1 エルセットが知った日(セイランドの結婚式)
ローム国騎士団のとある一室には、匿名日誌が置かれている。
その日誌は誰が書きこんでも構わない上、それを見た人間が誰であってもコメントを書いて構わないとされている。しかし、全ては匿名とされ、更にそこに書かれていた内容については秘密を守ることという決まりがある。
コミュニケーションに良いというのでローム国騎士団率いる将軍が導入したものだが、日誌というよりも愚痴日記と化していた。
○月×日
匿名X:出兵の為、王都を空けることが多く、恋人に振られました。責任もって、うちの上司には恋人を紹介してもらいたいです。出来れば美人で、性格も尽くしてくれる系希望。
匿名A:美女なら俺の方が欲しい。
匿名B:振られただけマシだろ。うちの上司、違う男の子供押しつけられた上で、嫁に逃げられたって話だぞ。
匿名C:俺はセクシーダイナマイツな美女がいい。
匿名D:それならノエルさん所のリリイちゃん、オススメ。色白で体もプリプリした美人。ただし、子豚だけど。
匿名E:リリイちゃんね・・・。見る度、丸焼きにして食いたくなるんだが。
その日、エルセットは父であるカロン・ケイス将軍と、その部下で同じ屋敷に住み込んでいる騎士トレスト・フォンゲルドを前に宣言した。
「お父さん、僕は家出しようと思います」
さすがの二人も自分達の耳を疑い、呆気にとられてエルセットをまじまじと見返した。
エルセットはカロンの長男であり、褐色の髪と黒い瞳をしている。この度、騎士見習いとして近衛騎士団に入団したばかりだ。
「おいおい、ちょっと待て、エルセット。・・・よぉく考えてから言葉は言え。家出してどうする気だ?」
トレストが呆れたように言う。
トレストは騎士見習いの時からカロンの屋敷に住み込んでおり、エルセットにしてみれば兄のような存在だ。黒髪に紺色の瞳をしたトレストは、ロメス・フォンゲルド将軍の息子でありながら、カロン・ケイス将軍のローム国騎士団に入団した変わり者として知られていた。
「まあ、経験者である俺が教えてやろう。家出っていうのは、滞在先を決めてからするもんだぞ。特に実行力のある父親がいる場合は、絶対に父親が手を出せない逃げ込み先を確保するのが大事ってもんで・・・」
それでも可愛い弟分の決意ならばと、極意を教えてやろうとするトレストである。そこには、かなり私情が入っていた。
「トレスト兄さんは黙っててください。僕はお父さんと話しているんです」
「で、家出する理由は何だ?」
カロンは、その鋭い褐色の眼差しで息子を見据えた。特に威嚇しているわけではない。単にそういう目つきなだけである。
だが、少しエルセットは怯んだようだった。
「今日、僕は知ってしまったんです」
「何をだ?」
「僕が、お母さんの本当の息子じゃないってことを」
「・・・・・・」「・・・・・・」
三人の間に、沈黙が下りた。
悲壮な決意を漂わせているエルセットを前に、カロンとトレストが、(ああ、言われてみればそうだった)といった感じになってから、視線を泳がせる。完全に忘れていたのだ。
「そう言えば、言ってなかったかもしれんな」
「ああ、そうか。そうでしたよね。当たり前すぎて言う気にもならなかったって言うのか、今更言うことでもないって気になってたから忘れてましたよ、俺も」
誰もが知っていると思っていることは、人間、わざわざ言う気にならないものだ。
「ちょっと待ってよ、トレスト兄。兄さんも知ってたのっ?」
「あー、そりゃ、当然・・・。だってお前、あのケリスエ将軍の息子なんだぜ? そりゃ俺も実際には会ったことないけど、うちの母からいかに素敵で魅力的な人だったかなんて、耳にタコが出来るくらいに聞かされ続けて・・・。あの父に、危険物とまで言わさしめたあの人だろ?」
まさか肝心の自分が知らないことをトレストまでが知っていたとはと、エルセットはショックを受けた。しかし、トレストが語る内容に違和感も覚える。
「様々な人を籠絡して女性ながら将軍の地位にまでのし上がった妖婦と聞きました。お父さんを誑かし、そして僕をお母さんに押しつけて死んでいった人だと」
「あり得ん」
「あー、ないない、そりゃないから。大体、うちの父上があれ程にまで認めた人が、そんな人なわけないだろうが。・・・そりゃお前、単にやっかまれたんだろ。何と言っても、父親が今の将軍、母親もかつての将軍じゃあな。ま、諦めろ。俺だってあのクソ父上の息子って言うんで、かなり理不尽な目に遭ってんだ」
アホらしいと言わんばかりにカロンとトレストが否定する。そして、カロンは息子に尋ねた。
「それでエルセット。それがどうして家出するという話になるんだ?」
「お母さんが僕のお母さんじゃないなら、僕はもうここにはいられません。どうしてお母さんに僕の世話などさせられるでしょう。・・・僕は、お母さんにとって息子でも何でもないというのに」
下を向いて、エルセットが説明すると、カロンが首を傾げる。
「お前がルーナの産んだ息子じゃないことぐらい本人が一番良く知ってるだろう。・・・どうしてそれでここを出て行くという話になるんだ?」
自分が育てた子供を、自分が産んだかどうかも分からずに育てていることは、まず無いだろう。しかもあのルーナは喜んでエルセットを育てている。
それだけに、エルセットの言い分は訳が分からないものだった。
「お父さんっ。お父さんには分からないんですかっ。女性として、夫と自分ではない女性との間に出来た子供の世話をし続けてきたお母さんの苦しみをっ。お母さんはちゃんと自分が産んだ子供の面倒だけをみる権利があります」
カロンはどういう表情を作るべきかと悩んだ。
仮にルーナが苦しんだとしたら、エルセットの中にカロンの血が入っていることだろう。しかし、それを言ってもいいものだろうか。
「それならお前がちゃんとお母さんに訊いてきなさい。自分を育てるのが苦しかったのか、と」
「そんなこと、思ってても口に出せる人なんているわけないでしょう。どんなひどい質問を僕にさせる気ですかっ」
どこまで無神経な父親なのかと、エルセットがカロンを睨みつけてくる。自分とは違うその黒い瞳、それは懐かしい色だ。息子の瞳に、カロンは懐かしい人を見出そうとした。
そう、出会った頃の懐かしい人の姿を。
(だが、それでも違う・・・)
同じ黒い瞳であっても、同じ血を持っていても、それでも違うのだ。
あの人が自分をこんな風に睨みつけてくることはなかった。どんなに自分が怒らせようとしても。
こんなに分かりやすい表情を浮かべることもなかった。気まぐれのように浮かべる表情はとても微かで、だからその僅かな変化に気づこうと努力し、いつしかほんの少しのそれを見抜けるようになった。
いつだって自分があの瞳を追いかける側だった。自分に振り向かせたくて。自分を見てほしくて。
だからずっとあの人を追いかけた。それで怒られてたまに殴られたりもしたが、それでも最後には同行を許してくれると分かっていたから。
(なのにどうして俺を、最後の最後であなたは連れて行ってくれなかったのか・・・)
何も言わずにいるカロンに、エルセットが戸惑った表情を浮かべ始める。
そこへ足音がして、室内にこの屋敷の女主人が現れた。
「ねえ、エルセット、知らない? 今日、入団したからお祝いしてあげようと、・・・あら、エルセット、ここにいたのね」
「お母さん・・・」
その話題の主であるルーナだった。小麦色の髪と薄茶色の瞳をした、元はフィツエリ男爵令嬢だけあって、おっとりとした雰囲気があるが、それでも明るく優しい女性である。
何も言えずにルーナを見るエルセットに、ルーナは小首を傾げた。
「どうしたの、エルセット? もしかして苛められちゃったの? 出世するなら近衛騎士団の方がいいって言うから、お兄様に頼んでそっちに入団させてもらったんだけど・・・。やっぱりお父さんだけじゃなく、トレストさんもいるローム国騎士団の方が良かったかしら」
血が繋がっていなくてもこうして自分を思いやってくれるルーナの優しさに、エルセットの瞳が潤む。
そこへカロンがルーナに話しかけた。
