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『埴谷雄高論』・・・初歩的な観念性への入場

『埴谷雄高論』


  ・・・初歩的な観念性への入場



埴谷雄高の作品を読解するにあたり、今回はその入場形式を述べてみたい。作品を取り上げるのではなく、作品への入り口として、埴谷雄高の存在論とでもいうべきものを文章化する。


そもそもが、観念的な作品を多数持つ埴谷であるから、読み手としても、その観念性を意識せねばならないだろう。作品に現実を求めては駄目で、頭の思考法というものを作品に求めることが、まずは重要だ。論法としては、ああ、こういった世界もあるのか、ではなく、思考において、こうだからこうだ、そうだからそうだ、つまり、これはこういうことなんだ、と言った文章と文章の繋ぎにおける切り替えの思考法である。



観念性は、その頭で考えると言った問題から、文章を頭で読み取るといった行為を必要とする。感情で笑ったり泣いたり、といった衝動は、少なくとも自分は埴谷の作品からは得られない。ただ、これがこうだからこうなんだな、と言った、前述した思考の切り替えである。だからどうなんだ、と言われればそこまでなのだが、そこまでであるという、観念に終始することを、作品を読むにあたっては認識すべきだろうし、また、予期せねば、埴谷の作品は理解できないだろう。あくまでも、一つの観念的世界に、入場し、退場すると言った、観念の世界に入る、出る、といった行為が必要とされるのである。


何も難しいことはない、感情的な、ドラマティックなものを、期待しなければ良いだけの話だ。



初歩的な観念性への入場とタイトルを付けたが、要は観念性を意識して、作品に臨んでほしいという事なのである。現実では通用しないであろう発想が、作品の随所に見られるし、読解時にそれらを看過できない、つまり、一文一文を無視できないのだ。読解には疲れもするし、自己の考えを反映させるには、埴谷の論理は高すぎる、読解不可といった現象まで起こりうるだろう。


しかし、着実に読んでいれば、観念の世界に浸ることが出来る。それは、一種の崇高世界であるし、観念の面白さといったものが理解できれば、読者も勝ちだし、埴谷も勝ちである、終始する観念の有効性の勝利である。


つまり、観念を捨て去らなかった者にだけ許される、読解世界なのである。

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