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女たちの季節①  作者: 吉田逍児
1/1

女の隠れ道

          〇

 私の名前は早川瑠美。つまらない女。早川哲郎と二十三歳の時、結婚。それから数年後、長女の奈々が小学校に入学するので、新百合ヶ丘の丘陵の上に、新築の家を建てた。それまでは鉄郎の実家のある柿生の直ぐ近くのアパートの一階で暮らした。義父の早川健吉と義母の和子が、子供たちの面倒を見てくれたので、私は三十歳を過ぎてから、都内、四谷にある商社『極東物産』の事務員として働くことが出来た。哲郎は早川家の次男なので、何時までも実家の世話になっている訳にも行かず、早いうちに実家から離れなければならないと思っていた。その為には自分たちの住宅を準備する必要があった。哲郎が三十五歳になった時、私たちは思い切って新百合ヶ丘の分譲住宅を購入した。五十坪ほどで、義父の健吉からすれば狭いということだったが、世田谷の経堂にある私の実家の岸田家とほぼ同じ敷地面積なので、私には充分な広さの住処だった。自分たちの家を手にして、哲郎も私も奈々も孝太も大喜びした。私は紫陽花の花が好きだった。私は家の南側の庭に私の好きな紫陽花の花を数か所に別けて植えた。主人の哲郎は一年中、緑の葉のある木があった方が良いと、彼の好きな椿の木を四方に植えた。義父の健吉は自分の家の畑に植えてあった五葉松と枝垂れ梅を小型トラックに載せて持って来て、庭先に植えた。それらの植木は今や大きくなり、落ち着きのある庭構えとなった。二人の子供もそれ同様に成長し、もう高校生と中学生になっていた。夫、哲郎は仕事一本鎗の男で、本厚木の自動車製造会社の研究所に長年勤務し、全く移動が無かった。普通、サラリーマンだったら、酒、麻雀、ゴルフ、釣りなどの遊びか何かに趣味を持つものだが、そういったことに全く興味を示す様子も無く、だからといって実家の農作業の手伝いをすることも無かった。子供の教育については、私や経堂の私の両親に任せっきりだった。私の両親は世田谷の経堂に住んでいることから、孫たちを世田谷の私立学校に入れることを勧め、それを実現させた。そして孫たちを時々、学校帰りに経堂の家に立ち寄らせ、一緒に食事をしたり、小遣いを上げたりして、老後を楽しんでいた。哲郎は、そういった私の実家での孫の甘やかしなどについても、注意をすることは無かった。毎日、毎日、残業で、私より早く帰宅することは少なかった。そんなことから私にも時間の余裕が若干、取れるようになった。そこで今まで年賀状のやりとり程度で、ほとんど会うことの無かった大学時代の親友、横川彩華に会ってみたくなり、彼女に電話を入れてみた。

「もしもし、横川彩華さんですか」

「はい。そうですけど」

「私、分かる?」

「分かるわよ。瑠美でしょう。そんな丁寧な言い方するの、瑠美くらいしかいないから・・・」

 彩華は明るい声で答えた。彼女は静岡の出身で神田の商社に勤めていた。まだ独身。仕事中であるので長電話は出来なかったが、彼女と週末の金曜日に会う約束をとりつけた。彼女とは十年以上、会っていなかった。どんな風に彩華は変わっているのかしら。相変わらず、細っそりして、シャープな感じかも。それに較べ、私は昔より肉がついて、相当、オバサンになっている。それ故、彼女に会う時は下膨れを隠すような服装を考えなければならないと思う。女にはいつまでも若く美しくありたいと思う願いがある。だから、つい、お洒落や化粧を考えたくなるのだ。私は彩華と会う日が、まだ数日あるというのに、その日に着て行く服装やネックレスなどのことを、あれやこれやと考えた。



          〇

 横川彩華との約束の金曜日がやって来た。私たちは新宿駅西口交番前で待ち合わせし、直ぐ近くのデパートの十三階にある和食レストラン『さがみ』に入った。日本料理のコースを注文し、まずはビールで乾杯した。彩華は久しぶりに会った私と向き合うと、私の新作のワンピースに目ざとく気づいた。

「瑠美。素敵なワンピース着ているわね」

「ああ、これ。この間、バーゲンで買ったの」

「バーゲンだなんて嘘でしょう。この間、送られて来たカタログに載っていたわよ。今日の為に買ったの?」

「あなたにかかっては、嘘もつけないわね。久しぶりに彩に会うから買っちゃったの」

 私達は二十年前の学生時代に戻っていた。でも心はそうであっても、外見は違っていた。着る服はその人を表現するというが、知性派の彩華は淑女らしい黒いスーツ姿だった。胸にブルーの薔薇のコサージュを付け、落着いたお洒落姿だった。でもそれは彼女の何時も先頭に立つ鎧姿かも知れなかった。彼女は小学校の時から、中学、高校、大学と、クラスでトップに近い上位を、ずっと走って来た。そのプライドが、社会人になってからも、彼女の中に生き続けているみたいだった。彼女は美人であるが、エリート意識が強く、その怜悧さが男性にはクリスタルガラスのように冷たく感じられるみたいだった。だから男性は彼女のことを素晴らしいと思っても、妻にしようとは考えないでいるのかも知れなかった。

「ところで私に話したいことって何?」

「うん。小さな子供がいると中々、時間がとれなかったけど、奈々が高校生になり、孝太も中学生になって、手がかからなくなったから、急に彩たちに会いたくなって・・・」

「まあ、奈々ちゃんが、もう高校生に。早いわねえ」

 そういえば奈々が誕生した時、彩華と京子がベビー服の誕生祝を持って、柿生のアパートまで来てくれた。その後、新百合ヶ丘の家が建った時も、彩華と京子が新築祝を持ってやってきて、奈々や孝太と遊んでくれた。

「そうよね。子育てに夢中になり、気づいてみたら、友達のこと、ほっぽらかしにしていたの。会社務めを始めて、子育ての為に若さを失ってしまっている自分に気づいたわ。だから若さを取り戻す為、あなたたちに無性に会いたくなったの」

「それは有難う。忘れられちゃったのかと、思ってたわ」

「そんなこと無いわよ。京子はどうしてる。元気?」

「さあ、どうかしら。年下の新しい男と暮らしているみたいだけど」

「年下の新しい男って?」

「彼女、離婚したのよ。最初の夫、大井さんが、ギャンブル狂いで、職を失い、生活出来なくて別れたの」

 京子にそんなことがあったなんて、私は全く知らなかった。京子の父親が亡くなった時の年賀状を失礼するといった挨拶状が木て以来、年賀状の交流も途絶えていたし、彼女も私同様、子育てに一所懸命なんだろうなと思っていた。それが離婚だなんて、びっくりした。

「彼女、次の人と、うまく行っているのかしら?」

「気になるわね。私、電話してみるわ。また三人で会って、昔話でもしようよ」

 私たちは、そこでまた乾杯した。それから勤務している会社の話をした。彩華は神田の商社『ファイン通商』に勤めていて、合成樹脂や包装資材の手配の他、新しく電子材料の仕事が入って来て、多忙とのことであった。私は四谷の『極東物産』のヘルスケアー事業部で営業事務の仕事をしていて、伝票整理が主な仕事だと話した。午後八時半、彩華が次の用事があるというので、私たちは、エレベーターでデパートの一階に降りて、そこで別れた。



          〇

 昨夜、帰りが遅かったので、ゆっくり寝ていたかったのに、夫の哲郎は休日出勤。奈々はテニスの練習。孝太はサッカーの試合があるというので、何時もと同じ時刻に起きて、朝食の準備をした。哲郎の休日出勤の時の昼食は、会社の近くにある蕎麦屋から、出前を取って食べるということなので、弁当を準備する必要は無かった。しかし、奈々と孝太には弁当が必要だった。その弁当の準備は奈々がしてくれるようになり、奈々が高校生になってからは、楽になった。四人で何時ものように黙々と,せわしなく朝食を済ませると、私以外の三人は、それぞれ軽快な服装をして、バラバラに家を出て行った。

「行ってらっしゃい」

 私はまるで録音テープの音声のように、三回、同じ言葉を繰り返した。三人が家からいなくなり、一人っきりになると、先ずは食器を洗い、その後、洗濯をした。毎日、洗濯しているのに、土曜日の洗濯物は多かった。洗濯物をベランダに干してから、皆の靴を天日干しする為、庭先に並べた。それから庭の草花に水をやった。紫陽花の花以外に、桔梗や釣り鐘草の紫の花が咲いて、この季節は何故か紫や白の花が多かった。義父の健吉が造ってくれた小さな池に、水連の花が水面から首を伸ばし、ピンク色に咲かせ、誇らしげにしていた。私は庭を一巡してから家に入り、布団を各部屋の窓辺にほした。それから一休みすると、もう昼になっていた。私はインスタント焼きそばで、一人の昼食を済ませ、テレビを観て笑った。続いてサスペンスドラマに夢中になった。あっという間に夕方が近づいているのに気づき、慌てて部屋掃除をした。まずは二階の奈々の部屋と孝太の部屋と踊り場の掃除をした。その後、二階から一階に掃除機を下ろし、私たち夫婦部屋、和室、応接室、リビングルームと食堂、玄関などの掃除をした。バスルームの掃除も大変だった。テニスやサッカーを終えて帰って来る奈々と孝太の為に、家に帰ったら直ぐに温かな風呂に入れるようにしておいて上げた。夕陽が沈むとカラスが巣に帰るように、家族が家に戻って来た。

「只今!」

「お帰りなさい」

 これも録音テープの音声のように同じ繰り返しだった。奈々や孝太が順番にバスルームに入り、シャワーを浴びている間、私は夕食の仕度をして、テーブルの上に今夜の食事を並べた。それを見計らったように哲郎が帰って来る。彼はブレザーを脱ぎ、ポロシャツに着替えると、そのままテーブルに座り、お刺身、カニコロッケ、豆腐、蒲鉾、お新香などを眺めながら、ビールを食前に一缶、飲み干した。それから四人で夕食をした。奈々は今日一日のことを食事をしながら喋ったが、男たち二人は何も喋らなかった。夕食のおかずが買って来た物だけとはいえ、美味しいとか、これが好きだとか言って欲しかった。なのに男二人は女たちの会話に加わらず、テレビを観ながら食事をした。夕食を終えると、奈々は後片付けを手伝ってくれた。それから奈々と孝太は自分の二階の部屋に行ったきりで戻って来ない。夫、哲夫はリビングのソファに横になって、高いびき。私は食卓に肘をつき、椅子に座って、ぼんやり。目の前のテレビを眺め、何を考えてるのか、何かを考えているのか、自分でも分からない。観ているテレビ番組のラブストーリィも何が何だか、辻褄が合わない。眠気が襲って来る前に夫婦部屋に布団を敷き、哲夫を起こし、風呂に入って寝るよう伝える。哲夫が風呂に入っている間、新聞の流し読みをして過ごし、哲夫が風呂から出て、夫婦部屋に入るのを確かめ、その後、ゆっくりと風呂に入った。そして最後に戸締りの確認と消灯をして、哲夫の隣の布団に入って横になり、睡眠に入った。



          〇

 日曜日もまた孝太がサッカーの試合があるというので、何時もと同じ時刻に起きて、彼だけ先に朝食を食べさせ、送り出した。

「行って来ます」

「行ってらっしゃい」

 孝太は素直な中学生で、サッカーに夢中だった。練習に練習を重ね、いずれはサッカー選手になり、ワールドカップに出たいなどと考えていたが、私には夢のような話だった。そんな孝太を送り出してから、パジャマ姿で奈々が起きて来たので、哲郎

を起こさせた。奈々はリビングルームの隣の和室の奥の襖を開けると、父親に向かって声をかけた。

「お父さん。朝ですよ。起きて下さい。起きて下さい」

「もう朝か・・」

 哲郎は小さく言って起き上がると、パジャマを脱ぎ、丁シャツと短パン姿になって、寝室の雨戸を開け、布団を押し入れに仕舞った。それから洗面所に行き、歯磨きをした。その間、奈々はパジャマからデニムのショートパンツとピンクの丁シャッに着替え、トースターで三人分のパンを焼いた。奈々は私に似てたのでしょうか、明るい性格だった。朝からクラスメイトの話や芸能人などの話をしながら、両親と一緒に楽しく食事をした。私は、そんな奈々の胸のふくらみが大きくなって来たのを気にしながら、自分が女子高生であった時代のことを回想した。私には当時、同じ中学校から、同じ高校に進学した奥野義明という好きな男子がいた。中学時代は一緒にはしゃぎ回ったのに、高校に入ってからは、一言も口を利くこともなく、遠くから眺めているだけだった。彼は小柄だが、ちょっと美男子で、高校での成績も良かった。彼とは中学時代、テニスクラブで一緒にクラブ活動していたので、高校に入ってからも、テニスをするのではないかと思って私はテニス部に入った。しかし彼が選んだのは運動クラブでは無く、歴史研究のクラブだった。或る日のことだった。同じクラスの今井道子から質問された。

「瑠美ちゃん。あなた歴史研究会の奥野さんと同じ桜丘中学なんですってね。彼の住所、分かったら教えて・・・」

 そう頼まれて、教えない訳には行かなかった。教えたく無かったが、翌日、今井道子に奥野君の住所を教えた。奥野君の住所を教えて貰った道子は、その後、奥野君にラブレターを出した。彼女は、その結果を私に報告してくれた。結果は、彼には大学受験という難関があり、異性と付き合っている余裕は無いと、交際を拒否されたとのこと。歴史研究会に入ったのも、受験勉強の為だったという。私は道子から、そんな話を聞いて、彼と会話する機会があっても、何時しか、その場から逃げるようになっていた。そして何時の間にか高校の卒業式の日を迎え、私の初恋は片思いに終わった。果たして今、目の前にいる娘の奈々は、もう初恋を経験したであろうか。最近の女子高生の三、四割は、セックス経験があるというが、まさか、そんな経験をしているのではないだろうか。ちょっと心配になる。

「何、ぼんやりしているんだ?」

 突然、哲郎に声をかけられ、私はびっくりした。彼は呑気なものだ。仕事一筋で、家の中のことなんか、全く興味を示さず、日曜日はのんびりと一日中、家にいた。午後になって義父の健吉が、哲郎の実家の畑で採れたトマト、キュウリ、ナスなどを軽トラックに載せてやって来ると、その頂き物を丸かじりしながら、父親と世間話をした。哲郎は健吉が息子の家族がうまく行っているか様子窺がいに来ているのが分かっていて、奈々や私を呼んで、家族の和やかさ、安泰を示し、健吉を喜ばせた。



          〇

 月曜日、私は主人と子供二人を送り出してから、化粧と戸締りをして、新百合ヶ丘駅まで向かった。自分の家を出てから駅に行くまで、家々の庭や垣根に咲いている紫陽花、藤、さつき、薔薇などを眺めながら歩くのは楽しかった。新百合ヶ丘駅から都内に向かう電車に乗ると、何時もながらの満員状態だった。吊革につかまり、三十分ほど我慢し、新宿駅に着くと、汗が肌着ににじんで辛かった。新宿から総武線に乗り換えると少し空いていて落ち着いた気分になれた。ちょっと考え事をしている間に、下車する四ツ谷駅に到着した。そこから『極東物産』まで歩いて十分ほどだった。途中、同じヘルスケアー事業部の井上陽子と一緒になった。会社に着くや、更衣室で事務服に着替え、それから事務室の机の上や床掃除をして、上司が現れるのを待った。事業部長の中西隆治が定刻の九時に出勤して来るや、先ず朝礼を行った。朝礼といっても、ヘルスケアー事業部は中西部長を含めて、たった八名の社員構成の小さな事業部だった。男子五名、女子三名で、男子は営業専門とし、私と井上陽子、中原仁美の女子は営業事務の仕事をした。取り扱い商品は、健康栄養補助食品と化粧品で、井上陽子と中原仁美が仕入れとメーカーから客先への発送確認の仕事をした。私は営業担当からの連絡や客先からのフアックスによる受注内容を、井上陽子と中原仁美に伝え、商品を発送を確認してから、客先に請求書を送付する仕事を担当した。入金に関しては経理部の管轄なので入金の無い場合のみ、客先に督促する程度で、慣れてしまえば、単調な仕事だった。仕事が忙しいのは月末と月初めの伝票整理と業績報告書作成の時期だけだった。従って普段の男子社員が出回っている間は、井上陽子と中原仁美と雑談して過ごした。陽子も仁美も私より十五歳下の独身で、二人とも若さを楽しんでいた。女子短期大学を卒業してから、『極東物産』に二人一緒に入社し、五年勤務して、仕事ではベテランぶりを発揮した。同じ事業部の男子社員を平気で評価し、心配もした。

「山田さん、ストレスが原因で、ノイローゼ気味なんじゃあないかしら?」

「ええっ、本当なの。私、気づかなかったけど・・・」

「あの『ミリオン』との取引を断られたらしいの。アピアの値上げ交渉に失敗し、出入り禁止になったみたい」

「まあ」

「可哀想だから、部長抜きで飲み会でもしようかしら・・・」

 陽子が私たちにチーム内での飲み会を提案した。学生時代、バレーボールをしていた陽子は、チームワークというものを重要視していた。テニスをしていた私とは考えが違った。テニスにはダブルス以外、チームワークというものが無かった。自分のミスは自分で埋め合わせしなければならなかった。だからといって、飲み会に反対する理由にはならなかった。

「それは良い事ね。相手を納得させられず、自分を責めても解決にならないから、皆と語り合って、嫌なことは発散させてしまうことが一番ね」

「早川さん、良い事、言うわね」

「そうよ。早川さんの言う通りよ。些細な事に拘らず、男なんだから、過去は捨てて、自分を取り戻すのよ」

 井上陽子はまさにヘルスケア事業部の縁の下の力持ち的存在だった。中西事業部長は、偉そうにしているが、事業部の業績は、総て部下の努力の積み重ねによって成り立っていた。また陽子や仁美たちと私が、年齢差があることも、互いに競うことも無く、部内を明るくしていた。従って男子社員も、和やかな笑顔で勤務していられた。



          〇

 その日の夕方、私は久しぶりに横川彩華と旧姓、宮田京子と三人で会う為、待ち合わせ場所の新宿駅西口交番前に行った。私がその場所に行くと、一番先に京子が来ていた。

「お久しぶり。瑠美、変わらないわね」

「お久しぶり。京子も変わらないわ」

 私は心の中で彼女の事を、生活疲れしているみたいだなと思ったが、そんなこと言える訳がなかった。彼女の花柄のワンピースは、ちょっと派手だったが、彼女のやつれ顔を隠蔽するのに役立っていた。

「彩から聞いていると思うけど、私、離婚して、大井から小池に変わったのよ」

「大井さんと別れたって聞いていたけど、宮田に戻ったのじゃあないの?」

「再婚したの」

「まあ」

 私が驚きの声を上げた時に、駅の改札口から横川彩華が、手を挙げて走って来た。

「遅れてごめん」

「時間、丁度よ」

「何処にしようかしら」

「この前の店でどう?」

 私はこの前、彩華と利用した和風レストラン『さがみ』でどうかと提案した。すると彩華が反対した。

「あそこ高いから」

 独身で金持ちの彩華にしては信じられ無い言葉だった。多分、離婚して生活に苦労しているであろう京子のことを思っての発言に違いなかった。私たちは地下から地上に出て、居酒屋を探した。小田急デパートのちょっと南に『嵯峨野』という和風居酒屋があったので、そこに入ることにした。まずはビールで乾杯し、野菜サラダ、刺身、田舎煮、イカの丸焼き、鶏の唐揚げ、卵焼きなどを食べながら、近況を語り合った。彩華とは月初めに一度会っていたので、私たちの興味は京子の現況が、どうなっているかだった。京子は大井幸一と離婚したことについて恥ずかしいというような様子は無かった。大学生の時から付き合い始め、卒業後、直ぐに結婚した大井幸一はギャンブル好きで、多額の借金をしていて、金貸しが会社に督促に行くようになり、会社を辞め、職を転々として、彼の両親も資金協力してくれたが、限界に達し、京子と離婚したのだという。京子の一人娘、愛子は京子と一緒に、この間まで大塚の京子の実家から小学校に通っていたが、現在は京子が再婚した小池弘之が借りているマンションから、同じ小学校に通っているという。小池弘之が愛子を可愛がってくれているので、京子は仕合せだという。京子は大井幸一と離婚してから、自殺しようと思い、海に行った時、若い小池と出会い、命拾いして、小池と交際するようになり、再婚を決めたという。小池が板橋の実家を出て、大塚駅近くのマンションを借りて、結婚を決めたのが三月末だという。小池は不動産会社に勤務し、京子は駅前のドラックストアでパートをしていると、まるで物語を話すように、京子は自分の現状を、こと細かく説明した。それから私たちの現況について質問した。

「ところで二人はどうなのよ?」

 京子に質問され、私は夫婦共稼ぎで、平凡な毎日を送っていると話した。彩華は神田の『ファイン通商』に勤め、まだ独身のままで、静岡の両親から、早く結婚するよう、見合いの話が来て、困っていると語った。彩華の話を聞いて、京子は彩華に言った。