「ルーナ、エルセットは家出をしたいそうだ。自分が、なんと色仕掛けで将軍の地位に上り詰めた妖婦であるケリスエ将軍の息子だと聞かされ、そんな自分を育ててくれたルーナにこれ以上迷惑は掛けられないと思い込んだらしい。ルーナは自分なぞではなく、ルーナの産んだ子供だけ愛する権利があると、エルセットは考えているそうだ」
「お父さんっ。何て無神経なことをっ!」
エルセットが驚愕の叫びを上げる。どこまでひどい父なのか。まさかこんな人とは思ってもみなかった。こんな優しい母に、なんてひどい言葉を聞かせるのだろう。
しかし、それを聞かされたルーナは、最初は何を言われているのか分からなかった様子だが、意味を理解していくと、やがてその顔に怒気を漲らせる。
そしてルーナはにっこりと笑ってエルセットに言った。
「エルセット。その言葉をあなたに聞かせた人間の名前を教えなさい」
「・・・お母さん?」
「誰があの人を侮辱したのか、この母に教えろと言っているのよ、エルセット?」
いつもの優しい笑顔と穏やかな言葉、しかしそこには静かな怒りが満ちている。
どうしてルーナがそんなことを言い出したのか分からずに、エルセットはカロンに問うような視線を向けた。
カロンは鼻をフンと鳴らすと、どうでもよくなったかのような風情でトレストと話し始める。
「それよりトレスト。明日の予定だが、朝の内に識字率も調べる必要があるだろう」
「はあ。それより将軍、あっち、放っておいていいんですか?」
トレストは、エルセットとは違った意味での気遣い屋だ。さすがにここで二人を放置していいのだろうかと、上司兼屋敷の主人であるカロンにそちらを顔の向きだけで示す。
「あの人がそういう噂を立てられていたのはいつものことだ。だが王や大将軍、そして国の高官は決してあの人を疎かには扱わず、その実力を認めていた。それが全てだ。何より、それを言いたてる人間こそが、自分は小者であると言っているようなものだ」
「いえ、そうではなく、・・・ルーナ様の様子がいささか・・・」
夜叉と化してるんですが・・・、とはさすがに言いにくい。
「ルーナが愛した人間は後にも先にもケリスエ将軍唯一人だ。自分の最愛の人を侮辱されたら怒るのは当然だろう。それよりも、もしも文字を学びたい人間がいるようならばそちらも考えていく必要がある」
そう言って、カロンはトレストを促して続けようとする。
カロンとトレストの会話を耳でのみ拾っていたエルセットも、まさかの流れに混乱する。目の前で怒りを露わにしている母は、一体・・・・・・。
しかし、そのカロンの冷静さは妻であるルーナの怒りを加速させたらしい。
「ちょっと、このヘタレ。あなた、まさかケリスエ様が侮辱されててもそのままなのっ!? どこまで情けない男なのよっ」
「俺の立場も考えろ、この考えなしの小娘が。それをもしリストリ将軍に問い合わせたとして、そうなるとあのリストリ将軍がそいつらをどうするかなど、火を見るより明らかだ。自分の父親なり誰かなりから聞いた話を鵜呑みにしてエルセットに言い立てただけで、未来が断たれるのはさすがに気の毒だろう」
「何が気の毒なのよっ。それぐらいしないから、どこまでもあなたはヘタレなのよっ。いいわっ、私が行ってくるからっ」
さすがのトレストもカロンに同情する。こんなにも人格者のカロンを捕まえて、ヘタレはないだろう、ヘタレは。常に穏やかで、剣を持てば誰よりも強い男の中の男ではないか。
だが、カロンもルーナが近衛騎士団を率いるリストリ将軍に直談判しに行くとなったらさすがに慌てたらしい。
「ちょっと待て、ルーナ。この場合、その根も葉もない噂話が問題じゃないだろう。エルセットとて記憶にもないケリスエ将軍がどうこうじゃない。お前が不本意で自分を育ててきたんじゃないかと思い悩み、それで家出すると思いつめたんじゃないか。・・・お前がすべきはエルセットと話し合うことだ」
「不本意も何も、エルセットを育てる為に、私、ここに来たんじゃない」
「そうエルセットに言ってくれ。・・・どちらにしても、その噂話が大きくなるようならリストリ将軍が動くだろう。近衛騎士団のことに口を出すな、ルーナ。お前はそんなことを言いたてて、ケリスエ将軍とフィツエリ男爵家の名を辱める気か」
「だって・・・」
「リストリ将軍をなめるな。あの男はにっこり笑いながら鉄槌を下す男だ。そんな男が仕切る軍に、母親のお前が息子を庇って嘴を突っ込もうものなら、それこそケリスエ将軍の血を引くエルセットの男としての不甲斐なさを主張するようなものだ。エルセットの未来を潰す気か。男の縄張りは、その男に全て任せろ」
「・・・分かったわ、何もしない。・・・さ、エルセット。ちょっとお話し合いしましょうね」
「え、いや、あの、お母さん、・・・ちょっと」
そうしてエルセットはルーナに首根っこをつかまえられ、ずるずると引きずって行かれてしまった。
「いいんですか、あれ、放っておいて」
「構わん。今まではエルセットの気持ちを考えて本当の母親のことを言わずにいただけだからな、ルーナも。バレたなら、遠慮なく話せるというものだろう。・・・エルセットも一方的に聞かされる惚気の面倒くささを味わってみればいい」
「ああ、あれってかなり苦痛なんですよね。相槌や同意を求めてくるくせに、人の話は全く聞いてないし・・・。大体、うちの母も、あの父のどこが優しくて包容力があるというんだか、惚気る人間の神経だけは分かりませんよ」
トレストも、自分の母親が語る惚気話など聞き飽きている人間だ。これもエルセットの上る大人の階段の一つだろうと思い、まあいっかと、そのまま済ませることにした。
「そうしてエルセットも大人に一つ近づいていくのかぁ。・・・ルーナ様の惚気ってどんなんでしょうね」
「気になるなら一緒に聞いてくればいい」
「結構です。どうせ俺、ケリスエ将軍の惚気話なら、うちの母からも聞いていますし。こう言っちゃアレですけど、そこらの男なんて目じゃないくらいに、女たらしっぽくないですか?」
「・・・否定は出来んな」
カロンが苦笑すると、トレストはそんなカロンを心配そうに見つめてきた。
トレストはエルセットの実の母親であるケリスエ将軍をカロンがどんなに大事に想っていたか、それを両親から聞かされている。
根も葉もない噂とはいえ、それを息子の耳に入れられたことに対して、カロンがどれ程に口惜しい思いをしているか、トレストの方がやりきれない思いだった。
「俺は、・・・ケリスエ将軍にお会いしたことがないので自分の言葉では何一つ語ることは出来ません。けれどもあの父があそこまで敬意を表した将軍がどれ程強かったのかと思うだけで、畏怖を覚えます。そしてかつてのケリスエ将軍を知る人がこぞって懐かしむ様子からも、どれ程の人格者だったかも察することができると思っています」
「・・・お前は優しいな、トレスト」
「エルセットも、近衛騎士団じゃなくローム国騎士団に入りさえすれば、あんな中傷など・・・」
その場に居たなら自分がそいつを殴り倒したものをと、トレストは唇を噛む。それこそエルセットの入団先として近衛騎士団を勧めたルーナを恨みたいぐらいだ。
そんなトレストの頭をカロンはポンポンと軽く叩いた。
「お前は優しすぎる、トレスト。・・・お前だってフォンゲルド将軍の息子だというのでやっかまれて辛い思いをしてきているだろう。エルセットも同じことだ。それでもお前のように優しさを失わず明るく強い男になってくれればいいと、俺は思っている。最初は文官を目指そうとしたエルセットが騎士になろうと思ったのも、お前の背中を追いかけてのことだろう」
そんなカロンの褒め言葉にトレストが頬を少し赤く染める。
父親のロメスによく似た容姿ながら、そんな純粋さを失わないトレストを、もう一人の息子のような思いでカロンは見つめた。
(・・・・・・実際、さほど気にしていないんだが。どうせエルセットではなく、あの時代を知る隊長クラスの耳に入った時点で、そいつはタコ殴りじゃ済まないだろうしな。せいぜい声高に言い募って、そのまま干されればいい)
本当にケリスエ将軍が色仕掛けで将軍の地位にまでのし上がったと思うのならば、堂々とどの将軍の前ででも言えばいいのだ。
色仕掛けで将軍の地位が手に入るのならば、今頃、ローム王国は女性の将軍ばかりになっていると、殴り倒されて終わるだけだろうが。
