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3 サフィヨールの思惑(トレストの大人の階段)

○月×日

匿名X:第六部隊の、あの従者上がりが気に食わないんですけど。何で、部隊長もあんなのに目をかけるんでしょう。大体、拾った将軍ですら見捨ててる奴じゃないですか。


匿名A:そう思うなら、実力であいつに勝ってみせろよ。

匿名B:そうか? 俺はあいつ、嫌いじゃねえけど。話してみろよ。結構、良い奴だぜ?

匿名C:だからX、お前、出世できねえんだよ。あの部隊長が贔屓なんてするタマか。それが分からねえうちはパシリのままだぜ。

匿名D:だけど、俺もあいつ、嫌い。

匿名E:何が気に食わないのか知らんが、それなら見なければいいだろう。


 戦が始まった。

 カロンにとっては初陣ではなかったが、それでもロームに来てから初めての戦いだった。


「カロン。俺もお前のことにかかずらってはいられねえ。自分の身は自分で守れよ」

「はい、サフィヨール部隊長」

「まずは生き延びろ。」

「努力します」


 騎士見習いだけに馬はない。己の剣一つが頼りだ。

 どんな騎士も兵士も戦となれば家族の心尽くしをその身につけるものだ。高価そうなマントや意匠の凝った剣など、誰もがいつもよりは華やかな格好をしている中で、カロンはかなり地味だった。

いや、粗末だった。


「本当にお前って将軍の所に引き取られた割には何もしてもらってないんだな」

「それこそ剣も練習用の奴じゃないか? そんなんで生き残れるのかよ」


 今までカロンを敵国出身の人間として陰口を叩いていた他の見習い騎士達も、同じ陣営で戦う仲間である上、更に初めての戦に緊張してもいたのだろう、カロンへの敵愾心(てきがいしん)が薄れているようだった。

 というよりも、カロンのあまりの質素さに哀れまずにはいられなかったのかもしれない。

 出陣に際し、見習い騎士達だけで集まった時に、カロンは皆に取り囲まれてしまった。


「いや。十分良くしてもらってるから」


 そう答えたカロンの気持ちに嘘はなかったが、聞いている方はそう思わなかったらしい。


「お前、本当に謙虚なんだな。・・・俺、誤解してたよ」

「そうだよな。将軍に引き取られたって、いい思いをしてなけりゃ意味ないよな」

「騎士見習いどころか、兵士よりも質素な格好じゃないか」


 カロンは何も言えずに押し黙るしかなかった。そうすると、彼らもそれ以上言ったら気の毒すぎると思ったのだろう、カロンの肩を励ますように叩いて、やがて持ち場へと帰っていった。


(そりゃあ、見た目は地味なんだけど・・・)


地味で傷だらけの鞘と柄だが、中身の剣はかなり質が良い。それとは別にケリスエ将軍からもらった小剣が腰にある。

 たしかにマントも茶色で使い込まれたものなのだが、このマントがあれば野宿でもかなり役立つと、今のカロンは知っていた。派手な色は見つけられやすいのだ。

 生き延びられる装備というのであれば、彼らの方がよほど頼りなく、カロンの瞳に映る。

 

「見習いではあまり立派な甲冑をつけられない。だからシャツの上からこれを身につけ、その上からもう一つシャツを着ればいい。傍目には何も身に着けていないように見えるから、相手の油断も誘えるだろう。それに、ヘタな甲冑よりもお前を守る筈だ。だが、甲冑は甲冑でつけておけよ」


 そう言って、ケリスエ将軍は革で胸部と腹部、そして肩を覆う物を作ってくれていた。首や手首、そして足首も、身動きできないようにとよく斬りつけられるのだとかで、その革の残りでそういった部位に巻きつけられるものも、カロンは持たされている。


「これはこの紐で手首とかにつけておけばいいのですか?」

「そうだ。手の甲と指も覆っておけ。そこを狙ってくる奴もいる。お前も指をなくした兵士を良く見てるだろう。失った指は生えてこないからな」

「はい、分かりました」

「カロン」

「はい」

「たとえ戦場で皆とはぐれることがあっても落ち着いて行動しろ。その際は自力で離脱し、落ち延びればいい」

「はい」

「太陽と星の見方は覚えてるな」

「はい」

「大体の地理も頭に入ってるな」

「はい」

「その時は、餞別(せんべつ)にそれはくれてやる」

「・・・・・・」


 傷だらけに見える剣はかなりの業物(わざもの)で、売ればそれなりの値になると教えてもらった。

 

(俺がそのまま逃げ出しても構わないと、この人は思ってるんだろうか)


 そんな質問は、答えが怖くてできなかった。

 そんなことを思い出しながら、カロンは改めて自分の装備を見下ろした。

 質素と言ってもいい粗末な服、それでもその下には頑丈な革が自分の内臓を守っている。

 かなりぼろそうに見える剣、それでもそれは将軍愛用の品の一つだ。

 薄汚れて汚いマント、だが雨を弾く上に(なまく)らな剣ならば切り裂けない。

 傷がそこそこ入った甲冑、新しい物は新人と分かりやすく狙われやすいそうだ。


(俺はおかしいんだろうか。みんなは俺が将軍にどうでもいい存在として、今回の戦で使い捨てられるものと看做(みな)している。そう考えると落ち込んでいるのが普通なんだろう。けれども・・・)


 百人が百人、自分を見てそう思うのだとしても、自分は全くそう感じないのだからきっと己はおかしいのだろう。カロンは目を閉じた。

 内臓を保護する為とは言われたが、部屋で検分(けんぶん)してみたら革と革を張り合わせてあり、その中には鉄線とお金が挟み込まれていた。いざとなればその金を使えということなのだろう。そしてその鉄線が剣の勢いを殺す筈だ。

 自分の装いを見て、サフィヨール第六部隊長とその副官や小隊長達が目を丸くした時のことを思い出す。


(やっぱり哀れまれていたよな、あれ・・・)


 それでも二人きりになった時に、サフィヨールだけはカロンの体を触って、更に剣をしっかり確かめてきたが。


「なるほどな。武功はどうでもいいから生き延びろってか。ま、そういうことなら仕方ねえ。俺も将軍に仕えてる身なんでな、その思いを無視できん。なるべく戦闘が激しくない所にまわしてやる」

「部隊長」

「何だ?」

「それでも俺は将軍や部隊長と同じ所にいたいんです。どうか連れて行ってください」

「将軍がそれを望んでなくてもか?」

「・・・それでも俺は」


 カロンの表情に何を見たのか、サフィヨールはカロンを自分と同じ戦場に連れてきてくれた。


「将軍や俺達は一番危険な所に行く。安全な所に隠れてる指揮官についてくる奴はいねえからな。だがカロン、お前には誰も期待していない。だから怖気(おじけ)づいたならそのまま後ろに引っ込んでろ。かなりきついものになるからな」

「はい」


 そうして敵味方が入り乱れる殺し合いという名の戦いが始まった。






 カロンはもう何も感じてはいなかった。かつての自分と同じだ。

 ただ、相手を殺していくだけ。そうじゃないと自分が殺されるから。


(それでも、今の俺はもうお(とう)に守られていた俺じゃない)


 あの頃、今のような強さがあれば父を死なせずに済んだだろうか。

 ケリスエ将軍の無駄のない動きを見慣れている自分に、それこそ敵の動きは無駄が多かった。小剣で鍛えられた急所を一発で狙う方法、それを大剣で行ったなら、効率的に敵を(たお)せた。敵と切り結ぶような時間と労力の無駄など、かけてなんかいられない。

 自分達が怖いように、あちらも怖いのだ。怖いから余計に大声を出し、大きな動作で斬りつけてくる。自分はただ無言でそれを物言わぬ体にしていくだけだ。


「何だよ、あの強さ・・・」

「あいつ、何で落ち着いてんだよ。怖くねえのかよ」


 他の見習い騎士達と同じ列にいた筈が、カロンだけがさっさと進んでいた。

 そんなカロンは無心に剣を振り続けていただけだったが、他の人間はそう思わなかったらしい。カロンの動きはあまりに無駄がなく、味方からの目を引いたのだ。


「見習い騎士の中でも優秀とは聞いていましたが」

「これはまた・・・。だから部隊長自らが、ですか」


 それでも戦っている時は興奮しきっていて分からなかっただけだろう、夕方になり戦闘が終了して、自分の体を見たら様々な場所に傷があった。

傷の手当など慣れたものだ、カロンはさっさと血を拭いて薬を塗り込む。

 そんな一日目の戦闘が終わった夜、カロンは部隊長や小隊長達が集まっている所に呼ばれた。


「お呼びでしょうか」

「カロン。お前、今日、何人やった?」

「・・・覚えてません」


 本当に覚えていなかった。頭が真っ白になっていたからだ。剣を振らなくては殺される、その思いだけで剣を振り続けていた。


「普通、こういう時はブルっちまうもんだがな。かなり落ち着いてたって話じゃねえか」

「緊張してましたし、かなり怖かったです」


 落ち着いた顔どころか、何かを感じられる余裕もなかった。きっと自分の顔に表情はなかっただろう。それは落ち着いていたとは言わない。ぎりぎりの線でまだ正気だった、そういうことだ。


「お前、あっちの馬に乗ってた騎士を斃してその馬を奪って戦ってたってな」

「ああ、はい。馬を使った方が蹴散らしやすいかと思いまして」

「馬の扱いも上手かったそうだな」

「そうでしょうか。ありがとうございます」 


 相手から馬を奪うやり方はケリスエ将軍から教わった。何も考えてなかったが、勝手に体が動いた。馬を奪って戦いながら、どうして自分はこんなことをしているんだろうと不思議に思ったぐらいだ。何度も何度もやらされたことで、頭が動かなくても体が動くようになっているのだと、後で理解した。


(将軍のおかげだ・・・)


