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愛の対象 Ma Maria

 醒暦1885年 十一月 風蘭守(フランス) 華璃(パリ)


 亡き夫が浮気していたのだという。

「あの、これが……遺産を整理している時に、ふと出て来たのです……」

 そう言って、ジャン・フォーシュのうら若き未亡人マリエル・フォーシュより差し出されたのは、一冊の日記帳だった。セヴラン・モガールはその日記を受け取ると、しげしげと眺め始める。大分使い込まれた革張りの表紙は所どころ罅割れて襤褸が出来ており、鍵も壊れていた。良く見るとそれは自然に壊れたものでは無く、力任せに抉じ開けられていたものであるけれど、モガールは気付かない。風蘭守が誇る華璃警視庁の警部であれば気が付いて然るべきだが、生憎、彼の観察眼は女性の謎の方に向けられている。それは、幾ら呼ばれたからと言って、直ぐこの前に夫を失くした寡婦の元へ駆け付けた態度にも現れていようか。夫人としては、至極在り難く無い所だろう。謎を解く為に読んだのだから。しかし、

「……これは、いやはや何とも……壮絶、ですなぁ」

 中を開いた途端、モガールは彼女が危惧した理由を理解した。刑事として、というよりも、一人の男として、記された文章の意味を把握したのだが、それだけ濃い内容であったとも言える。日記帳はその最初の頁から書き始められていた。一日分を何行かで消費しており、次のものは数日の間隔を置いている。どうやらこの間隔は無作為の様で、別のは翌日、別のは一週間も空いている。そうしてジャンが事故で死ぬ一ヶ月前まで、延々と書き続けられていたのは、マリアという女性との愛の営みの記録だった。

「あー、その……確か、ご主人の職業は、」

「貿易商、をしておりました。家柄を継いで精一杯頑張っていた、そう思っておりましたのに……」

 質問し終えるより早くに答えを発し、目元を涙ぐませる夫人へ少々閉口しながら、改めてモガールは日記に視線を向けた。ジャンの職業は曖昧だったが、その年齢は覚えている。マリエルが今年二十二歳で、十歳年上だと言っていたから三十二歳の筈だ。しかしこの文章は、純市民的職業に就く者とも、人生の一つの区切りを迎えた年齢の者とも違う。何行、何頁にも渡り、一体何処のウェルテル被れが記したのかと赤面したくなる様な言葉が書き連ねられているのだ。モガールは、自他共に認める華璃男児(パリジャン)であり、当然の如く女性を重要視しているが、しかしこれは書けない。

「……それで? 私は一体、何をすれば宜しいのでしょうかな?」

 読むにしろ、ほんの触りだけで充分。ぱたりと音を立てて日記帳を閉ざしたモガールは、すっと未亡人の方へ視線を向けた。短くカールさせた黄金の髪に瑞々しく熟した唇。喪服姿には良く映える。

「この、マリアという女性を探し出して来て欲しいのです。ジャン……主人は、もう居ません。でも私は悔しいのです。私に黙ってそんな……モガールさん、刑事として、どうにか出来ませんか?」

 そして潤み、こちらへと向けられる青い瞳。嗚呼堪らない、と内心でにやけつつ、顔だけは神妙な調子でモガールは口元に手をやった。彼女と知り合いになった理由はもう忘れてしまったけれど、しかしその当時から魅力的だと思っていた事は覚えている。その時着ていたのが、今とは対照的に真っ赤なドレスだった事も。あの林檎の皮を剥き、身をしゃぶれば、どんな味がするものかと期待したものである。

「……宜しい。解りましたよ、マリエル夫人。この日記はお預かりします」

 暫く黙考した後に、モガールは勤めて優しげな笑みを浮かべた。他人からそうだと言われている様に、自分が警察として無能である事は重々承知している。華璃警視庁に入り、出世出来たのも、コネと愛想と偶然だろう。今でもまだ居られているのが不思議な位だ。が、それでもあえて彼が止めぬのは、

