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遺伝子ファッショナブル  作者: DRtanuki
第二章:白と灰の羽
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第七話:移植

 憂鬱な状況は何一つ変わっていない。もしかしたらどこからともなく小人がやってきて、今の惨憺たる状態をきれいさっぱりもとに戻しているかもしれない。そんなおぼろげな妄想に近い願望は脆くも崩れ去った。

 病院は相変わらず、昼に外出した状態から何も変化はなく、何もかもがぶっ散らかった状態で山賀を迎えていた。その光景に、頭痛を覚えてうんざりしながら、山賀はまず受付と待合室の片づけから始める。ソファはすべて蹴り倒されているので戻す。中身が散乱したゴミ箱はゴミを袋に入れる。書類など紙類も騒ぎの際に床に落ちてしまったので内容を確認してそれぞれのフォルダやファイルに戻しておく。

 

「はぁ……だっるい。やってられないわ」


 口ではそう言いつつも、片づけなければ診療も出来ないので黙々と片づけるしかない。食事をして空腹を満たしてもまだ怒りは収まらず、山賀は懐から煙草を取り出して火をつける。最近は本数を減らせていたというのに、これでまたいつものヘビースモーカーに逆戻りしそうだ。しかし煙草で気分を紛らわせないと、自分から暴れ出して部屋をめちゃくちゃにしてしまいそうだ。

 誰かに手伝いでも頼もうかと思ったが、今山賀はこの新宿三番街に来たばかりで、周辺で頼めそうな友人はいない。かつての同僚たちはみな忙しく、ただの片づけの為に呼ぶのも気が引ける。何より、今こちらから連絡をしても取り合ってくれないだろう。山賀も、彼らに迷惑を掛ける事は避けたかった。その為に人生を棒に振らせるような真似はさすがにしたくない。

 

 ……山賀は医師免許を失った。しかしそれは彼女の失敗によるものではない。何者かによって嵌められたのだ。


 かつての山賀は医学部を首席で卒業し、期待の新人として様々な所で研修を受け、外科医として順調にキャリアを積んでいた。かかわる現場もトップレベルの所ばかりで、また指導する先生たちも個性豊かではあるが、皆自らの腕に自信を持ち、実績を積み上げた人々ばかりであった。恵まれた環境の中で山賀はめきめきと頭角を現していた。その山賀に自分の地位を脅かされると思った医師がいたのか、或いは妬み嫉みによる同僚の陰謀だったのか。はたして真実は闇の中に放り込まれてしまった。

 ともあれ、山賀は病院で起きた不祥事の主犯として仕立て上げられ、事態を重く見た上層部の人々によって医師免許はく奪を余儀なくされる。それでも、彼女の医療行為に対する熱意は消えなかった。資金を集めて病院を運営し、悩める人々を少しでも自分ひとりの力でも何とかできればという思いがあった。

 そして何故、診療科を遺伝美容整形外科にしようと決めたのか。今の世の中において遺伝美容整形外科は雨後のタケノコのように数を増やしているが、特にどこかに申請することもなく、何らかの医師免許を持っていれば開設することが可能であり、その中にはいい加減な医者が多く存在している。ずさんな施術の為に命を落としたり、期待通りの容貌を手に入れられなかったばかりか、はるかに醜い姿になってしまった被害者たちが数多くおり、社会問題にもなっていた。彼女は少しでもそのような人々が出ないように、また自分の腕前をもっと試し、更に腕と美的センスを磨くためにこの診療科を選んだのだった。

 しかし、決して忘れてはいない。自らを嵌めた連中のことを。ひそかに胸に復讐の火種を燃やし続けている。いつかは彼らにも自分と同じ境遇にさせてやるとどす黒く濁った思いを心の片隅にどろどろとたぎらせていた。


「……ああ、何時になったら終わるんだよちくしょう」


 いつの間にかもう時計は五時を指している。ようやく待合室は片付いたものの、いまだ手付かずの部屋はいくつもある。


「あーもういい、明日明日!」


 持っていたフォルダを受付方向にぶん投げ、掃除を諦めて切り上げて山賀は病院の鍵を閉めた。家に帰ろうかと思ったがやけくそになって三番街の飲み屋通りに繰り出して、朝になるまで呑んでしまった。ストレス解消にはなったが代償として二日酔いになってしまい、結局病院に出勤することもままならないまま、部屋で一日中深刻な頭痛と気持ち悪さと戦っていたのであった。幸か不幸か、その日病院に訪れる患者の姿はなかった。病院に訪れた所で、臨時休診のプレートが垂れ下がっていて門前払いを食うだけなのだけれども。