「彩は頭が良くて美人だから、お高くとまっているんじゃあないの。そうだと、男は近寄らないわよ。恋はしてるの?」

「してるわよ。今も沢山」

「まあっ。羨ましいわね。どんな人?」

「年上の人。貿易会社の社長さん」

「社長さんなのに独身なの?」

「奥さんがいるわ」

「じゃあ、不倫じゃあないの」

 私と京子はびっくりした。淑女と思っていた彩華が、不倫をしているなんて、信じられなかった。後ろ指をさされると知りつつも自分の考えを貫き通す、個性の強い彩華の性格は分かっていたが、まさか不倫をしているとは、私には全く予想外のことだった。


        〇

 人は何故、不倫をするのか。私は大学時代の仲間、京子と彩華に会ってから、二人が年齢を重ねながらも、人生を楽しみ、華やいでいるのを羨ましく思った。彼女たちのあの華やぎとわくわく感は、何処から来ているのか。

「夜、主人が待ち構えているくらいなの」

 若い男と再婚した京子のあの言葉には、呆れるというより、嫉妬を覚えた。海の香りのする胸板の厚い年下の男と再婚し、新婚気分で暮らしている京子には、悲壮感など全く見受けられなかった。また六十歳過ぎの貿易会社の社長と不倫をしている彩華の開放感にも華麗さを感じた。人生は、お一人様、一回限りと神様が決めているのに、私の人生には、彼女たちのような華やかさが無い。自分も彼女たちのように輝きたいと思う。或る日、突然、私の愛の鎖をほどいてくれる人が何処からか現れないかと、夢のようなことを空想したりする。何故、私は、そんなことを考えるのだろうか。多分、それは自分自身が、現在、束縛されていると思っているからに相違なかった。自分は自由で無い。人妻として、家庭の主婦として拘束されるのが、当然だという規範に従って、生活しているからに相違なかった。早川哲郎の妻であるということは、日本の社会制度に従えば、自分の性的利用権は早川哲郎一人に、早川哲郎の性的利用権は私一人に独占させる契約で成り立っているからであった。ただ一人の異性に性的利用権を限定するというこの結婚の制度は、私だけでなく、哲郎にとっても行動の自由を妨げる拘束そのものであるといえた。私たちは、この契約の鎖に縛られ生活していた。だからといって、私たちは新婚時代のように性生活を濃密に味わっている訳では無かった。二人の子供に恵まれ、家族という枠組みが出来てから、そういったことは、全く希薄になってしまって、ただ同じ屋根の下で暮らしているだけの関係になっていた。そこには最早、恋愛感情は存在していなかった。存在しているのは家族感情だけだった。そう思うと、苗字を小池に変えて、年下の若い男と濃密な性生活を送っている京子のことを軽蔑しながらも、羨ましくも思った。

「大井さんと離婚したと聞いて、心配していたんだけど、次の人に出会えて良かったわね」

 そう言って彼女の再婚を祝福した時、彼女は平然と答えた。

「仕合せの夢が破れて、道を失っても、人はまた何時か違う仕合せを手にすることが出来るの。瑠美も旦那さんだけでなく、他の男と付き合ってみたらどう。新しい世界を見る事が出来るわよ」

 京子は私に不倫することをすすめた。しかし彩華は、仕合せな家庭生活を送っている私に、不倫を勧めるようなことはしなかった。

「瑠美。京子の言う事を真に受けては駄目よ。不倫は必ず傷つくから。刺激が欲しいと思っても我慢するのよ」

「我慢出来れば良いけどね。女にはいつまでも心の奥に秘めた思いがあるものよ。その思いは女の欲望なの。その欲望を抱いて隠れ道を歩けば、いい男に出会えるわ」

 彩華と京子の会話は、良妻賢母を目指して暮らしている私にとって、羨ましく、二人が要領よく、しなやかに生きているように思えた。私の心は揺れ動いた。自分も輝きたい。それには、どうすれば良いのか。言うまでもない。それは家族からの拘束を気に留めず、自力で鎖を解き放ち、自力で脱出するしか方法な無い。私は哲郎が隣りの布団の中で、イビキを立てて眠っているを良い事に、自由気ままに自分の想像力を働かせ、女たちとの会話を楽しんだ。この人はもし私が不倫をしたら、私と別れるだろうか。もし夫、哲郎が不倫したら、私は哲郎と別れられるだろうか。私は良からぬことばかりを、暗い部屋の中で考えた。


        〇

 週末、中西部長が得意先との飲み会に出かけ、私たち『極東物産』ヘルスケア事業部のメンバーは、部内の飲み会を行った。夕方五時半に仕事を終えてから、近くの居酒屋『トトロ』へ行き、刺身の三点盛り、イカの丸焼き、ギョーザ、焼き鳥、野菜サラダ、枝豆などを注文し、まずはビールで乾杯した。

「乾杯!」

 渡辺課長の音頭で飲み会が始まると、陽気な井上陽子が片隅で大人しくしている山田満男に声をかけた。

「山田さん。今日は思いきり飲みましょうよ。中西部長がいないから、何でも思っていることを話して。私、あなたの味方だから・・・」

「ありがとう」

 朝礼時、中西部長にこっぴどく叱られ、覇気を失くしていた山田満男は陽子に慰められて、一瞬、嬉しそうな顔になったが、直ぐにまた俯いてしまった。

「どうしたんだよ、山田。黙り込んだりして」

 ビールを一気に飲み干してから、宮下秀行が山田の肩を、ポンと叩いた。

「山田。仕事のことなど忘れて、大いに飲んで楽しもうぜ。不満があったら、全部、喋っちまえ」

「は、はい」

「でも、とんでもない目に遭ったわね」

 陽子が同情するように言った。

「そもそも『アピア』の値上げを指示した中西部長が悪いんだ。値上げ交渉を山田一人に任せるなんて、部長失格だよ」

 宮下は過激だった。彼は陽子と一緒になって、山田を慰め、励ました。それに対し渡辺課長は、ビールから日本酒に切り替え、部下たちの話を笑って聞いていた。渡辺課長は余り喋らず、この場を利用し、部下たちの苦情や不満を一つでも多く掴もうとしていた。ちょっとずるい気がして、私は渡辺課長に言ってやった。

「課長も山田さんに何か言ってあげたら」

 私がそう進言すると、渡辺課長は、自分の心の内を気づかれたとでも思ってか、苦笑した。

「早川さんに言われたから、アドバイスするけど、山田君が悪いんじゃあ無い。宮下君の言う通りだ。でも出入り禁止というのは尋常じゃあないよ。何か相手に失礼なことでも喋ったのか?」

「そんな覚えはありません。ただ上司の命令で、値上げの報告に伺ったと・・・」

「分かった。それなのに中西部長は山田君を怒鳴りつけるだけで、『ミリオン』に、もう一度、交渉に行こうと言わなかったんだな」

「はい」

「じゃあ、来週、俺が一緒に『ミリオン』に行ってやる。心配するな」

 渡辺課長は、そう言って笑った。なのに山田は喜ばなかった。

「でも、私は出入り禁止ですから・・・」

「相当に叱られたみたいだな。だからといって相手を恐れることはない。相手も同じ人間だ。兎に角、来週、一緒にいってやるから、楽しく飲め」

「は、はい」

「良かったな山田」

 宮下はまた山田の肩をポンと叩いた。

「良かったわね、山田さん」

 井上陽子が今にも泣きだしそうな山田の顔を下から見上げた。その様子を見て、中原仁美がクスッと笑った。陽子は山田の今にもこぼれそうな涙を目にして、直ぐに話題を変えた。

「話は変わるけど、私、最近、眼が悪くなったみたい。パソコンに向かい過ぎかしら?」

「それはあるかもね」

「病院へ行って検査してみたら」

 私が、そう提案すると、陽子は私の提案を拒否した。

「病院なんていやよ。この前、病院に行って視力検査になって、看護師からマークシートを見て、これを読んで下さいと言われたの。それで私がCと言ったら笑われちゃったの。私、頭にきちゃった。読んでくださいと言われたから、Cと答えたの。右と答えなければいけなかったみたい。なら空いているのは左ですか、右ですかと質問すべきじゃあない」

 陽子の病院に対する怒りに私や仁美をはじめ、男性一同も大笑いした。こうして『トトロ』での飲み会は面白可笑しく有意義に進行した。


         〇

 土曜日、久しぶりに晴れたので、洗濯物が良く乾いた。いつも排気ガスで靄っている都心と違い、新百合ヶ丘の住宅街は風がポプラの葉や薔薇の垣根の花を揺すり、心地良かった。私は午後のサスペンスドラマを見終えてから、家中のガラス戸を開放し、部屋掃除をした。それから風呂場のバスタブの水位を確認して、風呂の点火を済ませた。その後、二階のベランダに出て、洗濯物を取り込もうとした。その時、住宅街の坂道の登り口の所で、誰かが喋り合っているのを遠く目にした。私の視線は、その二人のうちの一人が、自分の娘、奈々であることを確認した。相手は男子学生みたいだった。何を喋っているのだろうか。小中学校時代の幼馴染か、それとも同じ高校の男子高校生か、それとも近くにある私立大学の学生だろうか。私は洗濯物を室内に仕舞いながら、二人の様子を窺ったが、立ち話をしているだけで、私が心配するキスシーンなど起こらなかった。私が洗濯物を片付けて、一階に降りると、サッカーの練習を終えて孝太が戻って来た。

「只今」

「お帰りなさい。風呂、沸いているわよ。入りなさい」

「先に入っちゃって良いのかな」

「どうして?」

「奈々ちゃんが、もう直ぐ帰って来るから」

「どうして、そんなこと分かるの?」

 私はベランダから、奈々が遠くに見えるのを確認していたのに、とぼけて孝太に質問した。すると孝太は得意気になって話した。

「帰る途中、そこの坂道の下で、奈々ちゃんと会ったから。杉浦先輩と話してた」

「杉浦先輩?」

「ほら、下のイタリアンレストランの」

「ああ、あの杉浦君ね」

 私は下のレストラン『ナポリ』の男の子、杉浦弘樹のことを思い出した。中学校時代、奈々と同じクラスの大きな瞳をした可愛い顔立ちの男の子だったが、今はどんな高校生に成長しているのか、想像出来なかった。奈々のボーイフレンドなのか。私は自分の高校時代のことを回想した。女子高生の私は、純情無垢すぎた。心密かに思いを寄せる奥野義昭を何時も小さな胸の中に抱かえていた。彼はハンサムな少年だった。私の小さな胸の内で、彼への想いは、まるで花の蕾のように膨らみ、初恋という微妙な感情が、私を甘く酔わせた。私は自然が季節と共に進展するように、恋愛というものが、日々、深まって行くということを信じた。あの頃の彼への想いは、私にとって、少女期から思春期に向かうときめきだった。私は初恋に胸をときめかせながら、愛とは素晴らしいものだと信じ、何時か彼と結ばれる時が訪れるに違いないと、夢に描いていた。あの時代の私は純真で、何も分かっていなかった。高校を卒業すると、彼は東北の大学に進学して、それっきりとなってしまった。彼は今、何処で何をしているのか。私は今の若者たちを羨ましく思った。

「お母さん、何考え事しているの。俺、風呂に入っちゃうからね」

「いいわよ。奈々って長話だから、まだ当分かかると思うわ」

 私は孝太を風呂に入らせてから、夕食の準備を始めた。キッチンの窓から見える周辺の景色には、もう黄昏が寄り添い始めていた。

「只今」

 長話を終えた奈々が帰って来た。私は嬉しそうに帰って来た娘を家に入れ、玄関の上の外灯を点けた。

後は休日出勤の哲郎が帰るのを待つだけだった。その哲郎はハンバーグ、鶏のから揚げ、野菜サラダ、シューマイを並べたところに帰って来た。家族四人、食卓に座り、向き合って喋りながら、夕食を楽しんだ。家族の皆が美味しそうに料理を食べてくれるのが、とても嬉しかった。



         〇

 七月になった途端、急に蒸し暑くなった。私も奈々も、汗をかかないように半袖の薄手の服装で出かけるようになったが、哲郎も孝太も、まだブレザー姿で出かけた。男は何故、暑苦しい、それも黒っぽい服装をして出かけるのか。私はそれが理解出来ないので、夕食後に哲郎に質問した。すると哲郎はこう答えた。

「男と女は違う。男は一旦、外に出かければ七人の敵がいる。男の服装は勝負服だ。自分で自分を守る為に、自分が何処に所属し、正義の為に生きていることを、その服装で証明してのだ」

「どこが正義なの?」

「何時も変わらないということが正義だ。絶えず同じ姿で、信念を貫き通す。他の介入を許さない。それが男だ」

「じゃあ、女は?」

「女は強い者に惹かれて、何処へでも移動して行ける。新しい環境に適応し、男みたいに一つ事に固執しない。男とは全く違う視点で生きている。ある意味で、自由を好む性分に出来ているのだ」

「そうかしら、私には自由なんて無いけど・・・」

 私が反論すると哲郎は顔をしかめた。何か言いたげだったが、急に黙り込んでしまった。

「あなたって都合が悪くなると、直ぐ黙ってしまうのね」

「何を言っているのだ。お前が馬鹿なことを訊くからだ」

「馬鹿とは何よ。この仕事馬鹿!」

 私たちが相手を罵り合っていると、夕食を終えて一旦、二階に上がった奈々が二階から降りて来て私たちに言った。

「何、騒いでいるのよ。お父さんとお母さんみたいに、何でも言い合える夫婦って良いわね」

「大人をからかうもんじゃあないわよ」

 私は奈々を睨みつけた。私たちの雰囲気が和らぐと、奈々はオレンジジュースを一飲みして、また二階へ上がって行った。私は女らしくなった奈々の後ろ姿を見て、彼女は将来、どんな男性と出会い、どんな家庭を築くのだろうかと思った。そして私は哲郎と出会った頃のことを思い出した。私が哲郎と出会ったのは、女子大二年の時だった。授業を終えて山手線から小田急線の改札に入ってホームに降りる階段で、後から降りて来た哲郎とぶつかったのだ。私は前のめりになり、踊り場の上に倒れ、しゃがみ込んだ。

「何するのよ!」

「すみません」

 顔を上げ、声の相手を睨みつけると、通学途中、時々目にする大学生だった。私はもう一度、彼に向かって叫んだ。

「何するのよ。ひどいわ」

 それと同時に激痛が走った。私がスカートをちょっと上げると、右足に血がにじんでいた。

「足に血が。救急室に行きましょう」

 彼は何度も申し訳ないと私に頭を下げ、ホームの改札口を出た所の救急室へ私を連れて行ってくれた。私はベットを一つ置いた狭い救急室の中で、救急看護の女性に、傷の手当てをしてもらった。その時、彼と互いの氏名と連絡先を確認し合った。それが夫、早川哲郎、大学四年生だった。数日後、彼は私の家に電話して来た。

「足の具合はいかがですか?」

「もう大丈夫です。安心して下さい」

 それで二人の関係は終わる筈であった。ところが通学途中、時々、目にするたび、互いに声を掛け合い、親しくなった。そして互いに就職して、落ち着いたところで、結婚を決めた。人の人生なんて分からない。ちゃっとした事で、予想外のことに発展したりするものだ。私はそんな昔を思い出しながら、哲郎に言った。

「奈々も孝太も大きくなったけど、将来、何になろうと考えているのかしら」

「どうなんだろうな。まだ考えが固まらず、浮遊しているんじゃあないかな。大学を卒業する頃になってから、悩んだりするんだ。まだ先の話だ」

 哲郎は他人事のように答えた。私は二人の子供が成長するのを見て、その将来に期待や喜びを抱くより、不安の方がつのったりした。



        〇

 金曜日の昼食時、井上陽子と会社の近くにある洋食レストランへ行った。何時もなら近くのコンビニで、サンドイッチ、野菜サラダ、プリンなどを買って来て、事務所の机で食べるのだが、今日は陽子から外へ行こうと誘われたので、外食となった。昼時なので、レストランは混んでいたが、回転率が高く、ちょっと待っただけで、席に座れた。私たちはAランチセット頼んだ。Aランチセットはハンバーグにパスタと野菜サラダ、コーヒー付のメニューだった。座席に着くなり、陽子が真顔で喋り出した。

「今日、渡辺課長と山田さん、『ミリオン』に行ったけど、どうなるのかしら。山田さん、『ミリオン』の購買部長に、けちょんけちょんに傷めつけられて帰って来るのではないかしら」

「さあ、どうかしら。渡辺課長が一緒だから大丈夫よ」

「でも出入り禁止と言われたのに、渡辺課長と行ったのよ」

 陽子には、大学を卒業して、一年ちょっとの山田満男のことが心配で心配でいたたまれないみたいだった。私は陽子が山田に気が有ることに気づいた。しばらくして店員が、二人分のAランチセットを運んで来た。それを食べながらも、まだ咀嚼途中であるというのに、彼女は喋り続けた。私は言ってやった。

「井上さんが心配しても、どうにもならないわ。二人が事務所に帰って来るのを待ちましょう。うまく行くことを願って・・・」

 私たちは、そんな昼食を済ませ、レストランから事務所に戻って、再び事務仕事に就いた。中西部長と宮下係長は午後から客先に出かけて行き、直帰するとのことだった。私たちは渡辺課長と山田満男が帰って来るのを待った。陽子は時々、時計を見た。夕方5時、その二人が帰って来た。

「只今」

「お帰りなさい。お疲れ様」

「ああ、疲れた・・・」

 山田がとても疲れた顔をして、カバンを机の上に放り投げたのを見て、陽子が訊ねた。

「矢張り、駄目だったの?」

 すると山田が笑って答えた。

「それが大成功。流石、渡辺課長です。アピアの価格を上げてもらうことが出来ました。うちの要望の値上げ分の半分ですが、『ミリオン』の坂口部長が了解してくれました」

「まあ、ほんとなの。本当ですか、渡辺課長?」

「本当だよ。出入り禁止と言ったのに、粘り強く上司を連れてやって来た山田君の根性を見込んで、値上げしてくれたよ。万額では無いけれど、我社にとっては有利な金額で収まった。勿論、出入り禁止も解消されたよ」

「やったあ」

 陽子が、拳を上げて叫んだ。私と中原仁美は陽子の歓喜する姿を見て、顔を見合わせて笑った。渡辺課長も村上秀介も笑った。今朝から心配していた仲間の憂鬱は一気に吹き飛んだ。調子に乗った陽子が提案した。

「じゃあ、値上げ成功を祝って、飲みに行きましょうよ」

 私は今日、飲むなんて予定していなかったので迷った。しかしチームワークの為、飲み会に参加することにした。五時半過ぎ私たちは仕事を終えて、何時もの『トトロ』でなく、歌舞伎町の居酒屋『漁り火』へ六人で行った。陽子がメニューを見て、刺身、牛串、天ぷら、焼き魚、カマボコなど勝手に注文し、渡辺課長の音頭で乾杯した。陽子ははしゃいで、皆とビールのグラスをぶつけ合い、わざと音を立てた。今夜の山田は仕事がうまく行って、とても嬉しそうだった。渡辺課長もそんな山田を見て、満足気だった。飲み会が終わると、渡辺課長が支払いをしてくれた。私たちは『プリンスホテル』の前で解散した。渡辺課長は、そこから西部新宿線で帰ると言った。陽子は少し酔っていて、山田を誘った。

「山田さん。もう一軒、行きましょうよ」

 山田は困った顔をした。村上秀介も中原仁美も私も、酔っ払いを相手にしなかった。私はじゃれ合っている若者たちを放ったらかしにして、小田急線の新宿駅改札口へ向かった。電話しておいたが、奈々たちは、ちゃんと夕食を済ませたのか、ちょっと気になった。



        〇

 暑くならないうちに、また三人で会いましょうと、小池京子が言って来るなんて、信じられ無かった。彩華と三人で会った時の楽しさが、余程、気に入ったに違いない。私たちは前回と同じ新宿駅西口交番前で待ち合わせして、今回は居酒屋『魚民』に入った。まずは料理とビールを注文し、三人で乾杯した。彩華は相変わらず、哲郎の言う男の勝負服と同じ黒いスーツ服を着ていた。そんな硬いイメージの彩華と比較して、京子は以前よりもっと派手な花柄のワンピース姿だった。プリントされている花はブーゲンビリア。口紅も前よりも濃くなっているので、私も彩華も目を丸くした。

「京子。相変わらずオシャレね」

 私が、そう発言すると京子は得意になって喋り出した。

「もう年なのにと言いたいのでしょう。でもそれは間違いよ。男も女も綺麗な人が好きなの。私は美人で無いから、綺麗に見せる為に努力しているの。洋服だけで無く、下の方も見てよ。私は若い子に負けないように、普段からハイヒールを履いているのよ。背筋を伸ばし、細い足を交差させて街を歩くと、男たちが振り向くの。脚線が美しく見えるよう努力すると、気持ちが引き締まり、脚力も鍛えられるのよ」

 彼女はピンク色したハイヒールを私たちに見せ、美への探求を怠らない努力をしていると説明した。

「お尻も美しくなり、まるでマリリンモンローみたいなんて言ってくれる男もいるのよ」

「小池さんに、そう言われたのね」

「旦那じゃあ無いわ。もっと年上の人」

 京子は二度も結婚しているというのに、他の男とも付き合っているのか。

「愛子ちゃんは今日、誰が面倒、見ていてくれてるの?」

「今日は実家で夕御飯をご馳走になって、旦那が帰るのを待っているの。だから私、羽根を伸ばせるの・・・」

「いいわね。実家が近くって」

「そうね。そうじゃあなかったら、弘之と愛の巣なんか築けなかったわ」

 京子は全く周囲の事など気に留めず、開けっぴろげで女性論を語り、私たちを笑わせた。彼女は子育てのことを両親に任せっきりで、大学生時代、あんなに熱愛した大井幸一と離婚したことなど、タクシーを乗り換え、前のタクシーが走り過ぎて行った程度にしか思っていなかった。