 きっとそのことにサフィヨールも気づいているだろう。けれども他の人達がいる前で、それは言えなかった。


「カロン。お前、明日から馬に乗って俺達について来い」

「はい、分かりました。サフィヨール部隊長」


 カロンが下がると、サフィヨール第六部隊長とその部下である小隊長達は(いか)めしかった表情を崩した。誰もが溜め息をついて苦笑している。


「どう思うよ、あれ?」

「いい戦力になりそうですが、初陣とはとても思えない落ち着きぶりでしたね」

「初陣じゃねえだろ。あいつは将軍に戦場で拾われてる」

「将軍の養い子とは表向き、奴隷のような使い捨ての存在と噂にはなっていましたが、・・・あれを見て、そう言える人間はおりますまい」

「ああ。おそらくあいつは更に化けるな。ま、生き残ればの話だが」

「賭けますか? 俺は生き残る方に賭けますよ」

「それじゃ賭けにならん。俺もあいつが生き残る方に賭けるんでな」


 サフィヨールは愉快そうに口角を上げた。

 その後、馬に乗って戦うカロンの姿は、かなり味方にも強烈な印象を残したらしい。

 その戦いが勝ったのか負けたのか、カロンのような下っ端にはよく分からなかったが、あまりにも惨めで哀れな辛いだけの光景を残して、戦いは終了した。


(戦なんてどっちの側にいても同じだ。むせかえる汗と血と腐敗した臭い、苦しんで助けを求めるうめき声と泣き声、・・・どんな思いや言葉も物言わぬ死体になったら終わりという現実。人なんて一番醜い獣だ)


 人を殺すことに喜びなどなかった。ただ、何も考えずに生き抜こうとしただけだ。褒められても嬉しいとは思わなかった。


(それに、将軍のいる場所はあまりにも遠い)


 同じ戦場に連れてきてもらっても、将軍の姿すら見えなかった。それが将軍と自分との立ち位置の違いだ。カロンはまだ守られているだけなのだと、無力さを実感しただけだった。

 今の自分では将軍の傍には行けない。役にも立たない。


(それでも俺は・・・)


 そしてローム帰還後、カロンは騎士になり、サフィヨール第六部隊長の副官の一人となった。






 カロンがサフィヨール第六部隊長の副官として出世したことに、色々と言われていたことは確かだ。それでも結果がものを言う。

 その後もサフィヨールについて傍で戦い、結果を出し続けるカロンに誰もが口を(つぐ)んだ。


「ああ? 俺がカロンを副官にした理由? そんなの、使える奴だからだろ。それ以外に何があるってんだ? 言っとくがよそに譲る気はねえぜ。そうだな、あいつより強くて役立つ奴がいるなら喜んで交換するがな」


 サフィヨールがそう挑発したおかげでカロンに試合を挑んだ者もいたが、誰に対してもカロンは勝ち続けた。


「あのケリスエ将軍に教わってるなら強くて当たり前じゃないか」

「そうだそうだ。それこそ、あの将軍が教えたなら当然だ」


 そういう声もあったが、カロンが何も将軍から教わっておらず、兵士見習いから始めたのだと知ったら黙り込んだ。


「けーっけっけ。カロン、お前のおかげでかなり他の部隊長にも口惜しがらせてやれてるぜ。お前みたいな隠し玉、よくぞ持ちやがってってな。ざまあ見やがれってんだ」

「部隊長。そういう品の悪いことを言わないでください。ほら、カロンも困ってるじゃないですか」


 人の悪い笑顔を浮かべるサフィヨールに、長年に渡って副官を務めるジルドが呆れて(たしな)める。カロンも何と答えればいいのやら、身の置き所がない。


「気にするな、カロン。ちゃんとお前が認められただけのことだ。よく今まで頑張ったな」

「ありがとうございます、ジルド殿」


 カロンがジルド様と呼んでいたら、もう君も副官の一人なのだからと、呼び方を訂正されたのだ。ジルドはかなりきっちりした性格らしく、カロン殿と呼んでもきていたのだが、カロンは頼み込んで呼び捨てにしてもらっていた。


「で、カロン。お前、未だに将軍には稽古をつけてもらってるのか?」

「あ、はい。最近は一緒にやるって感じですけど」

「まあ、かなり体も出来上がってるしな。体格と体重だけなら将軍の倍はありそうじゃないか?」

「倍はさすがにないと思いますけど・・・」


 どれだけ走れとか言われなくても、その辺りは自主練習に近くなっていた。カロンも体力切れで倒れることはなくなっている。

 また、刃を潰した剣を使っての打ち合いもしてくれるようになっていた為、カロンの剣の腕はかなり上達していた。ケリスエ将軍と剣を打ち合わせて初めて、強い相手とやれば上達するという本当の意味をカロンは知った。


「たしかに体格も厚みも俺の方がありますけど、・・・だからと言ってどうというものでも」


 思えばカロンの父親も体格は大きかったような気がする。そのせいもあってか、カロンはこの体格のいい男達が揃っている軍でも更に大柄に育っていた。体だけならケリスエ将軍よりもはるかに背が高いし、横幅も大きい。


「体は大事だろうが。で? 将軍には勝てそうか?」

「無理です」

「即答かよ」

「俺の動きは全て見切られてますから」

「男なら口惜しがれよ」

「別に口惜しくないです」


 ジルドはそういった二人の会話を面白そうに聞いているが、それでも何も言わなかった。普通、ぽっと出のカロンに対してそれなりに不快感を示してもいい立場だと思うのだが、「いやいや。カロンが手伝ってくれるので助かりますよ」である。

 そんなジルドだからカロンも敬意を払っていたし、呼び捨てにしてもらう方が気楽だったのだ。


「お前も健気(けなげ)な奴だよな。未だに、戦に行く時にはそのぼろい剣とマントを持っていくんだから」

「これよりも良い剣があれば考えますけど、使いやすいんです」


 さすがにサフィヨール第六部隊長の副官ともなると、あまり質素な格好はできず、服装も甲冑もそれなりの物を身につけるようにはなっていた。それでも荷物の中には例のマントを入れてあるし、剣はそのまま使い続けている。

 何年たっても、見た目がぼろくても、いいものはいいのだ。


「ただ、もうすぐマントは寿命かなと思うと、さすがに・・・。今度、これを扱っている所を教えていただこうとは思っているんですけど。元の質が違うんですよね」


 最初に作ってもらった革の防具は小さくなっていたが、カロンは同じような物を注文して作ってもらっていた。今となってはそれなりの給料ももらえているので、新しい剣も自分で買うことができるが、最初にもらった剣が一番使いやすい。


「ところでカロン、お前さんもそろそろ独立してもいいんじゃないのか? 嫁さんだって欲しいだろ? まさか将軍の屋敷に住んだまま嫁を貰う気じゃなかろうな」

「・・・は?」


 そこでカロンは目を丸くした。嫁など、考えたこともなかったからだ。

 しかしサフィヨールはニヤッと笑った。


「娼館でもお前、モテモテだったじゃないか。いいねえ、若い奴は」

「え? いや、あの、それは・・・」

「部隊長。そういう悪趣味なことを言うのは感心しませんよ。ほら、カロンも真に受けなくていいですから。純情な若者をからかうんじゃありませんよ、部隊長」

「いやいや。大事なことだぜ。なあ、カロン?」

「俺、そんなの、考えたこともないですし・・・」


 真っ赤になったカロンがもじもじと答える。


「考えたことねえって? 何でだよ」

「何でって・・・・・・、俺、将軍に拾ってもらった人間ですし」


 独立や結婚なんて、全く考えたことなどなかった。そんな単純なことに理由を訊かれても困る。

自分は将軍に拾ってもらった人間だから、・・・だからずっとケリスエ将軍の傍にいられるのだと、いていいのだと、ただ漠然とそう思っていた。

 カロンにしてみれば、今の日々がずっと続いていくものだと思っていたのだ。・・・サフィヨールは違うのだろうか。


「けど別に何かしろって言われてるわけじゃないだろ? お前はお前の好きにしていいんじゃないのか? 給料だって将軍に渡せなんて言われてないだろ?」

「はい・・・。せめて半分だけでもと思ったんですが、お前の給料に頼る必要は全くないから気にするなと言われました。自分の為に使えと」


 今の給料じゃいつか将軍が必要とする時に足りないかもしれないからと、使わなかった分はそのまま貯めてある。いつかまとめて将軍に返せる日が来るだろうと、ただ何となくそう思っていた。


(将軍と二人で暮らす日々が、ずっと続くわけじゃないのだろうか。だけど俺は・・・・・・)


 カロンが下を向いていると、サフィヨールは何かを思いついたような顔になった。

それに気づいたジルドは困った部隊長だと言わんばかりに溜め息と共に首を振ったが、カロンは全くそれに気づいていなかったのである。






 特に何があるというわけでもない朝の会議に、サフィヨールはカロンを同行させた。特に伝達事項があるわけでもない、ただの日に副官を連れてくるというのは珍しい。

 それはケリスエ将軍を中心に、第一から第六部隊長の七人で行われるのが常だ。そこへカロンである。誰もが訝しげにサフィヨールを見てくる。カロンもどうして自分が連れてこられたのかが分からない。


「ところで第六部隊長。なぜ今日は副官を同行させておられるのでしょう?」

「ああ、ちょっと貴君らもお揃いの所で、将軍にお尋ねしたいことがありまして同行させました。もしも不愉快にさせたなら申し訳ない。何なら席を外してくださっても構わんのです。いや、大したことではありませんのでな」