(そして、誰もがあれは女じゃないと言うだろう・・・)
ケリスエ将軍の生前からその噂はあったが、肝心の本人はそんな中傷など蚊に刺された程にも感じていなかった。若い頃のカロンはその言葉を聞いた時点で相手を半死半生の目に遭わせていたが、今となっては肩書きが重すぎて何もできない。
だが、知らない人間の言葉に意味はないのだ。・・・今ではそう思うようにもなった。
いつからか、カロンにとって、意味のある言葉はあの人の唇から出るものだけになっていた。
―――うちのことは、うちの人間だけが知っていればいい。
そんな言葉が脳裏に甦る。あの人の言う「うち」にいつでも自分が入っていること、それが自分にとって望みの全てだった。ずっとあの人の近くにいたかった。あの人だけを見ていたかった。
(なのにどうして、今、俺はあなたの傍にいないのだろう・・・)
カロンは静かに瞼を伏せた。
ローム王国の王都ローム。その中心にはローム城があり、周囲を貴族達の邸が取り囲んでいる。その更に周囲をそこそこ財力のある者達が構えた邸が囲む形となっていた。一般庶民は更にその外側だ。
つまり、城に近ければ近い程、有力な家だと示している。
カロン・ケイスの屋敷は、その将軍という肩書きから考えれば貴族の住宅が立ち並ぶような場所にあるのがふさわしかっただろう。
だが、財力のある者達と一般庶民とのちょうど中間のような位置にあるカロンの屋敷は、裏庭の後ろは小高い山となっており、隣とも少し距離がある。その為、常に静かで、同時に多少騒いでも問題ない環境だった。そして城へは大通りをまっすぐ行くだけの上、馬なのですぐに着く。
その為、傍目にどう映っていようと、暮らしている人間に不満はなかった。
手狭と言っても、双翼タイプの母屋、馬小屋、納屋があり、双翼の内、片翼だけでも九部屋はある。従って、片翼はケイス一家が、もう片翼は、カロンの副官の一人であるトレスト、ルーナの乳姉妹であり侍女でもあるロシータ達一家が使っていた。
「トレスト兄。・・・俺、もう、わけ分かんない」
どこか虚ろになった瞳で「近衛騎士団への入団おめでとう、エルセット」な夕食をこなしていたエルセットの様子にカロンとトレストも気づいていたが、他の人間は初めての騎士団初日で疲れきっているのだなとみなしていた。
皆に、
「最初はお疲れになるでしょうけど、慣れますわ。頑張ってくださいね」とか
「お兄ちゃま、頑張って」とか言われ、
「ありがとう」と返す言葉も、エルセットはどこか棒読みになっていた。
そうして全員の祝福を受けながらも、その後、こっそりとトレストの部屋にやってきたエルセットは、親しい兄貴分に泣きついたのである。
「あー、ほら、そう嘆くなよ、エルセット。いいじゃないか、お前の実の母親とルーナ様の間に確執があったんじゃなくて。・・・お前も家出する理由がなくなって一安心だろ」
「そーゆー問題じゃない」
恨めしそうに黒い目を半眼にして、エルセットは寝転がっていた寝台から椅子に座ったトレストを見上げる。エルセットは組んだ腕に顎をのせながら、両足をぶらぶらと上にあげていた。
「あのさぁ、トレスト兄。俺、・・・お父さんとお母さんは世界一愛し合ってると思ってたんだ」
「・・・信頼関係はあると思うけど、世界一愛し合ってるってのはどうかなぁ」
愛し合っているということでは、傍迷惑な親を見慣れているトレストである。トレストの愛の基準はかなり高い。
かなり愛し合っている夫婦とは、その間に産まれた子供ですら夫婦の愛を維持する為の道具として使い、夫婦間の信頼関係を失わせない為なら
「俺のことを喋るなら命は捨てると覚悟してからにしろよ」
という言葉を実行し、百人が百人ともに「異常で恐ろしい男」とみなす人間を
「優しくて包容力があって忍耐強い人なのよ、あれで」
とみなすくらいに目を曇らせるものだと、基本的にトレストは思っている。
そんなトレストも家を離れて暮らすようになってから、いかに自分の父親がおかしいかは更に自覚するようになっていた。
だから普通に愛し合っている夫婦くらいは分かるつもりだ。それでも、あまりカロンとルーナ間の愛を感じたことはなかった。
「昔さ、お母さんはよく僕に『あなたは私の一番愛した人の子供だもの。産まれてきてくれて嬉しかったわ』って言ってたんだよね」
「うん」
「でさ、お父さんも僕に『お前は俺が一番愛した人が産んでくれた子供だよ』って言ってたんだ」
「へえ」
「だから、僕は、お互いに一番愛し合っているお父さんとお母さんの間に産まれてきたって信じてたのに、・・・それが嘘だっただなんて」
子供にとって両親は特別だ。愛し合う二人の間に産まれてきたと思うだけで幸せな気持ちになる。
エルセットにしてみれば、自分の存在意義が足元からガラガラと崩れた気分だった。
トレストは考え込んだ。
「それ、嘘じゃないと思うけど」
「どこが。・・・嘘ばっかりじゃないか。トレスト兄もそんな慰め、言わなくていいよ」
「いや、だってさ・・・」
トレストが人差し指を上げて考えながら言う。
「ルーナ様が、エルセットに、あなたは私の一番愛したケリスエ将軍の子供だもの。産まれてきてくれて嬉しかったわって言ったわけだよな」
「へ?」
「でさ、ケイス将軍も、エルセットに、お前は俺が一番愛したケリスエ将軍が産んでくれた子供だよって言ったわけだよな」
「・・・は?」
「間違ってないだろ。嘘は言ってないと思うぜ、ちゃんとお二人とも」
エルセットの頭がパタンと寝台に完全に落ちた。そもそもケリスエ将軍は女性だ。そしてルーナも女性だ。この時点でエルセットには理解不可能だったのだろう。
トレストはケリスエ将軍の話を母親からも聞いているし、ローム国騎士団でもその時代を知っている人から聞き知っている。だから先程、ケイス将軍から、ケリスエ将軍がルーナの最愛の人だと聞かされても、(ああ、そうだったのか。なるほどね)と、そのまま受け入れていたのだが、エルセットには刺激が強かったらしい。
さっきの会話はエルセットも聞いていた筈なのだが、・・・きっと理解できない話は精神衛生上の問題でスルーしていたのだろう。
「何それ・・・」
「おーい、大丈夫か、エルセット?」
「大丈夫じゃない・・・。もう、今夜はここに泊めて。トレスト兄」
「いいけどさ。なら奥側に詰めろよ」
「うん」
エルセットのその状態は、トレストにも覚えがあった。自分も父の真実を知った時にはかなり混乱して睡眠に逃げたものだ。
(今夜は寝かしてやろう)
広々と腕や脚を伸ばして休めるようにと、トレストの寝台は大きなものを入れてくれている。別にエルセットと二人で寝たところで問題はない。
茶褐色の髪を撫でてやりながら、奥へ詰めさせたトレストは、それでもエルセットがルーナに対して反感などを抱くようになっていないことにホッとしていた。
(こういう時、今までの愛情に目を逸らして、一番自分にとって身近だった存在に反発する奴ってのはいるからな)
既にケリスエ将軍は亡くなって久しい存在だ。
なのに今も尚、こんなにも生者にその印象を強く残しているとは、どんな人だったのだろう。
(一度は会ってみたかったな)
そう思いながら、エルセットの寝息を確認して、トレストも目を閉じた。
母が亡くなった理由も顔も、もう覚えていない。優しい女性だったように思うだけだ。
カロンが幼い時に亡くなったという母親の髪の色も瞳の色も、思い出せなくなって久しい。ただ、自分へ笑顔を向けてくれていた、その優しい陽だまりのようなイメージが心に残る。
母親が亡くなった後、父も必死に自分を育ててくれていたと思う。父の生業が何だったかも思い出せないが、商売人でなかったことは確かだ。
そんなある日のことだった。
「戦が・・・」
「そうじゃ。この村からも男衆が全員出させられることになった」
「そんな・・・。うちはもう女房に先立たれて、この息子をあっしが一人で見ておるんです。そのあっしがいなくなって、どうしてうちの倅が生きていけましょう」
「そんなことは知らんよ。・・・俺だって駆り出されるんじゃ。行きたくなんてねえが」
そんな大人の会話はよく分からなかったが、カロンの父親はその後、どこかに行っていたようで、しばらく帰ってこなかった。
