3-4:教団「方舟」(前)
新宿の街は平日でも行き交う人々で賑わっている。駅からあふれ出る人々の流れは途切れることを知らず、街の至る所へと広がっていく。
若い人、老いた人、男、女。或いは普通の人間、或いは動植物の遺伝子を有したキメラ人。日本人、外国人。ありとあらゆる人々がこの街に集っているのは、ある意味懐の深さを現しているのかもしれない。
そんな賑わっている街並みを少し歩いていくと、徐々に人の流れが少なくなっていく区画がある。時折迷った人や上京したての人が来る事もあるが、基本的には用件があるかその界隈の人たち、或いはその筋と呼ばれる人々でもなければ近づかない区画がある。
それが新宿区三番街ゼロ番地。
そして、新宿区三番街ゼロ番地から路地を何本か通ったその先に、ヤクザの事務所たる尾熊組は存在する。
尾熊組周辺はここがゼロ番地とは思えないほど見通しが良い。敷地を囲む延々と続く和風の漆喰塀に、その敷地内に建てられた和風の豪邸。事情を知らなければどのような資産家がこのような場所に家を建てたのだろうと思うだろう。
尾熊組の敷地内には庭園があり、様々な植物が職人の手によって綺麗に刈り揃えられている。また広々とした池の中には色とりどりの錦鯉が何匹も優雅に泳いでいる。これらの錦鯉だけで数千万円もするらしい。
もちろんヤクザの事務所であるので、門の前には若く屈強なヤクザが立って周辺を警戒している。監視カメラも至る場所に設置されており、襲撃に対する備えは万全だ。もっとも、ヤクザの組事務所に用も無くと近づく輩はいないが。組事務所前をわざわざ通りすがろうとするのは良からぬ目的を持っている同業か、ヤクザを専門に追っているライター、マル暴と呼ばれる警察官くらいだろう。
組事務所周辺は静寂に包まれている。昼間であっても事務所前の通りには車一台通ろうとしない。
だがそれ以上に事務所内ではさらに沈黙が重く立ち込める部屋があった。
事務所を通り、住み込みの若い衆が大勢詰めている大部屋と応接間を抜けた先。
尾熊組若頭である石橋隆之の部屋だ。
中では石橋が自らの机に座り、もう一人若い衆が直立不動で何かを説明している。
それほど広い部屋ではない。机と椅子と応接用のテーブルにソファ、飾りの為の調度品と観葉植物くらいしかこの部屋にはない。もとよりそれで十分だと石橋は思っている。ヤクザだからある程度は威圧や懐具合の良さを見せるべきだろうが、それは机や椅子、一つの美術品程度で良い。勿論自分が身に着けるものは、後輩ヤクザ達の目標として目指してもらうべく、高級品で身を包んではいるがそれも下品、露悪な服装になってはならない。ヤクザ稼業をやっている以上、格好の良さとセンスの良さは身に着けておかねばならない。悪が格好が悪いのではまるで様にならない。
石橋は椅子に浅めに座って手を組んで机の上に置き、話を聞いていた。
話をしているのはいつも石橋と共に行動している若い衆、猪口由人。話の内容が内容だけに冷や汗を額と背中に張り付け、時々言いよどみながらも事情を説明していた。
大方の説明を終えると、部屋には沈黙が訪れる。
由人は石橋の言葉を待つ。
石橋は目を瞑ったまま、暫く声も、何か動作を起こすこともしない。
緊張で強張る由人の背中。怒鳴られるのか、それとも何かを投げられるのか。石橋の座る机にはガラス製のごつい灰皿がある。それを投げつけられた程度で怪我をする由人ではないが、やはり叱られるのを待つのは胃にも精神にも悪い。
待ったのは恐らく数十秒もないだろうが、待つ立場であった由人には数分、数十分にも感じられるほどの長い時間に思えた。
石橋は目を開き、じっと由人を見据え、言う。
「……それで、結局どこの店からも金を回収できなかったというわけか」
「……はい」
由人はびくりと震えながらも、おずおずと答えた。
先日、鷹取興業から受け取った縄張りの一帯である飲み屋街からの「みかじめ料」の徴収。それがどうも上手く行っていないという報告。いや、少しどころか全く徴収できなかったらしい。にわかには信じられない事態だ。誰でもこなせるというわけでもないが、由人ならこの程度の仕事は簡単にこなしてくれるだろうと石橋は思っていただけに、少しばかり予想外であった。
それにしても、鷹取興業の鷲尾はあんないい場所をどうして譲ってくれたのか。その時は疑問に思わなかったが今それが解けたという訳だ。石橋はにわかに眉をひそめた。あの狸親爺、中々食えない野郎だ。