「嗚呼モガールさん、ありがとうございますわ」

 感極まった調子で両手を組む女性の姿を間近で見られるからだろう。聖俗に関わらぬ殆どの身分、職種の女性と、公的に、何の疑いも持たれず接せられる警察官は、実に都合が宜しい。

「お任せくださいマリエル夫人。必ずや、このマリアという不届き者を見つけて参りましょう」

 流石に手は取らなかったけれど、モガールはにこやかに返す。人探し程度、同僚の刑事に頼めば簡単に行えるだろう。そうして聖母を名乗る淫売をひっ捕らえれば、はれてあの黒いドレスも脱がせる訳だ。

 あくまで紳士的に、しかしその内では暗い炎を滾らせ、彼は終わった後の事ばかりを考えていた。

 

 けれども純粋なる恋路が如く、現実とはなかなか上手く行かないのがこの世の理である。

「捜査を手伝え、だと? それも私用の? ふざけるな。俺は少年怪盗(ラヴァンド)の方で手一杯なんだぞ」

「うむ、うむ……それは解っている。だが私としても困っているんだ、どうか……頼むロランっ」

 街角の喫茶店、その戸外に置かれたテーブルの一つに座り、先の未亡人と逢っていた時とは打って変わった媚び諂いの表情の中、モガールは深々と頭を下げた。が、反対側に座る同僚刑事の顔は渋い。雪こそ降っていないが渇いた寒風が吹き荒んでいる。ロランは身震い一つしつつ、眉間に皺寄せ、カップを握り、

「お断りだ。お前もいい加減、警察官として真っ当に仕事をしたらどうだ。上だってもう甘くは無い」

 それを口元へぐいっと押し付けた。並々と注がれていた珈琲は湯気立っており、ミルクも砂糖も入れられてはいなかったが、彼は意に介さず一気に飲み干すと、力強く立ち上がる。モガールは引き止めようと腕を伸ばしたけれど、同僚の足取りは速く、あっと言う間に華璃の人塵の中へと消えていった。

 空のカップと共に残されたモガールは、自分の珈琲を啜りつつ、猫被っていた態度をかなぐり捨てて舌打ちした。優秀だからって何様のつもりだ。こちらが下手に出れば出れば調子に乗りおって。

 そう喉を鳴らし、乳白色に染まった液体を荒々しく飲むモガールだけれど、しかし正直な所、これは不味い事態だ。頼れそうな伝手はあの男位だったのだが、その唯一の道は今掻き消えてしまった。どうしたものだろう。自分一人でどうこう出来るとは到底思えないし、思わない。一度自力でやろうとした事はあったが、結果は散々だった。以来、モガールは他人に任せるのが最善の道だと信じている。今更出来るものでもあるまい。かと言って当ては無い。いっそ私立探偵にでも頼んでやろうか? 探偵の国である詠国(イギリス)とまでは言わずとも、風蘭守にだって優秀な連中は居る。だがその場合、金が掛かってしまうのが難だ。それに余計な横槍は極力避けたい。これはあくまで糸口で、本命はマリエル夫人なのだから。

 空になったカップを置くと、モガールは溜息を付いた。その手を懐へ伸ばし、日記帳を取り出す。そもそもこれが悪いのだ。こんなものが無ければ、ここまで悩む事も無かったろうに。大体、マリア等という名前の持ち主が、この街に一体どれだけ居るというのか。そう悪態を付きたい思いで彼は表紙を開いた。

 壮絶と表現した日記の、最初が眼に飛び込む。几帳面な黒インクの筆跡で、凡そ半年前の日付から。


 五月 十一日

 今日から私は、マリアとの日々をここに綴る事にした。何分、この様なものを執筆した事は無い為、他人の眼から見れば、酷く不出来なものに映るかもしれないけれど、構うまい。これは私が、私の為に書くものなのだから。拙くも短い文章を読む事で、未来の私が、当時の私とマリアとの思い出を蘇らせ、官能に耽ってくれれば、それでいいのである。他人など鼻から居ない、居るのは私とマリアだけだ。


