第十五話:三番街の夜は変わらずに
国民的な人気を誇った女優の突然の事故。それは全国に衝撃をもたらした。ニュースで、インターネットで、街角の会話で。誰もが一度が口にし、嘆き悲しんだ。
しかし、その衝撃というのも長くは続かない。
人間は忘れる生き物であり、時間が経つにつれて記憶というものはおぼろげに、あやふやになっていく。次第に誰も話題に上げなくなっていった。
所詮そんなものだ。
事故が起きてから半年後。
怜美はあれからまだ目を覚まさずに眠り続けている。
山賀は怜美の所属する芸能事務所と直談判し、彼女を引き取る事にした。
事務所としても、彼女が目を覚ますのかわからない上に身元引受人が居ないのでどうすべきか悩んでいた所だったので、渡りに船だと思い了承した。勿論、その間の入院費などはしばらくは事務所が持つことになった。
怜美は、今は山賀の知り合いの病院に転院させている。山賀は勤務が終わり次第、アコと一緒にちょくちょく様子を見に行っている。事務所の社長は一度は来たがその後は来ていない。元マネージャーは時々様子を見に来ているというのに。
マネージャーは、あの事故がもとに首になった。本人も、もっと彼女をケアしてやればよかったと悔やんでいる。後悔先に立たず。それでも、今は別の会社でマネージメントの仕事を続けているという。二度と同じような人を出さない為にも。
彼氏も一度は見舞いに来たが、目を覚ますかどうかわからないと聞かされてその後は結局来ていない。結局その程度の関係性だったという事だろう。
いつものように新宿区三番街のスラム街にある遺伝美容整形外科、ベイビーリザードで山賀椎香は診察を行っていた。患者は途絶える事なく忙しい。
診察を終える時間を過ぎてもまだ診察を続けている。今日はややこしい患者の聞き取りに手間取ったので一時間くらい過ぎてしまった。
ようやく患者を捌き、山賀は診察室で一息ついている。紙巻き煙草に火をつけて、大きく一度に吸う。あっという間にフィルターにまで灰が近づく。すぐに灰皿にたたきつけ、もう一本を取り出して今度はゆっくり吸う。
アコはあらかたの片づけを終えたので自宅に帰っている。
大きく息を吸い、ため息を吐く。モニターには様々な脳に関する資料が掲示されている。また院長室の本棚には脳関連の書籍が更に詰め込まれ、本棚はもう満杯だ。
「……」
なぜ自分が脳外科、神経内科の専門医で無いのかをこれほど悔やんだ事はない。そして今正式に医師でない事にも腹が立って仕方がない。
今でも医師免許を持っていればいくらでも自由にカンファレンスや外部での発表会などに出席したり、また専門医に話を聞くことも出来たはずだ。今の立場ではそれも限られる。
それでも、自分が築いた伝手で知識を得る事、脳の手術自体も出来ない事はない。今からでも更に知識を身に着けていくべきなのだ。自分の為に、彼女の為にも。
二本目の煙草の灰がフィルター近くまで来ている事に気づき、灰皿に乱暴に押し付けて火を消す。次の一本を吸おうとしたところで、箱の中に煙草が無い事に気づいた山賀。白衣の中にもバッグの中にも煙草のストックはない。
仕方がないので外に出て買おうとした所に、ひとりの男がちょうど受付に立っている。白髪交じりのオールバックの髪型に顔に深く刻まれた皺の数々。ダークグレーのスーツを着ており、表情はわざと口の片端を釣り上げている。
「よう。久しぶりだな」
「本当に久しぶりね。用件は何?」
「そんなに冷たく言うなよ。ようやく捜査も終わってあの事件の取り調べも全部終わったんだからその報告に来ただけだ」
戌井の悪びれない言い方に、山賀は不快感をあらわにする。
「今更? 検査結果が出たと言っても電話にも出やしなかったし、メール送っても返事すら返さないのには心底イラついたんだからね」
「悪かったよ。あの時は忙しかったんだ。色々な事件が起きてややこしかったんだ。決して忘れていたわけじゃない。優先順位を考えると後回しにせざるを得なかったんだよ」
