魔法はありませんでした(真顔
ダメージを受けた胸を擦りつつ、窓枠の下にしゃがみ込んでそっと目だけを覗かせる。
きっとこの男が部屋の主なのだろう。
自分より幾分歳上の立派な成人男性。やはりここは、子供部屋ではなかったのだ。
真っ直ぐソファへと向かっていた家主が、ふと何かに気付いたように足を止めた。
「…………ネズミか」
鋭くこちらを向いた視線に、ギクリと心臓が強張る。
バクバクと騒ぐ鼓動を感じながらもじっと息を潜めていれば、家主はそれ以上の興味を失ったかのように、ドサッとソファに寝そべって目を閉じた。
び、びっくりしたぁ……。見つかったかと思った。
もしも家主に見つかってしまった場合、この夢はどうなるのだろう?
ゲームオーバーで目が覚める?
それとも急に悪夢に変わって、散々追い回された挙げ句、猫の餌にでもされてしまうのだろうか?
険しすぎる表情はさておき、今のところ家主からはそんな恐ろしげな雰囲気は感じないのだけれど。
ぬいぐるみ抱いて寝てるし……。
ついと視線を下げれば、鬼のような形相の家主に抱かれた愛らしい羊のぬいぐるみと目が合った。
なんというか……そうしているとまるで、魔王が生贄を拐ってきたかのような……。
そんな失礼なことを考えられているとも知らず、家主はすっかり夢の中にいる。
「…………ぅ……」
不意に、微かな呻き声が聞こえた。
よくよく見れば呼吸も浅く、ぐっと眉間のシワを深めて寝苦しそうな様子だ。
もしかしたらこの家主も、悪夢にうなされる日々を送っているのかもしれない。
勝手に妙な親近感を感じ、家主の身を案じる。
私の夢なら、この人にも楽しい夢を見せてあげて——!
ぎゅっと目を閉じて念じてみたけれど、目の前の光景が変わることはなかった。
下手に身動きもとれず、ドールハウスの廊下に座り込んだまま二十分ほど経っただろうか。
もぞもぞという物音に慌てて窓を覗けば、起きだした家主がソファの上で大きく伸びをしていた。
「っくぁ……」
パキポキと肩を回しながら上体を起こし、抱いていたぬいぐるみを元通りきちんとソファに座らせる。
険しい表情のまましばしぼんやりしたかと思うと、目の前のローテーブルに置かれたフルーツの盛り合わせから、瑞々しいブドウを一粒口に放り込んだ。
……ゴクリ
思わず込み上げた唾液を飲み込む。
美味しそうなものを食べる姿を見ていると、こちらまでお腹が空いたような気がしてくるから不思議だ。『空腹感』なんて、ここではあるわけないのに。
二粒三粒ブドウを食べ終えた家主が、よいしょと立ち上がる。
出ていくのだろうかと期待して見つめていると、家主は部屋の隅に立ち、室内に向けて右手をかざした。
「クリーン」
「……!?」
滑るように全方位へ動かされていく手のひらが、こちらを向いたほんの一瞬。
ふわりと清涼な風に、全身を撫でられたような心地がした。
今、何かされた……?
家主は今一度室内を見渡すと、何事もなかったかのようにあっさりと部屋を出ていった。
バタンッ
「………………魔法、的な?」
一人きりになった静かな室内で、ぽつりと呟く。
身体を見下ろしても変化はないけれど、それでもあの一瞬、たしかに不思議な感覚がしたのだ。
口にしていた言葉からするに……きっと、対象を綺麗にする類いの魔法ではないだろうか。
夢の中なら、魔法だって使えてもおかしくはないのだから。
——それならば!
「『クリーン』!」
自分の左手に右手をかざし、ハァッと気合いを入れて呪文を唱えてみる。
「…………」
……何も起こらない。
左手に清涼な風の一つも、魔法を発動したような感覚も、微かな違和感さえも全く全然何もない。
「な、なーんちゃって……」
自分の行動を取り消すようにゴシゴシと部屋着の腰で両手を拭うと、置いていたカプセルを抱えそそくさとドールハウスの探索に戻った。
館全体を探索して、わかったことがいくつかある。
まず、このドールハウスはライフラインが整備されている。
水こそ出なかったものの、コンロに嵌め込まれた鮮やかな石に触れれば火がつくし、玄関ホールの壁に嵌め込まれた石に触れた途端、全部屋の明かりがついた。
ドールハウスのどこかに電池でも内蔵されているのだろうか。
「それか……『魔法』?」
苦々しい気持ちで左手を見つめ、ふいと目を逸らす。
次に、『住人』の数は四体。
それぞれ違った服を着せられた四体のリスは、たぶん家族なのだと思う。
しかし出会うたび心臓に悪いので、住人のいる部屋はもう開けないでおこうと心に決めた。
最後に、トイレの中の謎のプルプル。
個室に設置された、座面を丸くくり抜かれた木製の椅子——たぶんトイレ——の中を覗いてみると、透明でプルプルした丸っこい物体が入っていた。
すべてのトイレに同じものが入っていたので、排泄物ではない。と、信じたい。
さすがに手を突っ込んで触る勇気はなく、謎は謎のままだけれど……。
すべての部屋の探索を終えると、万一また家主が来ても気付かれないよう、元通りドールハウスの明かりを消しておいた。
「ふぅー。結構歩き回ったし、疲れちゃった」
広い館の中を、二時間近くは探索していた気がする。
ずっと抱えているカプセルもそれなりに重さがあって、そろそろ腕も辛い。
夢の中なのに疲れるとは、まったく変なところがリアルで困る。
となれば、次にするべきは。
「休憩、休憩っと」
勝手知ったる足取りで、探索中に目星を付けておいた二階の一室へと向かう。
ガパッと扉を開ければ、広々とした部屋の正面には豪華な天蓋つきベッド。
左右の壁沿いに置かれた本当に引き出せるチェストに、大きな鏡のついた鏡台。
『外』の見える廊下からは離れた、奥まった位置にある部屋だというのもポイントが高い。
「こんな部屋、ホテルでだって泊まれないでしょー」
一泊何十万もするようなスイートルームなら、こういった部屋もあるのだろうか。
まあ、あったところで泊まれないことに変わりはない。
タオルの入ったバスケットをベッドサイドに寄せると、いそいそと大事なカプセルを寝かせる。
「おじいちゃんはここね。で、私は——」
勢いをつけて跳び跳ね、大きなベッドにダイブした。
バフンッ
「んんーっ、ちゃーんとふかふか!」
夢の中で寝たら、現実で目が覚めてしまうだろうか。
せっかく楽しい夢なのだから、もう少し見ていたい気持ちはあるけれど……。
「あー、でもダメ……。横になったらすっごい眠……っふゎぁ~ぁ。おやふみなふぁーい……」
やわらかな布団に包まれた私は、迫りくる眠気に抗わずするりと意識を手放した。
ドールハウス生活☆
また夜に更新します!٩( ᐛ )و