3-8:一か月後のある日
石橋が希愛を保護してから一ヶ月が過ぎた。
まず石橋は希愛を引き取ったのちに養子とした。
そして希愛を近所徒歩2分の学校に通わせることにした。私立の学校で、金を払えばどんな素性の親子供であれ受け入れるともっぱら評判のところで、それなりの金額を要求されるがきっちりとそのぶん教育はしてくれるし要望があれば送り迎えもしてくれる。
学校に通う子供たちも裕福な家庭の子供とあり、素行の酷いものはほぼいなく、もしいたとしても学校は退学処分を即座に下す。
つまり希愛が通う学校としてはこれ以上なく最適な場所と言えた。
転入生として途中からの入学となった希愛にも温かく迎えてくれるクラスメイトと先生の存在もあり、希愛はなんなく学校にも馴染み、早くも友人ができたらしい。
学校から帰ってくる希愛は、石橋にこんなことがあったなどと話すのが楽しみで仕方なく、また石橋も稼業から戻ってきた後に酒を飲みながらそれを聞くのが一つの楽しみにもなっていた。
まるで本当の親子になったかのような錯覚が、ここ最近の石橋には芽生え始めていた。
ある日、石橋のマンションに珍しい来訪者が訪れる。
石橋の部屋のリビングで、ゆったりと黒い革のソファに体を沈めて背もたれに体を預ける初老の男性がいた。歩行補助の漆塗り杖を椅子の傍らに置き、じっと石橋を見つめている。
地味ではあるが素材が遥かに高価そうな和服に身を包み、上品な雰囲気を漂わせている。
はた目から見る限りでは、どこかの社長かそれとも財閥の長か、と思うかもしれない。体格もそれほど大きいわけではなく、160cm程度と男性としては比較的小柄な方だった。また彼はキメラ人ではなく、純粋な人であった。
対面する形で座る石橋は、冷や汗をかきっぱなしだった。
話がしたいだけなら何もこうやって会う必要はない。電話なりで済ませればいいのにと思ったが、わざわざ用事のついでとはいえ自分の部屋に来るのは何の意図があってのことかもしれない。しかし彼はかなりの気まぐれでもある。真意を測りかねた。
この男性がどれだけの地位にあるかは、服装以外にも周辺を警護する黒服の数で知れよう。まず彼のすぐそばに4人、そしてリビングの入り口と廊下に1人ずつ、玄関前とベランダにさらに2人と念の入れようである。スーツを着た彼らの懐は妙に膨らんでいる。
石橋が緊張をほぐそうとタバコを口にくわえると、その男性が懐からマッチを取り出して火を点けた。
「いやいや、やめてくださいよ柄山の大親父。そういうのは由人の役割です」
確かに由人が居れば普通に火を点けてくれたのだが、今日は生憎組長の方の護衛に行っており、この場にはいない。
「ん? 俺が点けた火が不満だってのか?」
柄山の大親父と呼ばれた男はいたずらっぽく笑って言う。
「そういう訳じゃないですが」
「じゃあおとなしく火ぃもらえよ遠慮すんなよ」
そう言われると石橋は何も言えない。おとなしく火を受け入れ、タバコの煙を胸いっぱいに吸い込んで吐き出す。しかし緊張は一向に収まりそうになかった。
「いやあそれにしても、お前が親になるたぁ俺もびっくりだぜ」
「養子ですけどね」
「養子でもなんでも子供は子供だ。立派に育てねえと俺が許さねえからな」
男の目がギラリと光った。その双眸の輝きに、石橋は震え上がる。
「にしても、今日は一体どういう用事でこっちに来たんですか?」
柄山と呼ばれた男は自分も懐から煙管を取り出し、中に詰め込まれているタバコの葉に自らマッチで火を点けた。
「うん、それなんだがよ。わが竪菱組とちょいと前に盃を交わした麦原組ってあったろ?うちとそれの下部組織同士がいざこざを起こしやがってな。組長たちまで頭に血が上って戦争だなんだって物騒な話になり始めたから、俺たちが出張る羽目になったってわけよ」
「話は聞いてましたがたった1週間でそこまで話が飛んでたんですか」
「俺も昨日そういう事態になってるって聞いて驚いたぜ。折角上同士がつながったってのに下がやらかしたんじゃ台無しだろ? 話自体は午前中に終わったんだけどな」
「そうだったんですか」
「で、時間がちょいと余ったからお前の顔が見たくなってここに来たのさ」
「それは有難い事です」
「なに、息子みたいなもんだからな、お前は」
そうやって石橋を見つめる柄山の瞳は、先ほどと違い穏やかなものだった。
「なんせ、俺は大親父に拾ってもらったようなものですからね」
遠い目をして、石橋はどことなく中空を見て言う。
「何年前だったかな? お前が俺と初めて出会ったのは」
「恐らく10年くらい前だと思います。大親父の斡旋で尾熊組に入れてもらえて本当に感謝してます」
「今やお前も尾熊組の若頭だもんな。いよいよ組長が見えてきたか?」
