で立ち止まった。
「山、チベットの……」
抜けるような青い空、そこに白い雪をまとった山々が描かれている。
山の絵は、他にもあり、その内の一つは、黄色い帽子を被った僧侶の姿もあった。
「青い、石?」
額の中の若い僧侶、その首には、背景の空と同じ色の石が輝いていた。
――これは、チベットの空。
突如、頭の中に言葉が響いた。
辺りを見回しても、皆、静かに絵画鑑賞を続けているばかり。
私は気のせいだと思うことにし、絵を見つめていた。
世界の屋根と称される、チベット高原の山々。
これが描かれた頃、この場所はグレートゲーム真っ只中で、
各国の工作員が、その地を手に入れようと暗躍していた時代だ。
そんな中、僧侶たちは修行に明け暮れ、日々を過ごし、生きていた。
だが、それも時代の波には抗えず、彼らの場所は、野心溢れる隣国の手によって
切り取られ、人々は血を流し、破壊しつくされてしまった。
今から、五十年以上も前の話だ。
次に見た絵は、キレイなオーロラを描いたもの。
カーテンのような光のヴェールが、キャンバスの上半分にある。
暗い背景と人物。
そこに、明るいオーロラ。
オーロラのみを強調する、大胆で鮮やかな色使いに、私は息を飲んでいた。
――あれが、極北の光。
また、声がする。
この絵の場所は、北極圏だろうか、
オーロラがあるぐらいなのだから、極北の寒さ厳しい場所なのは見てとれる。
そこで暮らす人々は、日々この夜空のショーを見ていたことだろう。
テレビカメラや、写真では伝わらない、動く七色の光を、その目で見て、どう感じたのか。
最近、分かったことだが、この神秘的なオーロラは、
宇宙ステーションからも観測されることがあるらしい。
青い地球を薄く覆う、淡い光のヴェール。
かの有名な、人類初の宇宙飛行士も、それを見たのか。想像は尽きない。
私が、次に足を止めたのは、ラダックの岩と題があった。
その名のとおり、茶色の岩に、動物の模様が描かれている。
背景には、山の色とは思えない、鮮やかな色の影。それはまるで。
――ラダックに咲く、花。
そう、花だ。
角の生えた動物と、それを狩る人々。
古代の人が描き残した、拙い岩絵を、この人は芸術と捉え、己の作品に記したのだ。
元となったそれは、長い年月の間に、風雨による浸食に晒され、
いずれは消えゆく定めなのだろう。
もしかしたら、今も続く紛争で、もう消えてしまったのかもしれない。
この人は当時、何を思い、これを書き記したのか。
紛争で消えてしまう、未来なぞ、分からなかったはずだ。
その土地の、文化を、遺産を、後世に残そうと、この絵に込めたと思うのは考えすぎか。
ここには、どれだけの絵画が収蔵されているのだろうか。
そう思いながら、目に入ったのは、ロシアのとある町を描いた作品。
有名な聖堂なのだろうか、建物のてっぺんに、たまねぎ型の屋根がある。
そして隣には、聖堂とは真逆の、先住民族の祭祀の場の絵。
その向こうには、青と水色のみで表現された、冬の針葉樹林の絵。
樹林に冠雪、地面には、足も埋まりそうな深い雪。
雪原の岩、だが、それは、眼光鋭い狩人のような顔が見えた。
濃い青の色が、最も暗いその部分として置かれ、作品全体に締まりを出している。
雪の色は、白一色ではなく、水色が基本となっているようだ。
重く積み重なった雪を、光で透かしてみたような、淡い水色。
「キレイな、色」
その青さに、声が、出た。
「バイカルの雪の色だね」
背後から、そう声が聞こえ、私は思わず振り向いた。
その声の主。彼女、と言っても老婆だが、その人はニコニコと微笑んでいた。
「雪国の人なら、この色を知っているね」
ドキリ、とした。
私は、雪深い地方で生まれ育った。
それこそ、この絵のような雪景色を、毎年のように見てきた。
白い大地に、濃い青の樹木、そこに差し込む、冬の太陽の光。
私の心に、故郷の風景が思い起こされていた。
