3.初夜
「久しいですね、キース様。お変わりなさそうです」
「ああ」
私は、元旅の仲間であり、前世では剣術に磨きをかけてくれた師であり、現在は夫であるキース様と対面していた。場所はグラニエル公爵領内の屋敷である。仲間達と離れてまだ1ヶ月と経っていないのに、旅に出ていたことが遠い昔のように感じられる。
キース様は相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。黒髪は夜の闇に溶け込んでおり、青い瞳も感情を読み取らせない。身長も高いし、身につけるものも全て黒くて、威圧感がある。滞在中の街で魔獣と間違えられて子どもが泣いたことがあった。
その時のことを思い出してつい笑いそうになっていると、キース様が私に視線を向けた。
「何だ」
「いえ、キース様がお変わりなくて懐かしい気持ちに浸っているだけです」
手続きが早すぎて、気がついたらレイとナターシャ様よりも先に結婚してしまっていた。式の準備に時間がかかる二人と違って、私とキース様の式は神殿で簡素に形式通りに行ってもらったためすぐに完了した。
お披露目の会は流石に小規模とは言えなかったが、全て公爵家の手配で行われた。公爵家の膨大な関係者への礼儀として開催された形式的なものだ。そのため、私は自分の式なのにどこか他人事のようであった。
当日も公爵家どころか新郎のキース様とさえ話す機会はなく、集まった客人に囲まれて旅の様子についてできる限り面白おかしく話し、ひたすら挨拶をして回っていたら終わっていた。話す機会があったとしてもキース様は楽しく雑談するような方ではないから、大して変わらないかもしれないが。
そうして公爵家の嫁になったという実感が一切湧かぬまま、新居に移動してきたのが今日である。
そもそも結婚というのは家と家の繋がりを強化するために行われるものであり、当人同士の意思などは二の次だ。
今回の結婚は、結婚前に顔や人となりを知る機会があり、人として信頼できる方を伴侶にできたのだから、こんな状況でもかなり恵まれたものと言えるだろう。
「それにしても驚きました。なぜ急に結婚することにしたのですか」
「父に早く妻を娶るように言われて、貴女の顔が思い浮かんだ」
「なるほど。それなら納得です」
ここで甘い言葉が出てこない方がキース様らしく、安心してしまった。厄災を討伐した今、次期公爵としての立場を強固にしていく上で妻となるものが必要だったのだろう。
「私以外に女性との交流がなかったばかりに惜しいことをしましたね。キース様が愛想の一つでも振りまけば付いてくる女性はいらっしゃると思いますが……」
辺境とはいえ交通の要所も有し、国にとって重要な領土を治める公爵家の嫡子。防衛に公費がかかるが、討伐した魔物を素材や加工品として売り出し、財政状態も問題ないと聞いている。キース様は腕が良くて危ない目に遭うこともない。ほどよく領土を空けるから妻の立場でも自由に過ごせるだろう。そして、無表情で愛想はないが精悍な顔つきをしている。
夜のような黒い髪に、静かな海のような青い瞳。しっかりとした体躯は頼もしいし、常に姿勢が良く、立ち姿は美しい。
本人がその気になればそれなりの令嬢を妻に迎えることができただろうに、陰気で無口なばかりに、私のような伯爵家の末娘で女性らしい魅力のない女を消去法で迎えることになっているとは、なんとももったいないことだ。
キース様の笑顔というものを一度も見たことがないから、笑顔で女性を魅了するのは無理か。
「……」
キース様は無言で頬の片方をぴくりと反応させた。
「もしかして微笑んでくれようとしてくださいましたか?ふっ……全然笑えていませんよ。私相手にはこれまでどおりで構いません。これからよろしくお願いします」
誤解したとはいえ、自分で承諾した婚姻だ。キース様と夫婦になると想像したことはなかったが、旅の仲間として信頼関係はあるし、悪い方ではないと知っている。
全力で役目を果たそうと心に決めた。
*
そしてその夜。身を清めた後、メイドのローラとメアリーにやけに丁寧に髪や爪に花の香りがするオイルを塗り込まれ、寝室に案内された。