「ははは。どうですかね。組長になれるならなりたいものですが」
石橋のその言葉を聞き、柄山は即座に言う。
「ヤクザから足を洗いたいか?」
「まさか」
即座に否定する石橋。しかしわずかに動揺の色が顔に浮かぶ。
柄山は意に介さぬように笑い、続ける。
「そんな時もあるわな。ヤクザなんざ因果な稼業よ。どうしようもない食いっぱぐれた連中がどうにか飯を食うための集まりだ。堅気になれるならそれに越した事はねえ」
「大親父。何か勘違いしているようですが、俺はまだヤクザをやめるなんて気は更々ないですよ」
「まあ聞けよ。お前がヤクザを続けるのは自由だが、最近養子になったその娘に危害が及ぶ可能性ってのはヤクザであり続ける限りかなり高いだろ? 堅気になればそのリスクはかなり減らせる。ま、堅気だからってなんかの犯罪に巻き込まれないとは限らないがな」
石橋は口を固く結び、沈黙する。
もちろん、それもないわけではない。ヤクザという稼業はどうあがいても命の危険とは切っても切れないものがある。自分だけではなく、親類縁者をも危険に晒してしまう。
果たしてヤクザ稼業を続ける事に理があるのか。
悩みは色濃く石橋の顔に出ていた。眉間には強く皺が寄っている。
柄山は煙管を吸い込み、煙をリング状に吐き出した。
「いますぐ答えを出す必要はねえけどな。おいおい考えていけばいい」
「……」
その時、ぱたぱたぱたと小気味良い音が外から響いてくる。
「ただいま!」
玄関の扉を開く音に次いで、リビングのドアが勢いよく開いた。
瞬間、身構える護衛の黒服たちだったが、かわいらしい侵入者に皆が眼尻を下げて懐に入れていた手を戻した。
入ってきたのは宇佐美希愛だった。今ちょうど学校から帰ってきたのだ。
希愛は背負っていた赤いランドセルをそこらに放り投げ、石橋の方を見た時にいつもと様子が違うことに気づいた。
「あれれ? なんだか今日はお客さんがいるのかな?」
「玄関と廊下に居たのは見てなかったのかよ」
「うーん、見てなかった!」
快活に答える少女に石橋は思わずずっこける。
「この娘が希愛というのかね、石橋よ」
柄山が目を細めて希愛を見据える。
「ねえタカ兄ちゃん。このおじいちゃん、誰?」
「この人はな、俺が随分前からもう世話になりっぱなしの、スゴイ偉い人なんだ」
「そうなんだ? ねえ、おじいちゃん。お名前なんていうの?」
「はっはっは。俺は柄山志乃夫ってんだ。嬢ちゃんの名前は?」
「宇佐美希愛。希愛って呼んで!」
「人見知りしない、いい娘じゃねえか。なあ石橋?」
石橋は内心冷や汗が止まらない思いだったが、柄山が希愛を気に入ってくれて少しばかり胸をなでおろした。
「何より俺を見ても物怖じしないのが良い。普通の子供ならおびえるからな」
「おじいちゃんは優しい人でしょ? 私にはわかるよ、うん」
「はっはっは。そういわれるのは初めてだな」
いつの間にか柄山の膝の上に収まっている希愛。
石橋は慌てて引きはがそうとしたが、柄山はまあいいじゃねえかと言い、そのまま希愛を膝の上に抱いていた。その光景だけ見れば間違いなく孫をあやす祖父、あるいは祖父に甘える孫に見える。
希愛は柄山の顔を見上げて言った。
「ねえ、おじいちゃんはタカ兄ちゃんから大親父って呼ばれてるけどなんで?」
「ん? 俺と石橋、いや隆之はな、血のつながりはないけど親子の契り、つまり親子になるっていう約束をしたんだよ」
「そうなんだ。じゃあ私のおじいちゃんでもあるんだね!」
にっこりと笑った希愛の顔に、思わずハッとした柄山。
短髪のごま塩頭を撫でさする。
「そうだな。希愛は俺の孫みたいなものだ。いや、孫だ。そうだろう隆之よ」
「そうですね」
「孫は大事にしなくちゃならねえな」
しみじみと呟く柄山。
希愛は相変わらず柄山の上に座り、無邪気に笑いながらリモコンを操作して3Dテレビの電源を入れた。そろそろ夕方の子供向けアニメが始まる頃合いだ。
「おお。もうこんな時間じゃねえか。そろそろ関西に戻らねえとな」
「えー、おじいちゃんもう帰るの? まだ居てほしいんだけど」
「俺もそうしたいんだが、残念ながら忙しくてな。また来るからそれまでいい子にしてな。あと隆之には思い切りワガママ言って困らせてやれ」
「ちょっと、親父やめてくださいよ」
3人は笑いあった。それはまるで本当の家族に思える光景だった。
いや、血のつながりはなくとも家族にはなれる。
石橋は今のやりとりでそう確信した。
そうして柄山は多くの護衛を伴いながら部屋を出た。
マンションの外に出て、改めて石橋の部屋を見上げる。
「——やはり、あの子で間違いはなかった」
意味ありげな言葉を呟き、柄山は車に乗り込んだ。