「なぜ、私が雪国の生まれだと、分かりましたか?」
老婆の、細い目の奥、不思議と吸い込まれそうな、瞳の奥に、私は問いかけた。
「あなたは、私らと近い人のようだ」
そう言って、彼女はうなずいていた。
首のペンダント、水色の石が、ゆらゆらと揺れている。
「私は、ブリヤートのシャマン、これぐらいは分かるよ、日本のお方」
思わず、口を開けたまま、私は呆然としていた。
「え、なぜ、私の国を?」
「身なりで分かるさ、それにここに来たのも、偶然ではないねえ」
「偶然ではない?」
私の問いかけに、老婆は黙って、一つの絵を指さした。
彼女の指の先、そこにあるのは、山の絵。
だが、その山は、どことなく見覚えが、ある。
すらりと伸びた山影、連なる峰はない、独立峰、夕日に照らされたその形は。
「この山……、富士山?」
老婆は、笑ってうなずいた。
「どういうこと?なぜ、富士山の絵がここに?」
私は、その絵に食いつき、見入っていた。
「この絵を見に来たんじゃないんだね、なら必然だったという訳だ」
彼女が言うには、この絵は本来は、別の美術館に収蔵されているものだという。
それがたまたま巡回展示で、ニューヨークにもやって来ている期間だったらしい。
「この絵に呼ばれているなら、元の美術館に行っているはずだ、それがこっちならば」
老婆の眼が、私を見据える。
「他にも、見てもらいたい絵が、あったんだろうねえ」
彼女はそう言って、一冊のパンフレットを、私にくれた。
「読みなさい、これは、あなたに必要なことだから」
私の手に載せられたそれは、この美術館と画家のことが書かれたものだった。
館内の椅子に、腰を落ち着け、私はそれを読み始めた。
英語の文章を、一つ一つ、噛みしめるように、日本語へと頭の中で訳していく。
最初は、画家の生い立ち。
一八七四年、サンクトペテルブルクに彼は生まれ、裕福な少年時代を過ごした。
歴史や地理、そして鳥類、植物といった、あらゆる自然に対する興味を持ち、
それらのスケッチの才能を見いだされたことから、絵画への道を歩み始めた。
そして一八歳の時に、美術アカデミーに、入学を果たした。
当時の彼の国の文化は、大きな変換点を迎えたころで、彼も絵画に携わる者として
若いながらも、素晴らしき発想と腕で、その時代、評価を得ていた。
その後、彼はかの有名な『春の祭典』のテーマ、舞台衣装等を手がけるなどし、
次第に神智学にも傾倒していくことになった。
そして、革命。
その頃から、彼は戦時における文化財の破壊について、思うところがあったらしい。
ここ、アメリカ、ニューヨークにやって来た彼ら一家は、個展や講演会を開き
アメリカ中で一大ブームを巻き起こしたとのこと。
さらに、かつて故国で成そうとした、すべての芸術作品を一つに集結させる計画。
その設立は、多くの賛同者や協力者を得たという。
翌年には、国際的芸術センターなるものも、設立された。
そして、彼個人の美術館もできることになったのだが、そこに収められる絵画は
この後に決行された、中央アジア、およびチベット奥地への旅の最中に描かれたものらしい。
旅の途中、彼は数度アメリカに戻っているが
二度目の帰国の際は、ノーベル賞の候補にノミネートされ、
時の大統領に旅のことを報告するなど、かなり精力的に活動をしていたとのこと。
その活動の内容は、戦時における文化財の保護条約。
この時代、戦争、内乱によって、建物、遺跡が壊されるのは当然のように思われていた。
それを彼は、残すべき、保護すべきものと捉えたのだ。
ちょうどこの頃に、日本を訪れ、京都や奈良を巡ったのも、少しは影響したかもしれないが。
その条約の旗印なるものも、この時に誕生した。
『平和の旗』
赤い丸が、三角に配置され、それらを囲む大きな丸い円。
それら赤丸は、科学、芸術、宗教を表し、文化による平和の象徴として
今、この美術館の前にも掲げられている。
