8. 収穫祭
土砂で塞がれていた山道を抜け、次に宿を取ったのは小さな街だった。到着した頃には陽が沈みかけていたが、人々は慌ただしく活動していた。街中にはカボチャや乾燥したブロンでできた装飾品など、あちこちに雑多な物の塊ができている。宿泊する宿の中にも階段に木箱が積まれていて、一部の通路は狭くなっていた。
「なんだか慌ただしいですね」
「2日後に祭があるそうだ。数年ぶりの開催だと」
「そうなのですか!それは良いことですね」
この時期であれば秋の実りに感謝するものだろう。ここ数年は瘴気で寒く薄暗い日々が続いていたから、農作物の実りは年々減っていくばかりだった。豊かになるにはまだ時間がかかるが、こうして人々の生活が元に戻っていくことを肌で感じられるのは本当に喜ばしいことだ。
「見ていくか?」
「よろしいのですか?ただでさえ土砂で足止めを食らったのに」
「ああ。あと1日2日追加されても変わらない」
「ありがとうございます!」
祭に参加したのは6歳頃が最後だ。それ以降は遠くから眺めたり警備で配置されたことはあっても、楽しむために回ったことはない。つい子どものようにはしゃぎそうになり、緩んだ頬を手でおさえた。
「そうだ、キース様。皆にも半日ほど自由な時間を作っていただけませんか。きっと喜びます」
使用人の皆もグラニエル領を出て移動が続いている。土砂で動かない間に荷物の整理も終わってしまったと言っていたから、少し時間に余裕があるはずだ。ローラとメアリーの喜ぶ顔が思い浮かんだ。
「そうだな。分かった。通達しておく」
「ご寛容に感謝します」
結局1日特別な休暇と小遣い程度の手当を与えられることになり、皆は目に見えて喜んでくれた。翌日は町長から街の案内を受け、夜にはこの領地を治める伯爵夫妻から会食に招待され、厄災討伐について感謝の言葉を承った。祭の準備で忙しい時に申し訳なかったが、彼らは旅の話を嬉しそうに聴いてくれた。
到着して2日後、朝食を済ませると身支度のためにローラとメアリーに寝室とは別の部屋に連れて行かれた。この宿の女将の部屋らしい。
棒立ちになっている間に服を脱がされ服を替えられ、流れるように椅子へと手を引かれて目を瞑るように言われる。大人しく目を瞑っていると化粧と髪を器用に二人同時に作業し始め、いつものように訳のわからない間に終わっていた。
「シニョンにして三つ編みで囲んでみました。この衣装にぴったり!とてもお似合いです」
メアリーは嬉しそうに鏡を見せてくれた。綺麗にまとめてくれたのはありがたいが、それ以上に私は今日の衣装が気になっていた。
「メアリー、これは未婚の娘が着るものではないのか?落ち着かない」
胸のあたりが大きく開き、ウエストを絞るデザインは露出が多く、スカートに慣れてきた今でも外に出るのを躊躇ってしまうようなものだ。
「いいえ、ちゃんと宿の女主人に確認いたしました。街の女性は皆このような格好をするらしいですよ。英雄として昨日みたいに囲まれてしまっては、せっかくのお祭も楽しめなくなってしまうじゃないですか。馴染めたほうがよろしいでしょう」
「まぁ、確かにな。分かった。気遣ってくれてありがとう」
メアリーの言葉には一理ある。周りも同じなら目立つ物でもないだろうし、気にするのはやめた。メアリーは満足げに頷いた。
窓の外から街の様子を見ると、様々な露店が立ち並んでいる。その間を楽しそうに歩く街の人々も、確かに私と似たような格好をしていた。
「では行ってくる。二人も楽しんでくれ」
「ありがとうございます!ソフィア様もいってらっしゃいませ」
ローラとメアリーに見送られ、部屋を出てキース様がいるはずの部屋をノックした。返事があったので扉を開けると、キース様はソファに腰掛け本を読んでいた。
「何を読んでいらっしゃるんですか」
「この街の歴史書だ」
キース様は本を閉じて立ち上がった。
「抗毒の魔石は身につけているか?」
「いえ」
「ならこれを」
キース様は自身の首の後ろに手を回し、チェーンを外して私に手渡した。チェーンの先には荒削りの青い魔石が付いている。宝石としてカットされたものではないが、鮮やかな色は美しい。
「比較的安全な街だが渡しておく。楽しんできてくれ」
「えっ」
当たり前のように一緒に見て回るのだと思っていた。思わず不躾にキース様のことを見つめてしまうと、キース様は私を不思議そうに見つめ返した。
「……はい、お気遣いありがとうございます」
羞恥心なのか悲しみなのかよく分からない強い感情が湧いてきた。祭に興味がなく読書を楽しんでいるキース様を無理に引っ張っていくのは申し訳ないが、私は一緒に回るのをかなり楽しみにしていたらしく、少し泣きそうだ。