「別れたら次の人よ。近頃の若い人の中には、セックスすることは、古い昔の野蛮な行為だと思っている人がいるらしいけど、それは全くの間違いよ。夫婦以外に恋人を持つことは禁じられているけど、それはもてない男や女が作った制度であって、自然じゃあないわ。もともと人間は動物の仲間で野蛮なの。自然の成り行きでいろんな相手とセックスするように出来ているのよ」

「まあ」

 私は唖然とした。京子の話は小止みなく続いた。

「だから独身の彩が、二回り年上の社長と付き合っていても、間違いだなんて言えないわ」

 何と奔放なことを言うのか。なら、私は何なのか。今は家族という枠組みにがっちり嵌め込まれ、夫婦というより、母親という家庭的存在になってしまっているが。

「瑠美も不倫をすれば良いのよ。約束は破る為にあるのだから。そう、処女膜みたいなものよ」

 京子は無茶なことを言った。すると彩華が京子を睨め付けながら言った。

「瑠美。不倫は駄目よ。不倫をしてなければ傷つくことは無いけれど、一度、始めたら、深く深く傷つくわよ」

 彩華は京子のように恋をすることを勧めなかった。むしろ反対した。結婚しているのだから、良妻賢母でなければならないという考えだった。私は良妻賢母を論じる彩華が独身で、不倫を勧める京子が既婚者である現実が、理解出来なかった。どうなっているのか。私には二人の心理構造が全く分からなかった。


        〇

 彩華や京子に会うようになってから、男女のことが、いやに気になった。もし自分が彩華のように結婚せず、そのまま、自分の家を出ないで働き続けていたら、どうなっていただろうか。彩華のように不倫が出来ただろうか。娘の奈々はどうなのだろう。先日、見かけた杉浦弘樹と付き合っているのだろうか。それともテニスクラブに好きなボーイフレンドでもいるのだろうか。伸び盛りの躍動するような奈々の身体を見ていると、もう少女などとは言い難い。私の高校生の頃と同じように、人は何の為に生まれて来たのかなどと、難しいことを考えたりしているのではなかろうか。生きる意味など考えたって仕方ないのに、それを真剣に考えたくなる年頃であることは確かだ。私は土曜日、奈々がテニスの練習に出かけ、哲郎も孝太も居ない時、こっそり奈々の部屋の机の引き出しを開けてみた。参考書や文房具やアルバムやノートが乱雑に突っ込まれていて、その収納物を整理してやりたい程だった。しかし、そんなことをしたら、奈々が怒り、泣きわめくのが目に見えていた。私はその中のアルバムを、そっと引き抜いて、中に貼られている写真をチェックした。ほとんどが女友達との写真だった。杉浦弘樹の写真は無かった。テニスクラブの男子生徒と女子生徒が一緒に写っている写真はあったが、特定の男子生徒の写真は見当たらなかった。奈々には、まだ、そういう相手がいないのだろうか。私はアルバムを元の場所に戻そうとして、引き出しの底にA4の封筒が張り付くように残っているのを発見した。試験の成績表でも入っているのだろうかと、興味が湧き、A4の封筒を取り出した。封筒の中を確認すると、更に小さな封筒が入っていた。私の興味は高まった。小さな封筒を開けると、男子生徒からのラブレターだった。

**

 アジサイの花が咲き終わり、白百合の花が美しく甘い香りを漂わせる頃に、突然、こんな、お手紙を差し上げることをお許し下さい。僕は貴女にとても興味を持っています。貴女については、僕の中学時代のクラスメートの畑中歩美からうかがっています。僕は歩美と同様、二子玉川に住んでいます。同じ高校のテニスクラブの仲間なのに、会話が出来ないのが辛いです。携帯電話番号とメールアドレスをお知らせします。メール交換でもしていただけたら光栄です。メールでの御返事をお待ちしております。

   平林正彦

            **

 日付は一年前のものだった。その手紙を引き出しの一等底の封筒の中に隠しておくということは、奈々にとって、大切なものに違いなかった。となると現在、奈々は、この男子生徒とつきあっているのかも知れない。私は自分が初恋でもしているかのように、胸がドキドキした。このことは秘密にしておかなければならなかった。哲郎にも孝太にも話してはならないことだった。私は、その手紙を読み終わると元通りに、奈々の机の引き出しの底のA4の封筒の中に戻した。それから孝太の部屋の掃除をした。窓を解放し、外の風を入れた。青葉を渡って来る風は爽やかだった。昼食は簡単に、お茶漬で済ませた。午後はテレビでサスペンスドラマを見ながら、アイロン掛けをした。四人分のアイロン掛けであるから、大変だった。でも一人の時間は、他人に邪魔されることなく、自由で精神的にくつろぐことが出来た。しかし、夕方近くなると、孝太、奈々、哲郎と順々に帰宅し、家の中は賑やかになった。私に注目されていることにも気づかず、奈々は陽気だった。



        〇

 梅雨の季節が過ぎ去り、百合、ムクゲ、葵などの花が咲いて、夏が来た。朝からムシムシして、出勤するのが辛かったが、生活の為と思えば、我慢するしかなかった。小田急線に乗って、吊革にぶらさがるように掴まって、新宿へ向かった。新宿駅からJRに乗り換え、四ツ谷駅で下車した。改札口を出て会社へ向かう途中、後ろから呼び止められた。振り向くと同じヘルスケアー事業部の営業部員、宮下秀行だった。

「お早う御座います。暑いですね」

 彼がそう言って額の汗を拭くのを目にすると、尚更、暑い気分になった。

「本当に暑いわね」

「早川さん。聞きましたか。渡辺課長のこと」

「どんなこと?」

「異動だって」

 初耳だった。何故、渡辺課長が異動なのか。私には信じられ無かった。ヘルスケアー事業部を牽引し、チームワークで業績向上に立ち向かう渡辺純一課長は、私にとって、とても信頼出来る上司であった。私が三十歳を過ぎて再就職を考えている時、私を再雇用してもらうよう、竹内圭介専務と交渉してくれたのも、彼だった。彼とは同期入社で、気心が知れていた。先月も『ミリオン』との値上げ交渉に部下を支援し、値上げを成功させたというのに、何故、そんな有能な男を本社から異動させるのか、全く理解出来なかった。訳が分からなかった。異動させるなら、中西部長の方だった。しかし、そんなことは口に出せなかった。

「それって本当なの。渡辺課長がいなくなったら、うちの事業部は、どうなっちゃうの?」

「余所の部から誰か来るのじゃあないですか」

 宮下係長は、誰が来るのか知っている風だった。私たちは、そのまま何時もの時間に『極東物産』の事務所に入った。まずは更衣室で事務服に着替え、事務室に行き、事務机の上を掃除し、井上陽子たちと一緒に朝礼が始まるのを待った。九時に中西部長が現れ、何時ものように各人の報告をし、最後に中西部長が、渡辺課長の異動について話した。

「今朝は、ちょっと辛い話をします。今月の役員会で、渡辺課長が大阪支店勤務とになりました。大阪支店の業績を向上させる為に、我が事業部の渡辺課長が抜擢されました。私としては片腕をもぎとられるようで、辛いですが、会社発展の為と泣く泣く本人の了解を得て、了承しました。その他の人事異動については人事部の通達発表がありますので、それを見て下さい。渡辺課長から何かあれば一言」

 すると渡辺課長は軽く笑って言った。

「そういうことです。大阪支店に行くことになりました。仕事は一人で成り立っているものではありません。社命に従い、チームを離れます。私も大阪で頑張ります。皆さんも頑張って下さい。今まで支援してもらったことを感謝してます」

 朝礼は、そこで終わった。それから宮下係長が村上や山田や陽子と壮行会の会場などの相談を始めた。私は、お世話になった渡辺課長に、どう声をかけたら良いのか逡巡した。



         〇

 渡辺課長の転勤が決まり、私たちは新宿西口のレストラン『おとぼけ』で壮行会をすることになった。仕事を終えて、私たちは『おとぼけ』に集合した。私と渡辺課長と山田満男と井上陽子と中原仁美が『おとぼけ』に行くと、既に中西部長、宮下係長、村上秀介の三人が先に店に入っていた。八人そろったところで、ビールで乾杯した。宮下係長が司会をつとめ、まず、送別の言葉を中西部長が述べた。続いて渡辺課長が、謝辞の挨拶をした。

「既に発表がありましたように来月から大阪支店に行きます。長きにわたり公私とも、大変お世話になりました。心より厚く御礼申し上げます。実のところ、どうして私になったのかと思っています。菊池社長からは大阪支店を更に大きく発展させる為、抜擢したとのお言葉をいただきました。その期待に沿えるよう頑張ります。本社から離れましても、同じ社員ですので、時々、本社に来ることもあろうかと思います。その時は今まで通り、よろしくお願い致します。本日は月末の御多忙中にもかかわらず、私の為に送別会を開いていただき、深く感謝申し上げます。私が去った後も皆さん仲良く頑張って下さい」

 中西部長からは栄転を祝うという言葉があったが、渡辺課長本人は、気心の知れた私たちメンバーと一緒に、このまま仕事を続けて行きたい気持ちのようだった。栄転という喜びの裏には、別離という哀しみがつきまとっているというが、渡辺課長は、そのことを表情に現さなかった。中西部長や宮下係長たちからの祝盃を笑顔で飲み干した。私はコース料理をいただきながら、渡辺課長の家庭のことを思った。東京から大阪への転勤が決まって、彼の奥さんは、子供二人を連れて、大阪に付いて行くという。パートの仕事を辞め、子供たちの大阪の学校への転校届を提出中だという。もし、私の夫、哲郎が、そんなことになったら、自分はどうするのだろうかなどと、私は起こりもしないことを考えた。壮行会は八時半に終了した。私が御指名により、花束を渡辺課長に渡した。その後、解散となり、中西部長と宮下係長、村上秀介は精算を済ませるや、銀座に飲みに行くと言って、地下鉄の改札口へと向かった。中原仁美はJRの改札口に向かった。それを見送って井上陽子が、さらりと言った。

「私たちも、これから飲みに行きます。失礼します」

 彼女は山田満男の手を取ると、私たちに背を向けて、地下街の中へ消えて行った。残された渡辺課長と私は唖然とした。何故か寂しかった。

「私たちも飲みに行きましょうか」

「うん」

 私はサラリーマンの悲哀に涙しそうになっていた。私たちは歌舞伎町のカウンターバー『メリィ』で飲んだ。そこで渡辺課長は、本社から離れたくなかったと本音を語った。私は彼に二人だけだから、不満でも怒りでも疑問でも愚痴でも何でも吐き出してしまいなさいと言った。

「俺の事、思っていてくれるのは瑠美ちゃんだけだよ。ありがとう。結局、俺は頑張り過ぎたんだ・・・」

 何時も早川さんと呼んでいる渡辺課長の瑠美ちゃんという言葉に、私は胸をしめつけられた。転勤を命じられた彼が、可哀想で仕方なかった。適当なところで引き上げようとすると、彼は私の手を握り締め、大粒の涙を流した。

「今夜はまだ帰りたくない」

 二人の目と目が合った。私は彼を早く帰さなければならないと思った。慌てて精算をしてカウンターバー『メリィ』を出た。店を出るや、花束をかかえた彼が突然、抱きついて来た。キスをされた。この人と離れたくない。そう思った瞬間、私の理性は、ガラガラと崩れ落ちた。私たちはネオン街を抜けて、ラブホテル『ジョージ』に入った。私たちは、いけないと思いながらも、ホテルの部屋でもつれ合っていた。彼はまず私の耳たぶを舐めてから、乳首を吸い、お臍をいじり、お尻を撫で、陰部の花びらを弄んだ。私は玩具にされるのを待っていたかのように、それに反応し、羞恥と悦びに震えた。これが京子たちのいう不倫という甘い果実なのか。彼の囁きは、私を狂わせた。

「瑠美ちゃんと、何時かしたいと思っていたんだ」

 私の肌は火照り、彼を受け入れた。私も貴男ともっと早くにやりたかった。私は身体を蕩けさせ、渡辺課長との情事に溺れた。そして別れたのは最終電車一つ前の小田急線改札口だった。



        〇

 私は午前様の帰りとなった。最終電車一つ前で帰ると、家族の皆にメールしておいたので、哲郎も子供たちも既に各自の部屋で眠っていて、リビングの灯りは消され、玄関の外灯だけが点いている状態だった。私は玄関ドアの鍵を開け、玄関の中に入り、玄関フロアの灯りを点けた。そしてスリッパを履こうとして、ふと足元に小さなメモ用紙が落ちているのを発見した。そのメモ用紙に書かれている文字が、女性らしい文字だったので、もしかして孝太にも、ガールフレンドが出来たのかなと思った。そのメモを拾い上げて、私は吃驚した。そのメモの内容は哲郎宛てのものだった。

 愛しのダーリン。

 何時ものホテルの前の喫茶店で待っています。

 私は、それを読んで、カアッと身体が熱くなった。何度も読み返した。どういうことか。何時もということは、一回や二回のことでは無い。怒りが激しく脳中を駆け巡った。家に帰って来るまでの哲郎への自分の後ろめたさは、瞬時に吹き飛んでしまった。何ということか。私は哲郎が浮気の出来るような男だとは思っていなかった。仕事一筋。研究に没頭している堅物だとばかり、信じて来た。仕事以外のことは不器用で、何も出来ない人だと思っていた。それが何と私の知らない所で、何度も何度も女と密会しているとは。そんなことに気づかないでいた自分が、情けなかった。性的関係を只一人の異性に限定するという結婚の制度を破った哲郎も憎いが、それを破らせた女は、もっと憎かった。どんな女なのか。京子のような浮気性の人妻か。それとも彩華のような独身女性か。それとも本厚木のスナックの女か。研究所の女か。私の頭の中で、いろんな女が駆け巡った。私は怒り心頭に達し、手にしていたメモ用紙を引き裂こうと思ったが、途中で思い留まった。その用紙を更に小さく折り畳み、自分の財布の中に、証拠品としてしまった。それから冷蔵庫を開け、中に入っている冷たい麦茶を飲んで、気持ちを落ち着かせた。すると昨夜、遅くまでラブホテル『ジョージ』で、渡辺課長と味わった歓びが蘇って来た。夫以外の男の前で素裸になり、全身をさらし、私は頬を紅潮させ、ベットに入り、彼に抱かれた。彼は私を優しく抱き寄せると、囁いた。

「瑠美ちゃんと、何時かしたいと思っていたんだ。お互い助け合って、苦しみや寂しさを排除し、優しさを求め、一つになろうとしていたんだね」

「そうだったみたいね。互いに信じ合い、敬い、尊び、労わり合い、相手の意思を大切に、何時か愛を確かめようかと考えていたのね」

 私は彼の私への情愛に染め上げられ、それに答えた。彼は彼の知らない私を求め、私も私の知らない彼を求めた。燃え上がる炎は二人の肉体の奥底から、愛欲を引きずり出し、その愛を全身の隅々まで行き渡らせた。彼の私への愛の行為は果てしなく続き、私を深い甘美の世界へと導いた。そして絶頂に達すると、思いきり私への愛を炸裂させた。私は注がれ体内に沁み込んで来る愛の歓喜に譬え難い心地良さを感じ、おぼろなる感覚に酔った。その愛は哲郎に無い、新鮮なものだった。麦茶の味は爽快だった。そんな私の気持ちも知らず、哲郎は寝室で、グウグウ鼾をかいていた。



        〇

 私は一体、今まで何をやっていたのか。学生時代に哲郎と知り合い、就職し、結婚して、二人の子供をもうけ、新百合ヶ丘に一軒家を構え、家族四人で実に標準的な日常生活を送って来た。良妻賢母を目指し、努力に努力を重ねて来た。他人から羨ましがられる程の家庭だった。だが、それは私一人の幻影だった。夫は不倫し、娘の奈々だって陰で何をしているのか分からなかった。また夫や娘を疑う自分だって、渡辺純一と関係してしまっていた。それが他人から羨ましがられる理想的家庭と言えるのか。小池京子のことを、ちょっと軽蔑していたが、自分も軽蔑されるような家庭を持つ女になってしまった。人間は愛無くして生存することは出来ないというが、私はその愛を失ってしまった。夫に対する愛情も子供に対する愛情も、何もかもが信じられなくなり、うたかたのように思えた。こんな悩みを持った時は、彩華や京子に会うのが一番だった。私は二人に電話して、新宿で会うことにした。新宿駅西口交番前で合流し、居酒屋『魚民』に行った。刺身、焼き魚、焼き鳥、野菜サラダ、枝豆などを食べ、ビールを飲みながら、赤い派手な半袖姿の京子と相変わらず黒い洋服姿の彩華と平凡なデザインの白い洋服姿の私の三人で雑談した。京子は今日も、一人娘の愛子を実家の両親に預けて来たのだという。年下の小池弘之とうまく行っていて、ラブラブだとノロケられた。

「はっきり言って、再婚して良かったわ。私も愛子も幸せよ。彼に大井に無いものを色々、教えられているわ。女は男のリード次第ね。夜もノーマルなセックスばかりじゃあないのよ」

 京子の話は私も彩華も呆れ果てる程だった。彩華は二回り年上の貿易会社の社長、船田真二との関係が、まだ続いていると話した。

「彼はオシャレなの。夏なのにスーツ着ているのよ。ベージュのスーツやカーキ色のスーツでが夏の日差しに映えて、涼しそうなの。とっても素敵よ。帽子はパナマ帽よ。兎に角、紳士なの」

 彼女は年上の船田社長の大人の色気に魅了されているみたいだった。二人のノロケ話が終わってから、私は夫、哲郎の不倫の話をした。

「私は夫が健康で真面目に毎日、会社に行き、家のローン以外の借金が無く、暴力も振るわず、不倫もせず、幸せな家庭をつくろうと一生懸命に頑張っていると思って来たの。なのに、女からの秘密のメモを見つけて、総てが私の過信であると知ったわ」

 すると彩華が真顔になって、哲郎の味方をした。

「早川さんが不倫するなんて考えられないわ。何かの間違いじゃあないの?」

「そうよ、そうよ。何かの間違いよ」

 哲郎に会った事のある彩華も京子も、私の言う事を信じなかった。そこで私は二人に財布に入れておいた女からのメモを見せた。

「これが証拠よ」

「まあ、ダーリンだなんて」

 それから話は盛り上がった。京子も彩華も週刊誌の話題ででもあるかのように、あれやこれや喋った。

「何よりも重要なのは、現場を確かめることよ。男は飲み、打つ、買うのどれかで失敗するの。大井はギャンブルで職を失い、私と離婚したわ。私は子育てに夢中で、彼がギャンブルにはまっているなんて、気づかなかったの。一度くらい、ギャンブルしに一緒に出掛けて、現場を確認していれば、ギャンブルにのめり込ませずに済んだのにね」

「そうかもね。早川さんが週末にどんな行動をしているか、一度、こっそり調べてみたら。京子の言う通り、現場を確かめないで、旦那さんを疑ったら可哀想だわ」

「彩の言う通りよ。旦那がどんな女と付き合っているのか、仕事が終わった後の早川さんの行動を確かめるのよ。会社を早退して、駅あたりで待ち伏せして後をつければ良いのよ」

「でも、それは・・・」

 私は探偵になってみるのも面白いと思ったが、ふと恐怖に襲われた。もし哲郎が、女と逢引するのを目撃した時、自分はどうなるのか。冷静でいられる訳が無かった。だからといって、このままじっとしていては、哲郎を際限なく深みにはまらせてしまうことになってしまう。私は二人のアドバイスに従うことにした。



