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『埴谷雄高論』・・・意味を意味する現象

『埴谷雄高論』


  ・・・意味を意味する現象



埴谷雄高の文学論の中の『ドストエフスキイと私』に、こういう文章がある。


「意あって力足らざる私は、いまだに、出発点にひかれた一筋の白線の上ですでに膝をつき、頭をうなだれているといったていたらくなのである。」


これは、埴谷が、「自身の小説を書くこと」に対して、「現実の前方へ踏みでてしまう人間の精神の特殊なリレー競争に加わりたい」という時に関する自己の状態について、述べた文章である様だ。この文学論には、ドストエフスキイから、観念性のみを影響されたといったことも書かれているが、何れにしても、観念から現実へ踏み込めない埴谷が看取できるのである。



自身が思うには、この埴谷の姿勢は、意味を意味することへの深い疑念があるように思われる。意味をそのまま意味として認識すれば、確かに観念性とは観念性のみに終始することは明白である。それに拘って、観念のみを叙述することは、何ら法的に問題ないし、自由だからだ。自由なことは、小説家に、未知の領域への羨望をも自由にさせてくれる。文学が自由であるのは自由だし、その自由を自由に操れば、それこそ、本質的な自由が現出する。まさに、意味、そのままなのである。

それに対して、ドストエフスキイは、意味を意味しようとする。単なる意味に留まらず、意味に、更に意味を含蓄させるのである。ここで、自由は絶たれ、運命が自由を飲み込むことを埴谷は知っていたのだろう。



ドストエフスキイの小説を多く読んだ訳ではないので、断言は避けるが、ともかく、強烈な運命によって、人が何と不自由に拘束されてしまうかを小説形式で述べているように自分は感じている。この時、意味というものを、意味にする現象が、ドストエフスキイの小説の中で躍動しているように思われる。これに対し、埴谷は自由でいたいのだ。運命に捲かれる前に、運命に規定される前に、意味をそのまま意味として認識することで、自由が飛躍し、闇が闇の中に、そのまま闇として、つまり、観念として存在停止することを、埴谷は言いたいのだろう。

結句、意味を意味する現象について述べてきたが、この現象に埴谷は飲み込まれなかったということだ。現象になる前に、意味のまま、観念を停止させ、自由を獲得し続けたのだと言えよう。

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