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episode10











 お船と言っても、ボートである。池をボートで行くカップルが楽しそうに見えたのだろう。マリベルには。


「あのね、マリベル。私にはオールをこげないんだ……」


 腕力が足りない。おそらく、フィロメナより筋力があるカリナにも無理だろう。マリベルはきょとんとして意味が分からない様子。


「お船には乗れないの」


 はっきりと言うと、マリベルの空色の瞳にみるみる涙の膜が張った。それが決壊する前に、未だ膝にマリベルを乗せていたレジェス医師が言った。


「じゃあ、僕と一緒に乗ろうか」

「のる!」


 すっかりレジェス医師になついたマリベルが飛び上がって喜んだ。あわてるのはフィロメナとカリナの姉たちである。

「いや、ちょっと待ちなさい、マリベル」

「それはありなの? いえ、ビミョーだと思うわ」

 一応常識はある姉二人である。二人の思考回路がちょっと変なのは認めざるを得ないが、知り合いとはいえ家族ではない男性に妹たちを預けるのはどうなのか。それに。

「先生にも申し訳ありません」

「ああ、いや。と言うか、僕が言いだしたことですし」

 レジェス医師が苦笑を浮かべてフィロメナを見た。彼は眼鏡の奥で目を細める。

「そうですね。お昼を戴きましたし。それに、写生のモデルをしてもらいましたから、そのお礼と言うことで」

 にこっとレジェス医師が笑い、カリナがフィロメナを見る。彼女がどんな判断をするか見ているのだ。

「……すみません。お願いしてもいいでしょうか」

「もちろん。いいですよ」

 即答するレジェス医師である。マリベルが嬉しそうに跳ね回り、レジェス医師の手を引っ張る。

「おじさん、行こう!」

「そうだね。おじさんで定着したんだね……」

 一応まだ二十代後半であるレジェス医師は地味にショックなようだ。彼らに双子ちゃんたちがついて行く。


「私も乗りたい」

「四人で乗っても大丈夫?」


 エリカとモニカが尋ねる。結局マリベルを抱き上げたレジェス医師が「大丈夫だよー、たぶん」と答えている。まあ、確かにマリベルは一人と数えるには少ないし、三人と考えれば行ける気がする。


「珍しいわねぇ。お姉様が他人にお願いするなんて」


 ボートで池の上に繰り出した三人の妹とレジェス医師を岸から眺めながら、カリナが隣のフィロメナをちらりと見た。はらはらとボートを見守るフィロメナが、カリナの視線に答える。

