第十三話:断崖と役者
怜美の診察から翌週の月曜日。
山賀と怜美たちは某県の観光名所として有名な断崖に来ていた。切り立った断崖は鋭く険しく垂直に岩がその表情を露わにしており、岩登りの名人でも上る事が出来るかどうかと言われている。
崖の下には海が広がっている。浅瀬はない。この辺りは波の流れが急なのでよほど泳ぎが上手くても落ちたら死ぬだろう。その前に崖の鋭い岩で頭や体を打って死ぬかもしれない。どちらにしても死は免れない。
山賀とアコは断崖の先端に立って崖下に広がる荒れた海を見下していた。二人が立っている場所は高い柵が張り巡らされており、よほどふざけて何かしない限りは落ちる事はまずない。波は崖にぶつかり、泡立って海に溶けて消えてはまた生まれる。
「……大自然の脅威って感じ」
「落ちたらまず死ぬな。全身打撲かつ溺死ってところか?」
「うまく体とか頭を強く打って即死できればいいけど中途半端に怪我して海におっこちたら悲惨」
二人で危ない会話を交わしている間、なにやら撮影機材を持った人々が着々と準備を進めていた。監督とスタッフらしき人たちは最後の詰めの段階をどうするか話し合っている。
今日はここでサスペンスドラマのラストシーンの撮影を行う。白鳥怜美は犯人役であり、今はバスの中で最後のシーンの為にイメージトレーニングをしている。
山賀とアコは最近過労気味の怜美の事を心配して半ば無理やりについてきたのだ。
仕事の邪魔をする気はないが、怜美がおかしい挙動をしたり倒れたりした場合は撮影を中断させてでも彼女を保護するつもりだ。
「山賀さん? アコさん? どちらに居ますか? ああ、こんなところに居た」
石井マネージャーが二人を呼ぶ声が聞こえてくる。さっきから結構な時間探し回っていたせいか額に汗をかいていた。
「間もなく撮影なのでこちらまで来てください。一応あなたたちも当社のスタッフカウンセラーとして紹介してますので顔合わせくらいはしておかないといけませんからね」
「しょうがないわね」
「はーい」
スタッフたちとの対面。マネージャーの石井に紹介され、監督やカメラマン、他のスタッフとも軽く会話を交わす。彼らはドラマが佳境とあって多少神経質になってはいるが、おおむね優しい態度で接してくれる。
「へえカウンセラーさんがここまでわざわざ付き添いに来てくれるのか。最近の怜美ちゃんはちょっと色々あってナーバスになってるから、しっかりサポートしていただけると有難いね」
大柄でいかにも力持ちそうなカメラマンが鷹揚に答える。
「今の役柄、彼女の現状と妙にシンクロしていて何をやらかすかわからない所あるからな、今の怜美は……。おっと君たちにはまだ役柄の説明はしてなかったかな」
サングラスをかけて黒い帽子をかぶった無精ひげの監督が、台本を一つ山賀とアコに渡して読むように促す。
「この優子ってのが怜美の役柄だよ」
監督が指で怜美が演じる役名をなぞる。
「なになに。彼氏に振られてその彼氏を殺し、最後は崖に追い詰められる……?」
山賀はそれを読んで眉をしかめた。怜美から彼氏と上手くいってないって先日聞いたばかりだ。まだ彼氏を殺したいなどという物騒な話は聞いてはいないものの、もし話がこじれるとそういう危険性も無きにしもあらず、と言う感じだ。今の怜美は。
「ドラマが始まったあたりから二人の電話でのやり取りが余計にひどくなってな。いつ会えるだの会えないだの喧嘩ばかりしてスタッフも気が気じゃないんだよ。早いところ仲直りしてもらいたいもんだが、こればっかりは俺たちではどうしようも無くてな。不憫でならんよ彼女がさ」
「全く同意です。早く彼女がゆっくり休暇を取れるようになればよいのですがね」
言いながら、山賀はジト目で石井マネージャーの方を見つめる。マネージャーはその視線から目を逸らしている。
「監督! 撮影準備終わりました!」
ADらしき若い男が監督に向かって叫んだ。今日撮影される崖の先端近くにカメラや照明、マイクがセットされている。
「ようし! じゃあ役者さんを全員集めてくれ! 怜美はまだバスの中か?」
「あ、じゃあせっかくなんで私が呼びに行きますよ」