 カリスフ第三部隊長の質問にサフィヨールがそう答えると、第一から第五部隊長の間に(もしかして面白いことか?)という空気が流れた。

誰しもお祭りは大好きである。


「私に質問?」

「はい。将軍からお預かりしたこのカロンですが、兵士見習いから始めさせたものの、なかなかの才能の持ち主でしたので、今では私の副官をさせております」


 ケリスエ将軍に向かい、サフィヨールはそう言い始める。だが、そんなことは誰もが知っている。

 最初は役立たずのお荷物を押しつけられたのかと思っていたら、どんどん頭角を現してきたのだ、カロンは。

 ああも化けると分かっていたら第六部隊ではなくうちに欲しかったと思っている部隊長は多かった。鍛錬場での剣を見れば分かる。カロンはかなり強い。


「私としてはなかなかの逸材だと思っているのですが、カロンに今後どうしたいかと尋ねた所、自分は将軍に拾われた人間だから将来のことなど考えたことなどないと申しますのでな、ちょっとその辺りを将軍に確認しようと思った次第です。カロンを、将軍は今後どうなさるおつもりでしょうか?」


 ケリスエ将軍はそこで少し考えた様子だったが、すぐに投げやりに答えた。


「どうするもこうするも、カロンのことなどカロンが決めることだろう。私に一々確認をとる必要はない。既にカロンは第六部隊長の副官となっている。そこで何か私に訊くことがあるか?」

「そうでしょうが、カロンは未だに将軍の屋敷に住み込みの身。そろそろ嫁も貰いたいのではないかと尋ねたら、そんなことよりも将軍への恩返しがしたいと申しましてな」


 何を言い出したのかと、ケリスエ将軍は呆れた。

住み込みと言っても、とっくにカロンは独立出来る給料を手にしている。今となっては、通常の金も住処もないからという意味での住み込みとは違うのだ。ましてや嫁取りなぞ、好きな娘と勝手にすればいいことである。


(なのに恩返し? 何を私がしてもらわねばならないというのか、バカバカしい)


ケリスエ将軍にしてみれば、別にカロンが結婚するというのであれば祝いぐらいは出してやるつもりもあるわけで、そもそもカロンにしてもらいたいことなど何一つない。

屋敷への来客すら全面的に断りを入れている上、カロンを引き取るまではあくまで孤独な一人暮らしを満喫していたケリスエ将軍に、そんな恩だの義理だのといった面倒臭い人間関係は、負担でしかなかった。


「恩も何も、カロンをそこまで育て上げたのは第六部隊長の指導によるものだろう。私とて使ってない部屋を使わせた程度のことで、恩返しなど要求する気はない」


 ケリスエ将軍はそこでカロンに目を向けた。


「カロン」

「はい」

「男なら自分の道は自分で決めろ。私がどうこうではない、お前はお前の道を行け」

「ですが・・・」

「くどい。それにいつまでもうちにいる必要もない。出て行きたければ出て行けばいいし、嫁を貰いたければ貰えばいい。お前とて家を借りられる程度の給料は出ているだろう」


 そんなことも言わないと分からないのかと、ケリスエ将軍は頭痛がする思いだった。まさか自分の給料が幾らかも理解できていないのか? ちゃんと金銭の使い方はフィオナからも教わっていた筈なのに。


(え? うちにいる必要もないって・・・。それって・・・出て行けって・・・?)


 だが、将軍の思いがけない言葉に、カロンは衝撃を受けた。ずっと自分をいさせてもらえるのだと、自分だけは傍にいていいのだと、そう信じていたからだ。

 ケリスエ将軍と暮らし始めて、憎まれているのではないかと思ったことはかなりある。同時に、将軍がこんなにも色々と教え込んだのは自分一人だという気持ちが、支えだった。

 だから、どれだけ素っ気ない態度をとられても、それでも自分だけは許してもらえると思っていたのだ。この将軍と共に暮らすことを。


(俺だけは・・・同じ屋敷にいていいんだと・・・・・・。俺は・・・)


 もしかして、自分が同じ屋敷にいることを将軍は疎ましく思っていたのだろうか。

 不愉快に感じながら、そして自分がいつまでも出ていかないことにイライラしていたのだろうか。

思わず、カロンの声が震えた。


「・・・俺が、一緒に暮らしてるのは、迷惑、ですか?」

「どうでもいい」


 さすがにしーんと室内に沈黙が満ちる。

 聞いていた部隊長達も、耳を疑った。

 幾らなんでも、どうでもいいはないだろう。これがお稚児さんだの、使い捨ての道具だのと言われても耐えていた相手に言う言葉だろうか。


クネライ第一部隊長 (居たたまれねえ。今、全力でここから居なくなりてえ)

ハイゲル第二部隊長 (鬼か。あんたは鬼かっ)

カリスフ第三部隊長 (それはちょっとないんじゃ・・・)

ソメノ第四部隊長 (この空気をどうすれば・・・)

ソチエト第五部隊長 (この年になってこんなものを見させられるとは・・・。不憫な奴)


第一から第五部隊長の心に、なんだか痛いものが走った。同じ男として同情を禁じ得ない。

別にカロンへの思い入れなど全くないが、男が震えながら語りかけた言葉を女がさくっと片付けるのは、男として心にぐさっと突き刺さるものがある。

男心はかなりデリケートなのだ。


(出て行けばいいって、・・・・・・やっぱり俺がいつまでも住んでいるのは図々しかったんだろうか。給料をそのまま自分のものにしておけっていうのも、家を借りて住む代金にあてろって意味だったのかもしれない)


カロンも少し涙が滲んだ。

色々と教えてもらっていた。衣食住のほとんどの面倒をみてもらっていた。けれどもそれら全ては将軍にとって、拾ったから仕方ないといったうんざりしたものであったとしたなら・・・。

だが、こういう時でもないと訊けないと思い直し、勇気を振り絞る。


(そうだ。本当にうんざりしていたら、どうしてあそこまでしてくれたんだよ)


仮に拾ってしまった責任からだったとしても、ここまで自分に時間と手間をかけたのだ。少しは何かを期待されていただろう。少なくとも、自分が他人から強いと評価される程になれたのも、将軍の弛まぬ指導があればこそだ。

今の自分なら、それこそ負け戦の時の殿(しんがり)でも何でも時間稼ぎに使える上、場合によっては生きて帰れぬ戦でも一矢報いることのできる人材として放り込める筈だ。

ローム国騎士団の頂点に立つこの人にとって、部下など強さこそが全てだ。そうでない筈がない。


「将軍は、俺に、・・・いや、俺をどうしたかったんですか・・・?」

「別にどうもしたくはないが」


 いささか涙で瞳が潤んでいるカロンに、ケリスエ将軍が少し首を傾げる。何をこいつは言い出したのだろうという表情に近かったかもしれないが、傍目には無表情にも見えただろう。

 けれどもカロンには、自分が箸にも棒にも引っかからぬ程度の無能とみなされた気すらした。ケリスエ将軍の強さを体と心に叩き込まれていたカロンは、周囲から自分がかなり強いと言われてても、あまりその実感がなかったのだ。

 どうにも出来ぬほど、まだ弱い。・・・そう言われた気にすらなった。


「俺を引き取って、俺を軍に入れて、・・・それで俺に、何も望まないんですか・・・?」

「ああ」


 そこでケリスエ将軍は立ち上がった。

やっとこいつは分かったらしい。困ったものだ。大体、自分はそこまで利己的な人間ではないつもりだ。どんな非道な奴と思われていたのか。

最初からカロンに対して無償の思いで接していたケリスエ将軍に、カロンの気持ちは全く理解不可能なものだったのだ。


 だが、カロンにとって、それは自分を切り捨てる宣告のようなものだった。自分に望むものは何一つないと言う。・・・それは役立たずという意味ではないのか。この人にとって自分は何の価値もない人間だったのか。

 カロンの心を絶望が覆った。

 戦場で周囲の反対を押し切って引き取り、生活全ての面倒をみて、食うに困らぬ技能を身につけさせ、どこに行こうとも生き延びられる知恵を叩きこんで、・・・そこまで手を掛けて育てたとなったらその費用の回収を考え、まずは使い勝手の良い部下もしくは下僕といった存在にする筈である。もしくはどこかへの間諜として放り込むか。

 しかし、それだけの投資をしても何も望まぬというのは、・・・切り捨てられた、それ以外の何物でもない。


「理解したならこの話は終了だ。サフィヨール第六部隊長」

「はい」

「カロンは貴君の副官だ。煮るなり焼くなり好きにすればいい。私に了解を取る必要はない」

「承知しました。・・・いずれ第六部隊をこのカロンに任せるつもりですが、将軍に異存はございませんかな?」

「第六部隊長がそう見込んだのであれば私が口を出すことではない」

「ケリスエ将軍っ」


 そこで思い余ってカロンが呼び止める。


「何だ、カロン」

「俺はっ、俺はあなたの役に立ちたくてっ、・・・そりゃまだあなたには敵いませんけどっ、それでも俺はっ、俺はあなたに・・・っ」


 たとえ駄目な出来だったとしても、そのまま切り捨てられるぐらいなら、せめて使い潰してくれればいい。カロンにしてみれば、それしかケリスエ将軍の恩に報いることなど思いつかなかった。


「カロン」

「はい」

「それはお前の勘違いだ。引き取ってもらったから役立たねばならないと思い込んでいるだけのこと。その弱さをまず克服しろ。そこまで第六部隊長がお前を評価してくれているのだ。お前が恩返しすべきは、サフィヨール殿だろう」

「・・・俺がっ、俺が認めて欲しかったのはっ」

「頭を冷やせ、カロン」


 サフィヨールにも恩はある。けれども誰よりも恩返しをしたい存在から、どうして他の人間を勧められなければならないのか。それこそ、誰かに「好きだ」と言ったら、「あら。告白ならあっちの子にしときなさいよ」と、言われたようなものだ。

 だが、そのままケリスエ将軍は部屋を立ち去ってしまった。その背中はそれ以上の言葉など全く受け付けないものだった。


(俺が、認めて欲しかったのは・・・・・・)


 勝手に出て行けと言われ、勝手に嫁も貰えと言われ、勝手に家も借りろと言われ、更に恩返しはサフィヨール第六部隊長にしろと言われ、・・・自分のことは自分で決めろと言われた。

 どこまでも自分は将軍に拒絶されていた。自分が将軍に出来ることは何一つ無いとされたのだ。

 自分の存在は将軍にとって、それこそどんな存在だったのだろう。


(じゃあ、あなたにとって俺は何だったんです・・・?)