やがてしょんぼりと帰ってきた父親は、肩を落としながらカロンに言った。
「カロン。お父は戦に行かにゃならんくなった。なのに・・・お前の面倒をみてくれる人がおらんのじゃ。・・・カロン、戦場なんて恐ろしい場所じゃ。じゃが、お前を残してはいけん」
「・・・おらも行くよ、お父。どこまでも一緒に行くよ」
戦場がどういうものかは分からなかったが、カロンは必死に父親にしがみついた。
そうしてカロンは父について戦に出ることになったのだ。そんな父親も、戦など初めてであったというのに。
戦場はあまりにも惨たらしい場所だった。
恐ろしい怒号と悲鳴が飛び交い、赤黒い血が乾いてはどこまでも全てを茶色く汚していく。むせ返る汗と血、腐敗と排泄物の臭い、・・・空気すらまともではなかった。食べ物も人が食べる物とは思えない物だった。何も口にできない日もあった。
カロンの父親も肉体こそがっしりしていたが、それは戦う為のものではない。人を傷つけることなどできない優しい人だった。それでも殺さなくては殺されるのだ。
カロンを守る為にもと、父親は近くにカロンをいさせ、常に息子を庇って剣を振りまわし続けた。
カロンもまた、父が斬りつけた相手が弱ったところで止めをさした。そうじゃないと、倒したと思った相手が起き上がって背後から襲ってくることがあるのだ。怖くて泣きながら、それでも父と息子は一緒に生き延びる為、剣と槍を動かしていた。
「お父、怖いよ」
「ああ、カロン。もう少しじゃ。このお勤めが終わったら村に帰してもらえる筈じゃ」
今にして思えば、それは父親が分かっていなかっただけなのだろう。カロンの生まれた国の貴族は特権階級意識も強く、村人の命など使い捨てとしか思っていなかった。
そこでの戦闘を生き延びても、違う戦場に送られただけだっただろう。
いや、父親もそんなことは分かっていたのかもしれない。ただ息子の気持ちを考えて、もしくはそうでも思わないと心が保てずに、あえて嘘を言っていただけかもしれない。
・・・今となってはもう分からないことだ。
そんな父のことすら、今では大きな手をした、温かく広い背中の人だったことしか覚えていない。
「カロン。なるべく後ろに逃げるんじゃ」
「お父?」
「強い奴が来とる。あの馬に乗ってる奴は、先程からまっすぐこっちに向かって来とる。恐らくうちの大将を目がけて来とるんじゃろう。・・・強い。立ち塞がる人間を全て殺していっとる」
「お父・・・」
「逃げろっ、カロンッ」
その馬に乗った剣士はあまりにも速かった。瞬く間に、遠くから近くへとやってきていた。その間にいた人間全てを斬りつけ、戦闘不能にしてから。
足が竦んで逃げられないカロンを一瞥すると、父はその剣士に剣を持って向かって行った。
「やあああああーっ」
父の自身を鼓舞するような叫び声は、その剣士の強さに怯えてしまう自分を奮い立たせる為だったのだろうか。父とて分かっていた筈だ。あんな強い剣士に敵わないことなど。
(父は、俺を守る為に向かっていった・・・)
今になって思えば、そこで逃げていれば父が殺されることはなかったのだろう。
しかし過去はどう足掻いても変えられない。
あの時、父はその剣士に立ち向かっていき、そしてそのまま剣の一振りか二振りで斃れたのだと思う。
父のすぐ傍にいた自分は、ただ震えながら、その馬上の剣士が掲げている剣が太陽を映して光るのを見ていた。あのスピードなら、自分もそのまますぐに殺される。だから、自分の命を奪うであろう剣の光だけを、見ていることしかできなかった。
だが、その馬はそこでいきなり前足を上げて止まり、剣は自分の命を奪わなかった。
「今のはお前の父親か、少年?」
馬上から降ってくる声は、戦場とは思えないものだった。それは低めだったが、女性のものだったからだ。
その剣士の後ろから付き従ってきていた馬が、次々とその周囲に集まってくる。剣を持った馬上の騎士達に見据えられ、カロンはあまりの恐怖にがくがくと震え、失神しそうになった。
「少年、お前の名前は?」
「・・・カ、ロン」
「そうか。カロン、先程の男はお前の父親か?」
カロンは、名前を伝えるだけで精一杯で、もう声を出す勇気がなかった。だから頷いた。
「お前。他に家族は?」
「い、・・・いま、せん」
すると馬上の女性剣士は、何かを考えているようだった。やがて馬から下りて、カロンの目の前に立ち、こう言った。
「カロン。お前は私と共に来い。・・・いいか、忘れるな。お前の父親を殺したのはこの私だ。お前は私と共に来て強くなれ。そしていつか私を殺し、父の仇を討つがいい。・・・それまでは私に従い、私をお前の父親と思って孝養を尽くせ」
「は、・・・い」
すぐには言われている意味は分からなかったが、どうやら命は助かるらしいと、カロンは思った。
同じ馬にカロンは乗せてもらい、そのまま女性剣士の背中から腰に手をまわして掴まっているようにと言われた。
やがて、カロンを背後に乗せたまま、再び女性剣士が斬り込んでいく。
あまりの強さに驚きながら、カロンは先程言われた意味を考え続けた。父親が殺された悲しさはあったが、目の前の現実がまず先に立つ。・・・とりあえず、何かおかしいような気はした。
(どうしておらに強くなってから殺せと、この人は言うんじゃろう・・・。何がしたいんじゃ?)
更におかしいと思えることがあった。
(父と思えと言われても、この人はおなごじゃ。・・・それなら父にはなれんじゃろ? それにおらのお父はお父だけじゃ)
それでも馬の動きは激しい上に、更にこの女性剣士の動きも一瞬たりとも休みがない。振り落されまいとしがみつき続けるしかないカロンだった。
昨日までは敵の陣地だった場所に、カロンは足が竦む思いだった。一番奥の天幕にカロンは連れて行かれた。同じ戦場でも自分が今まで父といたような、天幕など全く与えられない状況とは雲泥の差だ。
もしかしてこの女性剣士はかなり偉い人なのだろうかと、カロンは恐ろしくなった。
そこへ大柄な少し年のいった男が近づいてくる。鋭い目をした強そうな剣士だった。
「将軍。何か拾い物をしたと聞きましたぞ」
「ああ。息子を一人拾った。カロンという。・・・そういえば、カロン、お前の全部の名は?」
「カロン、ケイス、・・・です」
「だ、そうだ」
身の置き所もないカロンだったが、驚くことにその女性は将軍と呼ばれていた。屈強な男は、それを聞いて眉を顰める。
「敵の子供を拾い、あまつさえ強くなって自分を殺せとまでおっしゃったそうですな」
「その通りだ。だが、まだ剣もまともに振れない子供ではどうしようもない。まずは私の息子にしておく」
「父親と思えっておっしゃったそうですが、・・・どこまであなたは楽しいことをやらかしてくれるんでしょうな、ケリスエ将軍」
呆れているようだったが、少し笑いを含んだその男の口調は特に責める気もないといった感じだった。屈強な体格ながらも初老の落ち着きがあり、その程度では動じないのだろう。
「なるべく迷惑は掛けない。見逃しておいてくれ、第六部隊長」
「迷惑など、もっとかけてくれてもいいぐらいですがね。その子供はこちらで預かりましょう。いささか不快に思う人が多く出ているようですからな」
「サフィヨール部隊長?」
「少なくとも戦場でいる間、あなたとその子供が一緒では全てが混乱する。せっかく保護したのに、どさくさに紛れて処分されかねませんからな。こちらでその少年は預かります。ロームに帰還後は、あなたにお返ししますよ。・・・来い、カロン」
「はい・・・」
サフィヨール第六部隊長はそう言うと、ケリスエ将軍からカロンを引き離した。その判断は正しかったとしか言いようがない。
たとえ少年でもカロンは男である。そしてケリスエ将軍は女だ。同じ天幕で一緒にいるわけにはいかなかっただろうし、それを将軍が許したとなればどんな不満が他の人間から出たか分からない。
その時は何が何だか分からずに言われるままだったカロンだが、その後もサフィヨール第六部隊長は何かとカロンを気にかけてくれた。
だからやがて、カロンがケリスエ将軍率いるローム国騎士団に入団し、その第六部隊に配属されることになったのは当然だったのだろう。
