3-20:足を洗う為に
翌日の午前10時頃。
石橋は組事務所に訪れる。
相変わらず騒がしい事務所内を通り抜け、向かう先は組長室。
組長室のドアの前まで行くと、ドアには鹿の頭の剥製が掛かっていた。以前には見られなかったもので、おそらくはこないだ行ったというハンティングで仕留めた獲物だろう。
彼の部屋の中にもこういった剥製は多々あるが、どれも自分の腕前を示すかのようで石橋はこれらのものを見るたびに顔をしかめていた。他にも組長室には高価そうな油絵や壺などがあるが、あの獣が本当に価値を理解しているのかと言うと疑念を抱く。
入る前にドアを三度ほどノックする。
待つ。
「……入れ」
低くドスの利いた声がドアの向こう側から響いた。
石橋はドアノブに手をかけて捻り、扉を押す。
扉の先には、机に脚を上げて椅子の背もたれに思い切り体重を預けて、瓶のウイスキーを割りもせずにそのままラッパ飲みしているジャージ姿の虎の獣人が居る。
頭の形もヒトではなくトラそのもので、体中毛むくじゃらだ。
ウイスキーの瓶を掴む手の先、爪は鋭くとがっており、それは人間程度の皮膚なら難なく裂いて皮下の肉を切り刻むだろう。
ウイスキーを飲むときに見え隠れする犬歯、牙はぬらぬらと唾液で輝いている。
キメラ人のようにヒトに何かしらの動物のモノが付いているわけではなく、真に人と虎が融合したと呼べるような存在。
それが二代目尾熊組組長、虎嶋栄次郎だ。
「用はなんだ。手短に言え」
額に皺を寄せ、石橋を睨みつける。
虎嶋の直情的な性格と石橋の歯に衣を着せない性格は全く合わない。
だが石橋の提言はいちいちもっともで、頭が悪い虎嶋は反論する術がなく、いちゃもんや難癖をつけて無茶ぶりをしても石橋は全て受け流し、或いは全てをこなすものだから余計にイライラが募っていた。今日もそうだ。
ウイスキーを一口飲んでげふうと息を吐いた所で、石橋が口を開く。
「足を洗ってカタギになります」
その言葉に、文字通り目を丸くする虎嶋。
「足を洗う、ってこたぁ組を辞めるってことだな?」
「ええ。潮時だと感じまして」
「他の組に移るつもりじゃあるまいな?」
虎嶋の当然な疑念だが、石橋は嘘偽りなく答える。
「そのつもりはありません。完全に辞めます」
「そうか。組を抜けるか。そうかそうか」
虎嶋は不機嫌そうな顔つきから一転して、にんまりと笑みを浮かべる。
ようやく邪魔者が消えると言いたげに、上機嫌にウイスキーをあおった。
「しかしだな。そこらの三下にならいつでも辞めてもらっていいが、お前は若頭だ。今辞められると困る」
「困ると言われても、もう俺は決めましたから」
「どうしても辞めたいのなら、それなりの金を組に渡す事だな。でなければ認めん」
やはり金か、と石橋は内心で舌打ちした。
どのくらい吹っ掛けてくるのか。
「幾らです?」
「ざっと10億円だ」
「無茶言わんでくださいよ。俺の口座にはそこまでの金はありません」
「何も金そのもので払えとは言ってねえよ。あるだろ? 土地の権利書とか。あるいは会社の株とかそういうのでもいい」
「わかりました。用意が出来次第、また連絡します」
「今すぐにでなくてもいいけどな。どうせ時間が掛かるだろう」
虎島が笑うのを、苦虫を噛み潰したような顔で見る石橋。
「では失礼します」
部屋を後にすると、すぐさま石橋は行動に移った。
引き渡してもよさそうな株や、これから値下がりしそうな土地をリストアップする。
とはいえ、どの取引も他人に譲渡するには多少の時間が掛かる。
それを待つ間、同じく銀行にも連絡を取り、自分が持っているダミー会社の口座の金を全て組の持っているダミー会社に移してほしいと要望を出した。その額はおよそ5億円。
「ええ? そんな大金今すぐには取引できませんよ」
電話越しの担当者の声は明らかに狼狽していた。
「なぜ? 今は銀行でも電子決済が主流だろうが。すぐできるはずだろう」
「そういう問題ではありませんって。まずは明日、窓口まで来てください。うちの支店長も事情を聞きたいでしょうから」
「わかった。そういう事なら明日朝いちばんに行く」
電話を切る。方々に連絡をして、いつの間にか外は夜になっていた。
一息入れようと懐のタバコに手を付けると、ノックの音が響いた。
「入っていいぞ」
