夢
首輪は目印だ。
所有を明らかにし、誰かのモノである事を示す。
それは赤い紐で編まれていた。
ジロウが死んだ。飼い犬だ。
その日は記録的な寒波、都市では異例の猛吹雪。暴風による音の遮断、視界は劣悪。
交通事故による多臓器不全で、ほとんど即死だった。
抱える腕はそこに生きていたはずの温度を感じる。
今も生きている。なのに名前を呼んでも動かない。
なぜ。どうして。
疑問だけが思考を巡り、答えを導く事は無い。
犬と共に、僕は死んだように動かなくなった。
気が付くと真っ白な世界で俯いている。
ここは夢?それとも死後の世界?
扉の引く音が聞こえると、答えはすぐに明らかになった。
「コタロウさん。安心していいですよ。」
おじさんの声が聞こえる。
視界が霞んでよく見えないが、白衣を着ているらしい。
呼んだのは僕の名前だ。
「無念でしょう。同情しますよ。ただ幸いにも、頭部は無傷でしたから。」
無念。そうだ。
家族が死んだ。僕が知る、唯一の…。
結んだ靴紐が同化する。
タイルの継ぎ目が歪む。
声が続けて聞こえるが、言葉を認識できない。
頭が張り詰めて潰れてしまう。
おじさんが黙ると、長椅子の隣に腰掛ける。
肩に手が触れ、手が頭に乗った。
「大丈夫ですよ。大丈夫。」
優しい声で、言葉を繰り返している。
父親がいたらこんな感じだろうか。
長い、長い月日が流れた。
ほとぼりが冷めた今も、夢に囚われている。
現実が見えない日々に縋るべきものを、何一つ見つけられずにいる。
「今日は終わりにしようか。」
先生の声だ。
今日も早々に授業を切り上げる。
喉で低い音を鳴らすと、一拍置いて口を開く。
「もうすぐ半年だろう。思い詰めても何かが変わる訳じゃないさ。前みたく元気出しなよ。」
「すみません。」
開かない口が応えた。
再び音を鳴らし、先生は言う。
「ほら。せっかく成績良いんだから、良い大学行くって話だっただろう。」
「このままだと夢のままだぞ。」
今度は声すら出なかった。
頭に手が乗ると、髪を掻き回す。
「コタロウ。」
「卑屈になるのはお前らしくない。前にも言ったけど。」
「帰ってくるかもしれないんだから。苦手かもしれんけど。」
「可能性がゼロじゃないなら信じてみろって。」
頭を二度、ぽんと叩かれると、先生は身支度を済ませる。
「じゃあ。また来週来るから。ちゃんとめし食って。ちゃんと眠れよ。」
背中に一喝し、先生は部屋を出た。
今日は金曜日か?
声が脳内に木霊する。夢の中で彷徨っている。
これもきっと夢の中だろう。
明日は何も無い。
そういえば先生は「もうすぐ半年」と言った。
グラス(※眼鏡型AR端末)を立ち上げ、指先でタグの記録を探す。消失記録は…。
そうか、もうそんなに経つのか。
日々の時間は長いのに、数字で見れば早いものだ。
『新たな一歩、新たな人生』
『あなたのペットに人生を授けます』
二十年くらい前から始まった治験の公募。
簡潔に言えば、死んだペットの記憶を取り出して、人間に移植する技術の臨床試験の事。
とはいえペットを蘇らせるのは建前で、その先にあるものは人間の転生を確実なものとする為の、動物実験でもあるとされる。
高度な社会を形成した人類は、己の欲に溺れて少子化を加速させていった。
対策を迫られた政治家達は、民意を無視した政策を強行し続けた。子供を作れば助成金が出るとか、地域でのフリーセックス運動とか、あらゆる手段で子供を作らせようとしてきた。
最終的には健全な家庭を築く基盤が無くなり、都市では衛生状態が回復不能に陥ったりして、人口減少を抑えるどころか拍車をかけている。
まともな家庭は高齢者に限られ、託児所には身元不明の赤子が押し付けられる。
僕もその一人で、両親の顔も名前も知らない。
大半の人には姓も無い。
今の総人口は、全盛期の半分も無いそうだ。
この問題を根底から覆そうとするのが、人類の転生。増えないなら減らさなければ良い。言うのは簡単だけど、これまでの技術レベルでは不可能だった。
実験動物から記憶領域の特定と抽出方法が確立された事で、器となる体を用意できれば移植可能とされた。
新しい人間は増えなくても、生命維持された肉体には余りがある。
脳死した人間の再利用。培養した空っぽの脳組織。
すぐに全員を、というのは無理だし、倫理問題をクリアする事も現行法では到底不可能。
人間の記憶を移植した際に起こりうる問題も予見出来なかった。
そこでパス出来たのが動物の記憶移植。言ってしまえば、人間の未来の為に動物を利用する。
最初の実験成果が公表されると、ペットを蘇らせる可能性に、希望を抱く人達が声を上げ始めた。
これが後の公開治験に繋がるのだった。
僕のジロウは、生後間も無い頃に拾った犬だ。
人口減少に伴い飼育数が減った事で、ペット自体も数を大きく減らしつつある。
野生化した種類もいるらしいが、都市の外には出た事が無いから分からない。
少なくとも今の人間にとって、ペットは貴重で、荒んだ心を癒してくれる。
そして何よりも、かけがえのない家族だ。
どこに行っても一緒、寝る間も一緒。夢の中でも…ずっと一緒だったら良かったな。
考えなかった時間は無い。心の隙間を埋めてくれる、唯一無二の存在。
家族や身寄りの無い、孤児ばかりの現代。
僕にはジロウだけが友達で、親友で、家族で。
いつまでも、今でも共に暮らしていく筈だった。
天井の角に目をやる。
喪失感。
何もかもを失ったら、希望なんてある訳が無い。
偉い人も金のある人も、転生にばかり固執する。
そんなに自分が可愛くて恋しいのだろうか?