なお、この丸三つの模様は、世界各地の岩絵等にも見られ、普遍的な文様でもあるという。
やがて、この活動は実りをつけ、多くの知識人、著名人らに支持され、
南北アメリカ諸国の国家元首や、アメリカ大統領らの立ち会いのもと、
ホワイトハウスにて、正式に調印と相成った訳である。
その影響力の話として、余談があるが、
アメリカドル紙幣の裏にある、ピラミッドの絵は、彼の発案でもあるらしい。
さらに後、彼は再びアジアへと向かい、インドから、西チベット、ラダック滞在を経て、
トルキスタンのホータン、カシュガルと周り、鉄道に乗って、モスクワ入りを果たしている。
そしてまたも鉄道を使って、アルタイ、ブリヤート経由の、モンゴルへと至っている。
ここからチベットへ向けて、一行は旅立ったのだが、これがかなり過酷なものだったという。
五ヶ月に渡る足止めの結果、連れていた動物がほとんど死に、隊員も何名か亡くなった。
この辺の事情については、彼の息子の書いた本に詳しく載っている。
その後、インドへと戻った彼らは、研究所をクル渓谷に設立し、残りの生涯を
研究や絵画の制作に力を入れて取り組んでいたとのこと。
そして、第二次大戦後の世界を見ながら、一九四七年に亡くなったとある。
「知らなかった」
パンフレットを読み終えた、私の第一声は、それだった。
『文化財の保護条約』
それと同じものを、私は知っている。
『世界遺産』
名前こそ違えど、本質は同じ。
戦争、開発から文化財を守ろうという試み。
世界遺産の場合は、ダムの建設によって、水没しそうになった遺跡が元となっているが、
これは戦争からも保護すべきと訴えている。
彼は、故国の革命で何を見たのだろうか。
帝政から社会主義へ、宗教を否定し、古くからの文化を否定するそれは、
彼に何を思わせたのだろうか。
アメリカで、チベットで、日本で、彼は何を思い、その運動に奔走したのか。
科学は、人間の外面を表し、宗教は、人間の内面を表す。
芸術は、その両方を表し、絵画、音楽、それらの文化による、平和がすべてを越えて
一つになれる、と彼は提唱していた。
実際、それはとても素晴らしいことだと思う。
京都や奈良が、空襲に遭わなかったのも、この条約のおかげだという話もある。
短い日本滞在の途中、彼は古い京都の町並みを見て、とても感銘を受けていた。
そして破壊すべきではない、守るべきなのだと、主張していた。
それらは、あの大戦の中、どうなったのか。
空襲がなかったのは、偶然かもしれない。
欧州では、文化財が町ごと戦火に消えた、というところもある。
それを考えると、やはり、偶然だったのだろうか。
だが、彼の考えや、絵画は、様々な人に影響を与えていた。
かの有名な、人類初の宇宙飛行士は、こう言った。
『地球は、青かった』
この言葉は、あまりにも有名になった。
有名ではあるが、
『まるで、レーリッヒブルーのようだ』
その後に続く、この言葉を、知っている人は少ない。
そもそも、この言葉自体が正確ではないという話もある。
現在の情報時代、どこからどこまでが真実なのか、私には分からない。
全て本当かもしれないし、全て嘘かもしれない、あるいは一部だけ本当なのかもしれない。
それでも、文化財の保護という観念は理解できる。
先人たちがそれを大切にしていなければ、今、私たちが見ているこれは無かったはずだ。
彼の提唱する理想は、あまりにも高みにある。
ただの夢物語だと言うかもしれない。
そう、世界は、広い。
実際に、ある地域では、今、この瞬間も文化を否定し、破壊されている現実がある。
破壊の限りをし尽くす彼らも、いつかはこの考えに気づくのだろうか。
文化を否定し、破壊した国から、文化を保護しようとした人が出たのは皮肉なものだ。
ニューヨーク、ニコライ・レーリッヒ美術館。
私は、ここでしばし思いに耽る。
彼が、亡くなって七十年近い時が経つ。
その場所に至る道は、まだまだ遠そうだ。
2016年