その戦いが終わるまでの間、カロンはサフィヨール第六部隊長の従者というよりも、下働きのようなことをして過ごした。兵士達の食事の用意や、傷病者の手当ての手伝いである。それでも剣を持って戦うようなことはさせられず、カロンにとって、自国よりも敵国の軍隊の方が、はるかに待遇も何もかもが良いと感じずにはいられない時間だった。
そこまでカロンが話し終えると、トレストとエルセットが目を丸くして身を乗り出した。
カロンとしては、まるでロメスとケリスエ将軍の小型版な少年達が目を瞠っているかのようで、何とも面白いようなくすぐったいような、不思議な感慨が浮かぶ。
トレストの父であるロメス・フォンゲルドは、ケリスエ将軍とはなるべく距離を置いていたからだ。
子供の世代になっただけで、人と人との関係はこうも変わるものなのだろうか。
「お父さんって敵国の人だったの?」
「その前に、自分を殺せって何ですか。大体、戦場で殺し合うのなんて当たり前じゃないですか。なのに見逃す程度ならともかく、そこで拾ってって・・・、とても優しい人じゃないですか」
トレストは既に初陣を済ませている。
父親から簡単に、「よその奴に変なことを聞いて、カロン殿に無神経なことを言うなよ」ということで、かつてカロンが副官として付き従っていたケリスエ将軍は、その昔、戦場でカロンの父親を殺したのだとは聞いていた。
カロンは父親の仇であるケリスエ将軍に引き取られたものの、養子とは名ばかりであまり面倒をみてもらえなかったことは有名だったと。にもかかわらず、カロンはケリスエ将軍に影のように付き従い、どこまでも尽くしていたのだと。
(いや、父上から聞いていた、戦場で父親を殺されてそのまま引き取られたってのは同じなんだけど・・・。話す人が違うだけで、こんなにも印象って変わるのか)
父であるロメスの話し方だと、あくまでカロンの父親を殺したケリスエ将軍が気まぐれにその息子を持ち帰り、自分に役立つ存在となるようにと、育てた見返りとして忠実な部下に育てあげたというイメージがあった。
ロメスとて伝聞だった筈だ。つまり、それが軍部における一般的な見方だったのだろう。
だが、カロンが話すこの話に、トレストは全く違うものを感じていた。
(職業兵士より下の存在である雑兵の息子・・・。そこで見逃されても生きていけるわけがない。そのまま野垂れ死にするのがオチだ)
父を殺されたと言っても、それは戦場なら当たり前だ。
それよりもケリスエ将軍はカロンの命の恩人と言ってもいいだろう。しかも命を救った恩をきせるつもりだったなら、強くなっていずれ自分を殺せなどと、普通は言わない。
ケリスエ将軍は、ただ純粋にカロンの命を救ったのだ。父親の庇護無しに暮らせないからと戦場までついてこなくてはならなかった、哀れで無力な少年を。
「色々な受け取り方があるだろう。あくまでこれは俺が見た側からの話だ。ケリスエ将軍には違う見方もあっただろう。そしてケリスエ将軍の傍にいた人達にも。かつて俺が暮らしていた国の人達にも」
カロンは二人の少年が発した言葉の質問にはあえて答えなかった。
記憶とは美化されるものだ。自分にとってあれらは無我夢中の時間だった。自分の記憶がどこまで正しいのかも、今となっては分からない。
悶々としていたらしいエルセットを連れてトレストがやってきた為、二人にケリスエ将軍との出会いを話してやったのだが、こうして振り返ると、改めて彼の人を想わずにはいられない。
(誰よりも優しく、誰よりも無神経で、様々なことを見通しているくせに何も分かっていない人だった)
語れば語る程、あの人のイメージを正しく伝えられる気がしない。語る言葉ではなく、その存在そのものでしか表せない存在というのはあるのだ。あの人は、あの人の存在そのものが全てだった。
・・・・・・惚れた欲目かもしれないが。
「ところで、お父さん。そうなると女の人がお父さんの父親になれるかどうかは分からないけど、それだけケリスエ将軍ってお父さんよりもかなり年上だったんだよね?」
エルセットが首を傾げた。カロンは、それこそ自分の親のような年の女性との間に自分を作ったのだろうか。
「いや。俺はその頃、今のエルセットか、それよりも少し年下程度だっただろう。ケリスエ将軍は、ふらりとローム国騎士団にやってきて一兵卒で入ったものの、瞬く間に頭角を現して出世し、その剣の腕と戦略的な能力を王にも認められ、数年で将軍に上り詰めた天才だった。その時点で二十歳そこそこだっただろう」
ロームにやってきてから少年のカロンが知ったことを振り返りながら、そこはきちんと話しておくかと、カロンは丁寧に説明する。
「当時、様々な国が戦と領地の奪い合いを繰り返していた。勝てる人間、それが全てだった。たとえ女であろうとも、強さが全てだ。・・・トレスト、もしも近衛騎士団と王都騎士団、そしてローム国騎士団全ての腕自慢として出してきた猛者を勝ち抜き戦で全て勝てた人間がいたとして、それが女であっても将軍に就けないと思うか?」
トレストはごくりと唾を飲み込んだ。
「それでも女性なら、どうしても腕力は男に劣ります。ましてや体の出来上がっていない十代ならば尚更。・・・できる筈がありません」
「だが、その相手の動き全てを見切っていたなら話は別だろう。本人の体もかなり鍛えられていたが、同時に最小限の力で勝てるように五感の全てを使い続けていた。常に風上がどちらかを意識し、室内では空気の揺れに注意をはらい、自分に向けられる目の動きとその腕を剣に掛ける様子がないか、も。そして向かい合う相手がいれば、その筋肉の流れを観察し、動きの予測を立てていた。それこそ入団した時から強そうな人間を見かける度、ケリスエ将軍はその体の動きのクセなどを観察し、頭に叩き込んでいたのだと思う」
それは、既に味方同士でやることではない。敵の中に一人混じっているのであればいざ知らず、誰がそんなにも気を張って生きているというのだろう。
トレストはカロンに尋ねた。
「何の為に、ですか」
「どんな人間も自分の敵にならないとは限らないからだ。そして実際、勝ち抜き戦ではその成果があったということだ。・・・トレスト、お前の父であるフォンゲルド将軍も同じタイプの人間だ。常に自分の前に立つ人間を観察し、どうすれば勝てるかを考え続けている。・・・実行するかどうかは全く別の話として」
ここで出てきたロメスの名前に、トレストは脱力する。忘れていたい存在なのに大きすぎるのだ、あの父は。
「・・・・・・あー、あの父だけはまぁ。てか、十分に実行していると思うんですけど」
「それでも戦の時だけだろう。普段は誰も殺していない。・・・だが、頭の中ではどうやったら最短でその場にいる人間を殺せるか、常に考えているだろうな」
「あはははー・・・。なんか、全くもって納得できるお話をありがとうございます」
トレストの目が力なく泳ぐ。やはりあの父親にだけは近づくまいと、改めて決意する。脳内で自分のことも何回殺しているやら知れたものではない。
自分はどこまでもケイス将軍について行こう。
「じゃあお父さん。そのケリスエ将軍ってかなり若かったの?」
「そうだな。あと二年くらいでトレストが将軍になれたら、似たり寄ったりの経歴になるだろう」
「ええっ!? 無茶ですよっ。今の俺じゃ小隊長すらなれませんっ」
「だから天才だと言っただろう。年上と言っても、俺よりも数歳しか違わなかった」
そこでトレストがいささか胡乱な眼差しになる。どうやらケリスエ将軍の人となりに変なものを感じたらしい。
「それ、父親と思えじゃなくて、姉の間違いと違いますか? てか、男勝りということで百歩譲っても兄ですよね? そのケリスエ将軍って、こう言ってはアレなんですが、なんかおかしくないですか? いえ、優しい方だったってのと、かなり凄い人だったってのは分かるんですけど」
それを言われるとカロンも苦笑いせずにはいられない。かつての自分もよく思ったことだ。
「殺したのが俺の父だったから、なんだろうな。・・・そういう点、かなり律儀な人だった」
無表情な顔の裏で、常に父を失った自分に同情してくれていたのだろう。そんな分かりにくい優しさを素直に感じられるようになるまで、自分もかなり遠回りをした。
カロンは切ない気持ちで振り返る。
