ー遠く掠れた過去の話ー
はっ、と鋭く息を吐いた。反射で息を吸いかけた鼻と口を、慌てて服の袖で塞ぐ。それでもなお隙間から入り込んだ空気が、器官にべったりとへばりついて爛れさせる。
長袖の下でジリジリとした肌は、火傷しているのか熱せられているかのかよく分からない。そんな瑣末な感覚に拘ってる暇はなかった。
「……っ館長!」
ごほ、と喉から空気が溢れ出した。まるで血液でも吐き出すかのような痛みに不意に立ち止まると、目の前でごお、と火が揺れた。溶ける。冗談抜きでそう感じる炎の勢い。本能が毛を逆立てる。
「あの親子はもうとっくに外へ逃がした。あとは兄さんだけだ、あと兄さんさえ逃がせば」
幾度か噎せかえりながら、それでも口を閉じることは出来ない。死者に囲まれたいつもの静寂とは違う、こちらを殺しにくるやかましさに押し潰されそうで、その音を振り払うためにひとりごとをつぶやく他なかった。
「館長! 兄さん! くそ、何処だ!」
ここに火を放った奴らと対峙するために消え去った館長と、親子を逃がすために囮になった兄さんの後ろ姿を探し回る。けれど辺りをいくら見渡してもオレンジと赤がゆらゆらと揺れるばかり。喉と肌にも火が燃え移ったかのように熱を持ち始めた。
げほ、と宜しくない音の咳を響かせる。服の袖で顔を覆いつつさらに火力が強い所へと飛び込んだ。
「館長! にいさ……」
燃え盛る本棚と本棚の合間から、不意に探し求めてた二人の後ろ姿が見えた。はっ、と安心して息を吐いたのも束の間。
倒れ伏す館長と、黒いフードを被った人間数人に囲まれた兄さんの姿に、駆け出そうとした足が立ち止まった。
倒れ伏した館長の下には、辺りでメラメラと蠢く赤とは全く別の、鮮明な紅色の絨毯が引かれている。その絨毯がじわりじわりとその面積を広めていた。ぐったりとして床に膝をつけた兄さんは、黒いフードの人間に片腕だけ捕まれている。ぐらぐらと不安定にこちらに旋毛を向けた頭部が揺れていた。黒いフードの奴らは、兄さんのもう片方の腕を掴むと乱雑に引き摺りだした。本棚の影に立ち竦んでいるこちらとは反対方向へと去っていく。
そこでガツン、と頭を殴られたような気がした。
溶けて固まっていた喉が突然動く。かっ、と乾いた空気を吐き出したあと。
「にっ……」
いさん、の言葉は飲み込んだ。頭をぐらぐら揺らしていた兄さんが、ほんの少し頭を起こして。
か、く、れ、て、ろ
口をその形にすると、に、と口角を片方だけ上げる。また不意に体が凍りついた。体は熱いのに、反して体内はとんでもなく冷え込んでいく。
そして。黒いフードの奴らは、壁にこじ開けた穴を通ってさっさと壁の向こうへと姿を消した。
ただただ、燃え盛る死者の間で立ち竦むしか無かった。赤い絨毯を広げる館長に近付くことも、連れ去られた兄さんのあとを追うこともできなかった。
自分がどんなに弱いのかも、どんなに足でまといなのかも、嫌という程わかった。
そして、情とは大切なものを壊すことも、嫌という程思い知らされたのだ。この、炎たちに。