        〇

 私は京子たちのアドバイスに従い、哲郎が何時も帰りが遅くなる金曜日、『極東物産』を早退させてもらい、夕方五時過ぎ、小田急線の本厚木駅で下車した。哲郎が仕事を終えて帰って来る順路を想定し、駅ビル一階の通路の片隅で、彼を待った。勿論、服装や髪形を変え、サングラスをかけ、彼に気づかれぬようにした。彼の勤務する会社のある工業団地から来るバスを待つと、意外に早く哲郎がバスから降りて来た。駅前広場から私の方へ向かって来るので、私は見つからないように、駅の太い柱の陰に隠れた。彼は会社の人たちと改札口でバラバラになり、本厚木駅から上り新宿行きのホームに上がった。そこで会社の女性でも現れるのではないかと予想したが、そのような女性は現れなかった。上り電車は伊勢原方面から直ぐに入って来た。私は哲郎が電車に乗り込んだのを確かめ、同じ車両の遠く離れたドアの所に立ち、彼の様子を窺った。彼はカバンから雑誌を取り出し、吊革に掴まりながら、雑誌を読み始めた。海老名、相模大野を過ぎ、町田に着くと、哲郎が下車した。私は慌てて電車から降りて、彼の後を追った。彼は改札口を出ると、陸橋を渡り、駅前通りにある『シャノアール』という地下の喫茶店に入って行った。私も入って行こうとしたが、気づかれるとまずいので、近くのビルの陰で、彼が出て来るのを待った。時間は、それ程、かからなかった。哲郎は明るいグリーンのスカートをはいた若い女性と地下の喫茶店から上がって来た。相手はまだ独身の女性みたいだった。二人は手を握り合い、JRの町田駅の方へと、人混みの中を楽しそうに会話しながら進んで行った。私は二人に気づかれぬよう、その後をつけた。二人はJR町田駅の改札口を通り越して、反対側のエスカレーターに乗り、川べりのホテル街へと向かった。夕暮れが近づいて、川の向こうの空が血の色のように赤く染まって見えた。私は二人を追った。ホテル街の手前の橋にさしかかった時、私は恐怖を感じた。この橋を渡ってはいけない。これ以上、自分が進んだら、自分が不幸になると思った。ここまで来たのだから二人が入って行くホテルの前まで行って、そのホテル名を確かめ、素通りして帰ろうかと考えたが、私の足は、そこまで進まなかった。私は橋の手前で引き返した。泣き出したいのを堪え、町田駅まで戻った。私は町田駅から新宿行きの電車に乗り、いろいろ考えた。今はメソメソするのでは無く、現実を直視する潔さが必要だと思った。私は、あの明るいグリーンのスカートをはいた若い女性に嫉妬していた。求愛はどちらからしたのかしら。哲郎は私の事が嫌いになったのかしら。屈辱と憎悪の炎が、家に近づくにつれ燃え上がった。悲しい時は泣けば良いというが、電車の中では泣けない。家に帰ってからも泣くところは無い。あの女が憎い。殺したい。そんな感情を抱く自分に対しても情無く、憤りで心が乱れた。頭に血が上り、今からでも引き返して行って、二人の入っているホテルに放火してやりたいと思ったりした。私は、この時になって、残酷な行為は、悪魔のような人間が、必ずしも引き起こすものでは無いと知った。自分のような平凡な人間が、思わぬ状況に追い込まれて、悪魔のような行為に手を染めてしまうこともあるのだと悟った。しかし、そのような憎悪の行為は、人間社会では、許されないことであった。ああっ、この現実は誰が悪いのか。夫か?あの女か?それとも私なのか。電車の窓に見える景色も、窓に映る自分の顔も、時間と共に、どんどん暗くなって行くのが悲しかった。



         〇

 私が家に帰ると、既に雨戸が閉じられ、門灯が点いて、奈々と孝太が夕食の準備を終えて、さ、これから食べようというところだった。カレーライスの良い匂いがキッチンに充満し、美味しそうだった。孝太が作ったという塩野菜サラダの緑が綺麗だった。私は子供たちが作ってくれた夕食を美味しくいただいた。

「お父さんも、早く帰れば食べられるのにな」

 孝太が残念そうに言った。すると奈々が孝太を諭すように言った。

「お父さんは、それどころじゃあないの。同期の人たちに負けたくないと頑張っているの。会社勤めって、学生生活以上に厳しいのよ。自分が会社から、どう評価されるか、限界ぎりぎりまで頑張っている筈よ」

 その奈々の言葉を聞いて、私は涙がこぼれそうになった。奈々がこんなに信頼し、尊敬しているというのに、哲郎は何をしているのか。奈々は日々、どんどん成長している。もし奈々が父親の愚行を知ったならどうなるのか。

「お母さん、どうしたの?」

 奈々に言われて、私はハッと我れに返った。子供たちに涙を見せてはならなかった。私は無理に作り笑いして答えた。

「二人が余りにも上手に料理を作れるようになったから、お母さん、嬉しくて・・・」

「俺、もっともっと料理、上手になるよ。そして大人になったら、杉浦先輩のお父さんみたいに、レストランをやりたいんだ」

「孝太は馬鹿ね。弘樹君のお父さんは日本のホテルのレストランで働いた後、イタリアまで行ってイタリア料理の修業をして、帰って来た人よ。英語もイタリア語も話せるのよ。あなたに、そんなこと出来るかしら」

「何故、俺が出来ないって言うんだよ。お姉ちゃんは俺の才能に気づいていないんだ」

 奈々と孝太は食事をしながら、口喧嘩を始めた。こんな時の二人は、少年少女に戻っていた。私は子供たちが作ってくれた夕食を済ませると、台所に立って、梨の皮をむいた。心が落ち着かなかった。哲郎とあの女のもつれる姿が脳裏を駆け巡った。皮をむいた梨を細かく切る時の包丁にも、力が入った。私はむき終えた梨を、細かく分け終わると、大皿に乗せ、まだ口喧嘩している二人の前に置いた。白い梨をフォークで刺して口に入れた孝太が、私の顔を見て、嬉しそうな顔をした。

「甘いな」

 私は孝太の言葉に、ドキッとした。甘いという別の意味が私を傷つけた。私はカッとなった。

「そんなに美味しかったら、お父さんの分も食べちゃいなさい」

「それはいけないよ」

 孝太は自制した。奈々と孝太はデザートの梨を食べ終わると、二階のそれぞれの部屋に引き上げた。私は食器を洗い、それから新聞に目を通し、頭の中は別の事を考えていた。一時間程すると哲郎が帰って来た。

「只今」

「お帰りなさい。今日も忙しかったの?」

「ああ」

「良い匂いがするわね」

「カレーの匂いだな」

「いや、別の匂い」

「何のこと?」

 私は無神経なのか、とぼけているのか、きょとんとしている哲郎の顔を殴りたくなった。そこへ哲郎の声を聞きつけて、奈々が二階から降りて来た。

「お父さん。お帰りなさい。お疲れ様」

「ああ、奈々、まだ起きていたのか」

「過労死されたら困るから」

 奈々は哲郎と短い会話を済ませると、二階の部屋に戻った。哲郎は背広とズボンを衣紋掛けにかけると、夕食をせず、ワイシャツや下着を脱ぎ、風呂に入った。そして風呂から出て来ると直ぐにパジャマを着て、寝室の布団に入り、横になった。私は他の女に触れて来た哲郎と同じ部屋に寝るのはイライラするが、我慢するより仕方なかった。



        〇

 私は哲郎の不倫を目撃し、その事実に向き合うと、ノイローゼになりそうだった。いや既にノイローゼになっているのかも知れなかった。私は、これ以上、考えるのが恐ろしくなり、仕事や家事に身がはいらなくなった。そんな私に興味半分の京子が電話して来て、京子と会うことになった。私は夫の不倫の噂が広まるのを恐れて、彩華を誘うのは止めた。京子と二人、京子の知っている歌舞伎町の『青葉』という台湾料理店に行き、ビールを飲み、前菜盛り合わせ、エビチリソース、スミイカの炒めなどを食べながら、哲郎の行動調査結果を京子に話した。店内の客はサラリーマンと中国人女性が多く、賑やかだったので、周囲を気にせずに話すことが出来た。

「あなたたちのアドバイスに従い、仕事が終わってからの主人の行動を追跡したら、何と若い女性と町田で逢引して、ホテル街へ行ったわ。二人がホテルに入る現場を捕まえようと思ったけど、急に怖くなって逃げ帰っちゃった」

 その報告に京子はふふんと笑って言った。

「そこが瑠美の良いところね。私なら、現場に怒鳴り込んで行くわ」

「そんなことしたら主人の立場が無いわ」

「主人の立場が無いなんて。主人は女との事でビンビン立っているんでしょう」

「まあっ、京子ったら」

 京子がおかしいことを言うので、私も京子と一緒になって笑ってしまった。彼女と話していると、暗い話も明るくなってしまう。

「あなたの旦那さん。あなたが思っている以上にもてたりしているのよ。家庭を守る為に懸命に頑張っている男性って、独身女性には、とても魅力的に見えるのよ」

「でも相手が、そう思っても私や子供がいるのだから、主人も考えてくれないと・・・」

「それが瑠美のいけないところ。今までが私と違って、順風満帆すぎたのよ。あなたは結婚して仕合せな家庭をつくることに夢中になり、旦那さんを家族の一員にしてしまったの。結婚したら、生涯、旦那さんは自分だけのものと決めつけ、恋愛時代の気持ちを捨ててしまったのよ。それがいけないの。人の気持ちを縛り付けてはいけないの。会社にも家庭にも自由が無かったら、外に逃げ出したくなるの」

「外に逃げ出したくなる?」

「そうよ。篭の鳥は逃げたがるでしょ。逃げた鳥は不倫に走るの。恋愛時代の気持ちを捨ててしまっては駄目よ」

 京子に指摘され、私はハッとした。私は高校生の奈々と中学生の孝太のことや、家のローン返済のことばかり考えていて、哲郎のことは、私を配偶者にして、私の側にいるのが当然であると思っていた。私は夫のことを私の御主人様であり、家族であり、男であると感じなくなっていた。家庭内のことは総て私が仕切り、夫が居ても居なくても毎日が過ぎて行き、哲郎の居場所など子供たちと同様だった。それでは夫が満たされない気分になるのは当然かも知れなかった。では、その哲郎を引き戻すには、どうすれば良いのか。

「じゃあ、どうしたら良いの。恋愛時代の気持ちを再生する方法なんてあるの?」

「あるでしょうよ。瑠美は旦那さんに浮気されて、自分への旦那さんの恋愛感情が何処かへ行ってしまったことに気づいた筈よ。そして自分も本当は旦那さんのことを、とても好きだったんだと気づいた筈よ。ならば自分の方から旦那さんのことを、好きだと、ぶつけて行けば良いのよ。跳び付いて行けば良いのよ」

「でも他の女とセックスして来た主人に、跳び付くなんて出来ないわ」

「それが瑠美のいけないところよ。旦那さんを有難く受け入れて上げないと。家事や仕事で疲れているのにセックスを強制され、耐えているなんて思っちゃあ駄目なの。恋愛時代を思い出し、熱い果汁をねっとりからませ、旦那さんを包み込んでしまうのよ」」

 私は京子のいう恋愛再生法をすんありと理解することが出来なかった。だが京子の言葉の一つ一つに、自分たち夫婦が、他の事に目を奪われ、嚙み合わないでいることに気づいた。



        〇

 八月に入ると、ヘルスケア事業部に、アパレル事業部の若手、森山大吾が係長として移動して来た。そして宮原秀行が係長から、課長に昇格した。森山は無精ヒゲを生やして、男臭く、『極東物産』のどの事業部にも不適格な人物のように思われた。しかし森山常務の親戚ということで、中西部長が引き受けたらしい。村上も山田も、井上陽子も、それに不満らしかったが、人事部の通達に従うより、仕方なかった。この人事により、宮原は今まで渡辺課長が座っていた椅子に座り、森山大吾は今まで宮原が使っていた椅子に座った。八月の夏休みが始まる前日、八月十一日、、私たちは森山大吾の歓迎会と、宮原秀行の昇格祝をする為、新宿西口のレストラン『おとぼけ』に夕方、集合した。この日の中西部長は張り切っていた。自ら司会をつとめ、乾杯の音頭を取り、森山大吾を歓迎すると共に、宮原課長に、今まで以上に頑張ってもらうよう喋った。それに対し、宮原は中西部長のもと、粉骨砕身、力を尽くすと弁舌した。その心意気は立派なものであったが、私には、すんなり受け入れることが出来なかった。渡辺課長がいなくなつてしまったヘルスケア事業部の業績がどうなるのか心配だった。『おとぼけ』での歓迎会は皆、楽しそうだった。私だけが、一歩引いている感じだった。山田は酔いが回って来ると、森山大吾に酒を注ぎながら言った。

「森山さん。期待してますよ。責任重大ですからね。あなたに要求されているのは、渡辺課長以上の能力を発揮するということなんです。他のメンバーは変わらないのですから、森山さんが、渡辺課長以上の成績を上げないといけないんです」

 すると森山大吾が、言い返した。

「そんなこと聞いてないよ。私は課長じゃあ無い。係長だ」

「なら頑張らなければならないのは、課長になった宮原さんだね」

 山田が、くだをまいて宮原を睨みつけると、宮原は顔を風呂上りのように真っ赤にして怒鳴った。

「山田。いい加減にせい。うるさいから喋るな!」

「口封じですか。つまらないな。そろそろ、お開きにしますか」

 山田の言葉に、皆、しらけてしまった。その空気を読み取った中西部長は、私に会計を済ませるよう指示した。私はあらかじめ集めて置いた宴会費を、カウンターに支払い領収書をもらった。『おとぼけ』を出ると中西部長は、宮原課長と森山係長を連れて、三人で銀座へと向かった。若い村上と山田は陽子と仁美を誘って歌舞伎町の店に飲みに行くからと、ペコペコ頭を下げた。私は一人になってしまった。何故か空しかった。今までだったら、渡辺課長が気を使ってくれて、喫茶店で酔い覚ましのコーヒーを飲んだり、カラオケに行ったりしたのだが、渡辺課長がいなくなったヘルスケア事業部はバラバラだった。大阪支店へ行った渡辺課長は今頃、何をしているのだろうか。新天地で家族そろって、新しいスタートが出来ただろうか。彼の奥さんと娘さんは、大阪弁と大阪の水に馴染むことが出来るのだろうか。私には他人事なのに、何故か気になった。そんなことを考えながら新宿駅の小田急線改札口に入ると、ホームは急行電車を待つ乗客でいっぱいだった。これから立ちっぱなし満員電車に乗って帰るのかと思うと、帰るのが面倒になった。だからといって帰らない訳にはいかない。あの女と触れ合って来た哲郎が帰っているであろう自宅に帰るのは嫌だったが、そんな憂憤は捨てるしかなかった。私の帰る所は自宅だけなのだ。



        〇

 夏休みになると、私たち家族はまず、世田谷の経堂にある私の実家に行った。家族四人で顔を出すと、父、武久と母、朋子が大喜びした。私の弟の高志の家族は明日、松戸から来るという。奈々と孝太は時々、経堂の家に来ているので、岸田家のことは何でも知っていて、まるで自分の家に居るように動き回った。ところが哲郎は借りて来た猫のようだった。そんな哲郎に父、武久の方から話しかけた。

「孫たちの話によると、哲郎君も仕事が忙しく、大変みたいだね」

「はい。研究所の仕事は成果を上げないと認められないので、苦労してます」

「しかし、たまに息抜きしないと、身体に悪いよ。何か趣味は無いのかね?」

「それが全く無いので・・・」

 哲郎は父に訊かれて、溜息をつくばかりだった。長年サラーリーマン生活を過ごして来た父は、それが心配みたいだった。

「ゴルフでもしたらどうかね。何なら私も付き合うよ」

「ゴルフですか。健康に良さそうですね」

「ああ、ゴルフは良いよ。玉を打つとスカッとする。それに足も鍛えられるからね」

「でも道具に金がかかるし、プレイ代も高いですから」

 哲郎は父、武久の勧めを体よく断ろうと、経済的理由を並べて躱そうとした。しかし父はゴルフ仲間を増やそうと熱心だった。

「道具なら私が、この前まで使っていたのがあるから、上げるよ。帰りに持って行きたまえ。バックも揃っている」

「有難う御座います」

「お父さん、良かったね」

 話を聞いていた孝太が、自分の事のように喜んだ。孝太はサッカーだけでなく、ゴルフにも興味があるみたいだった。私は私で、母の朋子や娘の奈々と一緒に夕食の準備をしながら、いろんな話をした。母は相変わらず俳句の会に入っていて、俳句仲間と、時々、旅行に出かけるのが楽しみだと話した。私は哲郎が仕事熱心だし、子供たちも協力的なので、安心して会社勤めが出来ていると話した。奈々は今はテニスに夢中だが、来年になったら、大学の受験勉強に集中するのだと話した。

「ボーイフレンドは未だいないの?」

 母、朋子が質問したので、私は首を横に振った。それを見て奈々が膨れっ面をして言った。

「まだいません。声をかけて来る男子生徒はいるけど、幼稚で」

「まあっ」

 母も私も、奈々の発言に呆れ返った。奈々が親しくしている杉浦弘樹やラブレター少年、平林正彦のことを幼稚と言える奈々は、もっと大人びているのか。私はちょっと不安になった。三人で作った迎え盆の料理は、チラシ寿司、ナス焼き、ほうれん草の炒め、カボチャ煮、厚揚げなどで、奈々や孝太の好きな肉類は無かった。でもデザートはフルーツやケーキだったから、二人は大喜びした。六人での食事に武久は大満足で、何時も以上に酒を飲むから、母に代わって、私が、父と哲郎に飲み過ぎないよう注意した。食事が終わると母と私は奈々と孝太と四人で、狭い庭に出て、花火を楽しんだ。幼い時、弟の高志と柿の木の下で蚊に食われながら、線香花火をした時のことが、思い出された。花火が終わってから食事の後片付けをして、私たちは新百合ヶ丘の家に帰る事にした。父は庭の片隅にあるスチール倉庫の中から、古いゴルフ道具の入ったゴルフバックを取り出し、哲郎に渡した。奈々と孝太は母から小使いをもらい嬉しそうだった。私は泊って行きたい気持ちを抑え、両親に見送られ岸田家を出た。私の実家から経堂駅まで歩く哲郎には、ゴルフ道具が邪魔みたいだった。



        〇

 十五日には、夫の実家、早川家に行った。柿生の家は義父の健吉夫婦が農業をしていて、義兄の銀一は農協に勤務し、その妻の早苗は専業主婦だった。その子供の昭雄と和雄は、孝太より、ちょっと年上で、孝太の事を可愛がってくれたから、孝太は柿生の家に行くのを喜んだ。しかし奈々は女の友だちがいないので、柿生の家に行くのには気乗りしない感じだった。でも早川家の実家に行って、仏壇に線香を捧げ、御先祖様に挨拶をしなければならないので、皆について来た。早川家でも義父の健吉と義母の和子が、孫たちの訪問を喜んだ。広い八畳間でスイカを食べたり、御菓子をつまんだりして、十人集まると、とても賑やかだった。太陽が傾き始めると、和子の指示に従い、義姉の早苗と私と奈々の女性四人は、夕食の準備をした。そうめん、里芋と野菜の煮物、天ぷら、豆腐など、昔から伝わる早川家のお盆の食事の献立作りだった。それらの料理が出来上がると早苗と奈々が、八畳間の座卓の上にそれらの料理を並べた。健吉は仏壇に灯りを点け、料理を備え、再び線香を上げ、手を合わせた。その後、一人一人、御先祖様に感謝した。それから哲郎たちはビールを飲み、女性たちと子供たちは麦茶を飲んで、夕食を美味しくいただいた。夕刻、七時前になると男の子たちが騒ぎ出し、村の鎮守の盆踊りに行くことになった。私と早苗姉は、子供たち四人を連れて、琴平神社へ行った。神社の境内前に櫓が組まれて、既に祭りが始まっていた。浴衣姿で踊る大人や子供たちは皆、楽しそうに笛や太鼓の音に合わせ、手や足を動かしていた。私たちの子供たちは、そんな踊りに余り興味が無いみたいだった。広場の脇や参道の屋台に夢中だった。射的、金魚すくい、ヨーヨー釣り、飴細工、お面、ジャガバタ、焼き鳥、アクセサリー、たこ焼きなどの店を渡り歩き、買ったり、食べたり、遊んだりした。私と早苗姉は、子供たちの後を追いかけて歩き回り、クタクタだった。新婚時代は浴衣を着て、哲郎と一緒になって、うちわを持って踊りの輪に加わって楽しんだのに、今はありえないことだった。祭の時間が終わると、私たち早川家に戻った。義父の健吉と兄の銀一、弟の哲郎は、まだテレビを観ながら飲んでいた。早苗姉が、それを見て注意した。

「皆さん、飲み過ぎよ。明日から、お仕事でしょ」

「それは分かっているが、巨人が逆転負けしたんだ」

「だからって、もう止めないと。哲郎さんたち帰るのだから・・・」

「そうよ。私たち帰らないと・・・」

 私は哲郎を睨みつけた。しかし哲郎は、だらしなく座卓にもたれて、どこ吹く風だった。それを見た奈々が哲郎の手を引っ張った。

「お父さん。普段、飲まないのにどうしたの。あらしないわよ。帰るのよ。家に帰るの」

 哲郎は奈々が引っ張っても立ち上がろうとしなかった。それを見かねた孝太が、奈々と一緒になって手を引っ張ると、哲郎はヨロヨロと立ち上がった。

「じゃあ、そうしようか」

 私たちは酔っぱらった哲郎を連れて、帰る準備をした。タクシーを呼んでもらい、乗るのを嫌がる哲郎をタクシーに押し込み、私たちはタクシーで家に帰った。自宅に着くと、一階の寝室に布団を敷き、哲郎を直ぐに寝かせた。それから私と子供たちは、ほっとして、ブドウを食べたりして、哲郎の実家の話などをした。振り返ると私の夏休みは、疲れの休みだった。



        〇

 夏休みは親戚回りをして終わった。そして再び私と哲郎の会社勤めが始まった。子供たちもクラブ活動や仲間との宿題合わせで忙しそうだった。会社に出社すると、あれやこれややることがあり、軌道に乗るまで大変だった。しかし、一日過ぎると余裕が出て来た。ふと京子の言った主人との恋愛時代の気持ちを再生させる方法について、自分は何をすれば良いのか考えたりした。しかし、その方法は浮かばなかった。他の女と楽しんで帰って来た夫とは、もう無理だと思ったり、自分も悪かったのかなと自問したりした。あの女とのことを徹底的に追求し、夫を土下座させ、あの女の頭を踏みつけてやろうなどとも思ったりした。でも私が、哲郎とあの女がホテル街に消えて行くのを見たのは、たった一度、だけだった。財布の中にあるメモ用紙から推測すれば、あの女と何回も会っているに違いなかった。だがあのメモ用紙が彼女が書いたものという確証は無かった。私はもう一度、哲郎とあの女の事を確かめようと思った。私は金曜日、役所に用事があるからと言って、『極東物産』を早退させてもらった。前回と同じ夕方、五時過ぎ、小田急線の本厚木駅で下車し、哲郎が現れるのを待った。サングラスを通して見る駅前広場の風景は、薄暗かった。六時ちょっと前、哲郎は、この前と同じ時刻にバスから降りて来ると、会社の人たちと改札口で別れ、上り新宿行きホームに立った。上り電車が入って来ると、哲郎は周囲を確かめてから電車に乗った。そして町田に着くと、前回と同じように高架橋を渡り、その下にある喫茶店『シャノアール』に入った。数分すると哲郎とあの女が笑いながら、地下階段から上がって来た。

