鼓動
雨が続いている。
梅雨は明けたはずだが、ここ数日は前線がびたりと留まっている影響で、天候に恵まれない。
外界の景色とはうってかわり、屋内は涼しく湿度が一定で、快適だ。
あれからジロウとハクを何度か会わせているが、やはり睨んでいるというか、見つめたまま動かなくなる。
テレパシーでもしているのだろうか。だとしてもハクが目を合わせないのはおかしい。
彼女らの存在すらあまり現実味が無いが、より非現実な妄想さえ、有り得るかもと思えてしまう。
昔の文献に、獣人という単語が出てくる。彼女たちと同じような容姿をしているものや、全身に毛を纏った種類もいるらしい。実在したとは思えないが、空想にしてはよく似ている。
彼女らが容姿を似せている、という考え方もできる。
どういう理屈かはわからないが。そんな気がする。
医者とはあれから一度も話す機会が無かった。
例の件も合わせて、会ったら聞いてみよう。
シャワー室から出て、さっと着替えを済ませる。
本館の通路には、飼い主や看護師向けの食堂、風呂に屋内喫煙室などが並ぶ。
今時たばこを吸う人は滅多にいないようだが、マイノリティであっても需要があるなら作られる。とはいえ
ここに来てから人が入る所を見ていない。
夜の時間は、頭を整理するのに都合がいい。
一人で館内を歩き、椅子に腰掛け、考えに耽る。
静寂の中で、ぽつりと、僕だけがいる空間。
彼女らのような特異な存在とふれあうようになってからというもの、新しい発見と同時に不明点がいくつも重なり、解消できぬ事にストレスと疲労が溜まる。
言葉で伝えずとも通っていたような心と心が、今となっては人と人。言葉が無ければ伝わらぬ事のほうが圧倒的に多い。
それも主観的に感じただけの事だが、赤子と形容された彼女らも、また同様ではないかと思うと…。
結論に至るべき時ではない。あくまで可能性の話だ。
こんなものは妄想だ。
今は彼女の為に出来ることをしよう。
体を持ち上げ、ジロウが待つ部屋へと戻る。
寝室の扉を静かに開ける。
ジロウはよく眠っている。
器用とはいえないが、指を動かせるようになった。
視線はいつも変わらないが、手を握ればふんわりと握り返す。与えたぬいぐるみは、今も抱かれている。
こうして寝顔を見ていると、本当に赤子のよう。
このまま、順調に育ってほしいものだ。
地鳴りのような、不快な振動を感じる。
雷だろうか。
カーテンの影が眩く発光する。
体を起こし、足を着ける。
ジロウも違和感に目が覚めたらしい。
熊の化身が、ぎゅむ、と腰を折る。
ぺたりと閉じ込んだ耳からして、不安そうだ。
外界の様子を探る。
木々がざわめく。これから強まる予感を示唆する。
晩年まで、天災にだけは尾を巻いていた。
地震が来ると必ず懐に潜り込んでくる。
この姿で飛び込まれたら怪我をしかねないが。少なくとも今は、まだ。
潤み反射光に輝く瞳、しかし、焦点は確実に僕の瞳孔を捉えている。
怯えているようで、凍りついたように固まっている。記憶に残るジロウでも震える事はあった。だが彼女は機能を欠くのか、強がり故か。文字通り、動かない。
目を合わせたまま、音を立てずに腰掛ける。
ジロウ。大丈夫だ。
呟くように語りかける。
頭に手を置き。倒れた耳に這わせていく。
温度を発する、手触りの良い耳。
ふるふる、ふるる。何かが動く。
わずかに、微かに。三寸もない切れ込みが、白か黒の溝を作り出す。
ひゅう。
隙間風のような、音とは形容しがたい音。
耳を澄ましていなければ、聴き逃していただろう。
ふひゅう、ふう。
産声。
今のはきっと、彼女の声だ。
三度、異なる音を見た。間違えようが無い。
髪をくしゃ、と擽り、交差する片方の手を取る。
親指を交わらせ、改めて眼を見る。
弛緩した頬。表情は変わりなく読み取れない。
声帯を震わず、空気だけが喉を渡るその風は、まさに彼女が発した声なき声だった。
何と言ったのか。という疑問は些細なもので、声を発した。ただその事実が僕の感情を奮わせていた。
握る手は無意識の中で強ばり、生命の神秘に魅入られていた。
窓枠が点灯し、我に返る。
間もなく地鳴りがやって来るだろう。
「僕がいるから。安心してほしい。」
ベッドに身を移し、握った手の力を抜く。
背中に腕を回すと、ジロウの肩と、僕の体がぴたりと密着する。
ただ一心で抱き寄せたが、その先は想定していなかった。思った以上に、顔が近かった。
どきりと内蔵が縮こまると、その感触が次第に加速していく。密着する腕が、波を増幅させる。
現象の元凶を理解していながら、意識の隅まで見透かしてしまうような、豪華絢爛、魅惑の結晶から目を離すことができない。
刹那の如き一瞬が、長く、続く。
ごおおお、ごごごご。
天が嘶く。
轟きに反射し、宝石が隠れる。
大地に伏したかかとが震える。
静寂が場を制する。
ぱたり、ぽつり。
滴が衝突し、軌跡に沿って滑り落ちる。
熱い。
じわりと滲む両の手。
頬も耳も炙られている。
視線が躱され、ようやく顔が引けた。
首の脱力感に、尋常ではない緊張の跡を感じ取る。
あのままでいたら、僕は。
頭の中がぼんやりする。
鳴り止まぬ胸に手を当て、生命を享受する。
こんなに早い拍動は過去にも無かった。
疲労のせいか、ゆっくりと倒れ込む。
目蓋を開ける余力も残されていない。
頬をくすぐられる。髪の感触だろうか。
大きく深呼吸をすると、他人の匂いがする。
さああ。
しと、しと。
強まる雨。
夏が近付いている。