ある日・下
へたり込むハク。
その周囲に、様々な玩具が散らばっている。
呼び掛けに反応するも、虚空を見つめて動かない。
考えうる可能性は二つ。
ひとつは、ありきたりな事象。
籠を持ち上げようとして、誤ってひっくり返した。
想定よりも重量があり、堪え切れずに姿勢を崩して
中身をばら蒔いてしまった。
彼女ならやりかねない。
ふたつめは、ストレスによる衝動。
日々の生活に不満が溜まっていたか、何らかの要因が破壊的活動の引き金を引いた。
直前までを知る僕からすれば突拍子も無い行動だが、感情が読めない彼女が奇行を起こすのも有り得なくはない。
場を片付ける必要もあるが、ひとまずは怪我の有無。それから、後者の可能性を考慮して会話を試みる。
「ハク。怪我はしていないか。」
肩に手を当て、彼女の手を取る。
小さな手指に傷は見当たらない。腕を捻ったような痕も無いが、脱力して垂れる腕に、不安を感じ取る。
再度、どうした、と訊く。
そろそろ、と顔をこちらに向けると、目を合わせる。
深海のような蒼い瞳が、水面然として耀う。
依然として口は開かれない。
混乱しているのか。もしくはまだ、会話ができる程度の発話が出来ないのか。
まさに今、これが役に立つかもしれない。
白板様のボードを見せる。
埋め込まれたペンを取り出すと、
「どうしたの」「おはなし きかせて」
と書いてみせた。
仕組みはともかく、これで筆記が出来る道具であると理解してくれる筈だ。
ペンを差し出すと、それを手に握る。一頻り白板を見つめると、弱々しい筆跡で書き始めた。
「ク」「田」「灬」
魚。
白板いっぱいに書かれた魚。
まさか。玩具の魚を飲み込んだのか。
大きさからして、誤飲の可能性が無い訳ではない。
書ける場所が無くなり、おろおろとばつが悪そうにしている。
筐体の下辺にあるつまみを引き、文字を消してみせると、続きの文字を刻んでいく。
「ナニ」「ー゛」「メ二」「リ」
た、べ、た。い?
画数からして、最後に「い」と書いたように思う。
「食べた」のか、「食べたい」なのか。
食欲は点滴で満たされている筈だ。食べたいなんて事があるのだろうか。
「魚を。食べた。」
確認してみる。
ハクが頷く。
「食べたい。」
ハクが頷く。
音の違いは判別出来ずか。
「た、べ、た。」
『た、べぇ、たあ。』
「た、べ、た、い。」
『た、べぇ、たあ、えぃ。』
うぐぐ。
復唱してしまうのか。
どうすれば。
ハクの目は変わらず潤んでいる。唯一読める感情が、余計に理解を遅らせている。
彼女も伝えようと頑張ってくれているのだが、今の段階では会話は困難としか思えない。
ひとまず宥めようと髪を撫で回して、少しばかり考える。
誤飲だとする場合、口に指を入れて背中を叩く。
やった事はないが、応急処置はこれ以外に無い。
見たところ緊急性は無く、看護師に確認するのも良かろう。
食べたいだった場合、どうする。
何故、食べたいのだ。
記憶?
魚が好物なのか?
有り得る。記憶の断片を思い出したなら、魚に反応するのも頷ける。
だが、籠をひっくり返し、放心するほどか。
到底それが原因とは思えないが。
打ち上げられた魚の玩具をひとつ、掬いあげる。
手に乗せて、ハクに見せた。
見た。
が。
視線が帰ってくる。
頭を抱えたくなった。
このままでは埒が明かないぞ。一旦、看護師に相談してみよう。玩具の片付けは後でも良いだろう。
立ち上がろうとすると、服の裾を引かれる。
今度はどうしたというのだ。
『とぉ。とぃ、れえ。』
な。今度はトイレと。突然の非常事態。
膝から崩れ落ちそうだ。
立ち上がらせたものの、歩いて付いてくる事も出来そうになかった。仕方なく背負おうとするが、一歩も動けないらしい。
子供の世話はなんて大変なのだろうか…。
元はと言えば、筆談なら彼女と会話を出来ないか、という自分の好奇心と、こんな年端も行かない子供を連れてきてしまったが故なのだ。
やるせなさと不甲斐なさに、ふつふつと憤る。
トイレは自室の方向とは反対にある。
呼びに行く時間さえ、あるかどうか。
ええい。何とかなれ。
ハクの肩と脚を持ち、胸の前に掲げる。
想定よりずっと軽い。
なるべく揺らさないよう注意を払いながら、トイレへと早足で向かった。
個室の扉を引いて入ると、ハクをゆっくり降ろす。
「ひとりで、出来るか。」
『んん。』
肯定か否定かわからない。ああ。誰か。
便座の蓋を上げ、ハクを前に立たせ。
しゃがみ込んで裾に指をかけると、顔を背けた。
するり。しゃらん。
膝を伸ばしつつ首を四半回転。肩を持ち、座らせた。
よ、よし…。何とかなったんじゃあないか。
手すりに手を突き、白い天井を仰ぐ。
温い汗を首筋に感じたが、今はこのままでいたい。
水流が緩く零れ落ちる音で、安堵した。
涼しい。夏。青く霞んだ空模様。
風流で脳を騙していると、音は次第に止んでいく。
しゃり、しゃらら。
風鈴だろうか。
再び裾を引かれ、僕の夏が天井に吸い込まれた。
これでようやく終わりだ。
っただろうか?
ごお、ごおお。
布状の白い紙が引き出されていく。
白一色の視界に、蒼い球体が、僕を見ている。
『たあろ。』
そうだよな。
蛇口を捻り、ハクの手を濡らしていく。
ちり紙を手渡し、それを拭わせる。
次は、僕の手を。
これくらいでなんだと言うのだ。
ジロウもこれから同じ道を辿るのだ。予行演習だと思えば良いのだ。看護師の負担が減ったんだ。
必死に心で言い聞かせる。罪を犯したような心境だ。
「ハク。次はひとりで、出来そうか。」
自信満々に首を縦に振る。
笑顔を見せてくれたら気持ちが晴れたと思うのだが。
仕方あるまい。
頭を撫でて気を紛らわせた。
個室を出る。彼女の調子は良さそうだ。
散らかした玩具を片付けに、遊具コーナーへ戻った。
しゃん、しゃら。
「おかえりい。お話できたあ。」
「ああ。出来たよ。」
顔に出ているかわからないが、異様に疲れた。
看護師の姿は見えない。
「マッサージは終わったんだね。」
「おしゃべりしてたらあっという間。
ジロちゃん。心地よくて寝ちゃったよ。」
ぬいぐるみを抱いて、ぐっすりしている。
ハクと同じくらいになるのは、もっと先だが。
これから頑張らねばな。
ジロウの頭を撫でると、寝息が聞こえてくる。
こんこん。
「ああ。コタロウさん。戻られましたか。
昼食ですよう。」
二人分の配膳。
「あら。ありがとうございますう。
せっかくだから、ここで食べてもいいかな。」
ちょうど良い。ハクの容態を話しておこう。