万全を期して臨みましょう
朝。
寝室のベッドで覚醒との境界も曖昧な薄い眠りから目を覚ます。
——今日は戴冠式当日。
「ヒナ、緊張しているか?」
「はい、とっても……」
クロが王様になり、私が婚約者として紹介される。
あまりにも現実味がなさすぎて、一周回って緊張しないような気も……いや、やっぱり緊張する。
こんなに緊張するのは学生時代の陸上競技会以来だ。
「でも——私、本番には強いタイプなので! 今日だって無事にやり遂げてみせますっ!」
ベストを尽くそうという緊張は、決してマイナスに働くばかりではない。
うまく付き合えば余計なものを削ぎ落とし、本質への集中を高めてくれる強い味方にもなるのだ。
姿勢を正して! 動作はゆっくり! 困ったら笑顔!
先生から教わったマナーの極意を頭の中で復唱し、気合い十分にぐっと拳を握りしめる。
「やはりヒナは美しいな」
「へっ?」
美しい……?
ドレスに着替えてばっちりメイクを施したあとならいざ知らず、今はすっぴんに寝衣姿なのに……??
クロの膝に乗せられて朝食をとっていると、八割ほど食べ終えたあたりで人が入ってきた。
兜はなく鎧のみ身につけた護衛騎士が四人と、メイドが一人に、ヤシュームが一人。
恥ずかしさに慌ててクロの膝を飛び下りようとするけれど、がっちりと腰に回された腕がそれを許さない。
クロはギャラリーなど見えていないかのように、私を抱いたまま平然と食事を終えた。
このままいつも通りクロの部屋で着替えをとはいかず、それぞれ別室に分かれて私は『私の部屋』で身支度を整えるのだという。
「私の部屋って……初耳なんですけど」
「この部屋の隣にある」
「初耳なんですけど」
毎朝一体どこから持ってくるのだろうと思っていた私の着替え類は、きっとその部屋のクローゼットに詰まっているのだろう。
すぐ隣に自分の部屋があるのに毎晩クロの部屋で寝ていただなんて。周囲から一体どう思われていたのかと考えれば、叫びだしたいほどの羞恥心に襲われる。
ちっ、違う! 違うの! 部屋があるのを知らなかっただけで、私はそんな……っ!
クロは名残惜しそうに私を下ろして立ちあがると、私の耳元に口を寄せた。
「ヒナ」
「——っ!」
吐息に耳をくすぐられ、危うく変な声が出そうになる。
毎晩クロがいろいろしてくるせいだ。
「今日は俺が与えるもの以外、何も口にしないでほしい」
「えっ? はい……」
なんだろう? 式典のご馳走をつまみ食いしそうだとでも思われているのだろうか?
出逢う以前にブドウを盗み食いした前科があるからなぁ。
「少々騒がしくなるだろうが、備えは万全だから心配いらない」
「? はい」
「最後の仕上げに——ヒナ、思い切り魔力を吸収してもらえないか?」
「もちろんいいですよ」
差し出された手を両手で握ると同時に、穏やかなぬくもりが流れ込む。
さらに大きく口を開くような感覚で、もっともっとと吸い込んでいく。
よくよく考えてみれば、クロから魔力吸収を頼まれるのは初めてだ。
『能力』のために一緒にいるわけではないと示そうとしてくれているのか、私から何か手伝わせてほしいとねだったとき以外でクロが魔力吸収を頼んできたことはない。
重要な会議があろうと、大規模な夜会があろうと。
そのクロが、式典だからといって魔力吸収を頼んでくるとは考えづらい。
そもそも今吸収しておいたところで、昼過ぎに始まる式典までには自然回復してしまうはずだ。
————何か、あるのだろうか。
強い意志を宿した瞳をじっと覗き込む。
「……危ないことはしないでくださいね?」
「ああ、俺に何かあればヒナが悲しむからな」
「ん、わかってるならいいです」
詳しく話してくれるつもりはないらしく、クロは私の頬をひと撫でして支度へと見送った。
クロは本当に大丈夫だろうか。
四人いた護衛騎士は、二人ずつかと思いきや全員こちらについてきてしまった。
扉の前に四人を残し案内役のメイドとともに『私の部屋』に入ると、室内には女性騎士が二人、支度を手伝ってくれるのだろうメイドが数人、そしてなぜかマナーの先生までいる。
「おはようございます、ウルカノン先生」
「ヒナ様、この度はご婚約おめでとうございます。あの頑ななクローヴェル殿下に寄り添い、心を預けてくださって……ヒナ様を見つめる殿下の幸せそうなお顔といったらもう! 殿下がまだおしめも外れない頃からこんな日をわたくし、本当に、本当に……っ」
感極まって涙ぐむ先生にあわあわとうろたえていると、先生は自らのハンカチで目元を拭ってスッと表情を切り替えた。
「ということで、本日はヒナ様のお支度のあいだ側仕えを務めさせていただきます。殿方では同席できませんからね。——それから、レッスン以外の場では『先生』でなく『夫人』とお呼びください」
「わ、わかりました、ウルカノン夫人……。今日はお世話になります」
まずは入浴とのことで、その前に許可をもらい入念なストレッチで身体をほぐす。
「いっち、にっ、さっん、しっ」
クロが何をするつもりかはわからないけれど、もしかしたら私でも助けになれることがあるかもしれない。
魔法は使えなくとも、備えあれば憂いなしだ!
ストレッチを終えると、付き添いの多さにたじろぐあいだにもテキパキと服を剥かれ、花びらの浮かぶお風呂に入れられる。
お湯から出れば垢すりとオイルマッサージで全身ぴっかぴかに磨きあげられた。
私の能力はごく限られた人物にしか知らされていないものの、クロの指示かメイドは全員薄い手袋を着用していて直接私の肌に触れることはない。
私も私で、うっかり魔力を吸収してしまわないよう気を引き締めておく。
マッサージの心地よさにうっとりと浸る隙もなくガウンを着せられ椅子に座らせられると、さらにメイドが増えて髪のお手入れと爪のお手入れとメイクが同時進行で始まった。
大勢のメイドに囲まれ、もはやどこに何をされているのかわからない。
口紅と思しき小さな容器と小筆を手に正面にやってきたメイドが私の顔へと手を伸ばした瞬間、バッと音を立てて視界が遮られた。
私の視界を覆う真っ黒な扇子——の、持ち主である夫人を見上げる。
「ウルカノン夫人……?」
夫人は、扇子の向こうで同じように夫人を見上げているだろうメイドを一瞥して言った。
「貴女、見かけない顔ね?」
「はい、まだ勤めて日が浅いもので……」
「そう。ここは新人のいていい場所ではないわ。騎士様、この娘を相応しい場所にお連れしてくださる?」
いつの間にかこちらへ来ていた女性騎士は、戸惑う新人メイドを引きずって扉向こうの騎士へと引き渡した。
「…………」
「——さあ、お支度を続けましょう!」
夫人がパンパンと手を打ち鳴らすと、黙って一部始終を見守っていたメイドたちも我に返ったように各々の作業を再開した。
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