 それから数日かけて、ようやく手術室と診察室、入院用個室と大部屋を片付ける事も出来た。そして来週の月曜日が訪れる。今日は悠の手術の日だ。

 もう春だというように今日は肌寒い。灰色の雲が空を覆い、霧雨が街に降り続いている。傘もささずに歩いていると、思った以上に濡れてしまう。傘がなくても大丈夫かと表に出て、山賀は歩いていて後悔していた。もう既にじっとりと服に水分がしみこみ、髪には水滴が玉になって張り付いている。

 ようやく病院にたどり着いた時には、着替えなければ診察も出来ない状態だった。水滴を叩き落とし、幸い病院に置いてあった予備の服に着替えた。その為に診察開始時間が遅れたが、今日はいつも病院の前で待っている悠がいなかった。何らかの事情があって遅れるのだろうかと思って、病院を開けて待ち続けていたが姿を見せようとしない。


「遅いな……何してるんだ」


 今日の為に準備した羽は、それ自体はしかるべき保存方法を守っていれば長い期間保存できるので問題はないのだが、今日手術だからとわざわざ頼み込んで手伝いをお願いした同業の医者に睨まれるのが心苦しい。彼は診察開始時間までにあらかたの準備を終えていたのだが、患者が来ないので苛立っている。


「おい、せっかくの患者が全く来ないじゃないか!来ないなら帰るからな!」

「せめて午前中だけ待っていただけませんか。お願いします」

「ふん。今日来なかったら、患者が顔を見せてくるまでわしに連絡するなよ」


 手術室から叫ぶのは、老いた闇医者だった。老体からもうこの仕事からも引退しようと決めていた所で、つい最近山賀がこの街で闇医者として開業したことを知って、色々と面倒ごとを山賀に押し付けようとしていたが、逆に山賀に頼み込まれて断り切れずに色々と教える羽目になっている。しかし、客の融通や面倒は全く見てくれないので山賀はその事についていつも愚痴っているが。

 悠を待つついでに病院を開けていたところに、それまではほとんど来なかった患者の姿が見えた。痩せたパンクスの男とバンギャルの女だった。どちらも未成年で、『まとも』な病院だと未成年だという理由で施術してくれないと嘆いていた所に、山賀の病院が最近できたと口コミで知って来たという。男はトカゲのような瞳にしたいと言い、女は追っ掛けているバンドのボーカルが腕に蛇の鱗を入れているというので自分もそうしたいと言っていた。とりあえず、面談だけして今後はどうするかの予定についてはまた後日にして体よく追い払った。

 午後。老いた医者は帰ってしまい、山賀ひとりで診察室の中で待ち続ける。時折エレベーターの降りる音がして、悠が来たかと思って山賀は待合室へ出て顔をのぞかせるが、結局来たのは痩せたサラリーマンと裕福そうなおばさんだけだった。二人とも普通の遺伝美容整形外科に行かずに、わざわざこのような所に来るという事は、何らかの事情を抱えているのだろう。山賀は彼らとも面談をし、次回の予定を決めて帰ってもらった。

 診察終了の時間を過ぎても、山賀はしばらく待っていた。午後六時。七時。八時……。すっかり日も暮れて、新宿区三番街はいよいよ活気づく時間帯。地上ではほろ酔い加減の人々が声を高く上げながら気分よく歩いているだろう。

 待っている間に、山賀は煙草を吸っていた。煙草は灰皿にうずたかく積み上がり、山を築こうとしている。最近本数を減らそうと思っていたというのに、気付けばこうやって吸っている。健康に良くないぞと自分に警告は常々しているが、ストレスのかかる状況やこうやって待ちぼうけを食っている間はやはり時間をつぶすのに向いている道具なせいか、ついつい本数を増やしてしまう。もっとほかの道具、たとえば携帯電話のアプリや何かで暇つぶしなんかをしていればいいのだが、どうもそれらには気が向かない。煙を吐く。呼気とともに煙は換気扇へと吸い込まれて消えていく。そろそろ換気扇も掃除しないと汚れが目立ってきていけない。

