『埴谷雄高論』・・・死の結果に関する観念の位置
『埴谷雄高論』・・・死の結果に関する観念の位置
㈠
何かを考える前に、何かを書きだすことがあるが、それが明証するのは、自同律という現象と酷似している。
自同律については、
「AはAである」の形式で表わされる命題。Aが概念の場合、一定の思考過程中に用いられる概念は、同一の意味を保持しなければならないということ。Aが命題の場合、命題が真(または偽)と定まるなら、それはつねに真(または偽)でなければならないということ。
『日本国語大辞典』から
とある。此処に、死に当て嵌めると「死は死である」となる。また、これを、観念を当て嵌めると、「観念は観念である」となる。そして、何かを考える前に、何かを書きだす、を当て嵌めると、「何かを考える前に、何かを書きだす、は、何かを考える前に、何かを書きだす」となる。凡そ、自同律とは、分かったようで分からない、自己の知識からすると、遠方にある沈む夕陽のように、辿り着きそうにないものであると、言わざるを得ない。
㈡
ただ、例えば、死の結果という現象が、死以外の何物でもないとすると、死は、現象ではなく、停止した観念だとも言えよう。つまり、死は観念である、という端的な文が出来上がる。「死は死である」、「観念は観念である」という自同律について、死は観念である、という言葉を当て嵌めると、一つの文章が出来上がる。
「死は観念である」、或いは、「観念は死である」という意味合いになる。これは、もはや自同律ではないのだが、しかし、言葉の組み換えによって、この様な文章が創造されることに、着目したい。というのも、前述したように、死は停止した観念であるという、死=観念、という図式は、非常に興味深いものがあるのだ。埴谷雄高は、常に自同律の不快に悩まされたようだが、これは、常に、物事を観念的に捉える埴谷が、そこに、耐え難い、死というものが佇んでいたことを自認していたと思われるからだ。この自同律の不快を表現するならば、「死は観念である」、或いは、「観念は死である」、という文章は、一定の効果を保って、成立する。
㈢
この様な考察から、死の結果に関する観念の位置は、常に自同律に位置していると言っても過言ではあるまい。難解な現象を突き詰めると、結局、こういった、不自然な自同律が生まれる訳で、埴谷の小説や評論を読む度に、この図式現象が目の前に現れるのである。難解を解読することは困難を伴うが、難解を図式化すると、割合、簡単な図式が生まれるものである。何れにしても、こういった思考の果てに、一つの『埴谷雄高論』が存在足り得るとするならば、難解は簡易である。まさに、観念学者の思考の反復によって、小説も評論も成り立っており、それが、難解だと観ずれば、簡易な図式を用意すると良い。
ただ、この明証が、埴谷の文学を分かったことには繋がらないのだ。つまり、文章の読解というのは、逆に図式からは遠退いて、難解なまま、読者に認識を要求する。死の結果に関する観念の位置という題目のこの文章は、こういった、一つの矛盾に、帰着するものである様だ。
『埴谷雄高論』2に続きます。