「ソフィア?」
「楽しんできますね!土産話を楽しみにしていてください」
気持ちを入れ替えてぱっと顔を上げた。そして部屋を出て一人になったとたんに盛大にため息が出た。
(一言も一緒に見て回ろうとは言われていないのに、勘違いしていたな)
ローラとメアリーを誘っても良いが、私と一緒では遠慮なく楽しめないだろう。
「せっかくだし一人で楽しめばいい。よしっ、行くか!」
気持ちを切り替えるために上を向いて自分の両頬を叩き、先ほどの魔石を身につけて街に出た。
露店は飲食店がほとんどで、食欲をそそる香りが立っている。街の人々は歩きながら食べているようだ。私も野外で食事をすることはよくあるが、立って歩きながらというのははじめての経験だ。この街は主要な場所を巡っても軽い散歩程度の距離である。一旦街をぐるりと回って見ることにした。
左右を見ながら少し歩いたところで、赤毛の娘に声をかけられた。
「お姉さん観光の方?ようこそ!レチレルの果実酒はいかが?」
「ああ、そんなものだ。どんな味なんだ?」
「シードルみたいな感じよ。炭酸は大丈夫かしら」
答える前に私の手にグラスを握らせようとする強引さが商人らしい。断る理由もないので購入して一気に飲み干し、グラスは彼女に返却した。
「美味しかった。ありがとう」
「良い飲みっぷりだわ。こちらこそありがとう。お酒強いの?」
「そうだな。あまり酔わないよ」
「ふぅん、お姉さん、話し方も酒の飲み方も男みたいね。なんだか強そうだけど、祭中ははしゃいでる男が多いから気を付けて。市庁舎の横道より奥は治安が悪くなるから近寄ったらだめよ」
「ああ、これでも腕は立つ方だ。だがありがとう。気をつけるよ」
「うん、行ってらっしゃい。楽しんで」
メアリーたちのおかげで、上手く観光客に紛れられているようで良かった。昨日町長たちと街を回った時のように、好奇心の混じった瞳で私を見つめるものはなく、声をかけてくるのはもっぱら露店の商人たちであった。手が空いてる限りは声をかけられたら順に購入して、気付くと一人で持ちきれなくなっていた。親切な店主に袋をもらってなんとかなったが、そろそろ食べないと袋もいっぱいになりそうだ。
中央に進むと人が増えてきて、ゆっくりとしか歩けなくなる。はちみつを絡めてローストした木の実や、薄いブロンの生地に砂糖をまぶした菓子を歩きながら食べようとしたが、手が塞がっているのもあってこぼしてしまいそうだ。横道に避難することにした。
「食べ歩きというのは中々難しいんだな」
中央に、豊穣を司る女神フロアデテの像のある開けた場所があった。横道にそれたせいか、まだ早い時間だからか、ぽつりぽつりと人がいる程度で静かだ。噴水のところに腰掛けて食べることにする。
風も通るし天気も良く、遠くの方で人々が騒ぐ声に活気を感じる。とても心地よい場所だ。平和でのんびりした空気を楽しんでいると、遠くの方に誰かがふらつきながら箱を運んでいるのが見えた。頭よりも高いところまで箱を積んでいるせいで顔は分からないが、服装と背格好から若い娘だと思う。手伝ってやろうと思い立ち上がると、私よりも早く数人の男が彼女に声をかけた。
男たちは娘の手から箱を取り、一緒に運んでくれるようだ。しかし、どうも彼女は嬉しそうではない。
(声をかけた方がいいのだろうか)
彼らが知り合いなのかそうでないかも分からないし、見知らぬ街で余計なことをしては彼女にも恥をかかせるかもしれない。会話が聞こえる程度の距離まで近付き様子を見ることにする。
顔つきがはっきりと認識できるあたりまで近付いた時、娘と目が合った。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「……助けて」
彼女が小さな声で助けを求めたのと、私が彼女の手を握っている男の手をねじり上げたのは同時だった。娘を解放し、私の背にかばう。
「いって……」
何が起こっているかよく分かっていない男の首筋に、護身用の短剣を鞘から抜かずに当てた。
「この娘は私の連れなんだ。手助けは私がするからお前たちは祭に戻るといい」
「は……?」
短剣が死角にあるこの男だけが好戦的な顔をしていたが、仲間に耳元で何かを囁かれて慌てた様子で私から離れた。そして、私の手にある短剣を見て顔を青くして走って逃げていった。比較的安全な街と言っていたから、農具と調理器具以外の刃物を見る機会は少ないのだろう。大事にするのは本意ではないので、彼らが反撃もしようとしないのは助かった。
「賢明なやつらでよかった。大丈夫か?」
振り向いて娘の無事を確認すると、ぽかんと口を開けて立っていた。それから私の声に反応して肩を跳ねさせた。