もっと早く自分が素直になれていたら、二人だけの時間をもっと持てたのだろうか。
(いや、あり得ないか。・・・そのまま「そうか」で済まされて終わりだったな、あの人。大体、どこまでも言わないと分からない人だった。とことん、俺に関しては無視してたしな)
思い出すと、なんだか切ない。・・・自分が哀れだという意味で。
エルセットは更に何かを考え込んでいる様子だったが、意を決したようにそこで口を開く。
「ねえ、お父さん。そんな強いケリスエ将軍とお父さんの子供なのに、どうして僕はそんな天才じゃないの? ・・・やっぱり、僕、そのケリスエ将軍の子供じゃないんじゃない?」
「・・・・・・」「・・・・・・」
父親が不明なことは多々あっても、母親が不明ということはないだろう。実際に自分の体から産み出すのだから。
さすがにカロンもトレストも、こいつは何を言い出したのかと、顔にありありと書いた状態になった。
「子供は親に似ることもあるが、親ではなく祖父母や曾祖父母に似ることもある。別に子供は親と同じものでなくてはならぬものでもないだろう。・・・お前は間違いなく、ケリスエ将軍が産んだ俺の息子だ」
「そうだぞ、エルセット。それを言うなら、うちのクソ父の子供だからって皆があんな性格破綻人間じゃないんだからな。うちの兄なんて剣はからっきしだぜ。・・・その代わり、書類はお手の物だが。うちのクソ父は書類なんて部下に丸投げだ。・・・ほら、似てないだろ?」
だが、エルセットは違うことを考えているようだった。黒い瞳が僅かに潤んでいる。
「だって、・・・そんなの。それならまだ、そのケリスエ将軍が皆を誑かして将軍にまでなった人って方がマシだよっ」
「はぁっ!? お前、何言ってんだ、エルセット」
こいつは何を言い出したのかと、トレストが横にいる弟分の肩に手を掛けようとすると、エルセットはその手を強く払った。その勢いにトレストも驚き、どうしたのかとエルセットを見つめる。
カロンは、そんな下を向いている息子の前に移動すると、しゃがんで視線を合わせた。
「エルセット。お前がそう思うのは、・・・ケリスエ将軍を憎みたいからか? お前の母親はルーナなのだからと、ケリスエ将軍を憎めなくなったらルーナを裏切ることになると思ってるからか?」
エルセットが俯いているその床に、ぽとりと雫が落ちた。
カロンがゆっくりと、考えながらのように話す。
「ケリスエ将軍が、俺に強くなって父の仇を討てと言ったのも、そういうことだった。そのままケリスエ将軍を命の恩人として慕ってしまったら、やがて俺がそれは父への裏切りだと苦しむだろうと、あの人は考えてもいたんだ。・・・・・・ケリスエ将軍は、そういう優しい、そして不器用な人だった」
唇を噛み締めているエルセットは、それでも泣き声だけは立てたくないのだろう。
「お前の母親であるルーナが愛したのは俺じゃない、ケリスエ将軍だ。・・・別にお前がケリスエ将軍を憎まなくても、それはルーナへの裏切りにはならない。そしてケリスエ将軍も、ルーナだからお前を安心して任せられた」
トレストは何かおかしい気がした。
ではルーナが産んだ、エルセットの弟妹はどういうことになるのか。それこそそちらは愛のない夫婦間の子供になるのか。・・・・・・カロンもルーナもきちんと子供達全てを愛しているように見えたのだが。
ついでに、それならケリスエ将軍が愛していたのは、カロンとルーナ、どちらなのだろう。
(これは、・・・俺が聞いてはいけないことだろう)
いくら家族同然の付き合いといえど、トレストも愚かではない。人として無神経に入り込んではならない範疇についてはわきまえている。
特に家族のことについては、知ってても知らないフリをするのがマナーとされる宮廷の常識を知っていれば尚のこと。
好奇心よりも、トレストは礼儀を重んじることにした。
「エルセット。お前を産んだケリスエ将軍もお前を愛していたし、育てたルーナもお前を愛している。二人の母をお前が大事に思うのは、どちらに対しても裏切りになどならない。それどころか、ケリスエ将軍の名声に目が眩んで育ての母であるルーナをないがしろにしようものなら、ケリスエ将軍が生きていたらお前を半殺しにしただろう。そしてルーナに意味のない義理立てをしてケリスエ将軍を侮辱するようならば、それこそルーナがお前を叩きのめすことだろう」
トレストは黙って静かに扉を開け、室内から廊下へと出た。
扉を静かに閉める際、見るつもりはなかったのだが、エルセットがカロンの肩に顔を埋めているのが見えた。
「お前の母はどちらも立派で強く心優しい人だ。エルセット、そんな母二人を持ったことを誇れ。そして、・・・どちらかを選ぶ必要などないんだ」
そこで完全に扉を閉め、トレストは気分転換にと裏庭へ出ることにした。
裏庭には、かつてそのケリスエ将軍が泉の傍でゆっくり休憩できるようにと、カロンが設置した岩が幾つか置かれている。母親からも聞かされていたそれの一つに、トレストは腰掛けた。
泉には小さな魚が泳ぎ、泉の底には丸い小さな小石が敷き詰められている。
夏にはよくエルセット達と、ここで水浴びをした。
(いや、ルーナ様にもお世話になってるし、嫌いじゃないし、いい人なんだよな)
それでも幼い頃に母から聞かされたケリスエ将軍とカロンの物語の印象が強すぎたのだろう。会ったことも見たこともないが、トレストはケリスエ将軍に一種の憧れを抱いていた。
ローム国騎士団に入ることにした時、いずれ誰かから聞くかもしれないからと、父にケリスエ将軍とカロンとの関係を聞かされ、母から聞いていたイメージとあまりに違うことに驚いたが、それでも幼い頃からの刷り込みというのは強いもので、この泉を初めて見た時には感動したものだった。
(いつか俺も、そんな風に誰かを想える日がくるのだろうか)
よく容姿は父に似ていると言われるが、自分は父のような愛し方はちょっと嫌だ。
父に対して困った人だと常々思っているが、それでも両親は嫌いじゃない。それに、あそこまで相思相愛っていうのもなかなかできないことだ、そう思っている。
それでも自分は、父のようにその腕の中に囲い込む愛よりも、カロンのようにその心を捧げて悔いのない愛、そういうものをしてみたい。
ケリスエ将軍とカロンの関係は、周囲からは上司と部下というよりも主従関係に見えていたという。
父ですら一目置く程のカロンが、公私共に尽くしたとされるケリスエ将軍。彼女を妻としても、カロンは常に付き従うスタンスだったと聞く。
惚れた女にいいように利用されただけならば情けないとしか言いようがないが、あのカロンがそこまで心酔した相手が、そんな姑息な女性とも思えない。
(だけど、俺よりも二歳年上程度で将軍にまで上り詰めた天才、か)
さすがはカロンである。男の中の男だ。そんな女性、まず存在しないし、普通の男ならそんな自分よりも強い女に惚れるだなんてあり得ない。
トレストはちぇっと唇を尖らせた。
会ったことはないが、その姿は知っている。ロイスナーのサリトがその絵を描いていたからだ。ロイスナーの母の部屋に飾られているその絵は、とても凛々しい姿を伝えてきていた。
(絵に初恋ってのもあり得ないから、そういうんじゃないとは思うんだけど)
亡くなっているのは知っているが、本当は会ってみたかった。父が敬遠し、母が頬を赤く染めて語るその人に。
どちらもあれで人を見る目はある両親だ。というより、それなりの人達が揃って一目おくのに、なぜか評価があまりにも食い違い過ぎる時点で、かなり不思議な人だとも思う。
(しかし、一番ケリスエ将軍に詳しいケイス将軍の話を聞いてしまったら、それまでの情報が全く意味を持たなくなってしまったというのもどうなんだろう。・・・結局、人の噂など当てにはならないってことなのか)
だけど外見だけなら、結構エルセットはケリスエ将軍に似ていると思う。ここでエルセットを特に可愛がってしまったのも、そんな思いがあったのかもしれない。
(エルセットが女の子なら良かったのに・・・。あれで性格も素直だし、俺に懐いてるし)
エルセットが聞いたら蒼白になりそうなことを思いつつ、トレストはその岩に寝転がった。
さすがケリスエ将軍の為にと設置しただけあって、大きな岩はそんなトレストの体を受け止める広さだ。