中に入って来たのは由人だった。
表情を見ると、どこか憮然としたものを浮かべている。
「兄貴。ちょっといいですか」
「なんだ?」
「組を辞めるんですってね」
半ば問い詰めるような声だった。
机に手をつき、向かい合うような形で石橋と由人は対峙する。石橋に食い掛らんと言わんばかりに机に体重をかけているせいか、頑丈な作りの机が一瞬みしりと音を立てた。
「そうだよ」
「なんで辞めるんですか」
「ヤクザの世界に居る事に疲れたのさ」
「嘘ですね」
「なぜそうだと思う?」
ふん、と鼻を鳴らす由人。
「何も知らないとでも思ってるんですか。希愛ちゃんの見舞いに病院に出入りしてれば、嫌でもその辺の事情は漏れ聞こえてくるもんですよ」
「やれやれ、おしゃべりな奴でもいたんだろうな」
石橋の脳裏には一人の看護師の姿が思い浮かんだ。
病院で働くにしては妙にカジュアルな、そして能天気な娘。
「本当の事を話すとだな、今ここに住み続けるのは危険だからだよ。尾熊組でヤクザやってる以上、本拠地から長い事離れるのは無理だからな。足を洗うしかねえんだ」
「希愛ちゃんだけ遠いところに逃がすってのは?」
「ダメだ。何より希愛が俺と離れる事を望んでいない」
「やれやれ、子供にホント好かれますね」
「教団の連中に感づかれる前に、早いところ北か南か、それとも海外か、まだ決めかねているが引っ越そうと思っている」
「だったら、俺も一緒に行きますよ」
「ダメだ」
「な、なんでですか」
石橋の返答に、由人は納得が行かないと言った風に両手を広げる。
「何時までお前は俺の後ろについてくるつもりなんだ? これは俺と希愛の問題だ。お前はお前の人生があるだろう」
「ぐっ」
言われてみれば、その通りではある。
由人は自分の人生の目標を忘れかけていた。あまりにもこの生活が、石橋と一緒に仕事をしているのが彼にとっては幸せだったために。
俯き、拳を握る由人。
「お前も俺と同じように若頭に、ひいては組長になるって言ってたじゃないか」
「はい」
「だから、ここらで一本立ちしたらどうだ」
「と、言いますと?」
「俺が辞めるにあたって、今後はお前に俺の仕事と縄張りを譲ろうと思う」
「ま、マジですか! 本当に!?」
「ああ。だがその分、組長からの風当たりは強くなるぞ。その辺りの覚悟はできてるんだろうな?」
一瞬由人はたじろいだ。組長と面と向かって話が出来たのは組の中では石橋くらいのもので、由人はそれを背後で眺めているだけだった。それでもあの組長の苛烈さと粗暴さには辟易している。今度は自分がそれに当たらなければならない。
だが、すぐに表情を引き締めて石橋を真っすぐに見据える。
「やりますよ。いや、やらせてください。次に若頭になるのは俺ですよ」
「頼もしいな。よし、なら行くか」
「え、どこにですか?」
「俺の仕事を引き継ぎするから、まずは縄張りの中にある店に挨拶に回ろうか」
「は、はい!」
立ち上がり、灰皿にタバコの吸い殻を投げすてたその時、石橋の携帯に連絡が入った。
「なんだ?」
電話連絡の相手は、柄山だった。
「オヤジ直々に? 一体何の用だ。はいもしもし」
「おう、俺だ」
「どうしたんですか、こんな夜更けに」
「どうもこうもねえ。お前ンとこの組長とよ、教団「方舟」とやらが手を結ぶっていう情報が入ったんだが本当かそれは」
「は、はぁ!?」
寝耳に水だった。
ずっと尾熊組と係争状態にある教団「方舟」が手を結ぶなど、ありえないはずだった。
一体いつの間に、どうやって、誰がそんな取引を進めていたのか。
石橋はギリギリと歯を噛み締める。
「すいません。俺の知らない所で話が進んでいたようです」
「おう、そうか。その教団とやら、最近随分と信者が増えてるようだ。もし事を構えるとなった時は、十分気を付けるンだな。先日お前も襲われたように、明らかに荒事専門の奴を抱えているだろうからよ」
「言われるまでも……いえ、助言ありがとうございます」
通話を切る。
「すまん由人。仕事を教えるのはまた今度だ」
「いいえ。どうやら大ごとみたいっすね」
「ああ。まずは組に行く。誰がこんなバカげたことを仕出かしたのか。いや、誰がってのは大抵想像がつく。あいつしかいねえ。由人、車を出してくれ」
「はい!」
そして二人は向かう。尾熊組事務所へと。