「あ、ありがとうございますっ!巻き込んでごめんなさい……」
「気にしなくていい。これは全部貴女が一人で運ぶのか?良かったら手伝うよ」
「大丈夫です、そんな」
落ちてしまった箱を持ち上げると、中々重量がある。これはこの娘が一人で運ぶのは難しそうだ。
「結構重たいな。落とすと嫌だから手分けしてもいいか?」
「あのっ、でも」
「代わりに道すがらこの祭のことを教えてくれ」
「本当にいいんですか?」
「もちろん」
「すごく助かります。ありがとう」
彼女は控えめな笑顔が可愛い娘で、名前をエリスというらしい。刺繍工房で働いている。祭の商品であるオーナメントの在庫を運んでいる途中で男たちに声をかけられて困っていたということだ。
エリスは歩きながら祭の概要や、飾ってある装飾品について説明してくれた。
「今日のお祭はフロアデテ様に秋の恵みを感謝するもので、美味しいものを食べたり、収穫したものを神殿に捧げたりします。この衣装はフロアデテ様に仕えていた官女のものだって言われてるんですよ。あとは広場でみんなで踊ったり、あそこにあるようなカボチャをカービングして飾りを作ったり……でも結局お酒とごはんが一番大事ですね」
「確かに美味しいものがたくさんあるな」
「はい。神殿の前のパン屋さんは行きましたか?そこのミートパイが一番おすすめなの」
「まだ神殿までは行ってないな。あとで行ってみるよ」
おしゃべりをしている間にエリスの働いている店に着いた。工房に店舗が併設されており、秋らしい刺繍を施した生地や装飾品が表にも並んでいた。
「ソフィアさん、本当にありがとうございました。こんなに遠くまで申し訳ないです」
「気にするな。こちらこそ、一人で来ていたから少し寂しかったんだ。貴女のおかげで楽しかった」
「私も楽しかったです!……あの、本当に今日はお一人ですか?」
「ああ。待たせてる人もいないから気に病む必要はない。店番頑張ってくれ」
「ありがとうございます。少し待っていてもらえませんか?お渡ししたいものがあります」
エリスは店の中に入った。店内で職人らしい若い男と話をしている。二人で私のほうを見て、男の方が頭を下げた。エリスは店の奥からなにか輪になった飾りを持って出てきた。
「さっきの広場の踊りなんですけど、みんなこの冠をつけるんですよ。良かったら受け取ってください」
乾燥した穀物を曲げて作った輪に、色鮮やかな花とオレンジ色のリボンが付いている。リボンは頭に乗せると背中につくのではないかというくらいに長く、植物とフロアデテの使いである尾の長い鳥が刺繍されていた。先ほどまで街中でも同じようなものを見たが、ここまで丁寧な装飾はされていなかった。
「すごく凝った作りだな。貴女が自分で使わなくていいのか?私はダンスはあまり得意ではないんだが……」
「私は、今年は参加しないんです。実は、誘いたい人が参加できなくなってしまって」
エリスは店の中に目を向けた。先程彼女と会話をしていた男がいる。よく見ると足を怪我しているようで、引きずって歩いていた。
「そうか。残念だったな」
「あっ、でも、いらないから渡すというわけじゃなくて!すごく頑張って作って、本当に気に入ってるんです。だから、……」
「丁寧に作ったことが伝わってくる。本当にもらっていいなら、ありがたく受け取るよ」
エリスはほっとしたように微笑んだ。ブロンの冠に額をつけ、囁くように祈る。
「エデナの園にましますフロアデテ様、わたくしは今日この出会いに心から感謝いたします。フロアデテ様の御心と御加護が、わたくしの友のソフィアさんと共にありますように。……どうぞ」
「ありがとう」
「楽しんできてください。ダンスはくるくる回るだけで大丈夫ですよ!みんなちゃんと習ったことなんてないですから」
エリスが私の頭に冠を載せてくれた。ふわりと笑う顔がとても愛らしかった。エリスは一礼して店の中に戻っていった。
少し動くだけで長いリボンがひらりと巻う。たくさんの街娘がこのリボンをつけて回る様子は神々の住まうエデナの園のように美しいだろうが、エリスのその姿をあの職人の男が見れないことは惜しいと思った。
店の中に目を向けると、二人は楽しそうに会話している。広場に行かなくても良い時間を過ごしているようだから、私の心配は余計かもしれない。
フロアデテ様の像がある噴水からエリスの店までかなり歩いたため、少し腹に余裕ができた。先程買った食べ物を今度こそ食べようと思って座るところを探したが近くにはなさそうだ。
(広場とやらに行ってみるか)
ここからはそう距離も遠くないはずだ。昨日町民に案内してもらった道を思い出そうとしていると、首筋にチリチリとした痛みが走った。
(なんだ?魔力探知か?)