自分が近くにいるのは将軍にとっても鬱陶しいことだったのか。

たとえ何を言われても、それでも将軍が屋敷に住まわせているのは自分一人だった。そして稽古をつけてくれるのも。だから耐えられた。いつか誰もが認めてくれると信じて。


(俺は、あなたの傍に、自分の力でいつか辿りつきたかった・・・)


 嫁など考えたこともなかったが、自分の結婚すら将軍にとってはどうでもいいものだったのか。

 別に将軍の役に立つような結婚など自分に望むべくもないが、それでも興味もないだなんて、友人知人にすら劣る関係ではないのか。


(だけど俺は嫁なんてもらうより、あなたと一緒にいたかった・・・)


 屋敷に住むことすら実は嫌がられていたのか。

 いつしかあの屋敷こそが、自分の帰る家だと思っていたカロンだ。戦からあの屋敷に戻ればほっとした。どこよりも安らげる家は、もうあそこしかなかった。


(そんなあなたと同じ屋敷に帰れる自分が、嬉しかった・・・)


 ここまでの恩すら、返す必要はないというぐらいに、切り捨てたい存在だったのか。

 それこそ人事的なことから発生する上司と部下の関係ですら、絆も生まれ、恩や義理も発生するものだ。なのに自分達のかなり濃い数年に及ぶそれらの日々も何もかも、なかったことにされるようなものでしかなかっただなんて。


(いつかあなたに喜んでもらえる自分でありたかった・・・)


 そんな自分の思いは、将軍にとって意味のないものだったのだろうか。


(じゃあ、どうして自分にあれだけのものを仕込んだんです・・・?)


 ケリスエ将軍にとって、自分はもう不要な存在なのか。・・・なら、自分はどうすればいいのだろう。将軍に必要とされない自分に、もう何の価値があるというのか。

 行き場のない思いが渦巻いて、ぐるぐると同じことを考えては絶望し、少し希望が見えたと思えば落ち込む、そんな感情がカロンの胸を締めつけていた。


「あー、悪かった、カロン。・・・あそこまで将軍が容赦ないとは思わなかったんだ」


 俯いて、そのまま床に涙を零すカロンに、サフィヨールが気の毒そうな瞳を向けて謝った。他の部隊長達も何と言えばいいのやら、である。

 カロンが従者時代に苛められていても将軍が何もしなかったのは皆も知っている。ましてや第六部隊に預けられても、下っ端の兵士見習いから始めさせられたことも。

 それなのにカロンがそこまで恩義を感じているということの方が意外だったのだろう。


「別に将軍もああおっしゃってくださってるのだし、真面目に恩返しなど考えなくても良いと思うがな」

「第二部隊長の言う通りだ、カロン。それに第六部隊長がお前をそこまで認めてくれているなら何よりじゃないか。お前はよく頑張ってきたと思うぞ」


 ハイゲル第二部隊長とクネライ第一部隊長がそう慰めてくる。

二人とも別にカロンに対してどうこうといった思いもなかったが、さすがに今のを見たら気の毒に思わざるを得なかった。

どちらかというと、単に住まわせているだけのケリスエ将軍よりも、そこまで引き立ててくれたサフィヨール第六部隊長に恩返しをすべきだろう。ケリスエ将軍は間違っていない。


「お前が辛くても頑張ってきたのは知ってる。それに将軍もお前に何も要求する気がないってのは、ご自分が何もしていないのをご存じだからだろう。それに、サフィヨール殿にそこまで認められたなんて凄いことじゃないか」

「全くだ。ちょっと真面目に考え過ぎてるんじゃないのか? 別に将軍も屋敷に一人少年がいた所で、特に負担でも何でもなかっただけだろう」


 ソメノ第四部隊長にカリスフ第三部隊長も同意する。そこで、ソチエト第五部隊長がサフィヨールに鋭い視線を向けて尋ねた。


「いささか私はそれに疑問を感じますがね。たしかにそこの小僧も頑張ってきたことでしょう。だが、いかに才能があろうと、それだけで兵士見習いからこの短期間で部隊長の副官クラスまで這い上がれるものではない。・・・ましてやその小僧の今の様子を見れば尚更のこと。サフィヨール第六部隊長、我らが知らぬ事情もありそうですな?」

「さすがソチエト殿。ご明察ですな。・・・ここだけの話としていただきたいのだが」


 そう言って、サフィヨールが他の部隊長達に、たしかにカロンに騎士や兵士としての基本は教えていなかったものの体力作りは将軍が自ら指導していたこと、毎朝毎夕の稽古をつけていること、いざとなれば一人でも生き抜けるような技能は既に身につけさせられていることなどを話す。


ソチエト第五部隊長「・・・将軍も罪なことを」

ソメノ第四部隊長「そこまでしておいて、懐かせてから『好きにしろ』はないですな」

カリスフ第三部隊長「そういう意味では将軍もお優しいんだろうが・・・」

ハイゲル第二部隊長「そうかぁ? それで『どうでもいい』はねえだろ」

クネライ第一部隊長「純情な男にアレはきついぜ、いやホント」


 哀れみの瞳がカロンに向けられ、次々と、頭や肩、そして背中にそのゴツゴツとした手でバンバンと叩いてきた。


クネライ第一部隊長「それだけ将軍もお前を大事に思ってくださってるってことだ。そう泣くな」

ハイゲル第二部隊長「そうだぞ。お前はその期待に見事に応えたんだ」

カリスフ第三部隊長「お前が一人前になることが一番の恩返しだ。将軍はそうおっしゃりたかったのだろう」

ソメノ第四部隊長「あの将軍に恩返しも何も、あの人の方がはるかに上の立場だからな。・・・ま、あまり思いつめるな」

ソチエト第五部隊長「いずれどんな形であれ、報いることもできるだろう。人生は長い」


 いくら慰められても、カロンが欲しい言葉を持っているのは一人で、その一人はカロンに何も要求する気はないのだから意味がなかった。

 赤く泣きはらした目でカロンは屋敷に戻った。


「カロン。・・・たまには馬に乗るのもいいだろう」


 ケリスエ将軍はカロンの顔を見るなり、その日はいつもの訓練ではなく、遠乗りに連れ出した。

 城壁外へと道を馬で軽く走らせて途中の野原へと入る。


「馬はそこにでも繋いでおけ。勝手に水も飲むだろう」

「はい」


適当な木に馬を繋いで、ケリスエ将軍はカロンを「こちらに来い」と、促した。

 切り立った崖の上になるからだろう、そこからは遠くローム中心区域が眺められた。


「カロン。こうして見ると、ロームは小さいだろう?」

「はい」

「お前の悩みもそのようなものだ。遠く離れてみれば小さく見える」

「・・・・・・」

「お前の両親を覚えているか?」

「はい」

「お前が幸せに生きていくこと。それが親に対して残された子供の出来る、ただ一つのことだ」

「・・・はい」


 ・・・もしかして慰めてくれているのだろうか。カロンはそう思った。

 今なら、ケリスエ将軍はカロンに対して無視しないような気がした。


「将軍」

「何だ?」

「歌、・・・歌ってください」


 言ってみて赤面する。カロンは自分でも(俺は馬鹿か)と思った。

どうしてよりによって、「歌ってくれ」なのか。子供じゃあるまいし。


『我らが求めるは神の息吹。この身を持って地上にあらん。空より降りたるは神の恩寵にして、我らが・・・・・・』


カロンの()頓狂(とんきょう)なお願いに少し驚いた様子だったが、ケリスエ将軍は静かに歌ってくれた。ケリスエ将軍の部族に伝わっていたという、いつもの歌を。


(そういえば、これは強くなるようにという祈りの意味もあるって言ってたっけ)


 それを聞きながら、カロンは下を向いた。今は顔を見られたくなかった。


「カロン?」


 そんなカロンに気づいたのか、歌を止めて手を伸ばし、ケリスエ将軍がカロンの頬を拭ってくる。その指先にすら傷痕が残っている。フィオナや娼館にいた女性達の柔らかく優しい指とは違う固い指だ。

 それでもその指が自分に触れてくることに、カロンは胸をどきどきさせた。


「図体が大きくなっても変わらないな、お前は。寝ながら泣いてるし、起きても泣いてるし・・・」


 呆れたような声の意味を理解するのに少し掛かった。・・・どうして寝ながら泣いていたことを将軍が知っているのだろう。

だけど自分をすぐ近くで見上げてくるその黒い瞳に、自分の顔が映っている。

 もしも怒られたりしたらその時はその時だと思って、カロンはその体に腕をまわし、肩に顔を埋めた。

 特にケリスエ将軍は怒らなかったが、まさに呆れたような息を吐き出した。

 

「お前な、もう泣き顔を見られた後で隠しても意味がないだろう」


 別に泣き顔を隠したかったからではないのだが、・・・だけどもう、それでいいと思った。顔を見て話す勇気がなかっただけだ。


「将軍」

「何だ?」

「俺が一緒に暮らしているのは迷惑ですか?」

「別にどうでもいい」

「・・・もし、俺が、このまま暮らしたいと言ったら?」

「好きにしろ」


 ストンとカロンの肩の力が抜けた。いや、全身が脱力した。


(え? そうなの?)