「そう? いつもカリナには頼りきりだけど」

「私は他人じゃないじゃん。家族じゃん。でも、レジェス先生は違うわ」

「……そうかもね」

 カリナの言うことは事実だ。フィロメナ自身も何故彼に頼んだのだろうか、と少し不思議だ。

「……もうだめなところを見られてるから、気負わなくていいと思ったのかもしれないね」

「何それ」

 カリナはくすくすと笑う。ボートの方を見ると、はしゃぐマリベルをレジェス医師がなだめていた。

「……先生、面倒見いいね……」

「まあ、先生だしね……」

 偏屈な医師も多いが、レジェス医師は人好きのする性格の人だった。それもあって、フィロメナは彼に甘えてしまったのかもしれない。


「ありがとうございました」


 ボートから上がってきた妹三人を引き取り、レジェス医師に礼を言う。彼は微笑んで「いえ」と首を左右に振った。

「僕も、久々にボートに乗って楽しかったですし」

「……なら、良かったです」

 フィロメナが目を細めて微笑んだ時、「フィロメナ様!」と声が聞こえた。振り返ると、マルセロが駆け寄ってきていた。

「どうしたの?」

 カリナがマルセロに尋ねる。息を整えた彼は、言った。


「奥様の容体が……!」


 ぎゅっとフィロメナは眉根を寄せた。このところ、容体が悪くなる一方な気がする。

「……アルレオラ伯爵夫人って、心臓が弱いんでしたね」

 口を挟んできたのは、マリベルを抱き上げたレジェス医師だった。マルセロが目をしばたたかせる。

「……すみません。どちら様ですか? フィロメナ様のお連れ様?」

「それ、普通に失礼だからね……マルチェナ伯爵家のレジェス先生。お医者様」

 フィロメナは簡単に紹介した後にレジェス医師に向き直る。

「ええ。不整脈だと聞いていますが」

「不整脈、ねえ……」

 レジェス医師は少し顔をしかめた。彼に抱き上げられたマリベルが不思議そうにその様子を眺めている。

「……フィロメナさん。僕に母君を診させてもらえませんか」

「……構いませんが、え、レジェス先生、心臓病がご専門なんですか」

「ああ、いえ。僕は一般内科医ですけど、少し、気になるので。もしかしたらお役にたてるかもしれません」

 カリナと双子、マルセロの視線がフィロメナに集まった。決定権は、彼女にある。


 今まで、どんなに言っても父は母を別の医者に見せることは無かった。父が嫌がったからだ。母の意見は聞いたことがない。


 いい機会かもしれない……このまま、強引にレジェス医師を連れて行けば、いつも通りのことに別の色が差すのかもしれない。

「……お願いしてもいいですか」

「もちろん。あ、マリベルちゃん、下ろすね」

 レジェス医師がマリベルを下ろす。フィロメナはレジェス医師に尋ねた。

「先生、ここまでどうやってきました?」

「ああ。徒歩で」


 健脚である。感心するのは後にして。


「マルセロは?」

「馬ですが……まさかフィロメナ様」

「馬で帰る」

「やっぱり! じゃじゃ馬も大概にしてください!」

 普段は姉として落ち着いて見えるフィロメナだが、やはり根っこのところはちょっとおかしかった。マルセロが怒るが、フィロメナは聞いていない。

「先生、馬乗れます?」

「乗れるけど……執事さんがすごい顔してますけど」

 フィロメナが聞かないので、マルセロは矛先を変えたようだ。

「先生……! 言いだしたら聞かないので、フィロメナ様をお願いします……」

「あ、はい……」

 使用人相手にも思わず敬語になるレジェス医師だった。

「カリナ。三人のことよろしくね。ゆっくり来ていいから」

「うん。それより、お母様のことよろしく」

 カリナたちに見送られ、フィロメナはレジェス医師と馬に相乗りで屋敷に戻った。


「フィロメナ様! と……?」


 屋敷の使用人もレジェス医師を見ていぶかしげな表情になる。今まで、フィロメナが男性はおろか友人すら屋敷に連れ込んだことは無いからだ。

「医者のレジェス先生。説明はあとでするから、母上のところに行ってくる」

「あ、はい」

 早口でまくし立てたフィロメナに気圧され、使用人は引いた。レジェス医師は「お邪魔します」と律儀に言ってから中に入ってくる。

 一応ノックして、母の寝室に入った。まだ、いつもの医者は来ていないようだ。苦しげに呼吸している母は、まだ発作が収まらないように見えた。


「ちょっとすみません」


 それを見たレジェス医師は、さっと母ルシアに近寄った。母の名を呼んでいた父ウリセスがレジェス医師を見て眉を吊り上げる。

「誰だ、貴様は!」

「王立医学薬学研究所の医師のレジェス・マルチェナさんだよ。好意で見てくれてるんだから、少し黙って」

 父に対すると、どうしてもとがった言い方になってしまう。妹たちに対しては、頼りにはなるがちょっと抜けた姉であるのに、不思議なものだ。

「不整脈が出てる……心房細動かな」

 レジェス医師がぶつぶつとつぶやきながらルシアを診察している。結論を出したらしい彼は言った。

「伯爵夫人、数秒で構いません。息を止めて腹に力を入れてください」

「な! お前、ルシアを殺す気か!」

「黙って! 母上、大丈夫。彼の言うとおりにして」

 鋭い声でウリセスに声を投げかけ、母にはきっぱりと言い切るフィロメナだった。フィロメナのきっぱりとした言いようが効いたのか、ルシアはレジェス医師の指示に従って息を止めること数回。


「はあ……」


 疲れたように息を吐いたが、呼吸は落ち着いていて発作は収まったようだ。フィロメナも驚いたが、さすがの父も驚いたようだ。

「今のなんですか? 何のおまじない?」

 フィロメナが尋ねた。大丈夫、などと言ったが、彼女もわかっていなかったのである。冷静に考えれば恐ろしい話である。

「ああ、いえ。不整脈の応急処置ですよ。医者がいないところでは、危ないのであまりお勧めできませんが」

「……そうですか」

 簡単そうだったので参考にしようと思ったのだが、それもそうか。落ち着いたルシアが微笑んで口を開いた。

「ありがとうございます、先生。フィルのお友達?」

「まあ、そんなところ」

 フィロメナは苦笑して答える。ルシアは「そう」と微笑むと目を閉じた。

「伯爵、フィロメナさん。あくまで応急処置です。専門医を呼んだ方がいいでしょう。それと、伯爵夫人は血管が細いって言われてませんか」

 レジェス医師の言葉に、ウリセスが「ああ」とうなずいた。信用したかはわからないが、医師だとは理解したらしい。


「もしかしたら、出されている薬が効いていないのかもしれません。主治医だけではなく、専門医に診てもらった方がいいですよ」


 爽やかにレジェス医師は言ってのけた。フィロメナが提案して、聞き入れてもらえなくて、あきらめたこと。即答はしなかったが、ウリセスは考え込む様子を見せた。ひとまず、前進である。










ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


アルレオラ伯爵家に、ちょっと変化が。


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