「何て言えば良いのかな。兎に角、俺の事、子供扱いなんだ。食事中、御飯をこぼすとか、箸の握り方が悪いとか、テレビを観てて、私の話を聞かないとか、文句ばかりで、家庭での、くつろぐ場所が無いんだ。子供たちは自分の部屋に閉じこもれば済むが、俺の逃げ場所は何処にも無いから、モヤモヤする一方。家に帰りたく無くなるのわかるだろう」

「分かるわ。女って結婚したら男は生涯、自分に奉仕するものと考えたりするのよ。相手の気持ちが読めなくなるのね」

「それが一番、困るんだ。たまに優しくしてやろうとすると、そんなことばかり考えているなんて最低だわなんて言うんだ。俺が傷つくことなど、全く考えちゃあいない」

「だから私と・・・」

 二人は自分たちの世界に酔って、他人のことなど眼中に無かった。私の存在など街路灯の柱か通行人でしか無かった。二人はJR町田駅の前を通過し、川べりのホテル側へと向かった。今日も夕陽が夕空を染めている。私は二人の後を追った。勇気を出して橋を渡った。二人は橋を渡って直ぐの通りにあるラブ・ホテル『スイート』に入った。私が中を覗こうとすると、背後の暗闇から声がかかった。若い男だった。

「一緒に入りませんか?」

「ごめんなさい」

 私は吃驚して、その場から逃げ出した。背筋がゾッとした。通りを曲がり、川べりの橋を駆け抜けた。橋を越えると、動悸が激しくなり、しゃがみ込みそうになった。

「大丈夫ですか?」

 大型電気店の駐車場の係員に声をかけられた。私は大丈夫ですと答え、町田駅へと向かった。



        〇

 八月末、大阪支店から渡辺次長が東京本社にやって来た。彼は大阪支店勤務になり、課長から次長に昇格し、大阪支店のナンバー2になっていた。彼は午前十時に事務所に顔を出した。

「お早よう」

「お早う御座います」

「お早う御座います。お久しぶりですね」

 私は陽子たちと一緒に丁寧な挨拶をした。中西部長は、やあと言っただけだった。宮下と森山は黙って頭を下げただけで、まるで無視している雰囲気だった。村上は軽く挨拶した。この日の渡辺次長は、大阪支店長の高橋吉弘と一緒に、午後からの販売会議に出席する為に、上京したということで、午前中は暇みたいだった。渡辺次長は外出している山田の席に座り、私たちと雑談した。大阪の住所は森の宮で、マンションの四階の3LDKとのことだった。奥様は大阪に慣れるまで、専業主婦として家にいて、慣れてきたらパートの仕事を探すとのことであった。娘の美輪ちゃんは、今までと同じ大学の付属高校に転入出来たので、ほっとしたと語った。雑談しているうちに昼食時となった。私は出先から戻って来た山田と陽子を誘って、渡辺次長と中華料理店で昼食をした。四人での楽しい昼食だった。午後からは、本社と大阪の主要幹部が集まっての販売会議が始まった。私たちは午後三時に、その会議室にお茶を運んだ。菊池社長が、相変わらず熱弁をふるっていた。その会議は夕刻に終わり、その後、懇親会があるということで、中西部長も、宮下課長も、定時に退社した。渡辺次長も高橋大阪支店長と、その懇親会に出ると言って帰って行った。ちょっと寂しい気持ちになった。私と陽子と仁美と山田は、仕事を終わりにして四ツ谷駅で別れた。私は総武線で四ッ谷から新宿へ向かった。車窓に映る自分の顔は、泣き出しそうだった。私は新宿駅で下車すると、デパートの中を歩き、訳も無く時間を浪費した。一時間ほどすると渡辺次長からメールが入った。

〈間もなく懇親会が終わります。まだ帰りの途中でしたら、一緒に飲みませんか?〉

 私は直ぐに新宿にいるので了解ですと返信を送った。心がときめいた。心のどこかで期待していたことが、現実と一致した。三十分ほどすると、渡辺次長は、新宿駅東口の喫茶店に現れた。私たちは直ぐに喫茶店から、居酒屋『隠れ家』に行き、生ビールで乾杯した。渡辺次長はサーモンや茄子の生姜炒めなどを食べながら、今日の販売会議の話を面白可笑しく話した。アルコールに強くない私はジョッキ一杯で、身体中が火照ってしまい、飲むことも食べることも出来なくなってしまった。時計を見ると九時になるところだった。私は渡辺次長に言った。

「そろそろ出ましょうか」

「うん、そうだな。行こうか」

 私たちは『隠れ家』を出ると、歌舞伎町のネオン街の奥にあるホテル『ジョージ』に向かった。この前、一度、行っただけなのに、私たちは何の迷いも躊躇することも無かった。女は一旦、男を愛し始めると、もろい存在になるというが、私は私の前で純粋無垢な子供のように無邪気になる渡辺次長の思うがままになりたかった。ホテルの部屋に入ると、私たちは恋に没入した。私は彼に寄り添い、仕合せを感じた。彼の奏でる愛戯は初め優しいさざ波のようであったが、途中から、力強いダイナミックな威力で襲い掛かって来た。私は、その激しさに驚いたが、もう船出したのだから、後戻りは出来なかった。彼の成すがままに身をゆだねた。彼の炎のように燃えた鉄柱が、私の中に侵入して来ると、私の身体の中を、たとしえ難い快感が電流のように走り抜けた。私はその衝撃に目覚めた。本当の女になったような気持ちになった。夫や家族のことを忘れて、心の奥の奥までかき回された。気が付けば終電近かった。私たちは慌ててホテルを出た。



        〇

 今まで平凡だと思っていた私の生活は急変した。夫に恋人が出来、私にも恋人が出来た。私たちは夫婦でありながら、二人の夫婦の結び目にゆるみが生じ、相手への愛しさが薄らぎ、もう、どうでも良くなっていた。哲郎の不倫を知った時はショックで、怒りが込み上げて来たが、自分が渡辺次長とつながってしまうと、これで対等の状況、つまり、お相子、五分と五分と考えるようになった。この精神的いい加減さは、あいまいな無責任さを許容し、夫婦の間の軽い緩衝材となって、相互の意識的均衡を保つようになった。良妻賢母などというものは今や砂上の人形。そんなもの壊してしまえば、女はもっと気楽に面白く生きられる。私は何故、真に愛し合える人と共に過ごす時間を、もっと早くに見つけられなかったのか。結婚は家庭を作ることであり、恋愛は別であると、何故、気づかなかったのか。私は今まで夫に裏切られたという気持ちに怒りを感じ、そこから解放されないでいたが、渡辺次長と深い関係になり、夫への怒りの苦しみを自分で作り出していたことに気づいた。私は渡辺次長が、上京して来るのが楽しみになった。そんな時に彩華から電話がかかって来た。

「お久しぶり。元気でいる。また三人で会いたいわね。どうかしら?」

「いいわよ。京子の都合を確認してよ。私、それに合わせるから」

「分かったわ。早川さんは、その後、どう?」

「会った時に話すわ」

 私は哲郎のことを彩華には余り話したくはなかった。二回り年上の貿易会社の社長と付き合っている独身の彩華は、哲郎にからみついているあの女と重なって見えた。独身だから恋愛は自由だという彼女の生き方は、不倫では無く、恋泥棒のように思えた。三人で会う日は直ぐにやって来た。新宿駅西口交番前で合流し、居酒屋『魚民』に入った。まずは三人で、ビールで乾杯。刺身、サーモンサラダ、茄子の生姜炒め、里芋と人参、コンヤクなどの田舎煮、イカの丸焼きなどを注文してから、京子が一番先に口を開いた。

「こないだは御免なさい。瑠美には旦那さんに対する恋愛感情が欠落しているなんて言っちゃったけど、言い過ぎだったみたい」

 そんな言葉が京子から出て来るとは意外だった。私は微笑んだ。

「そんなこと無いわよ。京子の言う通り。私たち夫婦は、冷めきっていたということが分かったわ。でも夫とは恋愛を再燃させたいなどと思っていないわ。私は結婚生活に縛られず、自由に生きるわ」

「まあっ、それって、どういうこと?」

「夫との不協和音をものともしないで、自分の人生の演奏を大いに楽しむのよ」

 私の発言に京子も彩華も驚いた。あの良妻賢母を目指していた生真面目な友の変身に、目を丸くした。

「ということは、瑠美が浮気するってこと?それって旦那さんへの復讐?」

「そうかもね。目の前の悩みの解決が出来なくても、その苦しみや重さが、少しでも軽くなれば、人は前に進むことが出来るわ」

「変わったわねえ。男に振り回されている私たちのことを、馬鹿馬鹿しいと思っていたくせに・・・」

 京子は彩華と目を合わせて笑った。私は、そんな二人に言ってやった。

「大学時代、勉強したでしょう。夏目漱石の『吾輩は猫である』の中にあるミユッセの言葉。羽より軽いものは塵である。塵より軽いものは風である。風よりも軽いのは女であるって・・・」

「良く覚えているわねえ」

「そういえば、そうかもね。私たち女は罪深いかも」

 二人は私の言葉に頷いた。私たちは本当に罪深い存在なのでしょうか。何だか少し言い過ぎた気がした。

 


        〇

 そんな或る日、思わぬことが起こった。金曜日の夜だった。私が家に帰り、奈々と一緒に夕食の準備をしているところに哲郎が帰って来た。玄関のドアを開けると、哲郎の後ろに、一人の女が立っていた。私は卒倒しそうになった。何と、その女は町田で見たあの女ではないか。哲郎は平然と彼女を家に連れて来て、私たち家族に紹介した。

「こちら、うちの取引先の田島さん。近くまで来たので、家族に挨拶したいからって」

「田島玲子です。これつまらない物ですが、召し上がつて下さい」

 田島玲子はそう言ってお辞儀をすると、『コージコーナー』のケーキの入った袋を私に渡し、にっこり笑った。信じられ無い。哲郎も玲子も、どういう神経をしているのか理解に苦しむ。私は一瞬、ためらったが、気持ちを切り替え、玲子に挨拶した。

「お土産など、お気使いされなくても、よろしかったのに。私、早川の妻の瑠美です。どうぞ、お上がり下さい」

 私は彼女を居間に案内した。居間にいた奈々と孝太は突然、見知らぬ人形のような目のぱっちりした顔立ちの若い女性の出現にびっくりして、椅子から立ち上がった。哲郎が子供たち二人を玲子に紹介した。

「長女と長男です」

「奈々です」

「孝太です」

「田島玲子です。よろしくね」

 玲子は甘ったるい声で子供たちに挨拶した。私は彼女にテーブル席に座るよう椅子を勧めた。奈々と孝太と相向かいに座らせ、彼女と主人を並んで座らせた。私はキッチン寄りの席で、座ったり立ったりした。水色のスーツを着て、金色の薔薇を模したモチーフのネックレスを胸に光らせる玲子は、高級品を沢山、持っていた。時計、ピアス、バッグ、靴など、どれをとってもブランド品だった。どう考えても、私などが買える物では無かった。多分、今、目の前にいる玲子は、彩華のような独身女性に違いなかった。彼女は私に向かってだろうか、お世辞を言った。

「早川さんの御家族って、優しい奥さんがいて、可愛いお子様が二人いて、理想的ですね。羨ましいわ」

「そうだろうか。現実は、そうでも無いんだ。子供が小さかった頃は、二人とも可愛かったが、今では親に注意するんだよ」

 哲郎が、そう答えると、奈々が自分の考えを訴えるように玲子に喋った。

「だって、お父さん、時々、馬鹿な事を言うからよ。それに乙女心が分からないから・・・」

 奈々の言葉に玲子は小さく笑った。すると孝太も緊張を解いて、奈々と一緒になって、哲郎が酒癖が悪い、鼾が大きい、テレビのチャンネルを横取りするなどと、あれやこれや話した。しばらくすると玲子は時計を見て、驚いた顔をした。

「あらっ、もう、こんな時間。すみません、長居しちゃって。突然、すみませんでした。私はこれで、失礼します」

「あの。もし、よろしければ一緒に夕御飯、食べて行って下さい。食事は一人でも多い方が楽しいですから」

「でも・・・」

「遠慮せず、食べて行きなよ」

 哲郎は私たち家族の事など気にせず、玲子を引き留めた。すると玲子は遠慮がちに答えた。

「では、お言葉に甘えて・・・」

 私たち家族は、彼女と一緒に夕食をした。奈々は自分が作ったポテトサラダを、美味しいでしょう、美味しいでしょうと勧めた。玲子は、美味しいわ、美味しいわと、奈々の料理を誉めて、私の作ったビーフシチューについては何も言わなかった。食事が終わってから玲子が持って来たケーキを皆でいただいた。その後、玲子は後ろめたいような顔をして、席から立ち上がり、私に向かって頭を下げた。

「今日はごめんなさい。突然、お伺いして、申し訳ありませんでした。夕食までいただいて。私、これで失礼致します。今日は本当に有難う御座いました」

 私は慌てて立ち上がって彼女に答えた。

「こちらこそ、楽しかったです。是非、またいらっしゃって下さい」

「じゃあ、駅まで送って行くよ」

 と、哲郎が言った。玲子は、少し照れたように笑った。それから玲子は哲郎に見送られて帰って行った。



        〇

 日曜日の昼過ぎ、哲郎は世田谷の私の実家の父、武久から譲ってもらったゴルフ道具をかついで、近くのゴルフ練習場へ出かけて行った。私の父は、ゴルフやマージャンや酒が好きだった。この三ッの遊びを上手く活用し、長いサラリーマン人生を上手に切り抜けて来たと自慢していたので、哲郎がゴルフの練習を始めることは良い事だと思った。出来ればゴルフに自信を持っている父、武久と勝負出来るくらいに、上達して欲しいと思った。私は誰も居なくなった家の中で一人、考えた。渡辺次長が次に東京にやって来るのは何時になるのか。次に彼に会う時は、どんな服装をして行こうか。夫、哲郎に田島玲子という女がいるということに気づいてから、私は家庭における自分の存在価値を見失い、全く充実感を得られなくなっていたが、それが変わった。欲求不満がつのり、悩んでいたが、渡辺次長と親密になってから、他の男との恋愛に、自分が生きているのだという充実感を抱くようになった。京子や彩華が、変わったわねえと言うのも、最もなことだった。渡辺次長が直ぐ近くにいた時は、尊敬する上司と忠実な部下の関係であったのに、彼と遠く離れたことにより、私たちは不倫の関係になっていた。自分は既婚者で、男にもてないと、ずっとひがんでいたのに、あの送別会の帰りに、渡辺次長から、お互い優しさを求め、一つになろうとしていたんだねと、甘い言葉をかけられ、自分の存在を認められ、舞い上がった。私は旧態依然とした家族概念に縛られていた自分に気づいた。家族といっても所詮は個人の集まりであり、その心を一つに集結しようというような理想を追求したところで、それは不可能なことであった。私は、その偶像から脱皮し、真の自己を獲得することこそ、人間解放であり、各人、幸福が得られるのだと、考えを改めた。人生はギブ・アンド・テイク。自分の持っているものを、惜しみなく他人に与えれば、別のところから新しいものが届く。そう考えると、田島玲子のことなど、どうでも良かった。彼女を憎む必要など、さらさら無かった。むしろ哲郎に、そういう相手がいて良かったと思えた。あれやこれや、とりとめもなく考え事をして、ふとガラス戸から外を眺めると、窓の外が、いつの間にか、薄暗くなり始めていた。空には今にも雨を降らせそうな黒い雲が、近づいて来ていた。私は急いでベランダに干してある洗濯物を家の中に取り込んだ。庭に干してある靴もしまった。そこへ孝太が駆け込んで来た。

「お母さん雨が降って来そうだよ」

「うん。分かってる。今、洗濯物を入れたとこなの。雨が降る前に帰って来られて良かったわね」

「うん。ところで、お父さん、何処へ出かけているの?」

「ゴルグの練習場へ出かけたの。じき帰って来ると思うわ」

「お父さんも、やっとゴルフをやる気になったか」

 孝太は、そう言って、ゴルフのクラブを振る格好をしてから、洗面所へ行って脱衣し、風呂場に入って、シャワーを浴びた。私がタオルを持って行くと、彼は私が風呂場に入ろうとするのを拒否した。

「そこに置いといてくれれば良いよ」

 彼は、そう言って、股間を隠した。子供と思っていた孝太は、少年を通り越して、大人になりつつあるのだと、実感した。孝太の後に帰って来たのは、ゴルフバックを肩にかけた哲郎だった。

「どうだった?」

 私が質問すると、哲郎は私を小馬鹿にしたような笑いを見せた。

「慣れれば簡単だよ。そのうち、コースに出られるようになるよ」

 私は、その言葉を聞いて、良かったと思った。趣味が増えれば、考えも変わるかも知れなかった。



        〇

 いつの間にか夏も終わり、アメジストセージの花が咲き、柿の実やザクロの実が家々の庭先で目立つ季節になった。私は奈々と一緒に駅まで歩き、新宿行きの急行電車に乗り込んだ。成城学園前で、電車から降りる奈々と別れた。それから私は満員電車の窓から都心への風景をボンヤリ眺めた。代々木上原で、イスラム教のモスクが見えると、その先は都庁をはじめとする高層ビル群が、聳えていた。新宿駅に電車が着くと、ギュウギュウ詰めの電車に乗っていた乗客が、ホームに溢れ出すと、私も一緒にホームに押し出され、その流れと共に、総武線に乗った。そして四谷で下車して会社に入ると、珍しく中西部長が出社していて、机上のパソコンに向かっていた。

「お早う御座います」

「お早う」

「お早いですね。今日、何かあるのですか?」

「いや、水曜日、販売会議があるから、大変なんだ。森山係長に期待したんだが・・・」

 中西部長は渋い顔をした。こうなることは、私たち女性の方が分かっていた。アパレル事業部の青木紀子たちの話によれば、森山係長はギャンブル好きで、出社して午前中、会社にいるが、午後はパチンコ屋に入りびたりか、競輪場に出かけるかで、全く仕事をしていなかったという噂だった。その彼を森山常務に頼まれ、預かったのであるが、中西部長では教育出来ないに違いないというなが、女性たちの見解だった。現実は、その通りだった。

「大変ですね。宮下課長に、もっと厳しく指導してもらえば良いじゃあないですか」

「そうだね」

 噂をすれば影とやら。宮下課長が、山田満男や井上陽子と一緒に入って来た。続いて村上秀介と中原仁美が顔を見せた。一番最後に森山係長が遅刻して入って来た。しかし、男性社員は誰一人、遅刻を注意しなかった。私は森山係長に、注意しようかと思ったが、それより、水曜日、渡辺次長が上京して来ることの方が、気になって、その日の事に考えを巡らせていた。渡辺次長は、この次、どんな愛し方をしてくれるのだろうか。どんなセックスを求めて来るのだろうか。今まで会社に来て、そんなことなど考えることなど無かったのに、私の頭はどうかしていた。そんな私の精神状態が分かっているかのように、京子からメールが入った。

〈その後、お変わりありませんか。今日、新宿に行くので、夕方、会いましょうか。都合をお知らせ願います〉

 私は直ぐに了解の返信を送った。そして夕方六時半、この前、京子と入った台湾料理店『青葉』に行った。京子は既に薄暗い奥の席に座って、私を待っていた。

「突然、ごめんね。最近、小池が求めて来なくなったので、ストレスがたまっちゃったから。瑠美、その後、どうしているかなと思って」

「私は元気よ。夫の相手が、どんな女か、はっきり分かったから、もう平気。それに子供が大きくなって、彼にセックスを強要されることが無くなって、ほっとしているわ」

「私は反対なの。小池が求めて来ないのが不安なの。自分に女としての魅力が無くなって来たのじゃあないかって」

「何、言っているのよ。京子の色気は抜群よ。あなたが求めすぎるのじゃあないの」

「だって、セックスって、リズムでしょう。だから彼に求められないと、外でしたくなるのよ」

「まあっ」

 私は呆れ果てた。でも京子の言う通りかも知れなかった。私は渡辺次長と次に会うリズムに期待していた。何事にもリズムが必要らしい。

「ホストクラブへ一緒に行かない?」

 私は京子に経験したことの無いホストクラブに誘われたが、それは断った。



        〇

 数日後、大阪支店から高橋支店長と渡辺次長が一緒にやって来た。月例の販売会議に出席する為であった。この販売会議は社内の重要会議の一つで、各事業部のトップや支店長たちが一堂に会し、菊池文雄社長に自分の実績を自慢する日でもあった。その為、取締役をはじめ、幹部たちは朝から緊張していた。ところが渡辺次長は、午前中に東京本社に顔を見せると、ヘルスケア事業部に来て、世間話をして、気楽に過ごした。私と井上陽子は、そんな元上司の相手をしながら事務仕事をした。私は渡辺次長と話しながら、社内の人目が気になってならなかった。彼が東京本社にいた時には、全く気になっていなかったことが、今では気になった。誰かに二人の関係を気づかれるのではないか。一言一句に注意した。販売会議は午後一時からスタートし、夕方までかかった。その後、何時ものように懇親会があり、渡辺次長は、それに出席し、懇親会が終わると、私が待っている喫茶店『ラパス』にやって来た。私たちは『ラバス』で合流するや、居酒屋『隠れ家』に行き、刺身、焼き魚などを注文し、ビールで乾杯。満腹になったところでホテル『ジョージ』に移動した。『ジョージ』の部屋に入ると、私たちは初めての時のような羞恥心など無く、早くつながることを欲した。渡辺次長は私がシャワーを浴びて、ベットに上がると、私の前身の隅々にまで愛が行き渡るように、こと細かに丁寧な愛撫を繰り返し、私を興奮させようと努力した。そして、それに応じて私が集中力を高めて行くと、彼もまた私の手指の愛戯により、夢中になり、欲望を膨張させ、私に覆いかぶさって来た。まさに欲望満杯の瞬間がやって来て、彼は私と激しく結合しようとした。その結合の為、突入し、押し出されて来る激流が、私の子宮の奥にまで届こうと脈動するのが、接続されたパイプからの供給量と熱量で分かった。私は彼と共に、その波に乗って絶頂に達し、果てた。

