episode20
爵位を継ぐ前、代理執行者だったとき、いろいろとものすごく面倒くさかったものだが、爵位を継いだら継いだで面倒くさい。
まず、貴族たちはフィロメナのような年若い女性が伯爵であることが気にくわない。アルレオラ伯爵家は古くから続く名家であるが、ご存じのように先代当主にやる気が見られなかったため、実際の家格は中の中と言ったところだ。ちなみに同じ伯爵家であるマルチェナ家は中の上ほどだろうか。
宮廷内ではフィロメナが爵位を奪ったとうわさが流れているらしい。あながち間違いではないのだが、うかがうようにひそひそと噂されては、さすがのフィロメナも参る。
「しかも最初の夜会で父上に連れまわされなきゃならないとか、ありえない……」
あとひと月半ほどで社交シーズンが始まる。その前にフィロメナは一度領地に戻り、もろもろの手続きをして王都に戻ってくることになる。なかなかの強行軍だ。しかも移動中、父と一緒である。
「ありえない……」
もう一度つぶやきながら、フィロメナはハーブを摘んでいる。ここは宮殿の庭にある温室だった。この温室の中には薬草やハーブが植えられており、医者や薬剤師が利用している。
つまり、フィロメナはレジェスと一緒だった。レジェスは籠を片手に薬草摘みをしている。薬草は毒があるものもあるので、フィロメナは触らせてもらえない。安全なハーブだけを摘んでいる。
「僕としてはストレスと疲労で君が倒れないか心配だよ。一緒に行ければいいんだけど」
「心の底から一緒に来てほしいです……」
妹たちは置いて行く予定だ。幼いマリベルをあまり連れまわすのは可哀想だし、カリナはまた「締切が!」と騒いでいる。最近多いな……。
なので、フィロメナは父と二人きりなのだ。さすがに自分にストレスがかかることはわかる。ついでに不眠になるだろう。さすがにレジェスも仕事があるので一緒に来てもらうことはできない。これですでに婚姻していれば違ったかもしれないが、今は婚約者だというだけだ。
「爵位を継いでいろいろ言われてるみたいだけど、職場は大丈夫?」
「職場は意外と平気です。宮廷内は実力主義者が多いので」
つまり、ちゃんと仕事をしていれば、この小娘が、みたいなことにはならない。いや、多少やっかみの視線は感じるが、それでも噂をしてくる貴族や女官達よりはマシである。
「そう……倒れる前に相談するんだよ」
「はい。……それ、いつも言われている気がします」
信用がないというが、ぎりぎりまで頑張ってしまう自分が悪いのだろうという意識は、一応フィロメナにもある。
「そうだね。君が戻ってきたら博物館でも見に行こうか。それから、甘いものを食べに行こう」
「! いいですね」
何かご褒美があると人間意外と頑張れるものだ。帰ってきた時を楽しみに、お前、頑張ってこいと言うことであるが、避けて通るわけにはいかないので、フィロメナは頑張るしかない。出発はもう目の前だ。
フィロメナはハーブをレジェスの籠に入れて手を洗う。同じように手を洗って籠を持ったレジェスに、フィロメナは声をかけた。
「あの」
「ん?」
籠を持ったままレジェスが振り返る。温室を出たところだ。たまにここで落ち合うが、いつもここで別れる。フィロメナが呼びとめることはめったにない。
フィロメナはレジェスの白衣の袖をつかむと、小さな声で言った。
「その、ちょっとだけでいいので、ぎゅってしてもいいですか」
「……珍しいね」
一瞬目を見開いたレジェスだが、すぐに微笑んだ。彼が籠を地面に置いて手を広げたので、フィロメナは遠慮がちに抱き着いた。そっと抱きしめたのだが、レジェスから苦情が来た。
「フィル、そっとされるとちょっとくすぐったい」
そう言われて、フィロメナは力を入れて抱き着く。すぐに抱きしめかえされてフィロメナはレジェスの肩に顔をうずめた。
