出逢い
あれから数日が経った。
寝たきりでいた上体は、一度起こすと、支えてやれば姿勢を維持できるようになった。
胴体、特に腰あたりまでの筋肉が動くようになったのだろう。
初めて見た尻尾は、体に押しつけられていたせいか
ごわごわとして不格好に倒れ込んでいる。
メニューに従い、腕や脚のストレッチをさせるが、
着替えや排泄、体を拭く際は看護師にお願いしている。人の服を脱がせる事には流石に抵抗がある。
今のペースなら、早ければ来週には歩行ができるようになるという。運動能力の改善にはそれから1ヶ月ほどかかる見通しだ。
しかし言葉を覚えさせるには難儀だ。
なにせ顔を見続けていて、手元の本を見てくれない。
少しだけ、怖い。
部屋から出てすぐの所に、玩具が置かれたスペースがある。ペット用の小物から、人間の幼児向けの知育玩具まで揃っている。
持ち込んだら興味を持ってくれるだろうか。
彼女に挨拶を済ませて部屋を出た。
遊具コーナーと書かれたエリア。歩いて行くと、先客がいた。
なぜか知育玩具に臨む女性の姿と、少し離れた場所に置かれた、抱えても溢れるほどに巨大なクッション。
その稜線から耳だけが飛び出している。
おそらく、猫だ。
「こんにちは。」
「あ。」
「どうも。」
邪魔をしたようだ。
からから、ことん。音が聞こえる。
小物の棚を物色してみる。
角にクッション加工が施されており、指で押せば跳ね返る。研究とは名ばかりに、保護施設のようだ。
ころころ、かつん。
棚の中には大きなぬいぐるみが並ぶ。
定番の熊が数種類と、まるまると太った海棲哺乳類。
白黒模様のこれは、飛べない鳥類だろうか。ペンギンというらしい。
からから、ことん。
棚の上にはボールが積まれた籠。
ひとつ掴むと、ぷう、と力の抜ける音が鳴る。
その下のボールは硬く持ち上げると、しゃらしゃり、鈴の転がる感触がある。
つうー、こつん。
隣の籠には魚や骨の、ゴムのような玩具。
おそらく、床に放ると不規則に跳ねる。
「お兄さん。これ。」
女性が僕を呼ぶ。
振り向くと、四角の物体を抱えて見せる。
からん。
「やってみて。」
得意気な表情。やってみよう。
透明の箱の中に、縦横無尽に行き交う格子。
受け取ったそれは、からから、と音を立てる。大きさに反して軽く作られているようだ。
覗き込むと、格子の一部が切り欠かれており、道筋が見えてくる。音の正体は、色の付いた球体だ。
箱の一面に丸い穴が付いている。
なるほど。球体をこの穴まで送れば良いのか。
からから、かた。
ころころん、かつん。
かつん。つうー。
しゅう、しゅう。
ぽふ。
グラス越しに時計を見た。二分と少しくらいか。
左手に、小さな球が座っている。
「おお。うおおお。」
女性が笑う。
初めてやったので速いかどうかはわからないし、途中からなので実際にはもっと掛かるだろう。しかし女性の反応を見るに、解く事自体がすごいらしい。
これが知育玩具と知らなければ、同意した。
「これ。昨日から始めてやってたんですけど。
私がやっても出る気がしなくって。」
「僕は途中からやらせてもらったので。きっとお姉さんは目前まで解けていましたよ。」
「そうかなあ。こういうの昔から苦手で。コツとかあったりするのかなあ。」
ううむ。初見なのでこれといった言葉が浮かばない。
箱を回して観察する。一面だけ、フレームから外せそうな部分を見つけた。
箱を開け、そこから中心の窪みに球を置く。
「箱を真横から見ると。仕切りが重なっていて奥行きがわかりません。
でもボールの大きさはこれくらい。斜めから。右から。上から。視点を変える。」
「今のボールの位置がわかったら。まずはボールを動かさずに、通れそうな道をひとつずつ探す。
何箇所か色の付いた角があるので。そこを目印に、繋がりそうな道筋を見つけたら。ボールを運ぶ。」
「これの繰り返しで解いたと思う。」
「ほええ。」
気の抜けたような返事だ。
説明が上手く出来たかわからないが。これで解けるようになれば正しい証明になる。
それよりもこの玩具、なかなか面白い。立体的な思考を鍛えられるし、ルート構築も頭を使う。
スタート地点を除くといくつかの層で分けられており、組み替えればまったく新しい迷路が出来上がる。
あとで借りていこう。
「もっかい。初めから。」
女性が改めてトライするようだ。
僕も物色の続きをしよう。
『ぷわああう。』
気だるげな声が聞こえた。