「不思議だな。二人が、こんな関係になるなんて」

「まるで夢のようです」

「それは俺たちが引き離され、上司と部下の関係も、住む場所も、生活環境も変えられたことによって出来た転身のお陰さ」

「転身?」

「そう、転身。それは何もかも捨て去る悲哀と寂しさがあるものの、一方で新しい勇気が湧き上がり、新しいものが生まれるということさ、だから俺たちはこうして転身の恍惚を味わうことが出来ているのさ。まさに人生における革命だね」

 渡辺次長の話は、ちょっと大袈裟のように感じられたが、私もまた良妻賢母という殻から抜け出し、蝶のような存在に転身しているのかも知れなかった。

「奥様たちも大阪の生活に慣れたかしら?」

「娘の美輪は早くも友達が出来て、元気に高校に行っているが、英子は大阪の水が合わないらしい。家に閉じこもって、俺たちが一緒で無いと外出したがらない」

「それは困ったわね」

「うん。だから、あいつは俺が営業活動で夜遅く帰るまで、寝ずに待っているんだ。俺が背広を脱ぐ途中なのに話しかけて来る。風呂に入ってゆったりしたいのに、風呂のガラスドアの向こうから話しかけて来るんだ。俺は疲れていて、話を聞く気力も無いのに、嫌になっちゃうよ」

「でも、奥様の気持ちも考えてあげないと」

「そうだな」

 渡辺次長は、ちょっと笑ってから、溜息をついた。大阪での渡辺次長の家庭生活は余りうまく行っていないみたいだった。私たちは『ジョージ』から出ると、新宿駅まで歩き,JR駅前で別れた。



        〇

 萩の紫の花が咲き、黄色い金木犀の芳香が匂って、秋らしくなり、スポーツの季節が到来した。主人はゴルフ、奈々はテニス、孝太はサッカーに熱を入れ、家庭内でスポーツをしないのは私だけだった。最近、私もスポーツを始めようかなと思うようになり、井上陽子に相談すると、彼女はフィットネスクラブに通ったらとアドバイスしてくれた。

「私たちヘルスケア事業部にいるのに、おかしな話だけど、自分たちで販売している痩身スープやサプリメントだけでは痩せることが出来ても、その痩せ方は美しくは無いわ。一番は運動して痩せることよ。フィトネスクラブに通うと良いわよ」

 私は陽子のアドバイスを受けて、大学時代からの友人、横川彩華が、新宿にある『オアシス』というフィットネスクラブに通っているのを思い出した。そこで彩華に電話すると、久しぶりに会おうという事になった。京子にも声をかけた。私たちは新宿駅西口交番前で合流すると、居酒屋『魚民』に入った。何時ものように刺身、焼き魚、焼き鳥、ギョーザ、野菜サラダなどを注文し、ビールで乾杯した。三人はビールを飲み始めると、会社帰りの客が続々と入って来ることなど気にせず、近況報告をした。京子の報告によると、最近、小池の様子が怪しいという。家に帰って来ないらしい。

「多分、新しい女が出来たんだわ。男はどいつもこいつも寄ってたかって私を弄んで、飽きれば他の女に跳び付くんだから、頭に来ちゃうよね」

「そうね。男って、元々、そう出来ているのよ。あちこちに種蒔きするのが男の本能だから」

「じゃ、女が、いろんな種を受け入れたがるのも本能?」

「そうなの。だから女がいろんな種を受け入れないように、男が結婚という制度を作ったの。そうでないと女をめぐって争いが絶えないから」

 京子と彩華の話は人間の本性について、つまり人間の根本原理について深く突き進んだ。その結論は、人間の男女は生殖、性愛によって自己喪失の苦しみから離脱出来るのだという考えだった。セックスによって自己生命を未来に転化出来るという快楽を得られるということだった。従って結婚以外のセックスもまた、ごく自然な行為だから、したいと思ったら、配偶者以外の人とでも、すれば良いというのが、二人の意見だった。結婚していない彩華なら、そう思っても良いだろうが、私には、ちょっと受け入れ難かった。

「でも家族を作るとなると、結婚というルールが必要なのじゃあないかしら」

「それは、そうかもね。子供が出来れば、子供を育てる父母としての役割が生まれ、生活の安定を求めないとね」

「その子供たちが既婚者の子供であるという身分保障も必要になるしね」

 三人の話題は何時もに無く理論的になって、私のフィツトネスクラブに通う相談など、何処かへ行ってしまった。



        〇

 夫の哲郎と田島玲子のことについては、気になっているが、余り追求しないことに心掛けた。何故かと言えば、私が哲郎の事を詮索したなら、彼もまた私の事を詮索する可能性があったからだ。穏やかな池には、石を投げてはいけない。そっとしておけば波も立たない。安定した静かな時を、それぞれに過ごせば良いのだ。そんなことを考えている土曜日の朝、経堂の私の父、武久が電話して来た。

「瑠美、お早う。哲郎君、いるかね。ゴルフのメンバーが一人、急に用事が出来て行けなくなったので、哲郎君を招待しようかと思って」

 私はそれを聞いて、直ぐに、ゴルフのプレイ代のことを考えた。

「招待って、プレイ代、お父さんが負担してくれるの?」

「ああ、そうだよ。練習場で上手く行っても、コースに出てみないと、上達しないからね」

「分かった。呼ぶから、ちょっと待ってて」

 私は庭に出て、ゴルフクラブを素振りしている哲郎に、父、武久からの電話で、ゴルフの誘いが来ていると話した。すると哲郎は急いで家に入り、受話器を取った。彼は父には姿が見えないのに、ペコペコ頭を下げ、ハイ、ハイと答えた。

「楽しみにしてます」

 その哲郎の言葉に、哲郎が父の誘いを承諾したと分かった。私は哲郎がゴルフを通じて、私の父と今まで以上に親密になることを嬉しく思った。そのニュースを聞くと、奈々も孝太も哲郎をからかった。

「お父さん、おじいちゃんに負けるんじゃあないの」

 すると哲郎は胸を叩いた。

「どうかな。お父さんのドライバーの飛距離は、普通じゃあないよ。プロに近い距離まで飛ばすんだから」「ゴルフは飛べば良いというものじゃあ無いらしいよ。グリーンまわりが上手でないと」

 孝太が生意気な発言をした。そして翌日曜日、午前六時半過ぎ、父、武久が、シーマに乗って、哲郎を迎えに我が家にやって来た。何時の間に買いそろえたのか、哲郎は立派なゴルフウエアーを着て、父の車にゴルフバックを積み込み、父に代わって運転席に座った。

「行って来るよ」

「お父さん行ってらっしゃい」

「おじいちゃん、お父さんに負けないでね」

「年期が違うから負けないよ」

「よろしくお願いします」

 私は父に深く頭を下げ、二人を見送った。二人の行くゴルフ場は、隣りの稲城市にある『よみうりゴルフ倶楽部』で、父、武久が、そこの会員になっていた。今までも何度か、ゴルフのプレィを終えてから、我が家に立ち寄ることがあった。その父と哲郎を見送ってから、私は奈々と孝太と三人で朝食を始めた。

「俺も大人になったらゴルフしたいな。石川遼みたいになれるかも」

「孝太は馬鹿ねえ。才能も無いのに何でもやれば、成功すると思っているのだから・・・」

 何時ものように子供たちの口論を聞きながら、私は子供たちとの食事を楽しんだ。私は、こうした家族と楽しく暮らしていることに、仕合せを感じた。



        〇

 哲郎は私の父、武久とゴルフに行き、スコア百十を出して、父に褒められてから、自信がついたらしく、日曜日になると、近くのゴルフ練習場に頻繁に通った。奈々もテニスに、孝太もサッカーに夢中になり、何かに熱中出来ないのは、家族の中で私だけだった。哲郎の不倫を知った時は、怒りが込み上げて来たが、その相手が田島玲子であると分かると、何故か怒る気になれなかった。彼女はいずれ哲郎を捨てるに違いなかった。それに気づかず、哲郎は、もててもいないのに、彼女に夢中になっていた。弄ばれ、からかわれているのも分からず、哲郎は彼女の為に、時間と小遣いを浪費していた。このことは夫を裏切り、渡辺次長と不倫を始めた私にとって、好都合だった。自分の不倫という罪の意識は希薄になり、渡辺次長と会うことが、自然の事のように思えるようになっていた。いや、それ以上だった。ありもせぬ彼との行為を、夜毎、夢見た。深く考えてみれば、私にも夢中になっているものがあったのだ。私は彼と会う時の事を、いろいろ考えた。季節に合わせたオシャレ。彼へのプレゼント。たまには食事を御馳走してやろうか、あるいは別の所でなどと思ったり、空想に空想を重ねた。

「お母さん、最近、ボンヤリが多いけど、何処か悪いんじゃあないの?」

 私は奈々に、そう訊かれて、ハッとした。孝太も私の事を同じように感じ取っていたようだ。

「そうだよな。戸締りを忘れたり、お湯が沸いてもガスを止めなかったり」

「アルツハイマーじゃあないだろうな」

 哲郎までもが、口出しした。

「まあ、皆で寄ってたかって、お母さんのことを老化した認知症患者みたいに言って。そんなだったら、もうとっくに会社をクビになっているわよ」

 私の弁明に哲郎や子供たちは沈黙した。私に対し、言い過ぎたと反省しているみたいだった。哲郎や子供たちは、その原因が、私の頭の中に巣を作り出している男にあるとは、気づいていなかった。それにしても、夫と二人の子供を持つ家庭の主婦が、他人の夫に心を奪われ、茫然と時を過ごしている状態は、異常であるに違いなかった。しかし、私は高まって行く渡辺次長への好意を抑えることが出来なかった。このことは、哲郎や子供たちに絶対、気づかれてはならないことであった。人の顔は一つであるが、本当は一つでは無い。人は幾つかの顔を持つている。私は、この年齢になって、それが分った。あいまいな自分に不浄なところがあることを自覚した。小説は虚構であるが、肉体に湧き上がる欲望は、現実だった。それは女であるという生物学的理由から来ているのかもしれなかった。不倫は人の道から外れる振舞かも知れないが、それは男が決めた道理であり、女にとって不倫は、本性に沿った道だと思えた。だからといって、家庭を築いた以上、家庭を崩壊させてはならないと思った。私たち夫婦は、嘘を隠す為に、嘘に嘘を重ねた。そのことは、自分自身の中の疑心暗鬼を増幅させた。奈々や孝太にまで、嘘をついた。月末の販売会議の朝、哲郎を見送った後、奈々と孝太に言った。

「今日、お母さん、飲み会があるから、遅くなるわ。申し訳ないけど、お父さんと三人で夕御飯を食べてね。餃子と野菜サラダ、準備しておいたから、何か一品くらい足してね。お味噌汁はインスタントで良いでしょう」

「心配しなくて良いわよ。奈々に任せておいて」

 普段、食事の準備を手伝ってくれる奈々の明るい返事だった。私は、そんな子供たちを頼もしく思いながら、勝手な遊びに走った。



        〇

 晩秋の街路樹を眺めながら、夕暮れの喫茶店『ラパス』でコーヒーを飲み、私は渡辺次長がやって来るのを待った。なんていけない女か。夫や子供がいるというのに、妻子ある男と待ち合わせるなんて。まさに自己破壊としか思えない。このような欲望にかられる自分を擁護しようにも、擁護しようが無かった。分かっていると思いながら、渡辺次長への愛しさは日々、高まって行くばかりだった。哲郎と結婚して以来、他の男と寝るというようなことは、一度も無かったのに、渡辺次長に初めて抱かれた日から、私の肉体の中の女の魔性に火が点いてしまった。渡辺次長との関係は、偶然的なきっかけによりスタートしたが、それは進行してしまった今となっては、必然的だったように思われた。その渡辺次長は七時半過ぎに、『ラパス』に現れた。

「遅くなって、ごめん。食事に行こう」

 渡辺次長はレシートをテーブルの上から取り上げると、レジに行って、私のコーヒー代を支払ってくれた。私たちは喫茶店から出ると、居酒屋『隠れ家』に行き、ビールを飲み、食事をした。その後、何時ものように、ホテル『ジョージ』に移動した。部屋に入り、部屋のドアの閉まる音がすると、私たちはソファにカバンとバックを放り投げ、直ぐに抱き合った。唇を寄せ合い、互いの舌を口の中で、絡め合った。こうなってしまうと私たちは、ゆっくり服を脱ぎ、シャワーを浴びる余裕など無かった。渡辺次長は片方の手で、私のスカートをたくし上げ、私は片方の手で、彼のズボンのベルトをゆるめた。彼のものが興奮して勃起しているのが分かると、私もそれを感じて、自分の身体の一部分がとろけて来るのが分かった。彼の指が、そのとろけた部分に入って来ると、私は快感に、よがり声を上げた。彼の手は私の身体の上をくまなく動き回り、男の温かさ、柔らかさ、強さを私に伝えて来た。抱き合ったまま、ベットの上に寝ころんでからは、上になったり、下になったり、横にったり、絡み合い、まとわりつき、私は強く激しく燃える快感に溶けてしまいそうになった。自分の身体が自分のものでありながら、自分のもので無くなって行く。こんな時になって、家族への罪悪感が顔を出す。自分は何と愚かな事をしているのか。そう分かりながらも、彼を受け入れる私は自己破壊、自己喪失に向かって突き進む道を選んだ。それは精神的にも肉体的にも苦痛を伴うものであると同時に、未来につながる快楽そのものであった。彼の私に対するセックスの律動は、出し入れが上手で、小刻みな幸福感を小止みなく与え続けた。その強弱、長短、音の高低によって、愛のリズムは、まるで異国の歌のように多彩に互いを刺激し合った。

「ああっ、瑠美ちゃんは素晴らしい。心の底から愛している。愛しているよ。君は俺の事が好きかい?」

「好きよ、好きよ。大好きよ」

 私が、そう囁くと彼は興奮し、絶頂に達した。

「行くよ!」

 彼はあらん限りの声を発した。と共に私は彼の炎のように熱い愛を享受し、彼以上の声を張り上げた。

「ああっ」

 彼の愛の贈り物を受け入れて、私は扉を閉じた。贈り物を内包した後に残る心地よいその感覚は、私の肉体に、深い余韻を残した。この快感は哲郎との夫婦という枠にはまった隷属的なものでは無かった。解放された女の悦びだった。布団の上で、二人並んで天井を見上げながら、渡辺次長が、思いついたように言った。

「俺たちのこと、誰か気づいているんじゃあないかな」

「そんな様子ないわ。平気よ」

 私は自分の言葉に驚いた。こんな大胆な女に転身してしまっているなんて、自分で自分の事が信じられ無かった。



        〇

 哲郎がゴルフ道具を車に積み、会社の仲間とゴルフに出かけて行ってから、私はテニスに行く奈々と、サッカーの練習に出かける孝太を送り出して、休日の仕事に取り掛かった。布団をベランダに干し、洗濯物を庭の物干竿に吊るし、その後、家の中を掃除機で綺麗にした。そして風呂場やトイレの掃除を済ませると、あっという間に昼になっていた。私は焼ソバを作り、一人でテレビを観ながら、簡単な昼食を済ませた。午後は、ほっとして、テレビでサスペンスドラマを観た。連続殺人事件の謎の解明に、夢中になった。ドラマは神社の石段で女性が突き落とされて死亡したところから始まり、中年女が犯行を自供。だが、その自供に違和感を覚えた女刑事が聞き込みを始めると、その女の夫が五年前、ある贈収賄事件の取り調べ中に自殺していたことが判明。更に突き落とされて死亡した女は、一家心中事件で家族を亡くした帰国子女と分かる。彼女は家族を一家心中に見せかけて殺した犯人に仕返ししようとしていた矢先に、逆に復讐することも出来ずに殺されたらしい。真犯人は誰か。事件の真相を追う女刑事の推理により、ある政治家が関連していたことが分かり、犯人と政治家が逮捕される。中年女は、帰国子女の恋人である自分の息子が犯人ではないかと推測し、自供したという。母親の息子を思う心を浮き彫りにしたドラマは終わった。そのサスペンスドラマが終わると、男子ゴルフのテレビ中継が始まった。コマーシャルなどに登場する石川遼がツアーに参戦していて、かっての『ハニカミ王子』というニックネームなど、想像も出来ぬチャレンジ精神を燃え滾らせていたので、そのままテレビ観戦をした。私はテレビでプロゴルフ中継を観戦して、ゴルフにはホール数が18ホールあり、ロングコースやショートコースがあることなどを学んだ。またバンカーや池などという難関があることも分かった。哲郎は今朝からゴルフに出かけたが、どんなコースを回っているのだろうか。バーディは取れただろうか。池ポチャがあったのではないだろうか。いろんなことを考えた。気が付けば夕暮れが迫っていた。私は洗濯物を取り込み、アイロンがけをしてから、夕食の準備にかかった。やがて奈々と孝太が帰って来た。奈々にポテトサラダを作ってもらった。私は海老フライとチンゲン菜の炒め料理を作った。夕食の準備が終わったところに哲郎が帰って来た。

「お父さん、どうだった?」

 孝太が哲郎のゴルフバッグを受け取りながら質問した。

「百を切ろうと思ったが駄目だった。百一だったよ。池ぽちゃが無かったら、百を切れたんだが・・・」

「惜しかったね。この次は九十代だね」

「うん。ジィジィに勝てるかも」

 夕食のテーブルについてからも、ゴルフの話で盛り上がった。私がバーディやボギィの話をすると、哲郎がびっくりした。この調子だと、また父、武久と哲郎がゴルフを楽しんでくれるに違いなかった。私にとっても、子供たちにとっても、哲郎が、岸田の家と親密になることは嬉しいことだった。食事を済ませてから哲郎は、ゴルフで疲れたのでしょう、何時もより早く寝室に移動した。奈々も孝太も、二階の部屋に上がった。私はキッチンの食器類を洗ってから、居間のソファに座って、テレビを観た。その時、脇机の上にパンフレットのようなものが置いてあるのに気付いた。何のパンフレットだろうかと確認すると、それは哲郎の今日のゴルフのスコアカードだった。四人のプレイヤーの名が書かれてあった。早川、野沢、加藤、田島。私はそのメンバー名の中の田島という文字に釘付けになった。田島とは、あの田島玲子に相違なかった。哲郎は彼女を加え、ゴルフのプレイをして来たのだ。ゴルフ以外のプレイもか。私は頭に来て、ゴルフのスコアカードを脇机の上に叩きつけた。それからしばらくソファに座ったまま私は身動き出来なかった。



        〇

 数日後、私は横川彩華と小池京子と久しぶりに新宿で会った。何時もの居酒屋『魚民』で刺身、焼き魚、串焼き、玉子焼、海藻サラダなどを食べながら、ビールや日本酒を飲み、近況を話した。京子は隠すことも無く、小池弘之が、あれ以来、家に帰って来ないので、イライラして、ストレスがいっぱいだと告白した。

「私、もう頭に来ちゃったから、瑠美みたいに浮気を再開しようと思うの。小池が新しい女と、夢中でやっているのを想像すると、夜も眠れないわ」

「まあっ、京子ったら。そんな言い方したら、瑠美が可哀想よ。瑠美は私たちと違って浮気じゃあ無いの」

「じゃあ、何だというの?」

「同情よ。大阪支店に飛ばされた課長の事が気の毒で気の毒でならないの」

「でも、やったんでしょう」

 京子は眉を寄せて、私を睨んだ。私は言葉が出なかった。ただ黙って頷いた。すると京子が大声で笑った。

「瑠美。そんな顔しないで良いのよ。男女のセックスは本能のまま楽しめば良いの。瑠美は道徳的なことばかり気にしているけど、それは愚かな考えよ。セックスはおしっこするのと同じ排泄行為なの。たまったから出すだけなの。道徳的精神なんて何処にも必要ないの。旦那さん以外の人とやる時は、余所の家のお手洗いを借りるぐらいに思ってやれば良いのよ。そうでしょう、彩?」