 ……灰皿に吸い終えた煙草を一本置く。もういい加減、これ以上煙草を積むと雪崩てきそうだった。山賀は立ち上がり、吸い殻の山を煙草専用のごみ箱の中に捨てた。


 悠は結局、この日は来なかった。


 何があったのか知る由もなく、知るすべもなく、山賀はその日の診察を終了するしかなかった。

 その次の火曜日も、水曜日の午前中も、木曜日も姿を見せなかった。一体何があったのだろう。あれほど予定にこだわり、なおかつ時間前から待っている程の熱意を持っていたにもかかわらず、いきなり冷めたとでもいうのか?携帯の番号も聞いていなかったので連絡を取ることもできず、ただ待つしか出来ない。

 焦燥感に駆られながらも待ち続けて金曜日が訪れた。山賀は半ば願うような気持ちで病院まで出勤すると、果たして病院の入り口の前にしゃがみこんで待っている中学生の姿があった。


「悠。一体どうしたの?いつも月曜日には来てたのに」

「あ……おはようございます、先生」


 山賀は悠の表情を見て、少なからず驚いた。前までは屈託のない笑顔を向けていたというのに、今日はひどく疲れている。目の下にはクマも出来ていて眠そうだ。何とか笑顔を作ってはいるがそれも弱々しい。今日はカバンすら持っておらず、財布と携帯電話と家の鍵以外に持ち物は無い。

 

「とにかく。まず中に入って待ってて。何があったのか、聞かせてほしいの」

「……はい」


 山賀の後を頼りない足取りでついてくる悠。待合室についてもソファに座り込んだまま宙を見つめて動かない。いや、目を瞑って少しでも自分の体を癒そうとしているのか。山賀は急いで診察の準備をし、悠を呼んで診察室に迎え入れる。悠はふらふらとした足取りで入り、途中足をもつれさせて転びそうになりながらも、椅子に座る。

 瞳も虚ろで焦点が微妙に合ってない。本当に一体何があったというのだろう。まず山賀は、自らの携帯電話を懐から取り出した。


「今回みたいな事があると困るから、まず悠の携帯番号教えて」

「……わかりました。私も連絡せずにいたのは悪かったと思います」


 思ったよりも素直に、悠は携帯番号とEメールアドレスを教えてくれた。登録し、満足気にうなずく山賀。次だ。


「今日まで来なかったけど、いったい全体何をしてたの?家人とやらは出張で居ないって言ってたじゃない」

「それなんですけど……ちょっと、言いづらいですね」

「この際だから、言ってもらわないと私も困るのよ。悠が何をしてたのか、あなたの主治医としては知っておかないとね」


 口からついするっと出てしまった言葉だが、思いの外それが悠の心を打ったようだ。顔が少し赤くなる悠。しばらく俯いていたが、やがて意を決して顔を上げ、山賀の顔を真っ直ぐ見据えて言った。


「……家人とは別にパトロンと呼んでる人がいます。お金を作るために、私はその人の家に昨日まで居たんです。欲しいブランドもののバッグがあるからと、嘘をついて。その人はお金を出す代わりに自分の要望に応えろと言って、私を好きなようにしていたのです」


 ある程度予想していた答えではあったが、改めて言葉として聞かされると衝撃以外の何物でもなかった。


「……え?それ本当?」

「嘘と思われてもしょうがないですが、本当です。家人とパトロンは仕事上のつながりがあって、家人は時々私を使ってパトロンと取引をすることがあります。……私を弄んで楽しんでいるんですよ。私は両親も居ない天涯孤独の身で、施設に入っていたんですが家人が私を一目見て気に入ったのか、引き取って育てる事にしたんです。もっともただ育てるのではないのは、私が十歳を過ぎてから薄々とはわかってきましたが」