誰かがこちらの場所を探ろうとしているらしい。魔力探知は扱いが難しい魔法で、全くの他人を探りあてられるとしたらそれだけでそれなりの使い手だが、自分の気配を消すほどの技量はないらしい。
(……大通りに出ないほうがいい。待ち伏せして潰すか)
まさか先程の男たちが復讐しにきたわけではあるまいが、どこで誰に悪意を持たれるかは分からない。人数も分からないので数を警戒して細い道で待ち伏せすることにする。ちょうど良い小道を見つけてそこの壁に背をつけた。
(……隠す気がなさすぎる。素人だな)
本物の魔導師ならせめて偽装はするものだ。魔導師と呼ぶほどでもない素人だと分かる。厄災討伐の報奨金を狙ってくる者がいないわけではないから、昨日の時点で目をつけられていたのかもしれない。
魔導師相手なら奇襲で喉を切るのが一番早い。護身用の短剣を鞘から抜いて息を顰め、相手の動きを待つことにした。
カツカツと足音が聞こえてくる。黒い人影が小道を覗き込んだ瞬間、喉元に向かって短剣で突く。奇襲したつもりが避けられた。
(魔法が素人だと思ったら本業は接近戦か!)
すぐに体勢を整え追撃しようとして人影の顔を確認すると、そこにいたのは見知らぬ暴漢ではなくキース様であった。
「は?!」
もう殴る準備をしてしまっていて、今更止められない。軌道を逸らそうとして重心をずらしたせいでキース様に体当たりしてしまい、そのまま押し倒して馬乗りになってしまった。キース様は気抜けた顔で私を見ていた。
「も、申し訳ありません!!大丈夫ですか?まさかキース様だったとは……なぜ魔力探知なんて怪しい真似を」
慌てて起き上がり手を差し出し、キース様が立ち上がるのを助けた。息が切れているから走ってきたようだ。
「緊急事態ですか。すぐ戻ります」
「違う」
「?ではなぜ私を探していたんですか?」
キース様は少し気まずそうだった。
「……一緒に街を回ってもいいかと、聞きに来た」
「へ?」
つい口を開けたままキース様の顔を見つめてしまった。
「もしかして、ローラたちに何か言われました?」
彼女たちは私がキース様と一緒に出かけるつもりでいたことを知っている。宿に一人残ったキース様になんらかのプレッシャーをかけた可能性はある。キース様は首を横に振った。
「……貴女は二人と一緒に出かけたのだと思っていた。俺は一緒にいて楽しい人間ではないし、女性同士の方が気兼ねないと。一緒に回るのが嫌で送り出したわけではない」
「私は貴方といるといつもつまらなそうですか?」
「いや……」
「ではそれが答えです。……良かった。本当は、キース様と回れなくて残念に思っていたんです」
キース様は外套も羽織っていない。その上普通は使わない魔力探知を試みていたのだ。急いで探しにきてくれたことが伝わってきて、それだけで埋め合わせとしては十分だ。
キース様は私の胸元に目を向けた。お借りした魔石が青く輝いている。先ほど前屈みになったため、服の中に隠れていたものが外に出てしまったようだ。
「これはお返ししますね。ありがとうございました」
外して手渡すと、キース様はそれをじっと見つめてから自分の首に戻した。
「荷物が多いな。何を食べたんだ。気に入ったものはあったか」
「それが、歩き食いが難しくて実はまだ全く手をつけていないんです。最初に飲んだレチレルの果実酒は美味しかったですよ」
「ガスが入った甘い果実酒だったか」
「ええ。赤い髪の娘が店番をしているところです。宿を出てすぐですから最後に寄りましょう」
「ああ」
「食べながら歩いて広場に行きたいです。皆この冠をつけて踊っているらしいんです」
「構わないが、俺はダンスは苦手だ」
「私も苦手なので大丈夫です。何も考えずにくるくる回っていればいいそうですし、せっかくなので楽しみましょう」
その場でくるりと一周回ってみる。
「その頭の冠はどうしたんだ」
「これは先程出会ったエリスという娘にもらいました。彼女の手作りだそうです」
「借りても良いか」
「?はい」
キース様はブロンの冠を眺め、少し戸惑いを含めた視線を私に向けた。