 私と彩華は京子にセックスの単純さを語られ仰天した。果たして彩華も京子も同じような考えでいるのか知りたかった。

「彩も同じような考えで、お洒落な社長と付き合っているの?」

「言われてみれば、京子の言う通りかもね。私には決まったお手洗いが無いの。二回り年上の社長の、お手洗いを貸して貰っているの」

「専用のお手洗いが欲しいと思わないの」

「思わないわ。それにこの年齢になると、男が私の事を何か問題があって、結婚しないのじゃあないかと用心するの。だから社内恋愛も生まれて来ないわ」

 彩華は内心、結婚したいと思っているようだった。しかし、そういう相手が現れないのだろう。彼女は長い会社勤め中で、沢山の男たちを見て来たに違いない。そんな中で彩華と同年輩の男たちは四十歳を過ぎてから、急に仕事に熱心になり、恋愛どころじゃあ無くなって来ているのが現実だった。自分が会社を支えているという自負。沢山の部下を持ちたいという欲望。同僚に負けたくないという競争心。社長や役員に嫌われたくないという恐怖心など、沢山の事に追い詰められ、限界の限界まで、仕事に取り組んでしまい、女どころではなくなっているのだ。

「なら、今、付き合っている社長の奥さんになったら」

「それは難しいわ。立派な奥さんだし、彼には若い美人の秘書がついているの。私との付き合いは遊びなのよ」

「でも立派な魅力的な人なんでしょう」

「そうよ」

 彩華は辛そうな顔をした。相当に相手の事を好きになっているみたいだった。それを感じてか、京子が彩華を叱咤激励した。

「それって彩、弱気過ぎじゃあない。マイナスの感情に囚われ過ぎよ。初めから駄目だなんて考えを払い捨てて、挑戦すべきよ」

 京子は恋愛至上主者だった。女の人生は一生、恋愛を続けるべきものだという思想だった。



        〇

 まるで絵具で染めたような紅葉が散乱し、その鮮やかさに、自分の思いを感じた。待ちに待った月例の販売会議の日がやって来た。渡辺次長は大阪支店長の高橋吉弘と一緒に、昼前に事務所に現れた。何時もならヘルスケア事業部に顔を出すのであるが、今回は軽く挨拶しただけで、直ぐに総務部の方へ行ってしまった。私は渡辺次長が、私との関係が露見されてはならないと気を使っているのではないかと思った。昼食も私たちとは別の人たちと出かけた。販売会議は午後一時から大会議室で始まった。途中、その会議室へお茶出しに行って戻って来た井上陽子が興奮した顔つきで言った。

「会議は随分ともめていたわよ。宮下課長が中西部長に叱られているの。普段の仲良し関係とは正反対。菊池社長の厳しい目つきに、私は怖くなって逃げ出して来たわ。業績不振を挽回するには、どう対処すべきか、宮下課長は追求されているのに、答えられないの」

 その陽子の話で、販売会議の光景が目に浮かぶようだった。渡辺次長が本社のヘルスケア事業部から抜けてからの業績はガタ落ちで、菊池社長が憤慨するのは当然のことであった。うつむく中西部長と宮下課長の姿を想像したが、ああ気の毒だな、可哀想だなと思う気持ちは湧き上がって来なかった。私は夕方六時半過ぎに新宿に行き、喫茶店『ラパス』で渡辺次長がやって来るのを待った。店内の客はビジネスマンやこれから歌舞伎町へ仕事に行く女性たちで、満席に近かった。私は紅茶を飲みながら、会社の利益を得る為に、色んな会社や店に訪問して仕事を獲得して来る営業マンの仕事を大変だなと思った。それに較べ、研究所勤めの夫、哲郎などは、ほとんどが社内相手のことなので、苦労が少ないように思えた。でも私には分からぬ苦労もあるのかも知れなかった。渡辺次長は七時半に『ラパス』に現れた。直ぐに居酒屋『隠れ家』へ移動し、日本料理をいただきながら、日本酒を飲んだ。豚肉と大根の煮付けや湯豆腐が美味しかった。

「今日の販売会議、宮下課長、大変だったらしいですね」

「うん。業績が落ち込み過ぎだよ。中西部長も、もっと宮下君や森山君をカバーしてやらないと。営業というのは、個人の能力は勿論であるが、全社一体となって客先の為に尽力していることを示してやらないと、厭きられるんだ。客先に情熱が注がれているか否かで、客先の考えは変わるんだ」

 渡辺次長の言う通りかも知れなかった。渡辺次長が大阪に転勤になってからの東京のヘルスケア事業部には一体感が無くなっていた。食事が終わると渡辺次長は腕時計に目をやって、私に言った。

「そろそろ行こうか」

「ええ」

 私たちは『隠れ家』から外に出て、ネオン輝く歌舞伎町に向かって歩いた。酔いで、ほの温かい身体を夜風に押されながら、ラブホテル『ジョージ』に行った。部屋に入るや直ぐに裸になった。私たちには、あの送別会の後の初めての夜と違い、何の恥じらいも無くなっていた。シャワーを浴び、ベットに入り、至極当たり前のことのように重なり合った。彼の長く優しい指先には、私の身体の呼吸と合った情愛が込められていた。彼に戸惑いは無かった。私の左足を軽く自分の肩に乗せて、私を見詰めた。これからどうするのか。私は息を呑んだ。おぼろげながら彼が望んでいる格好が想像出来た。それは帆掛け船みたいな恰好だった。その格好に入ると彼は勃起した熱い鉄棒を突っ込んで、舟を漕ぎ始めた。その舟を漕ぐ音が、ピチャピチャと部屋に流れた。私は渡辺次長が夢中になって舟を漕ぐ、真摯な姿に魅せられ、その荒々しい迫力と動揺に船酔いした。白い波しぶきの打ち寄せる冬の海。荒波が盛り上がると、彼の愛が私の身体中に行き渡った。私は快感に左足を担がれたまま失神した。数分して私が気づくと、渡辺次長は裸のまま、天井を見上げてぽつりと言った。

「実は妻の英子が、ノイローゼ気味なんだ。俺も娘の美輪も困っている。大阪の水に馴染めないらしい」

「美輪ちゃんは学校にも、慣れたのでしょう」

「うん。美輪には友だちが出来たが、英子には友だちがいない。家の中に閉じこもって、悪い事ばかり妄想している。特に俺の泊りの出張の時は、生きているのが辛いなどと、深夜に叫んだりするらしいんだ」

「それは心配ね」

 私は、その話を聞いて、自分の罪深さを感じた。渡辺次長の奥さんは何か、察知しているのかも知れない。女の勘は鋭い。夫のふとした言動などで、何かを感じているのかもしれない。



        〇

 十二月になると、梢に必死にしがみついている枯葉を、北風が無情にも吹き飛ばして行く。それを見て、心が痛んだ。今年も残り少なくなり、私は渡辺次長の家庭の事が気になっていた。罪の意識は、それ程でも無かったが、奥さんがノイローゼ気味というのが、気の毒でならなかった。またヘルスケア事業部内の雰囲気も悪くなっていた。中西部長と宮下課長の関係は、一変していた。販売会議での失敗が尾を引いていた。

「お前の所為で、我々、事業部の評価は最低になってしまった。会議の時、何故、俺の発言に相槌を打たなかったのか」

「現実と違う発言でしたから」

「そこが渡辺君と、お前の能力の違いだ。渡辺君なら、お前のような暗い顔つきで、うなだれたりはしない。自信を持って明るい未来を説明する。俺の発言に信憑性を付け加えて、社長を喜ばせる。お前には、そういった力が無いのか」

「申し訳ありません」

「そうやって頭をペコペコ下げていても、業績は上がらない。もっと森山や、山田を上手に使え。お前の所為で、我が事業部の利益が激減し、賞与の評価も最低になってしまった。総てはお前の所為だぞ」

 中西部長は、事あるごとに宮下課長を責め立てた。その原因が何処にあるのか、中西部長は本当に理解しているのだろうか。自業自得ではないのか。宮下課長も宮下課長だった。アパレル事業部からやって来た森山係長を、全くコントロール出来ないでいた。従って私たちの賞与も、他の事業部より減らされていた。そのことを山田満男や井上陽子は不満に思っていたから、ヘルスケア事業部の忘年会も、お座成りだった。忘年会の会場は、会社の近くの居酒屋『トトロ』で、宮下課長が一応、司会を務めた。中西部長が、挨拶と乾杯の音頭を取り、後は飲み食いするだけだった。普段、ぼんやりしている森山係長が、酒が入ると元気になり、中西部長にからんだ。

「部長は何故、私をヘルスケア事業部に引っ張ったのですか。ヘルスケア事業部の仕事は、全く私に不適切です。私にはアパレル事業部の方が適任と思いますが・・・」

 白目をした森山係長にからまれ、中西部長は不愉快な顔をした。

「私が引っ張った訳では無い。人事課が役員会に提言して決まったことだ。それにヘルスケア事業部に来て、まだ半年にもなっていないのに不平不満を言うのか」

「はい。不満です。アパレル事業部は取引先に気を遣うことがありません。取引先の方が、相談に来てくれます。しかし、ヘルスケア事業部の仕事は、自分の方から出向いて行って、お客さんに気を遣わなければなりません。相手の社長の名前や従業員の名前を覚えなければなりません。その上、接待までして、自分の時間をつぶされ、やってられません。アパレル事業部の方が私の性に合っています」

 森山係長は酔いに任せ、ヘルスケア事業部が嫌いであると、くだをまいた。すると酔っ払いの相手をしなければ良いのに、中西部長が頭に来て、森山係長を叱責した。

「森山。お前は馬鹿か。お前はアパレル事業部からお払い箱になり、人事課から頼まれ、私が仕方なく、お前を引き受けることになったんだ。どんな仕事にも苦労はつきものだ。まだまだ、お前には学ぶことが沢山ある。やるだけやって実力をつければ、会社から認められるのだ。その努力と我慢が出来ないのなら、さっさと我社から転職するんだな」

「分かりました。早速、そのことを考えますので、先に帰ります」

 森山係長はぷいっと膨れた。中西部長の叱責に立腹し、直ぐに『トトロ』を出て行った。その為、忘年会は一気にしらけ、解散となった。



        〇

 忘年会が続いた。小池京子の発案で、女子大時代の友人、吉村美絵と北条節子を誘っての忘年会を実施した。五人集まると、忘年会らしい雰囲気になった。久しぶりに会った吉村美絵は義父の経営する不動産会社の事務をしていて、夫と息子と一緒に夫の実家の庭に別棟を建ててもらい、そこで暮らしているということだった。北条節子は目黒にある胃腸病院に医療事務員として勤め、中目黒のマンションで、夫と娘と三人の生活をしていると説明した。二人とも肌艶や身のこなし方に若さがあり、会話を始めると、全く女子大時代と変わりない雰囲気になった。

「ねえ。今度、また飲み会がある時、私たちを誘って。面白い事、いっぱいあったのでしょう?」

 吉村美絵が京子に訊くと、京子は面白おかしく二人に話した。

「それは人生、いろいろあったわよ。三人ともそれぞれに紆余曲折があって、まるでドラマよ。そのドラマが今も続いているの。仕合せ探す旅人の前には、三つの坂が待っているのよ。登り坂、下り坂、それにまさかよ。そのまさかが面白いの。男と女が絡み合って・・・」

「まっ。京子ったら、昔のままね」

「結婚したら変わると思っていたけど、変わらなかったわ。一度の結婚では分からないので、二度目の結婚してみたけど、矢張り自分の本性は変えられないわね」

 その京子の言葉に皆が笑った。会話が進むと新年会の話になった。また会いたいと思う美絵と節子は、この集まりに名前を付けようと言い出した。五人で思案したが良い名前が見つからなかった。女子大に関係する『桜会』などという名が出たが、何処にでもあるような会名だった。『チエリィクラブ』などという英語名にしてみたが、スポーツやダンスのクラブみたいなので、ぱっとしなかった。結果、発起人的京子に決めてもらうことにした。すると京子は箸袋に自分の考えを記した。

  サクランボ(咲く乱暴)会

 それから口述した。

「サクランボ会でどうかしら。乱暴のボウは棒も意味しているのよ」

「やだあ」

「やだって、この名前じゃあ駄目ってこと?」

「そうじゃあなくて、意味深で良いわ。サクランボ、サクランボにしよう」

 吉村美絵の賛同を得て、私たちの集まりの名は『サクランボ会』と決まった。その後、私たちは美絵や節子が浮気しているのではないかと、様子を探ってみた。だが、二人はまだ、そこまで漏らすほど、私たちに溶けこんでいなかった。反対に京子に質問した。

「ところで京子の二番目の旦那さんて、どんな人なの?」

「美絵と同じ、不動産の仕事をしているイケメンよ。若い女に夢中になって、ここ数ヶ月、家に寄り着かなかったの。ところが一週間前、突然、戻って来たの。十二月になって、小使いが必要になり、私におねだりに来たのよ。私ははらわたが煮えくり返り、戻って来なくて良いからと、追い出したわ。でも玄関ドアにしがみついて泣くものだから、許しちゃったわ」

「京子らしいわね」

「男って、皆、子供みたいなものよ。遊びが終われば母親のような女のもとに帰って来るの。フトコロが広くて、優しく庇護してくれると思われる甘い女のもとに」

「それが京子の良いところよね。私には出来ないわ。そんなこと」

 北条節子が全く理解出来ないという顔つきをして笑った。美絵は年下の夫に好かれる京子の事を羨ましそうな顔で見詰めていた。こうして『サクランボ会』は楽しく終わった。



        〇

 いつの間にか、高校の終業式の日がやって来た。奈々は明日から冬休みということで、私が帰宅すると、夕食の準備を始めてくれていた。何と、その料理は、すき焼きの鍋料理だった。冬には鍋料理が身体を温めるからと、牛肉の薄切りを買って来て、白菜、ネギ、春菊、シイタケ、エノキタケなどを、細かく切って皿に盛っていた。またしらたきに熱湯をかけ、灰汁抜きを済ませていた。焼き豆腐も何処で教えて貰ったのか、三角切りにしていた。私はスーツを脱ぎ、普段着に着替えてから、奈々の手伝いをした。準備が進むのを見ながら、孝太がウロウロして、ぼやいた。

「お父さん、遅いな。俺、お腹すいたよ」

「我慢しなさい。間もなく帰って来るから」

 私は、そう答えながらも、半信半疑だった。哲郎は田島玲子と密会しているかも知れなかった。八時までに帰って来なかったら、三人で食べてしまおうと心に決めた。その哲郎が七時半に帰って来た。

「ただいま」

「お帰りなさい」

「おおっ、すごい料理だな。何か良い事でもあったのか?」

 目を丸くしている哲郎に私は答えた。

「明日から冬休みなので、奈々が鍋料理を準備してくれたの。じゃあ、火を点けるわね」

 私は鍋に火を点け、御飯と卵の器などをテーブルの上に並べた。哲郎はセーター姿になると、自分のテーブル席に座り、奈々に言った。

「奈々が、こんなに立派に料理が出来るなんて感心したよ。学校の成績も良かったらしいな」

「うん。ちょっと成績、良くなったわ。でも、この料理は、予行練習なの。友だちとのクリスマス・イヴの・・・」

「友だちとクリスマス・イヴをやるのか」

「うん。だから家でのクリスマス出来なくて、ごめんね」

「そうか」

 哲郎が、ちょっと寂しそうな顔をして、ビールを口にした。四人でつつくすき焼き料理が始まると、孝太が立ち上がったりして、牛肉をあさった。中学生の孝太は食べ盛りだった。私は奈々の作ったすき焼き料理を食べながら、思春期、真っただ中の奈々のことを思った。娘は何を考えているのだろうか。クリスマス・イヴを友だちと過ごすというが、母親として、いろいろ聞いてみたかった。しかし、哲郎や孝太の前で訊くわけにはいかなかった。もしかして、高校のテニスクラブの男子生徒、平林正彦とクリスマス・イヴを過ごすのではないのか。あるいはレストラン『ナポリ』の杉浦弘樹と過ごすのかも知れない。私が奈々のクリスマスの夜の事を想像していると、孝太が不思議がった。

「お母さん。何、考え事しているの。早く食べないと、俺、みんな食べちゃうよ」

「だって、クリスマス・イヴに奈々が友だちと食事をするっていうから、その日はどうしようかと思って」

「たまには三人で外食するのも良いじゃん。焼肉食べ放題」

「馬鹿を言うな。そんな日は、何処のレストランも客でいっぱいだ。三人で静かにケーキでも食べて過ごせば良い」

 哲郎にとって、奈々が一緒で無い家族の外食など、考えられないみたいだった。哲郎は奈々のことを信用していた。しかし、奈々と同性の私は、娘の事を全面的に信用することが、出来なかった。奈々が私たちを丸め込もうとしても、私は、そう簡単に騙されまいと用心する事を怠らなかった。



        〇

 天皇誕生日の翌日、勤めから家に帰ると、孝太が戸締めをして、私の帰りを待っていた。私を見るなり、孝太が言った。

「奈々ちゃん、もう出かけたよ。良いよなあ、高校生は。俺なんか明日迄学校へ行かなくちゃあならないんだから・・・」

「何を言っているの。子供は勉強が仕事よ。お父さんやお母さんは二十八日まで仕事よ。それに年末になったら、家の大掃除もあるし。孝太も手伝ってね」

「ああ良いよ。サッカーの練習も当分、休みだから」

 私は孝太と雑談しながら洋服を着替え、エプロン姿になった。奈々は鍋料理でしょうが、こちらは同じ料理を作る訳にはいかない。それで私が仕入れて来たのは、カニクリームコロッケ、マルゲリータピザ、骨付きローストチキン、それに小エビの蒸し焼きと野菜ステック。私はそれらをテーブルの上に並べ、哲郎の帰りを待った。ふと哲郎が田島玲子と夕食を済ませて来るのではないかと心配したが、それは取り越し苦労だった。哲郎は七時半に帰って来た。まずは三人でシャンパンで乾杯をし、イエスキリストの誕生を祝い、家族の健康と平穏を感謝した。奈々のいないクリスマスイヴは、何時もより静かだったが、哲郎や孝太が、私の並べた料理を夢中になって食べてくれたので嬉しかった。食事を終えてから、三人でイチゴのショートケーキを食べた。私は紅茶を飲みながら、奈々は今頃、どうしているのだろうかと思った。奈々は高校の友だち、畑中あゆみの二子玉川の家で、仲間と一緒にクリスマスパーティを楽しんでいるのだろうか。それとも平林正彦と二人だけのクリスマスイヴをしているのだろうか。私は会社の帰り、駅から自宅へ戻る途中、ちょっと寄り道して、レストラン『ナポリ』の前を通って確かめた。奈々の中学時代の同級生、杉浦弘樹はレストラン前でローストチキンを売っていた。従って、杉浦弘樹と奈々のクリスマスイヴは結び付かなかった。私が奈々の事を心配しているのに、哲郎はまだブランディを飲んでいた。

「お父さん、もういい加減にして下さいよ。明日、勤めがあるのですから」

「そうだったな。奈々はまだ帰っていないが、今夜、泊りか?」

「泊るなんて聞いていないわ。二子玉川のお友だちの所からだから、帰り、ややっこしいのよ」

「でも、ちょっと遅すぎないか。孝太は何か聞いているのと違うか。孝太に聞いてみよう。孝太を呼んでくれ」

 私は哲郎に言われて、ショートケーキを食べ終えると直ぐに、二階の自分の部屋に駈け上がった孝太を呼んだ。

「孝太、孝太。お父さんが訊きたいことがあるんですって」

 孝太は自分の部屋に入り、ゲームでも楽しんでいたのか、面倒くさそうな顔をして、二階から降りて来た。

「何だよう」

「奈々は出かける時、泊ると言って出かけて行ったのか?」

「泊るとは言ってなかったよ。でも大きなバックを肩にかけていたから、泊るのかもね」 

 孝太は平然と答えた。私と哲郎は、それを聞いて、互いの顔を見合わせた。二人とも良からぬことを考えた。孝太はぼやいた。

「奈々ちゃん、電話してくれれば良いのに・・・」

 その時、玄関脇の電話が鳴った。私は直ぐに受話機を受け取った。奈々からの電話だった。

「今日、畑中さんの家に泊ります。明日の午前中に帰るから心配しないで」

 私は唖然とした。何も言えなかった。哲郎が電話を替わろうとしたので、私は拒否した。

「分かったわ。畑中さんの家に御迷惑かけるんじゃあ無いのよ」

 私は奈々に、そう言って、ガチャンと電話を切った。哲郎が残念そうな顔をして、何故、電話を切ったのだと私に文句を言った。私はそれを無視して、食卓の後片付けに入った。



        〇

 今年最後の東西合同の販売会議の日となった。渡辺次長は何時ものように、高橋大阪支店長と一緒に東京へやって来た。今回もヘルスケア事業部には軽く挨拶しただけで、総務部の方へ行ってしまった。多分、家庭内の事情を総務部に行き、相談するに違いなかった。私はマンションの部屋の中に閉じこもって、悪い事ばかり考えている渡辺次長の妻、英子の身の上を思った。夫の会社の都合により、子供の時から暮らして来た東京を離れ、大阪での生活を強要され、大阪の空気に馴染めない彼女は、夫が抗いがたい圧力に屈服させられ、大阪に転勤になったのだと、考えているに違いなかった。彼女は東京での勤めを辞め、大阪の会社に就職しようと努力して来たが、どこの会社も、東京人には冷たく、就職を断念せざるを得なかった。しかし、娘の教育費のことなどを考えると、夫の収入だけでは、余裕が無く、家計のやりくりが大変なのだろう。その上、夫に女の影があると気付いたならなどと、私は余計なことまで想像した。一人で妄想すればする程、不安は加速するものである。その不安を夫にぶつけようとしても、夫の帰りは遅く、相手にしてくれない。娘は思春期なので、大人の問題に巻き込むわけにはいかない。一日中、そんな他人のことを考えていると終業時刻となった。私は販売会議の後、忘年会がある渡辺次長が、忘年会を終えて新宿にやって来るまで、デパートのレストランでスパゲッティの夕食を済ませ、喫茶店『ラパス』へ行った。そして文庫本の恋愛小説を読んで、渡辺次長が現れるのを待った。その渡辺次長が『ラパス』に現れたのは九時ちょっと前だった。私たちは直ぐに『ジョージ』に移動した。気心の知れた安心感が私を大胆にした。私はもと上司の渡辺次長に抱かれ、自分の中に流れている淫蕩な情念に溺れた。夫、哲郎との間には、埋められない溝が出来てしまっていた。その溝を渡辺次長の欲望で埋めようとする私の変容ぶりは、余りにも異常といえた。この相手との行為が哲郎との誓約の地獄から抜け出す為の希望だと思うと、他人の夫である渡辺次長への好意は、執着心に近い強い肉欲に変貌していた。私の激しいその渇望は、ベットの上で、裸身をくねらせ、緩やかな弧を描いて、さらけ出された。その上に裸になった渡辺次長が重なって来た。彼の愛撫と硬い挿入に、私の身体は、あっという間に溶け出し、その行為の音の高低に愛の意識を強く感じた。たとしえ難い連結の刺激に、私は気を失いそうになった。と同時に彼も高みに昇りつめ、私たちの心と身体が一つになった。降り注ぐ愛。私はしばし放心した。その余韻が薄れて行くのを感じながら、私たちは天井に目をやり、会話した。

