君の銃、引き金を引いて。
名付けるとするならば、友人とか親友とか、恋人とか。
あやふやな物とは違う、確かな温もり。
……いいや、名付けるなんて馬鹿馬鹿しい。
居心地の良い、ただそれだけの関係。
自宅の扉を開くと、私は彼を招き入れた。
普段はあまり友人を連れて来ないのだが、夕立に襲われては仕方がない。
私は引き出しからタオルを取り出すと、彼に放る。
適当に使って、と声を掛けて。
了解、彼の声が聞こえる。
彼は短髪をタオルでわしゃわしゃと拭き始めた。
さて。
この長い髪は、ドライヤーでも使うかな。
取り敢えず、雨で濡れた髪を乾かすためにヘアゴムを外した。
その反動で、床に水滴が落ちる。
……しかし、ドライヤーに伸ばした手を引っ込めてしまった。
まぁ良いや、彼と同じようにタオルを使おう。
利き腕ではない方の左手首にヘアゴムを通すと、ぱちん、と小さく跳ねて細かい飛沫をあげた。
それは床に飛び散る雫とは違い、すぐ霧のように自身の存在感を消し去ったが。
もう一枚取り出したタオルを首に掛け、彼の座るソファーの隣に腰掛けた。
そのまま軽くふんぞり返る。
「……ひっくり返るよ」
あまり心配していなさそうに、彼は言った。
大丈夫よ、自分の家のソファーだもの。
私は彼に習って、タオルで髪を思い切り拭いた。
初夏の空気は蒸していて、だがそれ程暑くない。
多少は濡れてしまったし、冷房は入れない方が良いだろう。
「何か飲む?」
温かい物を、と言う彼のリクエストに答えることにした。
部屋中をコーヒー独特の香りが包む頃、唐突に彼は切り出した。
「やっぱり、浪人生って嫌? 敬遠したくなる?」
「……どうしたの? 急に。そんなつまらない理由で、女の子に振られたりしたの?」
「つまらないって……ただ何となく、聞いてみただけなんだけど」
彼は不機嫌そうにふてくされた顔をする。
「そんなことないよ、確かに昔はそう思ってたかもしれないけど」
コーヒーを二つのカップに注ぎながら、私は答える。
「けど、……今は違う」
「何か、凄く気になる。今の微妙な間」
「そう? 特に意味はないけど」
私は盆に乗せたコーヒーカップ達を、慎重に運んだ。
せっかくのコーヒーが零れたら困る、と言わんばかりに神経を張る。
「個人的には、年上に甘えるのが好きなの。それなのに、年を取るにつれて先輩には敬語を使わなければならなくなる。それが嫌なの」
溜め息混じりに、実際は一つ年上である彼に言って聞かせた。
社会的な生活を送る上では避けられないのに、こんなことを言っても仕方ない。
そうとは分かっていても、つい言ってしまう。
「タメ口を利けて、しかも実際は年上なんて、君は私の理想だよ」
「それはどうも」
こちらは本音を話したと言うのに、棒読みのような返答だった。
私の言いたいこと、本当に分かっているのかしら。
「人生の若い時間を勉強だけに費やす一年間って、凄く勿体無いと思ってた。これは私の偏見ね」
私は苦笑いで言った。
「けど、もうそんな考えには至らないと思うの。時間を無駄にしてない、まともな浪人生もいるって知ったからね」
「それは俺のことか?」
彼は片方の眉を釣り上げながら、冗談半分に言った。
「まぁ、そうなるかしらね」
ちょっと悔しかったから、私も彼の真似をして冗談めかして言った。
「良かった。実を言うと、他の誰かじゃなくて……君から、嫌われていないか不安だったんだ」
彼は安堵の表情を浮かべた。
「君さえそう言ってくれるなら、俺は浪人生のレッテルも誇りに思えるな」
大げさなことを言うのね。
そんなの、心配するまでもないのに……
「自分自身でも気づいてない、無意識の部分も含めれば……私は相当、君のことを気に入ってるよ」
何でもないように装い、コーヒーを口に含んだ。
「まぁ、大切さって言うのは、君を失って初めて気づくことになるんだろうけど。君のこと、よっぽど頼りにしてたんだなぁって」
「そこまで分かってるなら、失わなくても分かるもんじゃないのか?」
彼の問いに、私は首を振って答えた。
「いいや、無理だね。私が君にどれだけ心を許してたかなんて、君が傍にいる限りは決して図り知ることなんて出来ないんだよ」