寝転がっても眩しくないように木陰となっているのだから、どこまでも心憎い。
トレストは静かに目を閉じた。
【セイランドの結婚式】
ロームの王宮において、王の近くに仕えるフェルエスト・リストリには、弟が二人いる。その内、すぐ下の弟はセイランドという名前で、近衛騎士団を率いるフィゼッチ将軍の下で働いていた。
そんなセイランドだが、いきなり結婚すると言いだした。
「結婚? お前が?」
「ええ、兄上。一生、共に生きていきたいと思う人を見つけたのです。別に貴族出身でも何でもない平民の出ですが、うちは兄上がいらっしゃいますので構わないでしょう。俺はその人と結婚します」
物事に対してあまり執着しないセイランドにしては珍しく、その空色の瞳には強い意志が宿っていた。焦げ茶色の髪を後ろで一つに括っているが、珍しく綺麗な飾り紐を使っている。いつもは適当な革紐なのだが、心境の変化でもあったのだろうか。
フェルエストは弟のこれまでを思い返した。実の所、軍なんて頭が空っぽの考えなしが揃っている場所だと思っているし、見ているだけで暑苦しい存在だとも思っているが、それでも弟に対する情はあるのだ。
飄々とした性格で、勝手に軍に入り、勝手に出世し、勝手に生きているセイランドだが、兄として弟の幸せを願う気持ちに偽りはない。
弟が決めたことならば、全力で応援してやろうと思った。ましてや生涯の伴侶となれば。
複雑な思いで、フェルエストは弟に言った。
「そうか。お前がそう決めたなら俺は祝福しよう。皆にもお前の邪魔はさせん。・・・すると、新居はどうするんだ?」
「ああ。邸を出まして、小さな家を買いました。ユリーは使用人を使うような暮らしをしてきていたわけじゃないので、その方がいいかと」
「そうか。何なら郊外の屋敷をやってもいいんだが」
「あれは広すぎて使用人を雇う必要が出てきます。だけど俺は、ユリーに伸び伸びと暮らさせてやりたいんです。それなら目の行き届く小さな家がいい」
郊外の屋敷は、住宅が立ち並ぶ場所にあるわけではない。だから気兼ねなく暮らせるのではないかと思ってフェルエストは提案したのだが、セイランドには即座に却下されてしまった。
フェルエストは、(言われてみれば、使用人を雇ってもたしかに煩わしいかもしれん)と、思った。だが、いつの間に家まで買ったのやら。
「その・・・、何だな、相手のご家族は・・・どう仰有ってるんだ?」
「あちらは既に父一人しかいないそうで、その父君には快く了承して頂きました」
「・・・それは、また・・・。周到だな、お前も」
「はい」
兄のフェルエストは仕事が早い。
面倒なことは人にさせるものだと思っているセイランドである。一番に兄に話を通した以上、後は兄が他の身内にもきちんと話を通してくれるだろう。
家族や身内にしても、自分で報告しに行ったら行く先行く先で長々とした話に捕まるだけだ。面倒臭いではないか。そんなのは兄にさせておけばいい。
「それでは兄上。まだお仕事もおありでしょう。俺は失礼します」
「ああ、気をつけて帰れ」
そこはちゃっかり手抜きをするセイランドは、その辺りを兄に丸投げして、さっさと家に戻った。
何と言っても、可愛いユリアナとの生活は楽しいのだ。まだ結婚はしていないが、お互いに気心は知れている。
「お帰りなさい、セイランド様」
「ただいま、ユリー」
額にキスすると、ユリアナが小さく笑って、「今日は鶏肉の煮込みですよ。お好きでしょう?」と、声を掛けてくる。
「言ったことあったかな? どうしてユリーは俺の好物が分かるんだ?」
「ふふ、内緒です。・・・実は私だけが使える、セイランド様の好物が分かる魔法があるんですよ」
「おやおや。それは素敵な魔法使いだ」
「いつか種明かしをして差し上げますね」
「ああ。楽しみに待ってるよ」
セイランドも簡単な調理なら出来る。だがユリアナも料理は得意らしく、あれこれと作っては出してきていた。
たまに苦手な物も出されるが、セイランドとて好き嫌いをする程、子供ではない。
だが、なぜかセイランドの苦手な食べ物は、一度出されたら、次から出てくることはなかった。
そう考えると、確かにユリアナはセイランドだけの魔法使いなのだろう。全てにおいてセイランドを呪縛し、解放するたった一人の女性だ。
「あのですね、セイランド様。結婚式の衣裳が出来てきたんです」
「ああ、水色の衣裳を選んだって言ってたな。ユリーは赤色が好きかと思ってたんだが」
「赤色も好きです。けど、・・・空の色も好きなんです」
あまり服の色に頓着しなさそうなセイランドが、自分の好きな色に気づいてくれていたことに驚きながらも、ユリアナは微笑んだ。
「それは知らなかった」
「そうですか?」
「ああ」
言われてみれば、ユリアナは水色も好きなのかもしれない。手先が器用なのか、セイランドが使う小物も色々作ってくれているが、それにもよく水色は使われている。
そうセイランドは思った。
尚、男のセイランドには、水色と青色と空色の微妙な違いなど全く分からない。ユリアナもそんなことなど期待していない。
ついでに今の言葉が遠回しなセイランドへの愛の言葉とも気づいていないことも分かっている。
(いいの。嘘つきな所も、鈍い所も、優しい所も、面倒見の良い所も、ちゃっかりしている所も、全部大好きだから)
そう思ってユリアナは、今日の鶏の味付けをセイランドが気に入っているかどうかをしっかり確認していたのであった。
セイランドはユリアナが派手なことを苦手とすることに気づいていた。
「だからこの家の庭で結婚式をしようと思うんだ」
「素敵ですね。お花が綺麗に咲いている日がいいです」
よく晴れた日、二人が暮らす小さな家の小さな庭で、神父に立ち会ってもらって結婚式をあげた。
ユリアナが育てた明るい色の花々が咲き乱れている中、空色をした衣裳を纏ったユリアナはとても綺麗にセイランドの瞳に映った。
(あの時も、実の弟よりもはるかに別格で可愛かった。けれどもこうして見たら、もう弟のようには見えないな。可愛いことだけは変わらないが)
互いへの愛と信頼を神父に誓う二人は、とても幸せそうな表情を浮かべていた。
「お初にお目にかかる。フィゼッチと申す。ファンルケ殿はかつてセイランドの命を救ってくれたとのこと、お礼申し上げる」
「それこそこちらがお礼申し上げる立場でございます。それこそセイランド殿にはかつて娘を救っていただきました。心より感謝申し上げます」
「お弟子殿とも聞き申したが・・・」
「ええ。親友の愛娘でもあり、私の弟子でもあり、何よりも大切な一人娘でございます」
「いくら親友でも子供を引き取るというのはなかなか出来ることではござらん。本当に人格者であると感じ入る」
「いえ。私に苦労などありませんでした。・・・あの子こそが私の喜びだったのです」
スクリッスからやってきたユリアナの養父であるファンルケ医師も、そんな娘の晴れ姿に涙を浮かべている。それこそ父だと言わなければユリアナにとって年の離れた兄にしか見えない、そんなファンルケ医師は、大きな感慨でもってこの日を迎えていた。
(ケルナス・・・。お前の娘はこんなにも美しく成長した。きっと誰よりも幸せになるだろう)
歩いては転んで、泣いては笑ってと、そんな日々を繰り返しては大きくなっていった亡き旧友の忘れ形見。赤や黄色、橙や桃色といった様々に咲き乱れる花に囲まれ、太陽の祝福を受けている彼女に、光あれと願う。
(セイランドが貴族令嬢ではなく、平民の娘と結婚すると聞いた時には驚いたが・・・。調べてみたらこの養父殿も高名な医師であり、傷病兵からも絶大な信頼がある御仁だった。しかもその娘御も、治療に関してかなりの腕があるという。・・・やはりセイランドは、人の本質を見抜く男だ)
セイランドの上司であるフィゼッチ将軍も、出世頭のセイランドが様々な女性から秋波を送られているのは知っていた。ユリアナもそんな一人なのではと案じていたが、この家と結婚式を見れば分かる。セイランドの花嫁は、その財産でも肩書きでもなく、セイランド自身を愛しているのだと。
「いやあ、まとまって良かったですよ。セイランド様も幸せそうじゃないですか。そう思いません、隊長?」
「口を慎め、テイト。どうしてお前はそう茶化すんだ」