 自嘲的な笑いを浮かべる悠。ひどく暗く、目の光は消えている。


「でも、そのパトロンとやらに抜けかけた羽を見せるのはまずいんじゃないの?」


 もっともな疑問を投げるが、事もなげに悠は答えた。


「三日かけて抜けると先生はおっしゃいましたけど、私の場合一日でほぼ羽が抜けちゃいましてね。模造羽を生体用接着剤で取り付けていたらバレませんでしたよ。彼らは私の背中の羽なんかには全く興味がないので、羽っぽいものがあればなんでもよかったみたいですけどね。そうして、今回の手術代を捻出しました。前までの支払いは家人からのお小遣いとずっと前から貯めていたお金で済みましたけど、今回ばかりはそうもいかなくてこんな手段を取らざるを得なかったのは……悔しいです」


 悠の瞳に、涙がにじんでいた。そして、次第に漏れる嗚咽。こぼれる涙を抑えきれず、ぽろぽろと床にしみを作っていく。制服の袖で拭いながら、一通り喋り終えて真っ赤な瞳を山賀に向ける。

 懐から煙草を取り出し、火をつけてふかす山賀。左手でこめかみを押さえて、目を瞑りながら一気に吸い切り、灰皿に煙草を叩きつける。


「……そう、そうか。辛い選択だったな。……それでも、やるんだろ?」

「もちろんです。後悔のない人生を歩むための第一歩ですから」

「じゃあ、早速だけど手術着に着替えてくれ。ここに用意したから」


 山賀は手術着を悠に手渡す。悠はすこしためらっていたが、意を決して服をするすると脱ぎ始めた。制服の上、スカート。恐らくは強制的に着せられている、悠に不似合いな下着姿が露わになる。変わらず、白く透き通る肌に、細身の体。触れば弾力のある肉体。若いからこその肌の艶とつるりとした瑞々しさに少なからず山賀は嫉妬を覚えた。そして悠の体を見て、何故あんなことを言っていたのかを思い出して、うなずく。


「……今から始めないと手遅れになる。今じゃなきゃダメ、か。なるほどな。今は確かに美しいが、それがいつまでも続くとは限らない。そういう事か。」

「ええ。手遅れになる前に始めたかったんです」


 手術着に着替えて、再び椅子に座る悠。そして山賀は、地上に行って診察中のプレートを診察終了と翻した。手術を行うので今日は一日がかりになる。他の患者を診る余裕などない。今日は悠の為に時間を使う。

 悠をストレッチャーに寝かせ、山賀は麻酔の準備に入る。さすがにこの段階になると、悠の表情も緊張と不安で固く、瞳はじっと山賀を見つめている。その様子を見て、山賀は声をかけて不安を和らげようと試みる。


「不安かしら?でも君が寝てる間に手術は終わるわ。痛みも苦しみも感じる間もなく。君が心配する必要なんて何もないのよ」

「……はい」


 山賀は悠の手を握り、もう片方の手で頬を撫でる。先ほどまで体がこわばっていたが、少し緊張がほどけてリラックスできているようだ。悠は目を瞑り、微笑んで体を山賀にゆだねる。その様子を見て、山賀は素早く血管に針を刺して麻酔を注入した。少しの時間を置いて、悠は意識を失う。それを見届けた後、ゆっくりとストレッチャーで手術室まで運んで、手術台に移動させる。

 手術室には助手として先日呼んでいた老医者が既に準備を終わらせて待ちかねている様子だった。会話をしながら間を持たせている間にすべてを済ませているあたり、やはり経験を積んで手際が良いと思わされる。山賀もすぐに手術着に着替え、消毒を万全にして手術に備える。


「道具の準備や機材の設定、すべて終わっている」

「ありがとうございます。……今日のオペに付き合っていただいて感謝してもしきれません」

「待っただけの価値はありそうな患者じゃな。何とも綺麗じゃないか。この若さにしてなお美しさに執着しているというのは、悲しい事だけどもなぁ」

 

 老医師は悠を見て目を細め、つぶやくように言った。

 

「……では、そろそろ始めようと思います」

「うむ。存分に腕を振るえ」

「術式、開始します」


 山賀はメスを手に取り、手術台の明かりに照らされた羽のない背中に、その鋭利な刃をあてた。


「これで君は、より高みへと昇る。その第一歩だ」



* * * * *



 手術は思ったよりも早く終わった。なんせ羽は既に外しており、移植するだけなのだから、若いながらも経験豊富な山賀にとっては簡単な部類の手術だった。


「オペ終了。……一時間半ってところかしら」

「だいぶブランクがあるといってたのが嘘みたいだな。腕前はちっとも落ちてないじゃないか」

「ありがとうございます。でも、この程度のオペならもう少し時間短縮できたかもしれませんね」


 老医師は山賀の腕前に驚きつつも手術の後始末をして、今日の当直に備える為に一旦自宅に戻ると言って病院から出ていった。悠が今日明日と入院するので誰かひとりは病院に詰めていなければいけないからだ。

