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ある日・上




ぷぅ。





ぴぃぅ。







「はあい。ジロウちゃん。綺麗、きれいになったよう。」


個室から微かに聞こえる、看護師の声。


個室とは、トイレの事だ。










「コタロウさあん。いやあ。お待たせしましたあ。」


「いつも助かります。」


「いえいえ。」


いつもの応対。



「ではまた。あとで伺いますねえ」


担当の看護師方には頭が上がらない。体の事は大体任せてしまっている。

依頼する際、いつも上機嫌で快諾してくれるおかげで悪い気がしないのは、とても救われる。









かつん。



ぷぴ。



かつん。



ぴひぅ。





片手に杖。片手に音の鳴るボール。


腕を肩にかけ、歩く。


そう。

ジロウはまさに今、歩いている。





扉を引き、寝室に入る。

ベッドの前に着き、腰を下ろさせ、杖を預かる。


手先が以前より器用になった。指先まで信号を伝達させ、意識的に握る事が容易になった印象だ。


杖の使い方は、見せて実践。小一時間程度で覚えた。

体重のかけ方や、筋肉の使い方など。一人で扱うにはまだ時間がかかりそうだが、予定通りだろう。


そして、同時に二つ以上の複雑な動作をする時。集中する必要があるのか、その時だけは僕を見なくなる。

見る余裕が無いというべきか。

握らせたボールは、その動作のうちのひとつであり、握力の向上に寄与する重要な役割を担っている。



きゅう。


ぷぃう。


昨日与えたものだが、相当気に入ったのだろう。

眠る時以外はいつも揉み込んでいる。

ヘンテコな音だが、意外と癖になる。








「ジロウ。マッサージ。いつものするよ。」

言葉と動作を結び付けさせる。

履物を脱がし、白く小さな足を露わにする。



「最初。右足。触るよ。」

足の指を持ち、足首を支点に、くるり、くるり。

足首から踵へ持ち替え。丸め、反らせる。


今度は親指を使い、足裏のかかとから押し込む。小指側の膨らみ、中央の窪み、親指側の順に這わせる。

各指の腹から根元へ、ぐぐ、と流す。

全体をさすって温める。


ふくらはぎ。

足首から膝に向けて、ぎゅう、と流す。脛を取り巻く筋肉を意識しながら揉み込んでいく。

膝。

膝裏を腱の伸縮方向に伸ばす。


太もも。

と、臀部のマッサージもあるのだが。これは看護師に頼むようにしている。将来的には、ジロウに見様見真似で覚えてもらう。

歩行に使う筋肉の大部分を占める為、腰まで触る必要があるのだが。

必要とはいえ、僕にはちょっと出来ない。


右足を一旦終えて、次は左足。









さあて。次は、腕と、肩。

筋力の偏りが無いように、杖を持つ手は毎日変えさせている。あくまで支えではあるが、念の為に両腕とも均等にやる。


「ジロウ。足は終わり。次は腕。」


扉が、こんこん。声を上げる。

看護師か、と思えば。


「タロくん、ジロちゃあん。入っていいかあい。」

サエの声だ。





ぷぅ。ぴぃ。

ボールの高い声。


ぷぃ。ぴぅ。

木霊するように、低い声。





左右の肩、上腕、前腕、手のひら。

もちもち、ぷに。ほぐしていく。

人に手伝ってもらうと、あっという間に終わる。


「ありがとう。いつも助かるよ。」


「あいよお。お易い御用だよう。」


サエは頼もしい先輩だ。日課の事はなんでもてきぱきとこなしてくれる。




『ぷぅ、ぷぅ。』


声の主は、ハクだ。

ジロウがボールを鳴らすので、それを真似するのだ。


高く響く音に対して、彼女の声は、見た目からは想像がつかないほどに低い。ハスキーのようで、悪い表現で酒焼けのよう。なのに耳当たりは癖になる。

音程もだいぶ外れているが、それもアクセントだ。




「ぴい。ぷう。」

サエがジロウの後ろで高く言う。


『ぴう。ぷぇぅ。』


とても、へただ。

同じ事を思ったのか、サエは笑みをこぼす。

意味が籠らぬ言葉を交わし、つい頬が緩む。

このなんでもない時間が好きだ。


こんこん。扉が挨拶する。


「コタロウさあん。入りますよう。」

さっきの看護師だ。


どうぞお。サエが代わりに応える。

マッサージの続きが始まる。








女性二人の談笑を背景に、うつ伏せの彼女を撫でている。髪を梳き、繊細な感触を指先で感じ取る。

この時間、視線は窓から離せない。