成功体験が誇らしい?
何もかも失敗したらどうする?
お金が大事?
失った後が恐くないのか?
僕は…。
いっそ、心ごと生まれ変わったほうが…
気楽だと思う。
………。
ジロウの誕生日、いつだったかな。
正確な日付は分からないけど。
もうすぐだったような気がするな。
今日は涼しいな。
もうすぐ夏だな。
お腹、空いたな、
力無く項垂れ、いつしか瞼を閉じていた。
目を覚ますと、暗く暖かな木目の影が見えた。
カーテンの隙間から注ぐ光は黒く、雨が窓を叩く。
重い頭が、体をベッドに縛りつける。
現実の景色が、淡くぼんやりと網膜を彩る。
もう一度、夢を見させて。
自分の意思で瞼を閉じた。
・
・
・
これ、犬か?猫か?本物を見るのは初めてだ。
外から来たのか。
泥まみれじゃあないか。
寄るな。噛むんじゃあないぞ。
そこで待っていろ。何か探してくるから。
すみません。庭に入り込んでいたものですから。
僕の部屋だけで構わないので、住まわせて下さい。
検査が済んだら、僕が面倒を見ます。
コタロウ君。随分と利口な犬だね。名前は何と言う?
ジロウといいます。僕の名前からとって。
まるで兄弟のようだね。賢い所も瓜二つだな。
大事にするんだよ。
はい。先生。
僕。リードは付けないの?
大丈夫です。逃げたりしませんから。不用意に噛む事もありません。
偉いねえ。うちの子はやんちゃだから。しつけは誰に習ったの?
施設で偶然拾った子なので。僕が面倒を見ています。
まあ。野良の子かしら。逞しく育つと良いね。
こら。顔を舐めるんじゃない。うう。
帰るまで撫でてやらないぞ。
あはは。冗談だよ。ほら、おいで。
なあ、ジロウ。
もしも。
人間と同じ暮らしが出来るとしたら。
どうしたい。
自由になりたいとか。
実は僕が嫌い。とか。
思っている事を、言葉で表す事が出来る。
お前ならどうする。
…。
なんて。
冗談だよ。
おやすみ、ジロウ。
おやすみ。
目が覚めた。
なんで。嫌だ。
夢の続きが見たい。
僕を夢の中へ誘って。
目を伏せ布団に蹲る。
眼が熱くなり、瞼を開けろと騒めく。
時間が、泡沫の夢のように過ぎ去った。
今は何時か。外れたグラスを掛け直す。
もうすぐ昼になる。随分と長く眠ったようだ。
窓から覗く様子では、雨が降っているらしい。
それよりも空腹が限界。何か食べよう。
冷蔵庫を開けると見覚えのない小包が入っている。
チョコ菓子だ。
先生が気遣いで寄越してくれたのだろうか。
菓子を食べるのは久しぶりな気がする。
二層に分かれた食感が新鮮に感じる。
もう一つくらい置いてくれてもいいのに。
…なんて、図々しいか。
簡単に食事を済ませた。
さて。何もする事が無い。
とはいえ最近は外出も碌にしていない。
血行不良のせいか、身体中がじわりと痛む。
シャワーを浴びたら散歩でもしようか。
風呂場を上がると、机上のレンズが通知音を鳴らす。
電話だろうか。まさか先生ではあるまい。
「コタロウです。」
「先進医療研究センター、動物脳神経特殊外科です。
ご連絡が大変遅くなりました。」
医者?