 まだ眠っている悠の背中には、小さな白い羽が新たに生えている。それは純白に輝く艶を持ち、見るもの全てを魅了する美しさを持っている。触れば手触りも絹のように滑らかで何度でも撫でたくなるような感触だ。悠がこれに執着するのも理解ができるような気がする。

 手術着を脱ぎ、悠をストレッチャーで個室に運ぶ。狭い病院ではあるが、入院患者用に個室三室と大部屋一室をなんとかこしらえてある。今回の手術は簡単ではあったが、移植の為に背中の肩甲骨あたりを切開しているので、傷が閉じるまでは安静にしている必要がある。二日ほど入院して状態が良ければ退院できる見通しだ。

 悠が麻酔から目覚めるにはもう少し時間が必要だろう。山賀は悠の安らかな寝顔を撫で、診察室の換気扇の下に行き、懐から煙草を取り出して火をつけた。


「あぁ。ちょっと疲れたけど、久しぶりの割にはスイスイと手が動いたな。まだまだ私の腕も鈍っちゃいない。もっとできればいいのに」


 人肌にメスを通した感触は久しぶりだったが、程よい緊張感と手術を達成した時には何よりも充実した感覚が山賀の体を満たしていた。何より患者の要望に沿ってそれを達成するための手助けをするのはどんな事よりも代えがたいものがある。やはり自分の生きる領分はここにしかない、という再確認をしたような、そんな気がした。

 一本目の煙草を吸い終えて、二本目の煙草に火をつけようかやめようかと迷っていた所に、悠からのコールがあった。どうやら目覚めたようだ。すぐに入院個室に向かい、様子を伺う。

 個室のドアを開くと、悠は焦点の合わない瞳で山賀の方を見つめた。まだ麻酔が抜け切っていないようで、体を動かすのも億劫なようだ。


「先生……寒いです。この部屋暖房器具ついてないんじゃないですか」

「それは麻酔から覚めた時の症状よ。今は春だし暖かいからその布団だけで我慢してちょうだいね」

「はい……あっつ」


 悠が身じろぎしようとして、手術したばかりの背中の羽をつい下にして仰向けになろうとしてしまい、痛みに呻く。


「ああ、まだ移植して縫合したところがちゃんとくっついてないんだから、寝返りしないでよ」

「これ、地味に辛いですね。うつ伏せか横向きにしか寝れないのか……」

「……羽が生えてる人ってそもそもどうやって仰向けで寝てるのよ」

「羽がクッションになって意外と気持ちよく寝れますよ?そんなにヤワなもんでもないですよ」


 悠は笑いながら答えるが、麻酔が切れてしまった為か、痛みを感じて表情は少しひきつっている。

 

「とりあえず、今日と明日は傷がふさがるまで入院してもらうから。予定は大丈夫なのよね?」


 山賀が確認するのを聞いて、悠がベッドの横のサイドテーブルに置いている電子手帳に手を伸ばす。スケジューラを開き、『家人の日程』とやらの項目を確認する。


「大丈夫ですね。まだまだ出張しています。長期出張なんであと数か月は戻ってこないですよ」

「そう。ならいいんだけども。今日の夜はおじいさん医者が詰めるから、何か不都合とかあったらその人に助けてもらってね。私は明日当直するから」

「わかりました」


 時計を見れば昼を過ぎていた。山賀はしばらく安静にしていてねという言葉を残して個室を出た。そろそろ昼食の時間だが、患者一人残して外出するわけにもいかないので山賀は出前を頼んで、院長室というプレートだけが下がった中には何もない殺風景な部屋で食事をしていた。本当ならばここにも机等を置いて自分の居室としたいのだが、なにぶん予算が足りなかったので今しばらくはこのままである。