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんですよ」
二人は互いに、しみじみと言った。
一瞬会話が途切れ、彼はコーヒーを啜った。
穏やかな沈黙が心地良い。
「俺って、そんなに大事に想われてるの?」
一呼吸置いて、彼は聞いた。
「さぁね。私には、分からない。これは恋愛感情とか、そんな次元じゃないんだから。例え友達でも、恋人でも、何でも良い。"傍にいられれば良い"、その認識しか持てないんだから」
そうなのか。
もはや高尚で、一見低レベルにすら思えるかもしれない。
「じゃあ侍女にでもなるか?」
「そしたら、何でも君の世話をしなきゃいけないの?」
想像したら、一瞬で寒気がした。
何でだろう、確かに"彼の傍には居たい"と思ったはずなのだが。
「……やっぱり、聞かなかったことにして」
彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「当たり前でしょ。本気になんかしてないから」
「……そっか、良かった」
ホッとしたような彼を見て、私は言った。
「けど、悔しいなぁ。一応、意識的には君に"心を許さないように"努めているつもりなんだけど。これでも」
甘え過ぎて、寄りかかりたくない。
そう思うのに、それすら無駄な努力に思える。
「全然、そんな風には見えない」
「でしょうね。それ程までに、無意識的な部分で許してるのよ」
うん、きっとそうなんだ。
下手をすれば依存に落ちてしまいそうな程、私の中での彼の存在は大きい。
「何でだろうね。俺の魅力に惹かれた?」
「ごめん、その言葉に引いたわ」
私は笑う。
「けど、それに近い感覚なのかも。君は私の心をこじ開けずに開いてしまう、そんな力があるんじゃないかしら」
「……そうか? 全然分からないけれど」
「もし自覚して使ってたら、今頃ひっぱたいてるから」
そこで一旦、言葉を区切る。
そして続けた。
「でも、君のことは嫌いにはなれない。それは確か」
言い終えてから口に含んだコーヒーは、少しぬるかった。
どれ位の間、こんな話をしていたのだろうか。
「これが愛情の本質ってことか?」
「そんな一言で括って良い感情なのかどうかすらも、分からない。けど」
「けど?」
彼が聞き返す。
「今ふと思ったけど、互いが同じような感覚で思い合えたら、それはどんなに時が流れても風化されずに"永遠の愛"と呼べるのかなって」
「こんな確証もなく実感も湧かないような感情が、永遠の愛?」
何も知らなかった物事に触れた時の子供のように、彼は目を丸くした。
そう、まるで純真な子供。
「意識し過ぎてガチガチの愛情よりは、よっぽど長続きしそうだけど」
「それは、まぁ……確かに、そうか」
他に何も言えず、俺は肯定の言葉しか出て来なかった。
彼女に上手く論破されてしまった気がする。
しかし、急に真面目な話題になってしまったなぁ。
もっとのんびりとした世間話をするつもりだったのに。
窓の外を見れば、雨はもう止んでいる。
そろそろ暇の時間だ。
ぐい、と冷えたコーヒーを喉元へと流し込み、俺は立ち上がった。
ありがとう、コーヒー御馳走様。
それだけ言うと、カップを流し台へと片付ける。
雨で濡れた上着も、粗方乾いたようだ。
あまり手荷物を増やしたくないので、袖を通す。
玄関でブーツの紐を結んでいると、彼女が俺に声を掛けた。
「ねぇ」
「何だよ?」
「その命の続く限り、ずっと傍にいても良い?」
何のことか、すぐに理解出来なかった。
それが先程までの会話だと気づいた時には、もう答えは一つしか見つからなかった。
俺は観念したかのように答えた。
「……何処まででも」
彼女は満足げに微笑む。
しかし、それはちっとも不快ではなかった。
名前のない、名付けることすら出来ない、曖昧な関係。
この気持ちは、言葉に例えようがない。
ただ精神的に支えられ、満たされるだけの人。
愛しい、愛しい人。
ほら、本音を伝えよう。
まるで銃の引き金を、引くかのように思い切り。
狙いを定めて、伝えよう。