出て行きたければ出て行けと言われたので、自分はもうケリスエ将軍にとっては用済みなのだろうと思っていたからだ。好きにしろって、・・・その程度のことだったのか? いや、まさか・・・。

 ・・・だけど。

今ならもっと訊けるだろうか。

 

「将軍」

「何だ?」

「どうして俺に、毎日あれだけの訓練をつけてくれてたんですか?」

「結果を出す為だ」

「・・・それは俺にこうやって出世させる為ですか?」

「そうだ」


 カロンの息が一瞬止まった。もしかしてこの人は・・・・・・。

 胸の中に、何か熱く広がるものがあった。


「・・・どうしてそれを俺に教えてくれなかったんですか?」

「教えなきゃいけないものか?」


 その不思議そうな気配を微かに含んだ言葉に、カロンの感動が四散した。

いやいや、ちょっと待ってくれと、カロンの中で何かが警告を発している。自分はかなりの考え違いをしていたかもしれないと。


「・・・あの。・・・普通、言います、よね?」

「そうか?」

「言わないと誤解されるだけだと思うんですけど・・・」

「どんな誤解が?」


 カロンは将軍に憎まれているのではないか、嫌われているのではないかと、涙を流しながら眠りについた日々を思い出す。


(言えない・・・。まさか言える筈もない)


 言っておいてくれれば自分もそんなことを悩まずに済んだだろう。帰る場所などなかったから耐えたが、そうでなければ逃げ出していた筈だ。

 だが、本人に向かって「俺、憎まれてるんじゃないかと思ってたんですが」などと、自分の出世を考え、何年もかけて教え込んでくれた人間に言える恩知らずがいるだろうか。少なくともカロンには言えない。絶対に言えない。

 何度か深呼吸して、カロンは違う柔らかな言い方を考えた。


「できれば言っておいてほしかったんですが・・・」

「説明してほしいなら、訊けばよかっただろう」

「・・・・・・」


 挨拶をしても「ああ」だけで済ませられるのは今も変わらない。そんな日々のどこに何かを言えるものがあったというのか。


(違う。・・・何かが全くもって食い違っている気がする。そう、感性が)


カロンはしばし放心してしまった。もしかして、自分は実は恨み言を言ってもいい立場じゃないだろうかとも、少し思った。


「俺の場合はともかくとして、普通はそこをちゃんと言わないと、失敗すると思います」

「言わなきゃいけなかったか? だが、別に二回目はないから構わないだろう」

「・・・・・・」


 ケリスエ将軍自身に、それを改める気はないというか、どうでもいいと看做されたことだけはカロンにも分かった。

 二回目はないというのはどういう意味なのか。その時のカロンには分からなかった。後に、二人目の弟子をとるつもりはないという意味だったと判明するが、それはまだ先のことだ。


「そんなことよりも泣き止んだなら離せ、カロン。そろそろ戻らないと門が閉まる」

「あ、はい」


 反射的に従ってしまったが、カロンは眉根を寄せずにはいられなかった。

カロンの話などどうでも良かったのか、泣き止んだなら門限に間に合うように帰ろうと言い出す将軍にとって、先程の話はもうカケラも心に残っていないに違いない。

大体、その門を守る兵士達も、将軍が相手ならすぐに開ける筈なのだ。何故なら自分達の上司の上司なのだから。その程度のことよりもはるかにどうでもいいと思われたのか・・・。


「今日は休みにしてやるが、出て行かないなら、明日はその分長めに練習するからな」

「はいっ」


 だけど。それらの思考も何もかも、明日の約束をケリスエ将軍がしてくれたことで、カロンはもういいと割り切らずにはいられない。


(明日も、一緒にいられるならそれでいい)


 けれどももしかしたら・・・。ケリスエ将軍は単に人間としておかしいだけで、自分を大事にしてくれているのではないかと思える一日の終わりでもあった。






 トレストとエルセットに、哀れむような空気が漂っていた。

カロンにとっては慣れ親しんだものだ。そう言えば、あの頃はよくこんな顔で見られたものだなと、懐かしく思い返したりもする。


「すみません、ケイス将軍。俺、なんか心が痛いです。というより、ケリスエ将軍が色仕掛けとかいう以前だったこともよく分かりました。男の勝負を賭けた告白すらぶった切る方だったんですね・・・」

「ごめん、お父さん。・・・僕、もう誰に何を言われても、どんな振られ方をしても耐えてみせます」

「・・・・・・」


 二人の中にあるケリスエ将軍像を壊してしまっていなければいいのだがと、カロンは少し思った。これでもあまりにぶっ飛んだエピソードは削除しているつもりである。

 ついでにカロンが本当にケリスエ将軍に告白して、ぶった切られるどころか、かなりのショックを与えられるのはもっと先の話だ。・・・・・・あれは言わない方がいいのだろう、きっと。


(まあ、俺は叶ったが、普通、初恋は実らないものらしいし、二人にとっても俺のような前例があれば、さほど傷つかないかもしれないな。そう思うことにするか)


 どちらかというと、二人の中にある自分像が壊れていっているだけなのかもしれないが、元々カロンは人にどう思われようとも知ったことではないという意味においてはかなりのスペシャリストである。

 祖国を裏切った売国奴、仇にすり寄る狐野郎、女将軍に尻尾を振る負け犬、・・・色々と言われたとは思うのだが、あまりにも多すぎてどれがどれやらである。


「まあ、お前達の人生における参考にはならないだろうが、・・・そういう人だったんだ」


 そう言って、カロンは話を続けた。






 次の日から、サフィヨールはカロンをどこにでも同行させるようになった。それこそ部隊長しか出席できない打ち合わせにも、である。


「昨日は泣いて帰ったから心配してたんだが、吹っ切れたみたいだな、カロン」

「お騒がせしました。もう大丈夫です」

「で? 将軍とは仲直り出来たのか? ちゃんと大事に思ってるって言ってもらえたか?」

「いいえ。だけどこのまま屋敷に住みたいなら好きにしろと言ってもらえましたし、それで十分です」


 カロンがそう言うと、サフィヨール第六部隊長と副官ジルドは顔を見合わせた。

 言うまでもないが、将軍の屋敷にある部屋は余っている。住み込みの使用人がいないからだ。

そこにそのまま住んでもいいと言われても、・・・喜ぶようなものなのだろうか、それは? 確実に、どうでもいいと思ってるだけだろう、あの将軍は。幽霊が住みついても気にしないに違いない。


「すみません。ちょっとカロンが不憫になりました」

「俺もだ。・・・・・・あのなあ、カロン。思うんだが、お前、もうちょっと我が儘になった方がいいぞ。あの将軍に謙虚にしてたって通じる日なんか来ないからな。ガンガン(わめ)き立てて、やっとせいぜいその言葉が届くかどうかだぜ、ありゃ」

「はあ・・・。だけど十分良くしてもらってますし」


 カロンはそう言うしかできなかった。そのまま一緒に暮らしていいと言ってもらえたし、ちゃんと毎日稽古もつけてくれるみたいだし、それにあの厳しい訓練も自分を出世させる為だったと言われてしまえば、もうそれだけで十分だ。

 カロンとて、兵士見習いから部隊長の副官にまでこんな最短年数で来れたのはケリスエ将軍のおかげだと思う程度の判断力はあった。

かつてサフィヨールに幸せ者だなと言われた意味が今ならよく分かる。


「それにこれ以上の幸せを望んだら(ばち)が当たりそうですから。俺、十分幸せです」


 少し赤くなり、はにかんで言葉を綴るカロンに、サフィヨールとジルドはもう何も言えなかった。


「そろそろ訓練指導の時間ですね。行ってきます」

「ああ、頼んだぜ。俺も年でな、お前に任せられるのは助かる」

「はいっ」


 カロンが元気に出て行くと、サフィヨールとジルドは溜め息をついて顔を見交わした。


「もう少し、初恋ってのは甘酸っぱいものだと思うんですけど」

「考えてみりゃ出会いからして戦場の生きるか死ぬかだったしな。自覚はないんだろうが、相手が相手だもんなぁ。これが普通の女なら、カロンならすぐどうにかなったと思うんだが」

「うちの部隊長全てを叩き伏せた女性ですからね」

「嫌なこと思い出させるなよ。・・・カロンもおかしいと思うがな。毎日自分を叩きのめしている女に、どうやったら惚れられるんだ?」


 二人はそこで顔を見合わせた。

普通、そんな女に惚れる男はいない。カロンはちょっと独特な育ち方が原因で、おかしくなっているのではないだろうか。

 普通、初恋なんていうのは、やはり気立てのいい娘さんとか、笑顔の可愛い娘さんとか、心映えの美しい娘さんとかではなかろうか。美女にはまるのは、そういうのを経験した後だ。

 恋愛に対して打算のない初恋だからこそ、その心根に惹かれる。そういうものだろう。

お互いに顔を赤らめながら始まる男女の微笑ましい恋愛を、できることならカロンにはしてもらいたかったのだが、・・・きっとあの将軍はそういうものには全く該当しない。それどころか、女性としてどうなのかと思わずにはいられない。

結論。カロンはおかしい。


「いい子なんですけどねぇ」

「他は完璧だってのになぁ」


 二人は揃って溜め息をついた。気分はすっかり保護者だ。


「年的にはさほど無理はないと思うんですけど、いかんせん・・・」

「ああ。前途多難だな。・・・ジルド」

「はい」

「感謝してる」

「はい」

「俺がいなくなってもあいつを支えてやってくれ。お前なら任せられる」

「はい、サフィヨール部隊長。・・・それがあなたのご命令なら」

 