そうしていたのは数秒だ。フィロメナはレジェスから身を離すと言った。
「ありがとうございます。行ってきます!」
朗らかに戦いに赴くようなことを言った。
△
そんな感じで機嫌がよかったはずのフィロメナだが、結局、数日のうちに彼女の気分は再び降下していた。二日間、父親と領地への道中一緒であればそうなろうというものだ。
アルレオラ伯爵家の領地は、王都から見て北の方にある。それほど王都から離れておらず、馬車で二日ほど。馬を走らせれば一日ちょっとで着く距離だ。盆地の広がる穀倉地帯である。これまで可もなく不可もなくやってきたが、フィロメナが爵位を継いだので、事業を拡大してみようかな、と言う気持ちもある。怖いので様子を見ながらになるが。
年に一度は様子を見に帰ってきているとはいえ、領地の館に戻るのも久しぶりだ。使用人たちがにこやかにフィロメナと父を迎え入れる。
「お帰りなさいませ、伯爵様」
「……ただいま」
まだ伯爵と呼ばれ慣れないフィロメナは一瞬自分のことだと気付かなかった。慣れていく必要がある。
爵位の引継ぎと言っても、ここ五年ほどもともとフィロメナが伯爵家の仕事をしていたので、今更な感じもある。話してみると、明らかに父よりフィロメナの方が詳しかった。
「フィロメナお嬢様がご当主に……感無量です。私たちも安心して暮らすことができます」
「そんなに期待されても困るのだけど」
というか、父はどれだけ周囲に不安感を与えていたのだろう。昔から仕えている家令にまでこんなことを言われている。
何かと騒がしい王都とは違い、領地は穏やかだ。春なので、緑がまぶしい。館の窓から見える景色に、フィロメナは頬を緩ませる。やはり一度、妹たちを連れて来たいところだ。マリベル辺りが喜んで駆け回るだろう。今は庭で父と母が散歩してるけど。
「フィロメナ様、下のお嬢様方はお元気ですか」
館の侍女頭が尋ねた。フィロメナの乳母にあたる女性である。もちろん、彼女は妹たちのことも面倒を見ていた。子供との接し方は彼女に習った気がする。事実上、この侍女頭がフィロメナの母親だった。
「元気だよ。元気すぎて困るくらい」
「フィロメナ様もお元気になられたようで安心しましたわ」
にっこり笑って言われて、思わずフィロメナはじっと侍女頭の顔を見た。
「私、そんなに疲れた顔してた?」
「死にそうな顔をしていましたね」
そんなに? しかし、たまにしかフィロメナを見ない彼女らにはそう見えたのかもしれない。
「あまり一人で抱え込んではいけませんよ」
諭すように言われ、フィロメナはテーブルに頬杖をついて侍女頭を見上げた。
「最近、似たようなことを言われたよ」
「まあ、どなたに? カリナ様でしょうか」
カリナにも一人で頑張ることは無いと言われたが、彼女ではなく。
「うん、婚約者殿かな」
自分でも視線が泳いだのがわかった。気恥ずかしさがあるのだ。侍女頭は一瞬目を見開き、それから微笑む。
「フィロメナ様にそんな顔をさせる婚約者様にお会いしたいものです。連れてきてくださるのでしょう?」
「そうだね」
レジェスが一緒なら妹たちを連れてくるのもありかもしれない。フィロメナとカリナとレジェスの三人がいれば何となく何とかなる気がする。
それにしても、『そんな顔』とは、どんな顔をしていたのだろう。
自分の顔は見られないので、フィロメナは視線を窓の外に移した。レジェスが写生に好みそうな風景だ。マルチェナ伯爵家も大概自然が多いが、あちらはどちらかと言うと森の中だったはずだ。そちらにも行ってみたいと言ったら、行かせてくれるだろうか。
……フィロメナの視線の先では、両親がまだ仲睦まじく散歩をしていた。とりあえず、母が元気そうでよかった。
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