「…もしもし?」
「ああ、すみません。何のお話でしたか。」
「半年ほど前にお預かりさせていただいていた
ジロウちゃん…ですが、先程意識が回復しました。
今からでも面会の手配を出来ますがーー
「すぐに。すぐに向かいます。」
棚に大事にしまい込んだ小箱を持ち、飛び出すように部屋を開けた。
通話は繋がったままだ。
久々に電車に乗った。
通話は…切れている。
揺れのせいか吐き気がする。
心臓の強い拍動が痛みのように感じる。
人として蘇る?どういう感覚なのかわからない。
この目で確かめる他あるまい。
改札を出ると、スーツ姿の女性に車まで案内された。
乗り物酔いが悪化したような気がする。
目眩のように朦朧とする。
高揚して息が上がる。
違う病院に着いたなら、僕が入院しかねない。
幸か不幸か、到着したのは半年前に見た病院。
もとい、研究施設だ。
窓越しに、人型の異形を目の当たりにしたような。
耳、尻尾。髪以外の体毛は、遠目では確認出来ない。
コスプレだろうか?
錯覚なら良かったのだが、見れば見るほどに現実となり、不自然なようで、極めて自然だ。
不気味さが紛れるほど、人のような、猫のような…。
酔いはいつしか醒めていた。
「あの。あれって。」
「ああ。説明されてなかったですかね。
コスプレじゃあ、ありませんよ。」
「はあ。」
猫のような人のような?何かと、その手を引く女性の後ろ姿を見送った。
「ご案内しますね。」
後ろを付いて歩く。
以前来た時の記憶は朧気だが、違う場所へ向かっている。東棟の地図、”寝室”と書かれた場所だろうか。
内外装は病院と差程変わらない。違う点があるとすれば、待合室が無く、人気も少ない。
連絡が来てすぐの訪問だったが、受付もスルーした。
比較的新しい施設であり、先端技術が使われていると言われれば納得してしまうほど無駄がない。
思えば、屋内は白一色なのだが、香りは素朴な自然を感じられ、まったく気にならなかった。
思い耽っていると、女性が歩みを緩める。
僕はあわてて立ち止まった。
「この部屋です。目覚めて間もないですから、驚かさないようにしてあげて下さいね。」
寝室-207。
この部屋に、ジロウがいるという。
いざ言われると緊張する。
本当にジロウと再会出来るのか。
そもそも、それをジロウと呼べるのか。
顔を憶えていたりするのだろうか。
何と声をかけるべきだろう。
扉に手をかける。
女性は物言わず応援する素振りを見せる。
意を決して扉を引いた。
白衣が座る隣に、横たわる人の姿。
頭に布を巻いている。隙間から三角の突出した形状。犬の耳だ。毛を纏っている。
髪は長く、掛けられた布に吸い込まれる。
犬の模様が描かれた、寝間着のような格好。
まるで子供だ。
顔立ちは整った輪郭を見せる。
女性のようにも見える…。
思えば、ジロウの性別を気にしたことは無かった。
雌だったのか?
白衣がこちらに顔を向け、声を上げた。
「ようこそ。いらっしゃい。お顔を見てあげて。」
目配せをして、よそよそしく足を踏み出す。
犬では無い、人の元へと歩いていく。
心臓が高鳴る。
不思議な感覚だ。淀んでいた気分が晴れている。
ジロウではない、何か。ただの人。見知らぬ誰か。
得体の知れぬそれに邂逅した。
複雑な思いとは裏腹に、体は軽かった。
ただの他人だ。
言葉を聞くまでは。
呼吸音。すん、と聞こえると、目がこちらを見た。
綺麗な眼。人のそれとも違う。
鉱物というか、水のような、油膜の煌めきのような。何重にも層が分かれ、落ちていくような。
切れ込みのような瞳孔に、僕が映る。
両の耳が、僕を見る。
「…ジロウ。」
聞こえなかったのか。
身動ぎ一つ、見えない。
「ジロウ。ジロウなのか。」
再び名前を口にする。
立ち尽くす。
沈黙が怖い。
『…ぅ』
医者がぎゅう、と拳を握ると、顎に手をやる。
動作を追うように、ジロウの目耳がそちらを向く。
黙り込んだ医者の表情を窺うと、目が合った。
「赤子と同じ状態。と言えば。」
「わかるかな。」
記憶は。
思い出は。
まだ無いと決まった訳じゃ無い。
きっと、そういうものなのだろう。
思考が廻る。
そこに居るのは何者だ。
これはジロウではない。
呆然と立ち尽くしたまま。
「よく。」
「わかりません。」
23/09/18 お話を組み立てる都合により、元々あった二話「邂逅」と統合しました。