《次郎》
何者かわからない。
ただ、これがジロウであると信じて、
彼女の手を握っていた。
医者の話によれば。記憶が定着していないだけで、
時間はかかるがいずれ思い出せるようになる。
他の者も同様で、学習速度は種類や個体差による。
身体の変化にも慣れていない為、まずは並の生活が
できるようトレーニングさせる。
施設には基本的な器具と環境が揃っており、一定の
メニューに従い、心身のケアに飼い主が付き添う。
それも泊まり込みになるのだと。
援助は国を通じて国際的な機関から行われるそうだ。
生活するぶんには心配無用との事だが。
発話が困難である事は予想出来たが、介助をしろと。
それも、誰とも知らない人間のような何か…。
背丈は人間の子供くらいだろうか。
顔立ちは幼さを感じるが、僕と大きく離れている感じはしない。
ただでさえ同年代の人間とは滅多に会わない。
彼女を人として見るならば、異性をこの距離で見るのは初めてだ。
新種の生物でも見たかのような様子で彼女をまじまじと眺めている。
彼女の視線もまた、僕をじっと見つめている。
ふと目が合う。
心臓が跳ねた気がした。
手に力が込もり、潰れてしまいそうな柔らかな感触が返って来て、思わず手を引いた。
目は、常にこちらに向けている。
長いまつ毛だ。
そういえば、瞬きはしていただろうか。
ゆっくりと手を近付ける。
頬に親指を当てると、ぷに、と弾力を受ける。
目元までなぞり、瞼を閉じさせる。
人の耳がある辺りには軟骨様の部位が遺されている。
反対の頬を指の角で撫でる。
流れるように、繊細な髪に指を這わせる。
首はか細く、心許ない。
精巧な人形のようにも見えてくる。
はっとして、触れるのをやめた。
自分の犬だと言われても、人の形をしたこれが他人のように見えて、理性が止めろと働きかける。
彼女はジロウであって、ジロウでは無い。
嘘を吐かれているのか。
思い込まされているようにも思えてきた。
邪念が邪念を呼ぶ。
素直に再開を喜ぶべきなのか。でもこれをジロウであると認めたくない。
でも目の前の彼女は、一人では無力だ。
思考が掻き回され、目が潤む。
ベッドに顔をうずめ、思い出に浸る。
悪い夢なら、覚めてくれ。
「おはようございますぅ。」
声が聞こえて顔を上げると、カーテンが開かれる。
青い世界が眩しく輝き、目を伏せる。
長く眠っていたようだ。
「見回りが一度見かけたそうですが。熟睡されていたようで。」
看護師のようだ。
背中に布が掛かっていた。気を遣わせたらしい。
「ありがとうございます。お返しします。」
「いえいえ。そのままでいいですよ。それよりも。
ほら。」
目線の先を追うと、別の女性と目が合った。
綺麗な顔だ。
思わず身を仰け反らせた。
ジロウ。…と思われる、人型の何かだ。
顔とは距離があるのだが。
まさか見られているとは思うまい。
看護師の女性は、ふふっ、と息を吹く。
「まあ。たまにある事なので。無理もないですよ。」
花瓶を置き替えながら言う。
「何はともあれ。これから一緒に、新しい人生を送る家族になるんですから。」
「優しくしてあげてね。」
家族。そうだ。
この人と生活する事になるらしい。
未来が微塵も想像できない。
ぼうっと考えていると、机に食事が置かれた。
「朝食です。しばらくこちらに滞在されますよね。」
「一応、食堂もありますが。一緒の方が良いでしょう。」
「あ。ありがとうございます。」
「ただ。今日は日曜日ですよね。平日は授業があるので帰らないと。」
「その事でしたら。こちらで授業をするから問題無いそうですよ。」
そうなのか。こっちの都合で申し訳なく思うが、先生も結構若い。足取りの軽さにはいつも驚かされる。
「なるほど。助かります。」
「いいんですよ。大抵の事はこちらで手配出来るので。何でも頼ってくださいね。」
「それから。食器はあとで下げに来ます。ゆっくりなさって下さい。では。失礼しますね。」
頭を垂れて看護師を見送る。
こうも至れり尽くせりな環境、かえって緊張する。
ひとまず食事をさせてもらおう。
・
・
・
落ち着かない。
食事をじっと見られている。
点滴を受けているなら食べなくても良いはずだが。
そういえば、犬のような耳はあるが。
歯はどうなっているのだろう。
鋭利な歯が揃っているのだろうか。
尻尾も見てはいないが、どんな尻尾だろう。
そもそも今は仰向けで寝ている。
尻尾はどこから伸びているんだろう。
…目前の女性で妄想している。
意識した途端、湧き上がる背徳感に顔が熱くなる。
そんな趣味は無い。やめておこう。
ご飯をかき込むと、手を合わせて食器を片付けた。
快晴だ。窓を開けると涼しい風が吹き込んでくる。
敷地には緑の絨毯が広がっており、何人かの人影が見える。僕らのような人達だろう。
尻尾をたなびかせて駆ける姿に、思い出を重ねる。
ジロウも、駆け回るのが好きだった。
託児所の庭で出会ったときはへたり込んでいたのに、
元気に成長した頃には追いかけるだけで苦労した。
彼女が本当にジロウなら、歩くようになったらもっと大変かもな。
頬を緩めて振り返る。彼女はまだ僕を見ている。
少しばかり首が動いた。
頭に手を乗せ、耳を梳く。
まだまだ時間は掛かりそうだ。