カプセルころりんすっとんとん
「白崎! こんなに遅刻してくるとは一体何様のつもりだ!? 昨日だって無断で早退しただろう!!」
「まだ就業五分前ですし、昨日も定時を過ぎていたので早退じゃありません」
顔が赤くなっているときというのは頭皮まで赤くなるものなのだなぁと、すっかり後退した生え際を眺めながら思う。
「屁理屈を捏ねるな! 二時間前には出社して準備しておくものだろう! おまえの勝手な行動のおかげで仕事が山積みだ、今日は飯を食う暇もないと思え!」
「私、もう辞めるので」
「……はっ、そんなことで脅しのつもりか?」
心底馬鹿にしたような視線は無視して、懐から退職届を取り出す。
デスクに叩きつけるはずが、勢い余って——そう、勢い余って——上司の顔面に思いっきり叩きつけた。
ベシッ!
「痛っ——」
「おっと手が滑りました! そこに書いた通り、自分は明日から有給消化に入ります。——あっ、いたたたたた急にお腹が……ということで本日は早退させていただきますね! じゃ、失礼します!!」
くるりと踵を返し、一目散にオフィスを走り抜ける。
「おい、白崎! そんなことが許されると思ってるのかっ!? 腹はどうした! 止まれ白崎!! 今すぐ戻って仕事をするんだ!! 白崎!! 白崎日菜ぁぁぁぁぁっ!!!」
誰が止まるものか!
元陸上部の脚力を舐めないでいただきたい。
このために今日は、パンツスーツにランニングシューズで武装してきたのだから。
胸元をぎゅっと握りしめる。
貯まりに貯まった有給は一ヶ月分以上。
自分で言うのも虚しいけれど、任されていた仕事だって誰にでもできるような雑用ばかりだ。
——そう、何も問題はない。
追いつくこともできず廊下の彼方で激昂する上司の叫びを聞いていると、次第にふつふつと笑いが込み上げてきた。
「……っぷ、あっははははははは!」
すれ違う社員たちは『とうとうアイツも壊れたか』と憐れみの目を向けてくるけれど、そんなのはもうどうだっていい!
今まで閻魔大王のように絶対的な存在だと恐れていた上司は、私を捕まえることもできず喚くだけのただの中年だった。
本人の手に渡らないタイムカードも、有給取得を親の仇だとでも思っているパワハラ上司も、それを漫然と許容する社内体制もクソ食らえ!
一段飛ばしに階段を駆け下り、これが最後になるだろう通用口を通って社外に出る。
私は、自由になったのだ!!!!
高卒の自分がそこそこ名の知れた企業に内定して喜んでいたのも束の間。
いざ蓋を開けてみればそこは、シミ一つない見事な漆黒だった。
きっと、「陸上部で鍛えた体力、持久力には自信があります」と言ったのが採用の決め手だったに違いない。
それでも最初のうちは、社会人というのはこうも大変なものなのかと素直に信じていたし、「いつまでも学生気分でいるな!」との叱責に何度も頭を下げながら、ろくに休みも与えられないなかで懸命に働いた。
もしやこれをブラック企業と呼ぶのでは? と気付いた頃にはもう遅い。
洗脳じみたパワハラと慢性的な睡眠不足によって転職を考える気力さえも残ってはおらず、目の前に積み上げられた仕事をこなしているだけで一日が消えていく日々。
ずっと親代わりだったおじいちゃんも去年鬼籍に入り、楽な暮らしをさせてあげるのだと頑張っていた目標も見失った。
すべての感情に鈍くなり、辛いという感覚すら麻痺しはじめた頃。
おじいちゃんの一周忌のためと懇願した有給申請書を目の前で破り捨てられたのを切っ掛けに、唐突にキレた。
そこからは早かった。
トイレにでも行く調子で、荷物片手にしれっとオフィスを出る。真っ直ぐ家に帰ってうるさいスマホの電源を切ると、退職届をしたためてからしっかりと睡眠をとって。
——————そして翌日、冒頭に至る。