「……この長いリボンは、『自分は未婚の娘で、誘いを待っている』という意味だ」
「え?!」
だから、エリスは私が一人かと聞いたのか。街で遊び相手を探そうなどとやましいことを考えていた訳ではないが、申し訳ない気持ちになる。
「それは……知りませんでした」
「少し手を加えても構わないか?」
「ええ」
キース様は長いリボンの裾をくるくると輪の部分に巻いてゆき、最後に二つの裾を合わせて結んだ。初めからそういう意匠だったと思わせるような出来だ。
「器用ですね」
キース様は冠を私の頭に乗せた。
「こうすると、『自分には想う人がいる』という意味に……なる、そうだ」
「なるほど」
夫婦なのだから街中に私がキース様を想っていると触れ回っても差し支えないのだが、なんとなく気恥ずかしい雰囲気になった。
私たちは好きや嫌いという想いを抱く前に結婚した上、まだ本物の夫婦としての務めを果たしていない。私はこのブロンの冠のように、はっきりと気持ちを伝えたこともないどころか、自分の気持ちさえ実はよく分かっていない。
一緒にいて楽しいという気持ちが、旅の仲間や友人に向ける親愛と違うものなのか計りかねている。
「広場はあちらだ」
「はい」
歩き食いに挑戦しながら、私は先程まで見た祭の様子やエリスのことを共有した。ゆっくりとした足並みで、人混みに紛れて広場へ進む。
広場では、今日恋人になったばかりのような初々しい二人が溢れて、二人で顔を近づけ笑い合い、誰も彼も周りのことなど見ていない。
音楽と人の並び方は、王都でも私的で気軽なパーティーで使われるものと酷似している。ただ誰も形式的な動きは気にしていないのだった。
「確かにこれならダンスが下手でも誰も気にしませんね。お相手をお願いできますか?」
キース様に声をかけると、キース様は一人だけ王城のダンスパーティーに参加しているような形式的な礼をして私に手を差し出した。手を取るとちゃんと私をリードしてくれるので、適当にくるくる回るつもりでいた私は面を食らってしまった。
「苦手と仰っていたのに」
「苦手だ。正式な場ではとても人に見せられるものじゃない」
「私はキース様よりもっと下手です。今も足を踏みそう」
「踏んでも構わない。丈夫な靴を履いてる」
「ふふっ……それは安心です。はっ、もしかして、我々はナターシャ様とレイの挙式の前に練習せねばならないのでは?陛下の御前で足を踏むかもしれません」
「そういえば……。護衛に混ざりたいという話をもっと真面目に主張すればよかった」
「え?はははっ、それはナターシャ様が許しませんよ。観念して一緒に練習しましょう」
果実酒一杯では全く酔わないが、今日の空気に酔っているような、ふわふわと気持ちが浮くような心地がする。段々キース様も形式通りのリードが崩れて、私たちは周りのペアと同じように無秩序にくるくると回るだけになった。
「楽しいです。パーティーが全てこんな感じならいいのに」
キース様に笑いかけると、キース様も笑顔を返してくれた。
「そうだな」
海のような瞳が細まる。そこには慈しむような優しさがあった。陽が落ちかけた場所で見たことが惜しいと思う。私が初めて見た正真正銘のキース様の微笑みだった。痛むように胸が高鳴って、身を委ねたいという気持ちになる。
名前を呼ぼうと口を開くと、キース様はパッと手を離した。
「キース様?」
「……陽が落ちそうだ。そろそろ戻ろう」
「はい」
すっと視線をそらされると、まだここに残りたいとは言えない。目の前で繰り広げられていた魔法が突然解けてしまったような喪失感があった。
帰りに寄ろうとしていた果実酒の店は、残念なことに店仕舞いしてしまっていた。一緒に味わうことはできなかった。
楽しい思い出とともに最後は少し寂しさを残して、次の日に街を出発した。それから5日ほどかけ、私たちはグラニエル領内に戻ってきた。
長くなってしまいすみません。
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