視界の片隅に、肌色がちらつく。下着が覆っているはずなので、仮に見たとしても損失は無いが。



ハクがふらり、僕の前に来た。サエの元を離れるのは珍しい。

純白でさらりとそよぐ真っ直ぐに伸びた髪が、陽に当てられ、絹や蜘蛛の糸のように虹を透かす。


じい、と顔を見られる。何か付いているのだろうか。

右に、左に。鳥類などが立体を認識するように

ゆったりと首を傾げて見てくる。


頭に手を伸ばすと、頭の方から寄ってくる。

この子も大概、不思議な子だ。



こういう時にこそ、言葉が通じると良いのだが。

文字の理解が可能なら、筆談という手もあるな。

理解者に聞くのが早いだろう。


「サエさん。この子の識字力は…。」


振り返ろうとして、肌色を目にする。

しまった、と思う矢先、ジロウの白い隆起が、幼児用の下着である事を初めて知った。

なんとも言えぬが、ほっ、と一息吐いた。



改めて問いかける。


「ハクちゃんは。文字、読める?」


「簡単な漢字までなら。片言だけど。日常会話くらいなら出来るよ。」


へええ。二ヶ月と少しくらいで、そこまで発達するものなのか。

ジロウと早く話してみたい。


期待を胸にしまい込んで、書けるものを探した。







長く繁栄した板状の携帯型端末、その派生系のなかで最も社会に浸透した眼鏡型AR端末、通称グラス。


無線駆動し、通常のインターネット接続のほか、ローカル通信によるデバイス間の機能が充実している。

透過素材が映し出す景色の位置座標に、あらゆる情報を保存できる。

現代の人間が行なう情報伝達の大部分は、誰もが持つこれひとつだけで完結できるのだ。


おかげで、寝室には紙もペンも無い。

看護師が言うには、遊具コーナーの隣にある、学習コーナー。そこにちょうど良い道具があるらしい。



寝室を出ようとすると。

ぱたぱた、音が近づいてくる。


ハク。

気まぐれと自由を象徴する白い猫である。

目的の物を見つけたらすぐ戻るつもりだったが、向こうで会話を試みるのも悪くないだろう。


サエに一言断り、二人で部屋を出た。








しゃら、さりり。


ぺたん。ぺたり。



床を鳴らし、尾を揺らし。ゆらり、ふらりと歩く。

壁に、手すりに手を着けたかと思えば、ばねのように体が横方向に跳ねる。


以前よりも活発に動きを見せるが、歩き方は今でも変わらないようにも見える。


一人で歩いている、という点は大きな進歩だろうか。

いや。彼女が歩いているのは、僕の体の前だ。

行き先を理解している。




遊具コーナーの前を通る。

一足先を行くハクは、ふらりとスペースに入ると、

籠を物色し始めた。ボールが積まれた、あの籠だ。

興味が移るのも致し方ないか。


人間の子供におまけが付いた程度の姿だが、あれでも元は飼い猫。とても信じ難いが、現実だ。


僕は筆記が可能な道具を探す為、通路の先に見える学習コーナーに向かった。



初めは図書室のようなものと思っていたが、入ってみると、なるほど。児童向けの絵本や教科書がジャンル別に並んでいる。


各棚の間は広く開けられており、両手を広げてもまだ空間に余裕がある。

ここの棚にもクッション張りが施されている。

ハクの体の使い方を見た後だと、これだけ丁重に保護するのも頷ける。


筆記用具はあるにはあるが、画材ばかりが目に入る。クレヨンなんかは力を込めずとも書けそうだが、備品に落書きしてしまうかもしれない。

見くびりすぎだろうか。


絵本の表紙が並ぶ棚を見る。りんごの絵本に、ゾウの絵本、おばけの絵本。どれもよく読み返したものだ。

りんごの絵本は、平仮名を覚えたら読ませてみたい。

物理の基本が感覚的にもわかりやすい。


一際大きな、白い盤面の筐体を見つける。機械ではなさそうだが、これの事か。

付属のペン先を当てると、黒い筆跡が残る。磁鉄を利用した道具だろうか。使ってみよう。




遊具コーナーを窺う。ハクの姿は見えない。

クッションが沈み込んでいる様子もない。

お目当ての玩具を見つけて、先に戻ったのだろう。


せっかくなので何か持って戻ろうとスペースに入ってみると、座り込んでいるハクを見つけた。

居ないものと思っていたせいで、肝を冷やす。



「ハク。どうした。」


耳が跳ねる。しかし、体は動かない。



手には空の籠。

足元に散らばった魚や骨の玩具。



犯人は、彼女に違いない。





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