一刻も早く『会社の空気』を洗い流したくて、まだ昼間だというのにじっくりとお風呂に浸かり、お気に入りの部屋着に着替える。
白地に淡いピンクのボーダーの入ったモコモコのパーカーと、揃いのショートパンツ。
家の中ならば誰に遠慮することもない。
こうなった以上、有給消化はおろか先月の給料だってちゃんと振り込まれるか怪しいものだ。けれど、あのまま人生を食い潰されることに比べれば些末なこと。
労基への相談や転職活動など、考えなければいけないこともたくさんある。
それでも今は、あの会社を辞めた自分を手放しで褒めてあげたかった。
コンビニで買い込んだ食料をガサガサと和室のテーブルに広げ、手にした缶のプルタブを起こす。
プシッ
二缶開栓して、一つは仏壇に。もう一つは手に持って、コツンと乾杯した。
んぐっ、んぐっ、んぐっ……
「————っぷはぁぁぁ!」
独特の苦味であまり美味しいとは思えないのだけれど、こういうものは雰囲気の問題なのだ。
祝杯といえば金色のシュワシュワと、相場が決まっている。
「おじいちゃんも見てたでしょ? とうとう会社、辞めてきちゃった!」
もう自分を縛るものは何もない。
心身を擦り潰す環境から解放された。
とうとう自由を手に入れたのだ!
——しかしそれは同時に、自分がこの世界のどこにも所属していないということをも意味していた。
退職を一緒に喜んでくれる家族もいない。
仕事漬けだった三年の間に、大学生活を謳歌している友人たちともすっかり疎遠になってしまった。
誰かもわからない父親と、幼い自分を置いて出ていった母親は、この世界のどこかで生きているかもしれないけれど——自分にとっての『家族』はおじいちゃんだけ。
一人きりで自由を喜ぼうとするほどに、掴む手を失った風船のような、広い宇宙にぽいと放り出されてしまったかのような、言い知れぬ孤独感が襲ってくる。
体育座りの膝に顔を埋め、自分を抱きしめるようにぎゅっと脚を抱え込む。
「……おじいちゃんも、あんな会社辞めて正解だったって言ってくれるでしょ……?」
答えを求めて胸元へと手をやれば、プツンと微かな感触がして、首から重みが消えた。
コトンッ……
「!」
一年前から肌身離さず身に着けている、おじいちゃんの遺骨入りペンダント。
チタンで出来たカプセル型のペンダントトップが、切れたチェーンから滑り落ちた勢いのままコロコロと転がっていく。
「おじいちゃんっ!」
私を一人にしないで!!
慌ててカプセルへと手を伸ばす。
指先がカプセルを捉えたものの、変な体勢でバランスを崩し、そのまま倒れ込むと思った——瞬間。
もふっ
「……?」
顔面が、ひどくふわふわなものに埋まった。
ふわふわ、もふもふ
顔の周囲を手で探れば、やわらかな感触がふわふわと手のひらを押し返す。
んん? こんな触り心地の物、和室にはなかったはずだけど……。
手を付いてよいしょと顔を起こすと、そこには真っ白な毛並みの『壁』があった。
膝立ちのまま、後ずさって壁を見上げる。
「…………ぬいぐるみ?」
私が突っ伏した『壁』はどうやら、私の身長の倍ほどもある巨大なウサギのぬいぐるみ——の、お腹だったようだ。
「可愛いけど、なんでこんな所に……あっ! おじいちゃんは!?」
慌てて下を見れば、それはすぐに見つかった。
いやむしろ、見落とすほうが難しい。
足元に転がるチタンのカプセルをよいしょと拾いあげる。
見慣れたはずのそれはなぜか、私の顔よりも大きくて、ずしりと重い。
「何これ……」
巨大なぬいぐるみに、巨大なカプセル。
周囲を見渡せば先ほどまでいたはずの和室はなく、同じような巨大なぬいぐるみたちに囲まれている。
ここがどこなのかはわからない。
けれど、一つだけはっきりしていることは……。
「もしかして私、ちっちゃくなっちゃった——!!?」
夜にもう一話更新します!
よろしくお願いします٩( ᐛ )و