何時になく言い訳がましい様子を見て、山賀は大きなため息を吐く。確かに、この半年間は警察はいつになく忙しかった。テロ未遂事件に始まり、ヤクザと宗教団体の抗争という馬鹿げた事件が起きてしまい警察はその鎮圧に奔走する羽目になっていたのだから。最終的には軍まで出るような騒ぎになったと聞いている。
「それで、貴方の進捗は何かあったのかしら?」
「これを見てくれ」
戌井が懐から取り出したのは、白い欠片だった。
「なにこれ。骨?」
「そう。骨だ。下水道を駆けずり回ってようやく見つけた。フッ化水素を使って溶かしたとは言っていたが、やはり全部は溶け切らなかったんだろうよ」
「……そう」
「ともあれ、この事件はこれで全部終わりだ。犯人は他にも余罪が山ほどある。あのコレクションを見る限り犠牲者は数十人は居るだろう。死刑は免れないな」
そう言って戌井は懐に骨片をしまった。
一連の事件に片はついたと戌井は言う。彼にとっては確かに肩の荷が一つ降りたことだろう。安堵の表情が明らかに見えている。
山賀はいら立ちを隠さず、彼の目を見据えて吐き捨てた。
「戌井刑事。貴方にとってはそれで終わりでしょうね。でも私にとってはこれはまだ終わってない事なのよ。あの娘の事、忘れたとは言わせない」
鋭く冷たい視線に射抜かれて、戌井刑事は身がすくんでしまった。慌てて繕うために、彼女の容態を聞こうとする。
「……そうだったな。どうなんだ。意識の復帰とか脳の治療とやらは」
「進捗なし。脳は他の細胞と違って一度壊れたら自然にはもとに戻らないからね。ナノマシンを使って細胞を復活させたとしても、大事なのは回路が以前のように治っているのかってところだし、それは脳を日ごろからスキャニングしてチェックしていないとわからない」
「結局は、目覚めるように地道に刺激を与えていくしかないのか?」
「一応、毎日刺激を与えるのと平行してナノマシンで脳の傷の治療や神経細胞の結合のし直しなんかもやってるけど、一向に目覚めないわね。意識ってのはこの進んだ医療においても未解明な部分が多くて苦労してるわ」
山賀の目の下にはクマが深く刻まれている。ここ最近は睡眠時間や休日を更に削って勉強や実践に充てている。それでもやらないわけにはいかなかった。
「……早く、目覚めると良いな。俺にはそれだけしか言えないが」
「全く、本当に早く目覚めてほしいものだわ。じゃあ、私煙草買いに行くから」
「それなら、俺の奴をやるよ」
戌井は懐から煙草の箱を取り出して山賀に渡した。
「じゃあ、俺はこれで失礼する。また今度用事があったら来るよ」
「もう二度と来ない事を祈るわ」
背後にいる山賀に手をひらひらと振りながら、戌井は署に戻っていった。
山賀はさっそく彼にもらった煙草を口にし、火をつける。
「げほっ、げほっ。これ強い煙草じゃない。全くこんなもの渡しやがって」
言って気づいた。十年前は、戌井はここまで強い度数の煙草は吸っていなかった筈だ。
「……あいつも、それなりに苦労を重ねているのかな」
少しは優しくすべきだったかと反省し、戌井にもらった煙草をむせながら山賀は吸っていた。その時、携帯電話に連絡が来る。
「山賀です。……ええ。検体が来ましたか。それも植物状態の? 実に都合がいい。色々と実験ができますね。今からそちらへ伺います。詳しい事は着いたら聞きましょう」
……夜の新宿区三番街は、今日もまた人の賑わいであふれている。
そこでは時折、人が死んだだの殺されただの拉致されただのと騒ぎになる事もある。しかし一時の騒ぎであり、また人々は忘れたかのように賑わいの中に消えていく。何もかもが泡沫の夢であり、幻だと思う事すらあるかもしれない。
だが、確かにそこに人々は存在して生きている。誰も彼もが精いっぱい生きて、存在を露わにしている事に変わりはない。
今日も一人、山賀は新宿の街を歩いていく。
自分の成すべき事を成す為に。
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第十五話:三番街の夜は変わらずに END