「由人には過ぎた仕事だったか?」
石橋がそう言うと、由人は食って掛かるように反論する。
「そんなつもりは! ほかの組の横槍程度なら俺でも十分対応できる自信はありました。でも、今回のはどうも自分の手には余る感じで……どう交渉すべきか、正直わかりません」
「そうだろうな」
石橋は椅子に深く座り直し、体重をゆっくりと背もたれにかける。
少し思案したのち、石橋は机にある固定電話の受話器を取り、電話を掛けた。
「……尾熊組の石橋だ。今からそっちに行くから待ってろ。いいな」
* * * * *
クラブ、メノウの雫。
新宿区三番街の飲み屋街の中でもトップクラスの売り上げを上げる高級クラブ。
地下鉄の駅に近い飲み屋街は裕福な人々が暮らす新宿区四番街にほど近い事もあり、店も高級志向のものが多い。その例に漏れず、メノウの雫の客層も企業の役員クラスや芸能人、政治家や役人などと言った人々が主である。
一見目立たないビルの最上階にクラブはある。地味なビルの見た目とはうって変わって内装は豪華で煌びやかなもので揃えられている。VIPを迎え入れるにはまさに相応しい。
まだ営業時間ではない正午の時間帯だというのに、店の中は明かりがついている。
店の中に居るのはただ二人だけ。
一人は尾熊組の若頭石橋隆之。
もう一人はメノウの雫のママ。
VIPルームのソファにお互い座っている。石橋は手を組んで肘を太腿の上に置き、ママを鋭い眼光で見据えている。
対面のママは一見地味ながらも明らかに高級そうな着物を着こみ、ソファの背もたれに体を委ねて煙草を吸っている。ヤクザが眼前に居たとしてもそれだけでビビる事など無い、という姿勢を見せているのか、自分の店の中だからリラックスしているのか、見た目だけでは判断は付かない。
いずれにせよこの店を仕切っているだけの貫禄はある。
石橋が店に入ってから数分が経過したが、まだお互いに言葉を交わしてはいない。
やがてママが一本の煙草を吸い終え、灰皿に吸い殻をねじり落とす。
「……それで、若頭様が一体ウチに何の用ですかね?」
「すっとぼけやがって。わかってんだろ? なんでウチとの契約を止めるんだよ。それと他の店にもウチとの取引を止めるように根回ししたな? 一体どういうつもりだ。それなりの理由があっての事なんだろうな」
石橋の一言に対し、ママは着物の袖に手を入れて何かを取り出した。
「何でと言われても、私はこれですから」
ママが袖から取り出したのは、Y字型をした変形の十字架を模したネックレスだった。中央には磔にされたような人型の模様が刻印されている。
「これは……」
「私も最近信者になったのですよ。教団[方舟]のね」
ネックレスを首にかけ、ママはまたソファにゆったりと体を預ける。
石橋の視線はY字型をしたネックレスに向けられたまま動かない。
教団、方舟。
元々何十年も前から存在していたカルト宗教団体であったが、教祖が初代から二代目に代わってから信者数を徐々に増やし、今となっては都内で知らない人はまず居ないと言うほどに成長した。
この宗教団体の一番の特徴はその教義にあり、
「純然たる人であれ、獣になるなかれ」
という文言にあるように、キメラ人の存在そのものをまず認めていない。
人類はキメラ人の出現から交わりを続け、何時しか純粋な人間と呼ばれる人々は数を少なくして今では全世界の人口の三割ほどしかいないとも言われている。
キメラ人がマジョリティとなり、純粋人類はマイノリティとなった世の中。
その事を面白くないと思っている人々も少なからずいる。
メノウの雫のママも、内心ではずっとそう思っていたという事だ。
「……信者になったのとウチとの取引を止めるのと、どう関係があると?」
石橋は視線を戻し、無表情でママに問う。
ママは石橋の視線に無頓着に、ネックレスを弄りながら答える。
「私どもも、獣の匂いがする人々との付き合いは少し考えなくてはいけないと思いましてね。クラブの運営についても少し見直しをすべき頃合いかと考えていたので、その一環ですよ」
獣の匂い、という単語を聞いて石橋の眉が片方吊り上がる。
石橋の所属する尾熊組はほとんどの組員が何らかのキメラ人であり、それも特色を色濃く残した人の数が多い。
彼女の言葉はあからさまに尾熊組を指し示していた。
ママは更に言葉を続ける。