 やまみね食堂のA定食を忙しくかきこみながら、今日明日の診察をどうしようかと考えていた山賀。あの程度の手術で容体が変化するのはあまりないだろうが、万が一という事もなくはないので、安全を取って診察はしない。定食の最後のトンカツをほおばったあたりでそう決めた。空いた時間は、しばらく読めていなかった医学書や論文などに目を通す事にしよう。最近は金勘定ばかりに追われていたので、久しぶりの読書が楽しみで今からどの本を読もうかとうずうずしている。

 

 午後。病院の入り口は臨時休診のプレートを下げて、鍵が閉められている。中には山賀と悠の二人きり。悠はスマートフォンを弄って暇つぶし。山賀は診察室に本を高く積み上げて内容を理解するのに夢中になっている。

 そうして夕方になった。悠からのコールなどは何もなく、たまに様子を見に行っても悠は寝ているか、あるいはスマートフォンを弄っているかをしていただけだった。暇だろうから世間話でもしようかと山賀がたまに話しかけても、興味がないのか適当な相づちをうってそれで終わりだ。時折トイレに行く時以外、何もせずに傷が治るのを待っている。

 今気になっている本を大体読み終えた所で、宿直の為に老医師がベイビーリザードに訪れた。持っている荷物は自分の医療用具のみできわめて身軽だ。トレーナーにチノパンという服装の上に白衣を羽織っている。


「おう、来てやったぞ」

「おじいちゃんちょっと早いわよ」

「ふん、わしは待つのが嫌いなんだ。早めについた方が有難かろうが」

「まあ少しくらいくつろぎなよ、今日は誰も来ないからゆっくりしていって」


 コーヒーを淹れると、老医師は椅子に座ってちびちびと飲み始める。


「で、これからどうするつもりなんだ」

「何が?」

「お前の病院だよ。このままというわけにもいくまい。客入りはどうだ?それなりに来ているのか?」

「今週はそれなりに来たわね。前に比べれば、って感じでまだまだだけどさ」

「そうか。……わしももう体にガタが来ていかんのだ。お前にわしのやってきた事を引き継いでもらえれば何も言う事ないんだがな」


 ちらりと山賀に目配せするも、山賀は意に介さずに本に視線を落としている。


「そもそも私とおじいちゃん、専門が違い過ぎるでしょ。一応ある程度なんでもできるようには勉強してるけどさ、とても引き継ぎなんか無理よ」

「とはいえ、わしの人生も残り少ない。闇医者の数も少ない。有無を言わさずお前にもいずれはわしと同じようにやらざるを得ない時が来るだろう」

「じゃあおじいちゃんの顧客と人脈、ある程度私にもちょうだいよ。でないと割が合わないでしょう」

「それは……まあ考えておくとするか。そろそろ代わろう。お前は帰るといい。わしが明日まで面倒を見てやる」


 コーヒーを飲み終え、老医師は悠と対面すべく個室へ向かう。説明の為に山賀も一緒に向かう。個室の扉を開くと、悠は暇つぶしにスマートフォンを弄っていた。山賀と老医師が入ったのを見て、サイドテーブルにスマートフォンを置く。


「交代よ。私は帰るから、後はこの人に何か言ってね」

「あ、はい……わかりました」

「じゃあ、わしが今後はこの病院で詰めるから何かあったらコールで呼んでくれ」

「はい」


 ほぼ初対面の気難しそうな老医師を目の当たりにして、若干不安そうな顔をしていたが、老医師は普段見せる事のない微笑みを見せて、悠の手を握った。


「山賀君の先輩だ。不安に思う事はあるだろうが、彼女よりも一応経験豊富であることは自負している。心配せんでええんだぞ」

「は、はい……」

「私より経験豊富とか、余計よ」


 ふん、と鼻を鳴らして山賀はあとを任せ、病院を出た。事実、彼女よりも老医師の方があらゆる状況や病状にあたってきただけに、何かあった時の対応は信頼できるのは事実。

 若干の憤りを感じつつも自宅に戻り、明日も基本的には悠の事を診ていればよいので気楽ではあった。風呂に入り体を綺麗にした後、冷蔵庫からビールを取り出してぐっと一口。炭酸の爽快感と程よい苦みが今までの疲れをいやしてくれる。

 

「明日は、もう少し悠とコミュニケーション取ってみるかな……」


 なんとなくそんなことを思いながら、山賀はベッドに寝ころんで電灯の明かりを消して眠りについた。


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第七話:移植 END


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