『埴谷雄高論』・・・『死霊』についての考察
『埴谷雄高論』
・・・『死霊』についての考察
⑴
埴谷雄高の『死霊』についての考察にあたり、小説からまず或る一文を抜粋する。
「この静謐な、平穏な墓地! その暗い奥底で目もない盲目の虫が何処かを蝕み、怖ろしい変化がわななくざわめきのように起りつづけるとしても、地表には風のそよぎも起らぬこの墓地はやはり讃うべきじゃよ。」
観念から観念を行き来する、言葉の観念性を持った、不可思議な内容の、文体をもった、奇妙な内容になっているこの文章から、一体何を導き出せばいいだろうか。こういう悩みを読者に抱かせるほど、不確かで、しかし確定した文章を書ける埴谷は、やはり観念学者の一人とでも呼ぶべきだろう。如何様にも、読者はこの文章から、自身の人生を俯瞰できるし、また、不思議を不思議として、そのまま目の前に置き去ることができる。
埴谷が言いたいことなど、本当は読者に伝わらなくても、本人が分かっていればそれで良いのかもしれない。
しかし、例えば、「地表には風のそよぎも起らぬこの墓地」などは、本来の墓地ではなく、観念上の墓地とも呼べるだろうし、精神の死滅を想起させる点で、墓地の下にあるフロイトの言う所の、無意識にも推測が及ぶ。だから、地表にある墓地は、意識ということになると、そこに風のそよぎがない点で、意識上の無力を彷彿させるとも考えられる。
⑵
ドストエフスキー論を埴谷は書いているので、そういったことを顧みると、『死霊』は、読んではいないが『悪霊』の影響を受けているかもしれないし、所謂ドストエフスキー的なことを書きたかったのかもしれない。
ただ、埴谷が徹頭徹尾言いたかったことは、結局観念の小説力と、観念の無力さではなかったかと考えたことがある。観念性をこれほどまでに持ち出しながら、観念を超えることなく、ただ観念のみに執着していることは、観念的な小説、此処でいう所の『死霊』であるが、そういった形而上の物語しか、書き得なかった、とも解釈できるのだ。難しいことを簡単に言うことは、観念的なものを、実存的なものに置き換えなければ伝わらないが、埴谷の場合は、難しいことを難しく述べているので、結局読者には、難しいことが難しいまま伝わる訳で、小説に対して、これは難しい、と刻まれるのだ。しかしまた、これが、埴谷の望むところであり、埴谷ならではのアイデンティティであろうから、我々読者は、その難しさに付き合わなければならない。
⑶
また、もう一文、小説から重要と思われる個所を抜粋しておく。
「私達の自由の真の証明は、どれほど怖ろしい場所で行われなければならないのだろう?」
などの文章からは、比較的分かりやすい観念的なものを感じる。自由とは不自由が在って初めて成り立つ現象であって、自由を突き詰めれば、それは不自由に終着することは大いに想像できるが、その様なことを、埴谷はこの文章で言おうとしているのではないだろうか。それは、証明されるべきではないという論議から発展すると、怖ろしくない場所で解釈できるということだ。
だから、不自由を真に証明すれば、それは怖ろしくない、自由な場所で行われると言った、観念的逆説になる。この重要性は、その後、埴谷が認めた安部公房などに受け継がれていると思われる。
『砂の女』などは、空間認識において、或る此処、という場所で男女が出会うという点で、不自由が故の自由を証明していると思われるし、埴谷の言う所の、『死霊』の仕組みが垣間見れる。
何れにせよ、埴谷雄高の作品『死霊』は、難しいが、その難しさによって作品として成り立っているし、その中身が観念的文章に終止することで、形而上学の最果てでの無力さと、また、形而上学の無限性を述べているのだと思われるのだ。