 モガールはこれだけでもう表紙を閉じたくなった。本人はあくまで簡潔に、理知的に書こうとしているのだろうが、何とも臭いのである。私とマリア。この言葉から匂い立つ臭さを、過去のジョンは気付いていたのか否か。恐らく後者だ。完璧に、自分へ酔っているとしか思えない。それは、往々にして自分もそう成り易いからこそ、良く理解出来るものでもある。それでも我慢して読んでいけば何か変わるかもしれないと思ったが、残念な事にどれだけ進んでも最初の印象は変わらなかった。寧ろ酷くなる一方である。


 五月 十三日

 仕事の帰りに、マリアの元へ行く。今日のマリアは、私が贈った白のドレスを着ていた。実にいい。自分の見立ては間違っていなかった事を確信しつつ、私は彼女をベッドへ誘った。薄汚れたシーツの上に広がるフリルは華の様で、私を、古びたアパルトマンから楽園郷(アルカディア)まで連れて行ってくれる様だった。


 六月 十五日

 今日もマリアの所へ行った。彼女は、昨日と変わる事無く、共同住宅に居たけれど、何かが違うと私は思った。何が違うのだろう。解らない。唇を合わせ、体を一つにしても、だが頭は冴えてしまっている。絶頂に達し得ない。どうすれば良いか、少し考える必要がある様だ。


 七月 六日

 仕事の最中、居てもたっても居られず、マリアの所へ。今日のマリアは髪型を変えていた。前は肩程まで掛かる程度で、それを結っていたのだが、それが短く切り揃えられ、活動的な印象を与える。また違ったマリアを見た気分で、私は久方ぶりにベッドを共にした。嗚呼、やはり彼女は素晴らしい。最高だ。


 八月 二十日

 手紙を貰い、一週間ぶりにマリアの元を尋ねた。暫く逢わなかった所為か、マリアは大分変わっていた。何がどう、と説明するのは難しいのだけれど、より肉感的になった。そんな気がし、そして抱いて見てそれが事実である事を確信した。細やかな体型も良かったけれど、これもまた滾る。嗚呼、私のマリアよ。


 モガールは軽く流して読んでいたのだけれど、限界と日記帳を閉じた。何処を読んでも、結局はマリアの事しか書いていないのである。読むだけ無駄だ。いや他人の惚気等、害悪と言って差し支えあるまい。

 ただ何と無く、マリアがどの様な女性なのか彼には解り始めていた。

 彼女は献身的で甲斐甲斐しい女性なのだろう。日記の中で、ジャンは常に満足いっている訳では無い。日々移ろっており、その度にマリアは何かしらの変化を遂げている。服装、髪型、体型、化粧にも気を遣っている様な部分がある。男の気を向けようと、さぞ苦心したに違いない。

 軟派な男を愛人に持つと大変だな、と、軟派な男は心の内で言うと、そっと代金を置いて立ち上がった。

 だが、マリアの人間性を推察出来たからと言って、進展したとは言い難い。場所のヒントとしては、『古びた共同住宅』と出ていたけれど、それこそマリアという名以上に、華璃ではありきたりである。モガール自身住んでいるのも、その様な場所であるのだから。

 外套を目深に着込むと、彼はその我が家に向けて歩き始める。解決の糸口は何も出て来なかったが、ふとした拍子に沸いて来ないものか、と期待しつつ。


 だがそんなもの早々沸くものでは無く、と、書ければ良かったのだが、しかしそこでどうにかなってしまう幸運こそが、セヴラン・モガールの、セヴラン・モガールたる由縁だろう。

「お忙しい最中またお呼びして申し訳ありません、モガールさん。その、こんなものが届きまして……」

 先日の来訪より数日経ったある日、モガールは、マリエル夫人の元へと再び呼ばれた。

 最初の時にもう諦め、後はどう上手く断ろうかと思案していた彼は、未亡人からの呼び出しに、まさか催促に来たのかと内心怯えで一杯だった。が、渡された手紙を見て、直ぐに考えを変える。