山賀はそう言って崖とは反対側に数十メートル離れて止められているバスへと歩いていく。勿論ただの気まぐれで呼びに行くわけではなく、怜美がどのように役柄に入っていくのかに興味があった。また、もしも今危ない精神状態に陥っていた場合、即座に撮影の中止を求める為にも彼女の様子を見ておく必要があった。
バスはすべてカーテンが降りていて、外からの光が遮断されている。これは怜美からの要請で、バスの中で役作りに入っている間は誰も入らずに一人にして集中できる環境を作りたいという事らしい。
普段は温厚な怜美も、役柄に『入り込む』のを途中で邪魔されるのだけは我慢ならないらしく、声を荒げてスタッフに注意した事もある。もっとも、その邪魔をしたスタッフというのが普段からがさつで他の役者からも注意されていたという話だが。
山賀はバスのステップに足を掛け、中に乗り込む。カーテンで光を遮ってるからか中は薄暗い。
「怜美? そろそろ撮影よ。怜美?」
山賀が声を上げながら怜美の姿を探してバスを見回すと、彼女は最後尾の席に俯いて座っていた。手を太ももの上に置き、口の中でもごもごと何かをつぶやいている。
「怜美、撮影……」
途端に、言葉が出なくなった。怜美からの視線を向けられて。
「……」
確かに姿形は怜美だ。だがそこにいるのは『白鳥怜美』ではない。彼氏に別れ話を切り出されて衝動的に相手を殺した女、優子。昏い情念がまとわりついた視線に射すくめられた山賀は、動く事すらできなかった。何人もの人を殺した奴の顔も見てきた山賀だったが、彼らは仕事で人を殺した顔をしていた。それと違い、情念で人を殺した顔というものを初めて見たような気がした。恐らく戌井刑事ならば何人ものその手の顔をした人を見たことがあるだろう。
これほどまでに役に入り込む、のめり込む役者が居るのか。
あの酒場で見た素の表情と、いつか見た天真爛漫な笑顔とも全く違う、そこには役者としての仮面を被った怜美の姿がそこにはあった。
しばらく二人は立ち尽くしていたが、ふとして役が抜けたのか怜美からこちらに話しかけてきた。
「ああ、山賀先生ですか。どうしてここに? ……あ、そういえば私の付き添いでしたね。もうそろそろ撮影ですか。行きますよ、行きます」
「……うん、早く来てね」
山賀は冷や汗を浮かべながら外へ出た。
……バスの中はうすら寒かった、そんな感覚すら覚えている。温度自体は外とたいして変わらないはずなのに。
あれが役柄に入り込んだ状態。山賀はにわかに戦慄を覚えた。姿かたち自体は怜美そのものなのに、全く別人の雰囲気を醸し出しているのだ。彼女に確かに役者の才能があると頭では理解していたが、頭での理解は肌で感じる事と比べれば天と地ほどもの差があると言わざるを得ない。
これが役者であるという事か。
山賀は内心恐れに似た感情を抱きながら、皆の待つ場所まで歩く。怜美もゆっくりとした足取りで撮影現場へと向かう。現場には既にスタッフや役者が怜美の到着を首を長くして待っていた。しかし待つことに対する怒りなどは全くない。怜美が役に入り込めば入り込むほど、ドラマや映画の出来は良くなるのはわかっているからだ。
怜美が来たのを見て、監督が声を張り上げる。
「よーし! 全員そろったな? じゃあ怜美は崖のふちに行って。落ちない程度の場所でいいから。で、主人公の松下清美役の天堂あけみさんは数メートル離れて対峙するような形になって。親友の九曜ひとみ役の大越りんねさんはあけみさんの隣に陣取って。はい、そんな感じ!」
監督の声に従って役者が位置を取る。怜美は崖を背に。あけみとりんねと呼ばれた人は少し離れて向かい合ってにらみ合う形に。
空は晴れているが、雲が肉眼でもわかる程度に流れている。風が強い。その為に今日は波も荒れている。撮影にはおあつらえ向きの天気。
監督とカメラマンたちの背後に、怜美とアコは立っている。そして見ている。
役柄に入り込んだ人々と、それを撮ろうとする人々を。
一瞬の静寂が流れる。先ほどの穏やかな雰囲気とはうって変わって、緊張した空気が流れている。キャストとスタッフが次の一言を待っているのだ。
次の瞬間、監督が叫んだ。
「シーン○○! カット○○! スタート!」
ドラマの撮影が始まった。
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第十三話:断崖と役者 END