無闇に触れてはいけません
ちゃんとした食事が食べられる!
そうと決まればやるべきことは一つ。
「しっかりっ、お腹っ、空かせとかないとっ!」
屈伸、伸脚、アキレス腱伸ばし、等々。
入念な準備運動を終え、調子を確かめるようにタンタンと足踏みする。
水が手に入った今、がっつりと汗をかく運動をしたって脱水の心配はないのだ。
「んーでも、髪をどうにかしたいなー」
小中高と、ずっとショートカットだった。
会社勤めをはじめてからは美容院に行くゆとりなんてなく、伸ばしっぱなしの髪は今や肩甲骨を越えようという長さになっている。
ずっと伸ばしてみたかったので結果的にはいいのだけれど、運動するにあたってはとりあえず髪を結びたい。
ヘアゴムとまではいわずとも、何かこう、紐みたいなものでもあれば……。
なんとはなしにポケットを探ると、ハンカチもどきが入っていた。
切りっぱなしの四辺からほつれた糸を試しに一本摘まんで引けば、すっと簡単に糸が抜ける。
ただのほつれ糸とはいえ、今の私にとってはたこ糸程度の十分な太さだ。
「ん……っと、よしっ! それじゃあ、しゅっぱーつ!」
きつく糸を縛ってポニーテールを結い上げた私は、気合い十分に飾り棚の上を駆け出した。
広い天板の縁に沿って十周ほど走り、次の運動に取りかかる前に小休止。
体感としては、一周で五、六百メートルくらいだろうか。
「はぁっ、はぁっ……、やっぱ、かなり体力落ちた……っ!」
短距離専門だったとはいえ、現役時代にはこの程度の距離でバテたりなどしなかったのに。
用意しておいたタオルで汗を拭い、小さなカップで水をすくってゴクゴクと喉を潤す。
あらかた呼吸が落ち着いてくると、私はふらりとぬいぐるみ山脈に足を進めた。
……ぽふんっ
「んーーーっ」
もふもふは疲れに効く。間違いない。
巨大なぬいぐるみのお腹に顔を埋め、やわらかな毛並みを堪能する。
「そういえば最初の子はどこだろ? たしかウサギの……」
もふもふを渡り歩きながら、なんとなく愛着を覚えて一番初めに突っ伏していたぬいぐるみを探す。
方向感覚を失いそうなぬいぐるみジャングルのなか、うろうろとさ迷ってようやく目当てのウサギへとたどり着いた。
「いたー!」
もふんっ
ああ可愛い。お持ち帰りしたい。これほど大きなぬいぐるみを置くスペースなんて、こぢんまりとした一軒家の我が家にはないけれど。
うーむ、庭ならあるいは……?
むぎゅむぎゅと全身で毛並みに埋まっていると、ぬいぐるみの下に潜った足先にコツリと硬いものが触れた。
「ん? 下に何かある……?」
ペンダントトップのカプセルが落ちていたくらいだ。もしかしたら、ペンダントチェーンでも落ちているのかもしれない。
ぺたりと膝をついて上半身を屈め、ぬいぐるみの下に右手を差し入れる。
「んん? チェーンじゃないな……。なんだこれ?」
手探りで確かめながら、予想とは異なる形状に首を捻る。
ごつごつとした、大きな、輪っかのような……。
掴んで軽く引っ張ってみても、何かにつかえているようで取り出せない。
左手も差し込み、しっかりと両手で掴んでえいやっと引けば、グラリとぬいぐるみを揺らしながらソレが現れた。
「…………指輪?」
大きな黒い宝石の嵌め込まれた、私の王冠にでもなりそうなサイズの金のリング。
この部屋にあったのだ、おそらくこれはクロの持ち物だろう。
アンティークのような古めかしさがありながらも、傷一つなく綺麗に磨きあげられ、長年大切に手入れされてきたことがよくわかる。
芸術品のような美しい彫刻が全体に施され、石座部分に彫られた羽根のある獅子は今にも動きだしそうなほどの力強い脈動を感じさせた。
「ん……?」
獅子が守るように抱える、一見不透明にも思える真っ黒な宝石。
よくよく見れば、吸い込まれるような漆黒の中にキラキラと無数の光の粒が見える。
まるで、満天の星空を閉じ込めたかのような神秘的な輝き。
「こんなの初めて見た……。なんていう石だろう。綺麗……」
うっとりと、誘われるように宝石部分に手を触れた、瞬間。
パァッ
「————えっ?」
眩しく光ったかと思った宝石は、なんのことはない。光り輝いたのではなく、吸い込まれるような『漆黒』を失ってただの透明な石へと姿を変えていただけだ。
「えっ、えっ? なに? なんで!?」
まずい。これはまずい。絶対に私のせいだ!
こんなに高そうな指輪の、見たこともないような美しい宝石を、私が触ってダメにしてしまった……!
クロの大事なものかもしれないのに!!
劇的な変貌に動揺する。
最初からこの状態であったのなら、なんの疑いもなくダイヤの指輪だと思っただろう。
でも違う。これが元々透明な石でないことを、私は知っている。
「どっ、どど、どうしよう……!?」
服の袖でごしごしと擦ってみても、何も変わらない。
地面に置いて三歩下がって様子を窺っていても、何も変わらない。
もう一度ぬいぐるみの下に突っ込んでみても、何も変わらない。
「まずい……」
ひとまず、指輪を抱えてドールハウスへと引き返す。
ふと思い立って、玄関前でハンカチもどきを水に濡らして拭いてみたけれど、やっぱり何も変わらなかった。
いっそ火であぶる…………のは、やめておいたほうがいいだろう。
炭になってしまっては取り返しがつかない。
ガパッ、バタン
ガパッ、バタン
「たしかこの辺に……あった!」
ドールハウス内の宝物庫と思しき部屋に指輪を運び込む。
気分は集中治療室へと急患を運び込むドクターだ。
中央に鎮座する豪華な王冠のミニチュアを脇にどけると、赤いクッションの乗った立派な台座にそっと指輪を乗せた。
安静に、安静に……。
とりあえず、まだ試していない手段を手当たり次第に試してみるしかない。
自分のケツは自分で拭けと、パワハラ上司にも散々どやされた。
まずは時間でゆっくりと変化していく可能性を考えて、明日まで触れずに置いておく。
他にも思いつく限り色々と手を尽くして……最終的に何をどうしても無理だったときには、潔くクロに自首しよう。
「労働で弁済できる気がしないけど……」
この指輪の代金で、一軒家くらい余裕で建ちそうな気がする。
いや、土台は無事だから宝石部分だけの弁償にしてもらうとしても、それでもこれは——。
くらりと遠のきそうになる意識をどうにか捕まえながら、私はしばし呆然とその場に立ち尽くした。
次回更新は~、今夜!٩( ᐛ )و