「もとより、最近新宿区が暴力団撲滅キャンペーンをしている事も尾熊組の石橋さんならご存知ですよね?」
石橋は無言。
無言を肯定と受け取り、ママは懐から二本目の煙草を取り出して火を点ける。
「暴力団と関わっている事が世間に知れたら、私共の店のイメージダウンにもつながりますし、警察からの捜査も受けなくてはなりません。そうなると店の運営も立ちいかなくなる恐れがあるんですよ。それでは私共の生活が脅かされますしね? そういうわけですので、ご理解いただけたでしょうか」
煙をふう、と吐き出す。
ママの並べ立てた上っ面な御託を聞いて、思わず石橋は鼻で笑ってしまった。
最初に言った言葉がすべてで、後の文言はただの言い訳や理屈でしかない。
彼女は柔和な笑顔を作りながら、石橋に明確に拒絶を伝えたのだ。ヤクザ達はもうお払い箱だと言うわけだ。
もっともらしい事を並べながら、都合が悪くなれば切り捨てる。カタギのやり口もヤクザと何ら変わらない。今までトラブル回避やらなにやらで散々利用しておきながらこれだ。そして彼女は、その自分の影響力を持って、周囲に圧力を掛けてしまおうという訳だ。
この辺りの飲み屋街を仕切っているのは現状、メノウの雫のママだ。
彼女に従わなければ様々な不利益が待っている。他の店のオーナーや店主の中でも、自ら進んで信者になった者もいるだろうが、ママの考えに無理やり従わされた者も少なくはないはずだ。
石橋はママに尋ねた。
「それはわかった。しかし、俺たちの後ろ盾が無くてどうやってこの街でやっていくつもりだ?」
「それについても勿論既に考えております」
ママが懐から携帯電話を取り出し、2回ほどコール音を鳴らすと程なくしてVIPルームの扉が開いた。
扉の向こうから現れたのは、いかにも屈強な男二人組とやせ形の男一人だった。どの男も教団「方舟」の信者が着用する白いゆったりとした装束に身を包んでいる。上はシャツのような作りでチャックが付いていて前を開閉できるようになっている。下はスラックスのような形になっている。彼らの様相は見るからにボディガードと交渉役といった風体だ。
「幸いにして教団の方々が協力してくれることになりましたので」
「カネは? まさかタダでやってくれるほど気前も良くないだろう」
「お布施を払えばそれでよいとの事です。今まで貴方達から課せられた法外な金額に比べれば非常にリーズナブルな値段になってますよ。これから他の店もヤクザの方々とは手切れして、教団の人々と一緒にやっていく事になるでしょう」
「……成程」
石橋は聞こえない程度に舌打ちをし、しかし表には何も出さずに立ち上がり、VIPルームのドアに手をかけた。
「そういう事なら仕方ないな。我々は手を引くとしよう。まあ元気にやってくれよ」
あまりにもあっさりとした態度に、ママは少し怪訝な顔色を見せる。
「何か難癖でもつけるかと思いましたが、思いの外素直ですね」
「……今時のヤクザの立場の弱さ、アンタも知ってるだろ」
石橋の返した言葉に、ママは微笑みで答える。
その笑みに対しても石橋は何も返す事なく、無表情で部屋を後にする。
VIPルームを出て、間接照明が灯された店の中を抜け、店の外に出る。
昼間の太陽の光は眩しい。先ほどまで薄暗い屋内にいたから余計にそう感じる。
石橋は何も言わずに、店の前に横づけされた自分の車の後部座席に乗り込む。
運転席には由人が待機して石橋の帰りを待っていた。
「……どうでした?」
恐る恐る、由人が後部座席の方を振り返り尋ねる。
「交渉をする段階は終わった。次の段階に進むとしよう」
「それで、これからどうします?」
「ひとまずは成り行きを見守る、それだけだ」
「成り行きを見守る……ですか」
イマイチ石橋の言葉の真意を掴めずに困惑する由人。しかし石橋はそれ以上説明しようとはしなかった。
「それにしても、教団[方舟]ってなんなんすかね」
「最近幅を利かせてるカルト宗教団体だ。信者を集めるだけじゃなく最近は商売も展開し始めたみたいだが、まさかこちらの領域にまで手を突っ込んでくるとはな。だが、宗教ごときに俺たちのシノギの邪魔はさせん」
石橋の瞳がギラリと光る。
「車を出してくれ。事務所に帰るぞ」
「はい」
車はゆっくりと走り出し、都会の喧騒の中に消えていった。
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3-4:教団「方舟」(前) END