 同じ副官と言っても、ジルドとカロンでは全く違う。長年に渡ってサフィヨールと苦楽を共にしてきたジルドとの間には紛れもない信頼関係が築かれていた。

 だから託せる、自分の後継者を。

 サフィヨールは、少し目を伏せた。長年のガタが体にきていると、もう自覚はしていた。


「俺はその内、あいつに部隊長を譲るだろう。だが、それはお前が劣っているという意味じゃねえ」

「ええ、分かってます。人には適材適所というのがありますからね。私は支える方が性に合ってます」

「ああ。お前の真価はそこにある。お前ほどの副官なんぞ、まず居やしねえ」

「ありがとうございます」


 そんなのんびりとした朝の時間だった。

・・・・・・しばらくして、訓練を受けていた人間が、「大変ですっ」と、駆け込んでくるまでは。




「これは一体、何の騒ぎだ!? お前らっ、何をやっていたっ!?」


 サフィヨール第六部隊長の怒号が鍛錬場に響いた。一緒についてきたジルドも呆れるしかない。

 これも経験だからと、本来はサフィヨールが行っていた訓練指導にカロンだけ行かせたのはいい。

だが、そこは訓練指導というよりも、殴り合いの指導だったのかと思わざるを得ない状態になっていた。

 地面に鼻や腕の骨を折られ、顔面を血だらけにして転がっている男達、そして数人がかりで取り押さえられているカロン。

 さすがに誰がそれをやったのか、見れば分かったが理由が分からない。


「カロン。そいつらをやったのはお前か?」

「はい」

「理由は?」

「・・・言いたくありません」


 下を向いて理由を言いたがらないカロンに、サフィヨールはやれやれと思った。カロンの性格は分かっている。こいつに非はないだろう。しかし理由を知らなきゃ動けないではないか。


「そこの君達、ぼやぼやしていないで彼らを治療室に運びなさい。折れた部分には触らないようにして」

「はいっ」


 その間に、ジルドはその場にいた者達に命令して、数人がかりで一人を持ち上げる形で怪我人を運ばせる。そして他の人間から事情を聞き、それをサフィヨールに耳打ちした。


「なるほどな。全員集合っ! 整列っ!!」


 残った人間がざざっとサフィヨールの前に集まる。

カロンを取り押さえていた男達も逡巡していたが、サフィヨールが来たならもう大丈夫だろうと判断し、整列に加わった。カロンはそのまま立ち尽くしている。


「カロンに叩きのめされたアホ共は自業自得として、だ。たとえカロンが敵国出身であろうとも、現在はこの第六部隊のナンバースリーであり、お前らよりもはるかに上の立場の人間だ。残ったお前らは、勿論それを理解してるんだろうな?」


それに対して、一斉に「はいっ」と答える声が響き渡る。その顔をゆっくりと見回して、サフィヨールは続けた。


「カロンは自分への侮辱に対しては耐えたとのことだが、それは間違いないな?」


 やはり、それにも一斉に「はいっ」という声が響く。


「問題は、だ。俺ら第一から第六部隊を束ねるこのローム国騎士団を率いる将軍に対しての暴言があったとのことだが、それに相違ないか? 色仕掛けで将軍の位に就き、このカロンを男妾(だんしょう)としている将軍だと(あざけ)ったとのことだったが、他にもそう思う者がいるなら名乗り出ろっ」


 そこで誰もが押し黙る。


「どいつもこいつもざまあねえ腰抜け共がっ。いいか、その馬鹿共を一人で殴り倒したカロンよりも、うちの将軍は強い。それを忘れるなっ。軍の先頭に立つ人間が力以外でその座に就くことはあり得ねえっ。そんな単純なことも分からないアホなんざ、うちにはいらねえんだよっ。分かったかっ!」


 一際大きく「はいっ」という声が響く。


「カロン」

「はい」

「将軍だけじゃねえ。お前もお前を馬鹿にされた時点で怒れ。そうじゃねえからアホ共がつけあがるんだ。お前はいずれこの第六部隊を率いる人間になるんだ。自分達の隊長を馬鹿にするようなクソは今のうちに排除しとけや。・・・そうでなければ、どこまでもアホ共がのさばるだけだろうが」

「・・・はい」


 カロンは顔を上げられなかった。どこまでもサフィヨールは自分を評価してくれている。この恩はどうやって返せばいいのだろう。

 カロンにとって、サフィヨールは第二の父のようなものとなっていた。ジルドは年の離れた穏やかな兄のような存在だ。


「それにしても、けっこう容赦なくやったな」

「そうですか? 一応、致命傷は与えないようにしたんですが」

「・・・もしも手加減しなくていい人間だったら?」

「さっさと殺してました。その方が早いですから」

「お前にとっては殴るよりも殺す方が簡単か」

「はい」

「素手でもか」

「はい」


 その会話を聞いていた訓練生に戦慄が走る。何を言われようが小突かれようが耐えるだけの男だと思っていたからだ。

 それでも戦場で拾われ、瞬く間に兵士見習いから部隊長副官にまで上り詰めた人間なのだ、カロンは。弱い筈がない。それでも殺す方が簡単とは、どんな恐ろしい男なのか。

 だが、サフィヨールはその答えの方が気に入ったらしかった。


「じゃあ、訓練を続けておけ。俺は戻る。・・・ああ、うちの部隊で、今後、将軍に対して間違った認識を持つ人間がいたら、お前ですら敵わないという強さを、まずお前の身で教え込んでやれや」

「はい」

「次回は手加減する必要はねえ」

「分かりました」


 けらけらと笑って、サフィヨールはジルドと共に部屋へと戻った。


「ご機嫌ですね、部隊長」

「そりゃあな。・・・愉快じゃねえか。何と言ってもあいつは将軍が直々に育て上げた、たった一人の男だ。それを俺がもらったんだぜ。殺してもいいとなったら、どれだけの数を相手にあいつはやれたんだろうな。・・・それこそ将軍のお仕込みだろうがよ」


 ジルドは肩を(すく)めた。どうしてこの部隊長はこう自分の前では下品になるのか。・・・よそではカッコつけているからいいものの。


「そうかもしれませんが、肝心のカロンがあそこまで消極的では・・・。今回は将軍が侮辱されたというのでブチ切れたようですが、そうでなければ耐え続けたと思います」


 ジルドとてカロンを見てきた人間だ。どんなに軍人として素晴らしい出来であったとしても、カロン自身はかなり純粋で真面目で我慢強い人間だと分かっていた。

サフィヨールから今後は遠慮なくぶちのめせと言われたにしても、実際には余程のことがないかぎり、カロンは耐えるだろう。


「いいさ、どうせもっとその噂は出てくる。あいつが目立てば目立つ程な。・・・その度にぶちのめしてりゃ、あいつの名と第六部隊は瞬く間に誰もが馬鹿にできなくなるものになるだろうよ」

「目立ちますかねえ」

「目立たせてやるさ」


 そう言って、サフィヨールはどこにでもカロンを連れ歩くようになったのだった。


【トレストの大人の階段】


 カンロ領にあるロイスナー城。

 その日、夕食を終えたトレストは兄の部屋へと引っ張り込まれた。


「どうしたのさ、兄上? 話なら別に広間ですればいいじゃないか。・・・あ、それとも何? 内緒話? どっかに綺麗なコでもいた? なになに? 俺を見込んでの内緒話ならどんと来いだぜ?」

「お前なあ・・・」


 リルドレッドは頭痛をこらえるかのように、こめかみに手を当てた。

 誰に対しても愛想のよいトレストを見ていると、兄であるリルドレッドも羨ましくなることがある。

どちらかというと、自分は考え過ぎてしまうタイプなのだろう。それでも自分は自分にしかなれないのだから、弟を羨んでも仕方がない。そうは思うのだが、やはり時に眩しい弟なのだ。


「そうじゃない。王都に行くんだって?」

「ああ、そうそう。なんか王都周辺がきな臭いってんで母上がこっちに戻ってくるんだって。その代わり、俺に来いってさ。父上も可愛い所があるよな。母上がいないのが寂しいからって、子供を呼び寄せるなんて」


 そう言って、あははとトレストは笑った。

子供の目から見ても、父は見た目も格好いいし、母と一緒にいても絵になる人だ。たまにしかロイスナーにやってこないが、このロイスナー城でも一目置かれている。ロイスナーの女主人である母の配偶者なのだから当然なのかもしれないが、ロイスナーにおいて城主の配偶者など尊重はされても権限はないものとされる筈なのに。

だが、部外者が立ち入れない筈の工房でも、父が顔を見せれば全ての人が真摯な顔つきになって応対してくるのだ。どれだけ重要視されているのだろう、父は。なんて格好いいのか。

 王都で仕事をしている父だが、ロイスナーにやってくれば子供達に器用な技を見せてくれる。そんな父がトレストも大好きだった。


「王都、か。今までも何回か行ったことはあると思うが・・・」

「ああ。兄上が母上の仕事を本格的に代行するようになってから、母上もあっちに行きっ放しになったもんな。それまでは行ったり来たりだったけど、やっぱり父上も寂しかったんだと思うぜ? 俺も久しぶりの王都だし、ネイトとリナにも会いたい。兄上も一緒に行く?」

「いや、遠慮する」


 首を横に振る兄に、トレストは破顔して、肩をバシバシ叩いた。


「ま、そりゃそうだよな。だってきな臭いってことは危ないってことだしな。兄上に何かあったら大変だ。けど兄上が母上、俺が父上といるなら安心だろ? だーいじょーぶ、俺が父上を守ってやるよ。俺、結構、剣の筋はいいって言われてんだぜ。父上なんて指揮は完璧だけど剣は駄目って話だし、そこは俺に任せとけって。どうせなら王都で騎士団に入ってもいいな。やっぱりカンロ軍だと、コネでそのままいい地位をくれそうだし、それって腕試しになんないだろ?」


 そんな弟の無邪気な姿を、リルドレッドは気の毒そうな目で見つめた。


「あのな、トレスト」

「ん? 何? 父上が恋しいなら、兄上のキスでも配達してやろうか?」

「アホか。・・・いいか、きっとお前は衝撃の事実を知るだろう」

「は? 何をさ」

「お前の年齢と、よりによって母上が不在の時にわざわざ王都へ呼び寄せることを考えたら、それしか考えられん。・・・トレスト、人間、いつかは大人の階段を上る日が来るものなんだ」

