『埴谷雄高論』・・・小説の方法論から見る自由性
『埴谷雄高論』
・・・小説の方法論から見る自由性
㈠
埴谷雄高の評論『カントとの出会い』から、以下を抜粋する。
「宇宙論の二律背反、最高存在の証明不可能、とつづくそれらの仮象の論理学の推論は、いってみれば、自同律の不快に悩みつづけてきた私の暗い気質の論理化された世界のように思いなされるのであった。」
『カントとの出会い』
分かったような気になるくらいしか言えない内容だが、要は埴谷のカントに見る自己の投影であって、とくに注意したいのが、「最高存在の証明不可能」である。この箇所は、非常に大きな問題を私たちに提起する。証明が不可能なだけで、最高存在が不在だとは書かれていない。つまり、常に意匠を凝らしたまま、一種の神のような形で(それもまた刹那の存在条件に置かれるが)最高存在というものは存在するのだ。人間はそれを崇め、やがて我の存在にしようと欲する気質を誰しもが持ち合わせていよう。しかし、その気質とは別に、自分は最高存在にはなりたくない、或いは最高存在の二番手でいたい、といった、一種ひねくれている様で現実的な精神を持っている人々も数多くいる。
埴谷はしかし、この「最高存在の証明不可能」を仮象の論理学の推論とする。ならば、「最高存在の証明可能」は、現象なのであるから、現にその存在は現象しているのだ。
㈡
埴谷雄高について述べることは非常に難しい。というのも、言語の質と量が一般人とかけ離れていて、読むのは面白いのだが、面白いのと解釈していることは同一ではないので、つまり、面白いけど難しい作家だと言える。
文学をやって丁度5年目頃に埴谷を知ったのだが、第一印象として、小説ってこんなに自由でいいんだ、と驚きを持って教えてくれた作家だった。学校で習ういわゆる国語、現代文というものと、埴谷の方法論はかなりかけ離れている。文章が点を多く使用するためか長いので、もう一度文章の初めに返って読み返すこともある。ところが、その様な長さにも拘わらず、文脈が矛盾していない。これはパースペクティブをしっかりと持った作家でないとできない技だと思う。前述したが、小説の自由さを気付かせてくれた埴谷雄高には、非常に感謝している。小説に型がある訳ではないので、自由と言えば自由なのは当たり前なのだが、この自由さとは、法律の枠に留まらないということだ。辻褄を合わせることは重要だが、自分の言葉や意識を、型に嵌めて述べなければならないという法律はないのであって、自分の言葉や意識を、自分独自の自由な文体で述べて良いのである。誰が何と言おうと、自分は自分であって良い。
㈢
実はまだ、小説論に具体的に入るには準備がいるので、現在まだ前置きしか書けそうにないのだが、埴谷の作品に入るには、よほどの覚悟が必要だと思われるからだ。気になった方は、作品よりも、埴谷の論文集から入ったほうがいいと思う。すべての文章が格言に満ちていて、余すことなく楽しめる。
前置きとして一言で言ってしまえば、「観念の蓄積量」の肥大さ、が特徴と言えるのだ。つまり、形而上の言葉の戦いのようなものだ。まずはこれを前置きとして、埴谷雄高について、いつになるか分からないが、少しずつ書いていこうと思う。