「今日、総務に妻の英子の事を説明し、彼女だけ東京の妻の実家に直ぐ、戻すことにしたよ。美輪については三月末、東京へ戻す予定だ。俺は四月から単身赴任で、大阪で頑張ってみる」

「東京に戻らなくて、大丈夫なのですか?」

「やるだけやってみる」

「東京に戻していただけないのですか?」

「代わりを出来る奴がいないんだ」

 何時もに無く沈んだ言い方だった。渡辺次長は大阪での単身赴任を覚悟したようだった。私は何と言って、彼を励ましたら良いのか分からなかった。添い寝したまま、静かに時を過ごすしか無かった。しばらくして、『ジョージ』を出ると、暗い夜空に金星が一つ、寂しそうにまたたいていた。



        〇

 孝太の冬休みの後、私たち夫婦も、二十九日から冬休みとなった。冬休みといっても、家庭の主婦である私は、休みどころでは無かった。年末にはやるべき事が山ほどあった。家の大掃除、年越しの料理やお節料理の材料の買い出し、年賀状書き、お供え、お飾りの準備などなど。あれやこれやバタバタしているところへ、義父の健吉が柿生の畑で採れた大根やニンジンなと一緒に、搗き立てのお餅を持って来てくれた。

「おう、皆、元気そうだな。これ持って来たよ」

「まあっ、すごく大きい大根。ニンジンも美味しそう」

「ちょっと曲がっているのもあるが、新鮮だから、水気があって美味しいよ」

 健吉は相変わらず陽焼けした顔をほころばせ、奈々と孝太を相手に喋った後、庭の紅梅を観察した。

「新年、早々には花が咲きそうだな」

「そうですね。家に入ってお茶でも飲んで行って下さい」

 私は義父を居間に招き入れようとした。父親の来訪に気づいた哲郎が居間のガラス戸を開けて言った。

「いろいろ持って来てもらって有難う。家に上がってよ」

「いや。家に帰ってやらなければならない事が、まだあるから、庭先で失礼するよ」

「そんなこと言わないで上がってよ」

 奈々と孝太が、健吉の手を引っ張った。すると健吉は、二人の孫の手を握って微笑した。

「気持は嬉しいが、ごめんよ。やることがいっぱいあるんだ。正月、皆が柿生の家に来てくれるのを心待ちにしているよ。待っているよ」

 健吉は、そう言うと、小型トラックに乗って帰って行った。多分、私が忙しいのを配慮してのことであろう。健吉が帰ってから、私たちは持って来てもらった餅を、電子レンジでチンして、醬油やキナコを付けて食べた。

「毎年、お餅をいただいて助かるわ」

 私が感謝の気持ちを口にすると、哲郎は呟くように言った。

「それも、親父が元気なうちだけだよ」

「お母さんと二人で、上手に搗くのね」

 哲郎は両親が何時まで元気でいてくれるかが、心配みたいだった。親の有難さは子供を持ってから分かるものだ。晦日もそのお餅の簡単な昼食を済ますと、哲郎と孝太は一緒に玄関のお飾りの確認をしたり、床の間に日の出に鶴の掛け軸を吊るしたり、カレンダーを新しいものに入れ替えたりした。私は奈々と一緒にお節料理と年越しそばに添える天ぷらを揚げたり、お煮しめを作ったり、キッチンで動き回った。あっという間に夕暮れになった。哲郎と孝太が戸締りをした。私と奈々はテーブルの上に夕食の準備をした。そして冷蔵庫からシャンパンを取り出し、家族四人でグラスを合わせた。哲郎が一言、喋った。

「一年間、お疲れ様でした。来年もよろしく」

 哲郎は満足そうだった。シャンパンを飲み干すと日本酒に切り替え、刺身を口に運んだ。奈々と孝太はテレビの紅白歌合戦を観ながら、私が心を込めて作った料理を、次から次へと食べた。私も子供たちと一緒になって紅白歌合戦を観た。小林幸子と美川憲一の衣装比べが面白かった。私はふと渡辺次長の家族は何処で紅白歌合戦を観ているのだろうかなどと思った。そう思うとテレビに気が入らなかった。私は年越しそばを食べ終え、キッチンに立った。その時、哲郎はもうソフアに寝ころび、鼾をかいていた。



        〇

 慌ただしい気分で私は正月を迎えた。まだ寝ていたいのを我慢して起床し、居間に暖房を入れ、キッチンのストーブに火を点け、着替えを済ませるや、お節料理をテーブルに並べ、新年を祝うお雑煮やお屠蘇の準備をした。居間が暖かくなると哲郎が起床して来て、雨戸を開けたりした。続いて奈々と孝太が起きて来た。昨夜、遅くまで起きていたのであろう。子供たち二人は、まだ眠そうだった。家族四人がそろったところで、哲郎が年頭の挨拶をした。

「明けましておめでとう。本年も家族仲良く頑張ろう。奈々は高校の最上級生、孝太は中学の最上級生になる。悔いのない一年を送ろう。兎に角、心身ともに健康であることを、家族、皆で心がけよう。じゃあ、乾杯しよう」

「はあ~い」

 奈々と孝太は哲郎に呼応して、甘酒を口にした。哲郎は日本酒を口にした。私はちょこっと日本酒を飲んで、お屠蘇を味わった。それから皆でお節料理とお雑煮を食べた。

「お父さん。これ私が作ったのよ。どう?」

「うん。甘くて美味しい}

「そうでしょう。このニンジンは、おじいちゃんが持って来てくれたニンジンよ」

「そうか。午後には柿生に行かないとな」

 哲郎は結婚してから、ずっと正月には実家に顔出しして、義父の健吉や義兄の銀一と新年を祝うのを習わしとしていた。私たちはお節料理の朝食を済ませると、テレビでニューイヤー駅伝を観ながら、他所行きの洋服に着替え、早川家に出かける仕度をした。そして哲郎が年賀状を見終えてから、家族そろって家を出た。新百合ヶ丘駅からバスで実家近くのバス停で降り、早川家に訪問すると、義父の健吉と義母の和子が待ってましたとばかり、私たち家族を迎えてくれた。続いて義兄の銀一、義姉の早苗、甥の昭雄と和雄が顔を出し、新年の挨拶をした。私たちは哲郎を先頭に仏壇に向かって手土産の菓子を捧げて、御先祖様に挨拶して、八畳間の炬燵に入って早川家のお節料理をいただいた。お盆の時以来の集まりだった。そこで早川家の親戚の話や隣近所の話が出たが、私にはちんぷんかんぷんだった。昼食後、一休みしてから、何時もお参りする琴平神社へ初詣に行った。琴平神社の境内は初詣客でいっぱいだった。義父母たちは午前中にお参りを済ませたということで、私たちは義兄夫婦と子供たちを連れて、八人で参拝行列に並び、神前に進み、それぞれが一年の願い事を祈願した。その後、御札やお守りを買い、子供たちはタコ焼きを買って食べた。初詣が終わってから、私たち八人はゆっくりと早川家に戻った。それからまた、早川家の八畳間の炬燵に入って、蜜柑を食べたりしてから、お互いの子供たちにお年玉などを上げて団欒を過ごした。夕方、義父の健吉夫婦が夕食を食べて行くよう勧めたが、哲郎は戸閉めをして来なかったからと言って、夕食を断った。私たちは銀一に柿生駅まで車で送ってもらい、そこから電車で新百合ヶ丘まで帰った。駅前のレストラン『ジョナサン』でビーフシチューやスパゲッティなど、各人、好きなものを注文し、ゆったりと四人での時間を過ごした。お節料理やお雑煮を沢山食べた後なので、直ぐに満腹になった。レストランを出ると、もう辺りはすっかり夜になっていて、冬の星座が、天空を飾っていた。私たちは急いで家に帰り戸締りをした。



        〇

 二日は哲郎と子供たちを連れて、私の経堂の実家へ、新年の挨拶に出かけた。昼前に岸田家に行くと、弟、高志の家族が来ていて、大賑わい。いずれも四人家族であることから、私の両親を含めると十人になる。その十人が狭い都内の一戸建ての家に集まり、初顔合わせをした。お互いの家族が持参した手土産の御菓子を食べながら近況報告したり、昔話をした。奈々と孝太は従弟の幸雄と浩久を相手に、トランプ遊びなどした。昼食は母の朋子が近所の『千歳寿司』に寿司を註文しておいてくれたので、箱根マラソンをテレビで観ながら、寿司をいただいた。哲郎は母校の大学が出場していなかったので、箱根マラソンに余り興味が無いみたいだった。弟の高志は母校が出場しているので、テレビに夢中だった。しかし、レースは高志の期待通りにはならなかった。

「三位かあ。仕方ないな。明日の復路に期待して、初詣に行こう」

 私たちは母の朋子を家に残し、父、武久と一緒に、ちょっと家から離れた所にある、世田谷八幡宮へ初詣に出かけた。それ程、大きな神社ではないのに、不思議な程、混雑していた。境内での行列の途中、孝太が私に質問した。

「お母さん。俺、昨日も神様に御賽銭をあげたのに、今日もあげるの?」

「そうよ」

「あっちこっちの神様に浮気して、神様は怒らないの?」

 孝太の純粋な質問に、どう答えたら良いのか、言葉に窮した。すると哲郎が私に代わって答えた。

「昨日は昨日。今日は今日。神様は心が広いから浮気しても怒らないよ」

 私は哲郎の言葉を聞いて、複雑な気持ちになった。もしかして哲郎は、私が田島玲子と哲郎が浮気していることを知っているのに、知らぬふりしていることに気づいていて、そんなことを言っているのかもと疑ったりした。私は神前に立つと両親と自分たち家族の健康と平穏をお祈りした。その後、子供たちと一緒になって、ストラップを買ったり、タコ焼きを食べたりして、経堂の家に戻った。哲郎は父、武久と弟の高志と三人で、和室六畳間で、お茶を飲みながら、雑談した。ゴルフの話で意気投合し、盛り上がっていた。私は夫、哲郎がゴルフを始めたことにより、岸田家と親密になり、良かったと思った。男たちが雑談している間、私と義妹の里美は、母、朋子と一緒に夕食の準備をした。そばを茹で、天ぷらを揚げた。料理をしながら、子供たちの進学の事などを話した。里美は幸雄と浩久を松戸の中学では無く、都内の私立中学に入学させる計画でいると話した。

「なら、経堂の家に移って来れば良いじゃあない」

「でも折角、御両親がゆったりと生活しているのに、子供たちを連れて、私たちが入ったら、家の中が、メチャクチャになってしまうわ。それに松戸だから、都内に通うのも、それ程、遠くないから」

 里美にとっては、自分の両親が住んでいる馬橋に近い、今の所から離れたくないのが本心に違いなかった。夕食の料理が出来上がると大人たちは和室六畳間で酒を飲んでから、そばを食べた。子供たちは、母と私と義妹と一緒にキッチンの食卓で、そばを食べ、その後、ショートケーキをいただいた。私たちは夕食後、両親や、今夜、泊るという高志の家族に挨拶して岸田家を出た。経堂の駅へ向かう途中、何処からか夜風と共に早咲きの梅の花の香りが流れて来た。



        〇

 正月や休みは、あっという間に終わり、私も哲郎も出勤日を迎えた。哲郎は朝食を済ませ、背広にワイシャツ、ネクタイ姿になると、オーバーコートを着込んで、黒いカバンを持って、元気よく出かけて行った。私も化粧を簡単に済ませ、スーツの上にオーバーコートを着て、奈々に留守番を頼んだ。

「じゃあ、奈々、頼むわね」

「分かった。行ってらっしゃい」

「行って来ます」

 私は冷たい風を頬に受けながら、新百合ヶ丘駅まで歩き、新百合ヶ丘駅から新宿行き急行電車に乗った。電車内はまだ休みの会社があるのか、ぎゅうぎゅう詰めでは無かった。新宿駅からJRに乗り換え、四ツ谷駅まで行き、四ツ谷駅から『極東物産』へ行く途中、何人かの社員に新年の挨拶をしたりして、事務所に入ると、宮下課長や山田満男、井上陽子、中原仁美が、既に来ていて、私に丁寧な新年の挨拶をした。やがて中西部長、森山係長、村上秀介が現れ、新年の挨拶をした後、ヘルスケア事業部の朝礼をした。男子社員は、今日の午後から顧客への挨拶回りをするとのことであった。午前十時、大会議室と隣りの会議室の間仕切りを開放して、一つに広げ、本社社員全員が集まり、菊池社長から新年の挨拶を聞いた。

「明けましておめでとう御座います。皆様、新年を御家族の皆様やお仲間とお健やかに御迎えしたこととお喜び申し上げます。昨年は我社にとって実に厳しい苦悶の一年でした。しかし、そんな中、大阪支店が新しい体制のもと、業績を飛躍させた年でもありました。今年は大阪支店の活躍を見習い、優先順序を見極めながら、新市場に挑戦し、長期ビジョンを具体化する為、不断の努力を重ねて行く所存です。その為には、若い想像力と、お客様の要望を把握する心掛けが大切です。社員諸君のお客様を思う心と理解と努力を大いに期待しています。今年が実り多き一年になるよう共に頑張りましょう」

 菊池社長の年頭の挨拶に続いて、竹内専務が同じような挨拶をして、会社の朝礼が終了し、再び仕事に戻ると、もう昼近かった。昼休みは井上陽子、中原仁美、青木紀子、佐伯舞たちと、会社の近くにある日本料理店『桜庭』に行き、刺身定食を食べた。その後、喫茶店『ドトール』でコーヒーを飲みながら雑談した。その中で青木紀子が思わぬことを口にした。

「大阪の渡辺次長の奥様、去年の暮れ、奥様の実家に戻ったのですってね。大阪の生活、堪えられなかったみたい」

「舞ちゃん、それって本当なの?」

 陽子が総務部の佐伯舞に確認すると、彼女はこくんと頷いた。この事は渡辺次長から年末に教えてもらっていたことなので、私は驚きはしなかったが、陽子や仁美と一緒に驚いたふりをした。

「娘さんは、どうなるの?」

「三月末、もとの高校に復帰することになったらしわよ」

「じゃあ、渡辺次長も三月末に戻って来るの?」

「渡辺次長は単身赴任で、大阪支店にそのままよ。お気の毒だわ」

 佐伯舞は、陽子に質問されると、言ってはならないことまで喋った。それにしても仕事の為とはいえ、家族が離れ離れになって生活をしなければならないということは、気の毒であり、渡辺次長の娘、美輪のことが可哀想でならなかった。もし、夫、哲郎が大阪勤務になったら、私は付き添って行く気になれるかしら。それは今の私には出来ないことであった。矢張り離れ離れの生活を選択するに違いない。青木紀子は佐伯舞の言葉に頷いて言った。

「それは、そうでしょうね。菊池社長の新年の挨拶にもあったように、渡辺課長が次長になって大阪支店に行ってから、体制が一変し、飛躍的業績向上が見られましたものね」

「そうなの。渡辺次長は時勢の動きを掴むのがとても上手なの。その上、会社の為に粉骨砕身努力するから、会社も本社に戻せないのよ」

 陽子の言う通り、渡辺次長には、家族より会社を優先する企業戦士的なところがあった。会社が発展し、給料が得られるから、家族があるのだという古風な考えの男の人だった。私は出勤初日から、渡辺次長のことを思った。



        〇

 私たちの初出勤から数日して、奈々や孝太の通学が始まった。私は夫、哲郎と田島玲子のことが気になったが、それ以上に、奈々のことが気になっていた。クリスマスイヴの夜、奈々はクラスメイト、畑中あゆみの家に泊ったということであるが、平林正彦と二人だけのクリスマスイヴを過ごしたのではないか。その疑問があれこれと湧き上がって来たりした。今朝の奈々は家を出る時からウキウキして、制服姿にも色気が感じられた。孝太のような無邪気さは何処にも見当たらなかった。奈々はもう彼との初エッチを済ませ、学校で彼と再会するのを楽しみにしているのだろうか。幼い時に較べれば手がかからなくなったが、勉強、クラブ活動、進路、友達関係など、親の悩みは尽きない。私は家族の者を送り出してから、家中の鍵がされているか確認し、玄関ドアの施錠をして家を出た。駅へ向かう途中の家々には水仙の花や椿の花が咲き始め、季節が確実に春に向かって進んでいるのが感じ取れた。新百合ヶ丘駅まで行くと、今日から学校が始まることもあって、駅構内は、従来と同じ混雑状態に戻っていた。私は何時もの時刻、何時ものホームの場所から、新宿行き急行に乗った。多摩線に乗り換える人がホームに降りた後のちょっと出来た隙間に割り込むと、後から乗る人に中へと押し込まれた。バックを棚に上げ、吊革に掴まり、外の景色を眺めた。外は寒いというのに、電車内は熱気でムンムンしていた。そんな中で文庫本を読む人、スマートホンでゲームやメールをする人がいた。また周囲のことを気にせず笑いまくる女子高校生たちもいた。かと思うと大学受験の問題集を穴があくほど、じっくり読んでいる男子高校生もいた。私は自分の娘が、どのような姿で、電車通学しているのだろうかと考えたりした。また渡辺次長の娘、美輪が今日から母親のいないマンションから、どんな気持ちで通学するのだろうかと想像したりした。また娘と二人で暮らす渡辺次長のことを思った。彩華は私の渡辺次長への思いは、浮気では無く、同情だと言ったが、どちらなのだろうか。私は渡辺次長のことが、気になってならなかった。車窓から見える外の景色をぼんやりと眺めながらあれやこれや考えていると、電車は登戸駅を過ぎ、多摩川を渡った。河原の枯れ草は、まだ冬から抜け出せない雰囲気だった。電車が成城学園前駅に着いた時だった。笑いまくっていた女子高校生たちが、突然、今まで以上に騒ぎ出した。

「降りなさいよ、おじさん。あんた、自分が何をしたか分かっているでしょう。降りなさいよ!」

「何を言っているんだ。私は何もしていない。変な言いがかりを言うんじゃあない」

「しらばっくれないで。私のスカートに手を入れたじゃあない。痴漢よ、痴漢!」

「出鱈目を言うな。吊革にしがみついている私が、どうして痴漢行為が出来るというのか」

「兎に角、降りて。降りてちゃんと話しましょう」

 痴漢と呼ばれた年配の紳士は、電車から降りようとしなかった。すると近くにいた若い男が怒鳴った。

「このジジィ。降りろったら降りろ。てめえが痴漢してたのは、俺もちゃんと見てたんだ」

 男は降りることを拒否する紳士を強引に電車から引きずり降ろすと、女子高校生三人と一緒にホームから改札口への階段を登って行った。そこで舞台の幕が閉じるように、電車のドアが閉まった。私は、とんでもない情景を見てしまった。どう見ても、あの年配紳士が、痴漢とは思えなかった。何時も吊革につかまり、日本経済新聞を小さく畳んで読んでいる見慣れた人だった。私は彼が、女子高校生にはめられたのだと思った。若い男もグルに違いない。新学期の初日から犯罪を行う女子高校生たちを目の当たりにして、私はショックを受けた。あの年配の紳士は警察に突き出され、犯罪者にされてしまうのか。示談金を支払って解決するのか、それとも弁護士を立て、トコトン争うかであるが、いずれにしても不幸が待っているに違いないと思うと、胸が痛んだ。奈々には、そんな女子高校生になって欲しくないと思った。


『女たちの季節』②に続く



        


 



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