「え・・・?」


 そこでトレストは赤くなった。

 

「あ、兄上」

「何だ?」

「もしかして、・・・父上は、俺を綺麗なお姉さんのいる所に連れてってくれる、・・・とか?」

「・・・・・・どあほう」

 

 全くもって自分の意図を理解せず、頬を染めて見上げてくる弟に、兄はもう何も言えなかった。






 王都にあるフォンゲルドの屋敷は小さめだが居心地がいい。父が王都、母がカンロ領に住まいを持つ以上、どちらの生活も馴染み深いトレストである。広いロイスナー城で様々な人達に囲まれて暮らすのもいいが、小さなロームの屋敷でネイトとリナに面倒をみてもらいながら家族だけで暮らすのもいい。


「まあまあ。トレスト坊ちゃま、大きくなりましたこと。本当に坊ちゃまによく似ていらして。・・・ええ、だけど性格はカレン様に似てくれて良かったですわ。心配してましたのよ、坊ちゃまに似たらどうしようかと」

「リナ、ただいま。久しぶり。母上とは行き違っちゃったんだね。けど、俺がいるから寂しくないだろ? 俺、リナ達に会えるの、楽しみにしてたんだぜ」

「はっはっは、トレスト坊ちゃんは本当にいい子ですな。ロメス坊ちゃんとは大違いだ。ええ、トレスト坊ちゃんがいてくれれば、この屋敷も明るくなりますな。ほら、ちょっと抱かせてください。・・・ああ、本当に大きくなったし、重くなりましたな。もうこうやって抱きあげるのもきつくなった」


 がっしりとしたネイトに持ち上げられて、トレストもその太い首に抱きついた。


「へへっ、そーお? 俺、沢山食べて、ちゃんと剣の稽古もしてるんだぜ。その内、父上も母上も兄上もレイルも、ぜーんぶ俺が守れる位に強くなるからな。見ててくれよ」


 そんな無邪気なトレストの発言に、ネイトとリナが複雑そうな顔になる。


「ああ、まあ、そうですな・・・。リルドレッド坊ちゃんもレイル坊ちゃんも、トレスト坊ちゃんがいれば安心ですな」

「そうですわね。こんなに坊ちゃまに似ていても、トレスト坊ちゃまがいればご兄弟は安心ですわ」


 よく分からない表現にトレストは疑問を抱いたが、自分の容姿が父親によく似ているのは明白な事実だ。深く考えず、二人が用意してくれていた浴室に案内され、旅の埃を落とすことにした。

 夕方になれば父も仕事から戻ってくるだろう。

 離れていた間のあれこれを二人と話しながら、トレストは久しぶりに会う父に思いを馳せていた。






 初めて入る王都騎士団の棟に、トレストは感動していた。


「これが王宮にある騎士団なんですか、父上」

「ああ。他にも近衛騎士団、ローム国騎士団、それぞれの棟がある。だが、縄張り関係もあるからあまり他騎士団の棟へは出入りするなよ」

「はい。だけど母上は、王都騎士団だけじゃなくローム国騎士団の棟にも行ってたって・・・」


 子供達が産まれるまでは母のカレンも何かと騎士団に顔を出していたそうだ。だが、さすがに自分の夫が将軍ともなれば行動を控えるべきだと思ったらしく、それ以降は全く顔を出さないことにしたと聞いている。


「まあな。まあ、どこであれ、迷子になって入り込んだ時には、しょうがないから俺の名前を出せ。そうすれば誰かがここに送ってきてくれるだろう」

「はい」


 そこへ、ロメスの副官であるロムセルが通り掛かる。「おはようございます、ロメス様」と声を掛けてきたが、すぐ傍にいる少年、しかもロメスそっくりの顔となればすぐに誰かを察する。


「もしかしてトレストさんじゃないですか? ああ、やっぱり。もしかして見学ですか?」

「あ、ロムセルさんだ。こんにちはー。お久しぶりです、お元気になさってました? 実は母がロイスナーに戻ったので、俺が代わりにこっちに来たんです。ほら、うちの父って寂しがり屋だからぁ」

「・・・・・・」


 てへっと笑うトレストは、髪は色違いながらもロメスそっくりだというのに、性格は全く違う。

 ロムセルは、カレン達が王都とカンロ領との間を行き来する際、ロメスから護衛として差し向けられていたことがあった。だからトレストとも顔見知りだ。

 だが、しかし。

 あのロメスを寂しがり屋だと言えるのはさすがである。

 ちらりと上司を見れば、普通にニコニコとしてはいるが、・・・知らないとは怖いもの知らずでいられるものだ。そんな息子の頭を撫でている上司は、何を考えているものやら。


「そうだな。寂しがり屋の父の元に来てくれて嬉しいよ。さて、トレスト。カレンが、お前もカンロ領軍に入るかどうかを悩んでいると言ってたが?」

「ええ。俺は兄上と違って、あまり書類仕事は向かないんですよね。どっちかっていうと体を動かす方がいいです。剣を振る方が向いているって皆にも言われましたし」


 なるほどとロムセルが納得する。


「ならトレストさん。良かったらうちで訓練体験をしていかれますか? 兄君には断られましたが」

「ああ、兄は本当に剣だけは向いてないんですよね。だけどいいんです。その分、俺が兄を守りますから。・・・まあ、もう少し強くなってからの話ですけど」


 照れ笑いをしながら将来の抱負を語る様子は、何とも健気な弟である。ロムセルの心中でほろりと涙が零れた。・・・中身は父親に似ないでくれて良かった。

 そんなロムセルに、ロメスはにこやかに言った。


「そういうわけで、だ。俺もトレストの実力を知っておきたい。ロムセル、遠慮はいらん。基本は既に終えているそうだからな。第一から第四全てを使って構わんから、徹底的にやらせてどの程度なのか調べ上げろ。弱ければカンロにくれてやる。使い物になりそうならうちで引き取れ」

「分かりました、ロメス様」

「・・・は?」

「行きましょうか、トレストさん。それでもロメス様直々(じきじき)よりはマシですから」

 

 ロムセルが浮かべる同情的な表情の意味が分からないまま、トレストは父と引き離されて鍛錬場へと連れて行かれたのだった。






 その日、カロンは植込みの陰に気配を感じた。これが逢引きといったものであれば放っておくが、そういうものではない。パッと見は分からないであろう気配の主を探すと、そこには少年が地面に横たわっていた。


(さて、どうしたものかな)


 格好を見れば騎士見習いにも思えるが、かなり疲れきって寝ているのも分かる。起こすのは気の毒だが、こんなわざわざ隠れるようにして休んでいるというのは訳ありだ、普通。


「寝ている所をすまないが、起きてくれないかな、少年?」


 揺り動かしてみると、黒い前髪の下から紺色の瞳が現れた。


「えーっと・・・。俺・・・?」

「休んでいる所をすまないが、やはり気づいてしまったら声を掛けるものなんでな。どこの所属で、どうしてここで寝ているのか、訊いてもいいか?」


 そう尋ねると、寝ぼけているらしい少年は目を覚まそうというかのように頭を振り、現状確認をしているようだった。


「あー、すみません、俺、勝手に入り込んじゃって。いや、違う所なら見つからないだろうと・・・。えーっと、ここって近衛騎士団ですか、ローム国騎士団ですか? 人んちの縄張りに入り込みたかったわけじゃなくて、ちょっとこっそり休憩させてもらうつもりだったんです、すみません」


 ごめんなさいと、素直に謝ってくる様子は、育ちの良さが分かるものだった。ただ、その顔を見れば、素性も分かるというもので・・・。


「いや。縄張りなんてないさ。別に自由に入ってくれて構わない。ここはローム国騎士団の敷地になる。・・・休憩ならこんな所で隠れてしなくても、堂々と使えばいい。ちゃんとベンチだってあるだろう」


 そう言うと、少年は目をぱちくりとさせた。目が覚めたか、大きく手を振ってくる。


「いやいやいや。そこまで図々しいことは言いませんからっ。いや、ホント、ちょっと死ぬかと思ったんで、こりゃヤバイと思ってどこか休める所を探してしまっただけなんです。ごめんなさい、すぐ出ていきます」


 カロンは溜め息をついた。何となく状況は掴めた。徹底的に指導されたか、勝ち抜き戦を強要されたか、そんな所だろう。・・・しかし、よくぞ見つかりにくい場所を探して潜り込めたものだ。これが自分でなければ気づかれず、そのまま体力が回復するまで休めただろうに。


「子供が遠慮するな。それにこんな機会でもなければこっちの棟には入ってこれないだろう。せっかくだから見学していけばいい。・・・傷もあるようだし、手当てもうちでしていけ」

「いやっ、そんなご迷惑をお掛けしようものなら、俺が半殺しにされますからっ。・・・てか、あんな人だっただなんて・・・・・・」

「俺がしたと言えば、許してくれるだろう。大丈夫だ、来なさい」


 そう言いながら、カロンはその少年を抱き上げた。


「えっ、いやっ、あの・・・」

「どこを傷めているか分からん。体が出来上がっていない内に無理をしたら、結局、使い物にならなくなる。まずは大人しく体を見せろ。ちゃんと父君にはこちらから話をつけておく」


 傷や打ち身の手当てなら、カロンも慣れたものだ。まずは全体的に汚れを落としてからみてやろうと思う。

カロンは、運ぶ途中で通りがかったキヤンに、

「王都騎士団の子を誘拐してきた。いずれ返すから心配するなとあちらに伝えてきてくれないか」

と、伝言を頼む。少年の顔をみたキヤンも、納得したらしい。行き先も少年の身元も確認せずに、

「分かりました。せっかくだから君もこっちでゆっくりしていけばいい。君のお母さんもよくこちらには入り浸っていたものさ」

と、後半はトレストに声を掛けて頭を撫でると、出掛けて行った。






 全体的に体を洗われ、手当てもされてしまったトレストは、腰に布を巻きつけた状態で、軽食とお茶をご馳走になっていた。干した果実も入っていてなかなか美味い。

 目の前には、父親も来ていた。人の縄張りにはどうこうと言っていたくせに、慣れた様子でくつろいでいる。


「鍛えるなとは言わんが、年齢と今後の育つ状況を考えてからだろう。無理させて、せっかくの素質を駄目にしたらどうするつもりだったんだ。聞けば連日でやっていたそうじゃないか」