そこには先にキース様がおり、サイドテーブルに置かれた魔石ランプの儚い灯りを頼りに本を読んでいた。
「な、なぜ貴方が私の寝室に……?!」
「ここは俺の寝室だ」
「えっ」
しばし沈黙が落ち、私はようやく状況が把握できた。我々は夫婦であり、夫婦は同じ寝室で寝ることが当たり前だ。
少なくとも1週間は毎晩一緒に過ごすことが慣例となっており、その後も定期的に共に過ごすことが求められる。我々の関係については公爵様に報告が上がるはずだ。夫婦とはそういうものだ。
嫁入り先を勘違いしていたことに気を取られてすっかり忘れていた。
今世では物心ついた時から鍛錬に集中していたし、前世でも誰かと浮ついた関係になる前に騎士として叙勲してしまった。そもそも私はレイが好きで、その想いを告げる気もなかったため、男性と関係を持とうとしたことがない。こういった時の作法にも詳しくない。婚姻前にちゃんと確認しておけばよかった。
「ソフィア?大丈夫か」
「……っ!」
キース様の手が私の腕に触れた。驚いて飛び上がるように反応してしまった。キース様はぱっと手を離した。
「身構えるな。何もするつもりはない」
「いえ、その…大丈夫です……キース様は私と同衾するのは嫌ではないですか」
「問題ない」
「そうですか」
キース様は相変わらず無表情だった。
問題ない、のか。
私は腕や背中の筋肉が発達しているため、後ろ姿だけなら男に間違われたこともあるし、言葉遣いや所作も女性らしさに欠ける。
しかし、胸は豊かだし、鍛えていても間違いなく女の体だ。役割を果たすことはできる。そういう意味では問題ないのだろう。
寝台に入ろうとして、動揺しているせいでバランスを崩した。思わず寝台に腰掛けているキース様の足の間に膝を立て、片方の手はキース様の肩に乗せ体重を支える形になる。側からみれば私の方がこの人を誘っているように見えるに違いない。
私の髪がキース様の肩にかかる様子が妙に艶かしく感じ、かあ、と顔が熱くなった。
「慣習で同室になっているから最初だけ耐えてくれ。後で貴女の寝室は別に手配する」
「いえ、その……大丈夫です。最初からそんなことをしては公爵家の名に傷をつけてしまいますし」
人見知りする幼子のように、もごもごと尻窄みになってしまった。
「ちゃんと、貴方の妻になるつもりで来ましたから」
キース様の青い瞳が揺れる。
今まで、私はこのように至近距離で男性から視線を向けられたことなどなかった。心なしか熱がこもっているような気がして怖気付いて後ろに下がろうとしたが、腕を強く掴まれて阻まれる。
私の腕に触れている指が熱い。痛くはないがしっかりと掴まれていて振りほどくことはできない。心臓がうるさく、自分の体温が上がっていくのを感じる。
「上手くできないと思いますが、そこはご容赦ください」
私の声は尻窄みになって自分でも聞き取れないくらいだった。覚悟を決めたと言っても喜んで受け入れる準備もできておらず、逃げ出したくなってきた。
強い視線に捕らえられ、目を逸らすこともできずにいる。急に恥ずかしくなってきて、熱くなった顔を逸らす。
「あ、あまり見ないでください」
「……」
腕がぱっと離された。私の足は往生際悪くじりじり後ろに下がろうとしていたために、勢いで後ろに倒れそうになる。体幹に力を入れて身体を支えようとしたが、それより先にキース様が立ち上がり私の腰を支えた。
至近距離で目が合う。先程私を戸惑わせた瞳の熱は消えていた。いつものように凪いだ海のような、静かであまり感情の読めない瞳が私を見つめている。
キース様の顔が近付いてきて、思わず固く目を瞑ってしまった。戦闘中ならば目を閉じるわけにはいかないが、これはきっと口付けをする流れだ。夫婦なんだから、別におかしくない。
少し待っても予想したことは起きず、様子を伺うために恐る恐る目を開けたところで髪に何かが触れた。
「少し外に出てくる。先に休め」
キース様はそれだけ言うと私から離れ、部屋の外へと出ていった。
「は……?」
思わず額に手を当てる。そこには何もないのだが、口付けの感触が残っているような気がした。