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『埴谷雄高論』・・・自己批評についての文学論

『埴谷雄高論』・・・自己批評についての文学論



「批評家と作家のあいだ」の「運動など小さな小さな補足にすぎない」し、「自己独自に文学基準」が、「自己の作品の最初の読者で」あり、「自己の作品についての「自己批評」の遂行者」となる。


上記した文章は、埴谷雄高の文学論『「自己批評」について』から、必要な個所を取り出して、文章化したものである。誠に、その通りだと思わされる文章であって、恐らくは当たり前のことだが、自分の本質は、結局自分が一番良く知っているということが、此処に述べられている。自己批評とは、紛れもなく、作品を批評する時、他者ではなく、作者自身が作品を批評することだが、このことが、最も作品の神髄を述べることになるということは、恐らく明白であろう。こういう意味で言ったのだ、ということは、作者自身にしか分からないことだ、という現象は判然として、佇む訳である。



他者、つまり自分以外の読者というものが、どの様に観念的に作品を理解し、批評しても構わないことは、自由という名のもとにおいて、自由である。しかし、作者自身の心までは見抜けまい。小説を書いた作者の心とは、作品には表れないこともあるし、そのことは作者自身が語る以外に、散見できないのである。批評とは、一種の魔術の様なもので、これはこうである、という文体で述べられるが、本当にそうだろうか、とも思われ、所謂印象批評などは、片っ端から作者を無視して、読者の印象で述べられる点で、読者の創造文になるため、どうしても小説の核心にまでは及ばないと推測される。

それに対して、自己批評は適格である。此処をこういう意味で書いたのだ、と作者が述べてしまえば、忽ちその作品の本質が、読者の想像を遥かに超えて、現出するのである。これは、自己批評の特権であろう。



批評文を多く読んできた自分にとっては、この『「自己批評」について』は、随分自分の観念を休息させてくれた。批評文を読まなくても、自分が書いた小説作品が、他者によってどれだけ文句を言われても、自分は自分で自己批評すれば、作品は忽ち輝き始める。所謂、独創の勝利である。どこがおかしいなどという批評文は、この自己批評によって、瞬く間に力を失うのである。

勿論、誤字脱字などは、問題外であるが、文章の切り替えや、方法論などは、それこそ全く自由なのであって、その自由が独創を先導するのだ。だから、念を押して言うと、自己作品を本当に分かっているのは、作者だけであるということだ。それ以外は、皆、印象批評だということになる。埴谷は、執筆家に自由を与えてくれる。それは、他者の目を遮ってくれる。つまり、他者に何と言われようとも、自分が書きたい作品を、書きたいように書けるということ、それが、本当の独創なのだと、この文学論から、教えてくれているのだと言えよう。

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