だが、そう言うセイランドの直属の部下達も感慨深い様子である。
が、しかし。
どこか様子がおかしい一団がいた。セイランドの家族である。
「ちょっと、フェルエスト兄さん。どういうことですか。セイランド兄さん、どう見ても普通の結婚式じゃないですかっ」
「いや、だって・・・」
「そうよ。どういうことなのっ。あなた、私達を騙して楽しんでたのっ」
「そんなことは・・・」
「晴れの日ですから、今日は何も言いませんし、騒ぎません。けど後日、きちんと説明していただきますよっ」
「そうよっ、フェルエスト。覚えてらっしゃい」
「全くだ。こんな大事なことでいい加減なことをやるなんて、お前は最低だな、フェルエスト」
「いや、そんな筈は・・・・・・」
セイランドの長兄フェルエストは、式の進行を邪魔しない程度の小声ながら、身内に責められまくっていた。
皆の祝福を受けて挨拶を終えると、後は結婚のお祝いを頂いて解散となる。花束や、ちょっとした贈り物などをもらって笑顔になるユリアナだった。お返しにと、綺麗な布地で作ってあった小袋に自慢の傷薬を入れて、小さな花をつけて皆に配る。
「においはあるんですけど、よく効くんです。良かったらお使いになってください」
「傷薬はどれだけあっても困りません。嬉しいです」
「こうして見るともう男の子には見えないですね。とてもお綺麗だ」
「おめでとうございます。セイランド様が相手じゃなければ、俺も名乗り出たかった位ですけどね」
「ああ、これ気になってたんですよ。ほら、かなり買っていってた奴でしょう?」
「本当にとてもお美しい。ここ数日、セイランド様はかなりのご機嫌でしたよ。ユリー殿と結婚できるってんで」
「そんな・・・」
セイランドの直属の部下達は既に顔見知りだ。セイランドとユリアナがうまくいったことを喜ばない筈がない。何よりも高慢ちきな貴族令嬢より、ユリアナの方がはるかにいいと、彼らも思っていた。
ユリアナが堅実的な経済観念の持ち主だというのは十分に分かっている。彼女が気にしないようにと、あえて庶民的な贈り物に留め、セイランドの部下達は帰っていった。
これがもっと盛大にやるのであれば宴会といった流れになるが、そうなるとセイランドの呼ぶ相手は貴族ばかりになってしまう。ユリアナに変な萎縮をさせない為にもと、セイランドは最初からフィゼッチ将軍にもその辺りを説明してあった。
「そういう時にこそ盛大な宴を望む女性も多いのだが・・・」
「ユリーはそういうタイプじゃないので。将軍にまで参列をお願いする以上、きちんと礼を尽くすべきとは分かっておりますが・・・」
「いやいや、派手な結婚式の宴などどれも似たり寄ったりだ。それこそ形骸化したものよりも、そういう本来のあるべき結婚式に立ち会えるのならばそれで良い。お前も私に気兼ねすることなく、な。花嫁殿にも、私の肩書きなど伝えなくて良い」
「はい」
そう前もって聞いていたフィゼッチ将軍にしても、本当に質素な結婚式だったなと、改めて感じていた。参列した人数も少ない。
けれども、こんなにも真心が溢れた結婚式に立ち会ったのは初めてではないか。
花嫁の養父にしても、その浮かんだ涙を見ればどれ程に愛情を注いできていたのかが分かる。見ていれば花嫁どころかセイランドすら、そのファンルケ医師を厚く信頼しているのが分かった。
セイランドの部下達も、まるで小さな仲間のようにユリアナに優しい瞳を向けていた。
太陽と風に祝福され、花々に囲まれた優しい結婚式は、それこそ人間にとって大切なものは何かを改めて問いかけてくるようでもあった。
(だが、・・・どうしてセイランドのご家族は変だったのだろう)
あれ程の穏やかで慈しみに満ちた結婚式だったというのに、感動もせずに何か混乱していたらしいセイランドの身内を思うと、首を傾げてしまうフィゼッチ将軍だった。
軽蔑するような、呆れ返ったような、そんなどこまでも「邪魔者は帰れ、さっさと帰れ」という感情を空色の瞳に浮かべて、セイランドは兄のフェルエストを見ていた。
「あのですねぇ、兄上。今日は結婚式だったんですよ? そしてここは新居。・・・どうして俺はまだ愛するユリーと二人きりになれていないんでしょうね?」
そんなユリアナは、セイランドの兄というので、慌てて飲み物の用意をしに行っている。ユリアナのことだ、そうなると何か軽食も用意することだろう。
セイランドは眉根を寄せずにはいられない。・・・そうなったら余計に長居されるだけではないか。何と鬱陶しい存在なのだろう、兄とは。
「いや、あの、だから、な?」
「だから何なんですか。さっきから」
フェルエストは決心して一気に言った。
「お前の結婚したユリー殿、男じゃなかったのかっ!?」
その場に長い沈黙が満ちた。
言ってしまったフェルエストも下を向いている。
「・・・・・・・・・は? 兄上、俺はちょっと耳がおかしくなっているようです」
セイランドは冷たい微笑を浮かべた。
「あの可愛らしくも美しい装いで、それこそ俺の心尽くしである結婚衣装に身を包んだユリーを見て、男と思う人間が存在するだなんてあり得ない筈なんですが、・・・俺の耳はどうしてしまったんでしょうね? ああ、それともおかしいのは兄上の目ですか? それとも頭ですか?」
「い、いや・・・その、だから・・・」
普段は弟を何とも思っていないフェルエストだが、内容が内容である。セイランドの静かな怒りが伝わってくるのは、剣を握ることのない自分でも感じられた。
「兄上・・・? ちょっと外に出ましょうか」
普段は兄を立てるセイランドだが、今、外に出ようものなら半殺しにされると、フェルエストは理解した。理解せずにはいられなかった。
恐怖の権化となった弟を前に、フェルエストは一気に言った。
「だって、ユリーって男の名前だろうがっ」
「・・・は?」
「俺は悪くないっ。大体、お前、女嫌いだったじゃないかっ」
「・・・は、あ」
「あれだけの王宮にひしめくほとんどの女性相手に変な病気を起こしておいて、まともに触れられたのは隣国の王子一人っ。そんなお前が平民出身でもいい、結婚すると俺にわざわざ言いに来たんだっ。それなら俺だって覚悟を決めるだろうっ」
「・・・・・・」
何の覚悟を決めると言うのか。・・・・・・それは、やはり。
セイランドだけでなく、フェルエストもまた、そこで口を閉ざした。
気まずい沈黙が、互いの間を流れていった。
そこへ、扉そのものを開ける気はなかったらしいのだが、キイッと音がして扉が開いてしまった。
「あ」
「ユリー・・・」
ユリアナは呆然としていた。
ガチャーン。
持っていたカップやつまみが載った皿が床に落ちる。
「あ、の・・・」
「いや、ユリー殿。これは、その、あの・・・」
「えっと、ユリー。だから・・・」
蒼白になっているユリアナに、兄弟が慌てて言い訳をしようとする。
「・・・セイランド様」
「・・・何かな、ユリー?」
「私、私・・・。セイランド様のご家族に男って思われてたんですかっ!?」
がくりと、その場にユリアナは座り込んでしまった。
「じゃあ、今日の結婚式って、私、男の人が女装してドレス着ていたとか思われて・・・・・・」
ユリアナは恥ずかしさで死ねると思った。女装趣味の男が、男のセイランドと結婚式を挙げたと思われていただなんて・・・・・。しかもそう思っていたのはセイランドの家族。
「いやっ、そんなことはっ」
「そうだ、ユリー。お前を見て男と思う奴はいない」
「けど・・・、いえ、いいんです。そうですよね、私なんて男の子になれる女ですもの」
ふふふと、力なく笑う。
ユリアナは両手を床について落ち込まずにはいられなかった。
皆に綺麗だねって言われて嬉しかったし、セイランドに可愛いと言われたのも嬉しかった。
何よりも養父が目に涙を浮かべて「お前の両親に見せてやりたかった」とまで言ってくれたことに感動もしていたのだ。
なのに。
嫁いだセイランドの家族には、男同士の禁断の愛を貫いたと思われていただなんて・・・。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
嬉し恥ずかしの新婚初夜。
近衛騎士団が誇るセイランド・リストリのそれは、三人の沈黙が満ちるもので始まった。