「そうは言うがな、俺の子供なんだぞ。大丈夫だと思うだろうが」

「ロメス殿の子供だからこそ、きちんと見ろと言っている。ほら、比べてみろ」


 そう言ってカロンはロメスの服を脱がした。自分も服を脱いで、体を見せる。


「ほら、ご子息殿の筋肉は、ロメス殿のタイプと良く似てるだろうが。当たり前だが俺の筋肉のつき方とは全く違う」

「そうだな。・・・まあ、俺が浮気される筈もないんだが」

「そういう問題じゃない。となると、今後もロメス殿と似たような体に出来上がる可能性が高いってことだ。こうしてロメス殿とご子息殿の体格を比べてみろ」

「小さいな、こいつ」

「だからまだ成長途中だというんだ」


 カロンは溜め息をついて、懇々とロメスに説教をした。


「いずれロメス殿のような体になるとしたら、今は成長途中だ。出来上がっている体ならともかく、そういう時に無理をさせたら、大成するものもしなくなる。いいか、ご子息殿の才能を惜しむなら、今は無理をさせるな。ちゃんと様子を見ながら、訓練内容は加減しろ」

「そうは言うがな、カロン殿」

「何だ?」

「加減の方法が分からん。大体、俺は感覚で生きてきた人間なんだ。そんな様子を見るとか、訓練とかと言われても、自分が理解出来ないものを理解は出来ん」

「・・・・・・。天才とは厄介だな。凡才の努力を最初から飛び越えてくれるのだから」

「そう褒めるな。それに・・・、あの天才程じゃない」


 カロンが服を着ると、ロメスも着直す。


「ご子息殿はこれを着るといい」


 カロンのものであろう着替えは大きかったが、折り返せばどうにでもなる。父ですら一目置いている人が誰なのか、もう分かっていたトレストは大人しくそれを身につけた。

面倒見がいいのか、カロンはトレストのだぶだぶした所を紐や布を使ってうまく調節してくれた。


「しょうがないな。・・・まだ入団はさせてないのか?」

「ああ。弱っちいようならカンロ軍にくれてやろうと思ってな。だが、逃げ出せないよう囲まれていた筈なのに逃げ出せたんだし、ついでに筋も悪くないと報告も来ている。だからいずれはうちに入れるつもりだ。捕獲してくれて助かったよ」

「捕獲じゃない、保護だ」


 カロンは大きな溜め息をついた。


「ロメス殿ではせっかくの素質を殺すだけだろう。明日から王都騎士団の鍛錬場に俺が行って、ご子息の訓練指導をする。どうだ?」


 ロメスが、おやおやと面白そうな表情になった。


「ローム国騎士団を率いる将軍が、王都騎士団の鍛錬場で訓練指導か。そりゃ凄いな」

「こっちでやったら、他にも引き受けなくちゃならなくなるだろうが。その代わり、それにはロメス殿も立ち会えよ。俺がロメス殿の所を訪れて一緒に鍛錬している時に、ちょうどそこにいたご子息にも稽古をつけるだけの話だ」

「無理があるが、まあいい。なら決まりだ。良かったな、トレスト。俺だとお前を鍛えるどころか、殺してしまうだけなんでな」

「・・・・・・」


 そんなロメスは、

「大体、俺は剣を持ったら殺すしか出来ねえよ」

などと言っているのだから、凶悪犯として自警団に取り締まってもらいたいぐらいだ。

 今まで優しく朗らかだった父はどこへ行ってしまったのだろうと、トレストは恨めし気な目で父を見上げた。

 母からは、

「お父様は軍の指揮は執れるけど、剣はあまりお得意じゃないのよ」

と言われていたのに、王都騎士団で父の部下達から聞かされた、父のアレコレはあまりに強烈だった。

 しかも屋敷に帰宅して、混乱したままネイトとリナにそれを話せば、気の毒そうな顔になって、

「カレン様には内緒ですよ。カレン様がご存じないからこそ、坊ちゃまも屋敷内では隠してくださっているんですから。知ったら、遠慮なくこの屋敷を血まみれにされてしまいます」

と、口止めされてしまった。

 

(ああ、兄上。どうしてもっと詳しく話してくれなかったんだよ・・・)


 兄の言っていた大人の階段とはこういうことだったのか。

 それからは王都騎士団の鍛錬場でも、あくまで無理をさせない程度に、同時に強くなれる程度の厳しい稽古をカロンにつけてもらうようになった。

トレストはその際に見せてもらった、ロメスとカロンの模擬試合を見て、父にだけは逆らうまいと決めた。悔しいが、確かに自分では瞬殺されるだけだと思ったからだ。どんなに問題のある人間でも強いというのは大きな魅力がある。それを実感せずにはいられなかった。






 王都できな臭いとか言われてた件については、近衛騎士団が出動して収めたらしい。

 カレンがロイスナー城から王都に戻ってくるのと入れ替わる感じで、トレストはロイスナー城に戻った。というより、このままなし崩しに王都騎士団に入れられてはたまらないので、カレンが戻ってくる際のどさくさで逃げ出したというのが正しいだろう。

 本来、王都とロイスナーを行き来する時は、両親どちらかが差し向けた護衛と共に移動するのだが、トレストは単身でロイスナー城に戻った。


「兄上・・・」

「俺だってショックだったんだ。今まで弟達に相談もできず、抱えてきていたんだぞ?」


 そう言ってリルドレッドは、母の耳に入らぬようにロイスナー城全体が一丸となって隠し通してきた父のアレコレを暴露した。


「ハハハハハ・・・」


 もう笑うしかできない。だが、そのトレストの声は虚ろだった。ああ、自分は今まで父の何を見てきていたのだろう。


「だがトレスト。母上にだけは知られるなよ。まだ母上に隠そうとしているから、父上もある程度は抑えてるんだ。母上という遠慮先がなくなったら何をやらかすか知れたもんじゃないからな」


 末の弟は小さい。同じ父の息子でも分かり合えるのは自分達二人だけだ。

 トレストは兄の手を握って言った。


「・・・・・・。兄上、俺はカンロ軍に入ろうと思います。兄弟で力を合わせて生きていきましょう。ええ、親がいなくても子は生きていけるんです」

「そうだなっ」

「兄上っ」

「トレストッ」


 兄弟はひしっと抱きあった。そこには親というものにはもう期待しない、兄弟の(うるわ)しい絆が燦然と輝いていた。


(俺はこのカンロ領で生きていく。うん、それでいい)


 二度と王都には足を踏み入れるまい。そう決意したトレストだった。

 が、しかし。

 カロンが直々に稽古をつけてくれていたトレストの様子は、王都騎士団中の注目を集めていた。カロンやロメスには全く及ばないとはいえ、年齢を考えたらかなりの有望株である。

 それからしばらく放っておかれ、油断していたのもあるだろう。たまにロメスもカレンと共にロイスナー城に来ることはあったが、何も言わず王都へと帰っていったからだ。

だが、トレストが入団平均年齢になった時のことである。

 

「可愛い息子よ。父が直々に迎えに来てやったぞ」

「ぅげっ」


 にこにことしている父の姿は、何も知らない時のトレストなら駆け寄って抱きついていたものだっただろう。だが、今のトレストは蛇に睨まれた蛙だ。


「トレスト兄上、またロームに行っちゃうの? 父上もトレスト兄上ばっかりずるい。母上も連れていっちゃうし」

「そうだな。レイルももう少し大きくなったら迎えに来てやろうな」

「約束だよ、父上」


 行きたくありません、遠慮します。

 どんなにそう言いたくても、父に敵わないことは十分身に沁みていた。先に連絡を出したら逃げられるから、ロメスも抜き打ちで来たのだろう。

 父の部下である騎士達ならば逃げ出せる自信はあるが、この父から逃げ出せる自信はない。

 そんなトレストが売られていく仔牛のような瞳でロイスナー城を見つめながら去って行くのを、リルドレッドは悲しい思いで見送った。


(すまん、トレスト。強く生きてくれ・・・)


 だが、トレストは王都騎士団への入団前に隙を見て逃げ出し、ローム国騎士団を率いる将軍に直談判して、そちらに入団することとなる。

 遠く離れたカンロ領でその知らせを聞いたリルドレッドは、うーむと目を閉じた。


(何だかんだ言っても、二番目の子供って要領がいいんだよな。一番目の子供は真面目と言うが。・・・あいつもちゃっかり入団先も住まいも父から逃げ出しているあたりが凄い)


 自分はクソ真面目にロイスナーを押しつけられていると言うのに、この差は一体何なのだろう。

 けれども。


(ローム国騎士団のケイス将軍か。母上がよく話してくれた人だな。近衛騎士団のリストリ将軍は全く分からないし、王都騎士団の父上は論外だ。・・・・・・トレストにとっては一番良かったのか)


 近衛騎士団のリストリ将軍も二番目の子供で、逃げ足の速さは有名だったと知る筈もなかったが、ケイス将軍ならば信頼できるお人柄だろうとリルドレッドは思った。

 トレストも、そのケイス将軍に稽古をつけてもらった時のことを楽しそうに話していた。

 そう、たとえ貧乏籤(びんぼうくじ)を常に引かされていても、兄は弟が可愛いものなのだ。

 真面目なお兄ちゃんは、遠く離れた場所にいる弟がどうか無事に頑張れるようにと、その日静かに祈りを捧げた。


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