 住所と共に、『M.T.WEBER』と土壱(ドイツ)人らしき名前が著名された便箋は何の変哲も無い白の物である。意匠化された木々が刻まれている封蝋は、既に切られていた。著名な探偵及び刑事諸氏であれば、ここまででかなりの事が解ったに違いないけれど、その様な知識も観察眼も皆無のモガールは、直ぐに中の手紙を取り出す。折り畳まれた紙で一枚、しかもそこにあったのは、

『長らくお待たせしましたが、準備が整いました。今度こそ、貴方のお気に召せばいいのですが』

 たったこれだけの文章である。この事を伝える為にわざわざ郵便にして出すとは、このヴェーバーという人物は、余程酔狂か、或いは律儀な人間に違いない。少なくとも、モガールには真似出来ない事だ。

 しかしこの手紙が一体どうしたというのだろう。彼は手紙をマリエル夫人に返し、訝しげに視線を向けた。未亡人は、これが至極重要なものであるかの様に慎重に受け取ると、その紅い唇を開く。

「その手紙ですが、実は私どもの使用人が持っていたのです、こそこそと、隠れる様に。見覚えの無い名前でしたし、気になって問い詰めた所、主人から承っていたのだそうですよ、私に黙って持って来い、と。それも半年も前から……ねぇ、怪しいじゃないですか。それにこの頭文字も、Mなんですよ」

「ふむ、成る程成る程。確かに、一理ある考えですなぁ」

 マリエル夫人は少し興奮した様子でそう捲くし立てたけれど、モガールの方は何とも乗り気では無い。彼にはこの手紙の主がマリアとは到底思えなかった。日記を読むに、彼女がこの様な手紙を出していたという記述は無く、ジャン自身何の躊躇も無く彼女の元を訪れているのだ。仮令出していたのだとしても、密会の約束をこうも堂々と告げる筈が無い。余りに綱渡りだ。頭文字がMだというのなら、モガールも、そしてマリエル夫人だってそう。それに何故今更? ジャンはもうとっくの昔に死んでいるというのに。

 物憂げに掌へ顎を乗せながら、不良刑事はそう考えた。その思考は、推理推察といえば確かにそうだけれど、判断基準はあくまで情事に耽る男性としての、主観に染まったものだ。一応の根拠はあるが、実際の所それはどうとでも解釈出来る代物であろう。それでもモガールにとっては決定的なものだが。

 だが確かに奇妙ではある。内容もそうだし、遣り取りが行われる月日も。それよりも、マリアへの手掛かりは何も持っていなかったのだから。差し出されたものは、丁重に受け入れるべきだ。依頼主へも心象が良いという訳で、この後の事が俄然上手く行くであろう。

「……よし、解りました。私がこの住所の元を訪れて見ましょう。そこに、マリアが居るかもしれない」

 モガールは打算的に思考すると、笑みを浮かべて力強く頷く。

 その彼の手はさり気なくもしっかりと、マリエル夫人の両の手を握り締めていた。


 外に出ると、モガールは早速辻馬車を求めて、街路の端に立った。昨日の夜より降り始めた雪は、今日にはうず高く降り積もっている。歩くのも難儀であるし、ただ待っているのも寒くてならなかったが、しかし運の良い事に、馬車は彼を見つけると、直ぐに停まってくれた。

 外と比べれば格段に暖かい中へとモガールは飛び込むと、御者に向けて手紙を出した。そこはここから然程遠くない場所であり、様々な職人が居を構える通りとして知られている。

 御者が同意し、鞭打って馬を走らせ始めた。モガールは口髭を指で弄りながら、じっと座している。

 その頭の中はこれからの事で一杯だった。願わくば、これで全部が解決してくれれば、と。


 小一時間辻馬車は走り、やがて年期の入ったアパルトマンが前に停止した。ここまでの代金を払い、馬車から降りたモガールは、じっとその入り口を見る。建物の外壁通りに傷んだ樹の扉には、木製の羽目板が付けられており、『M.T.WEBER』と書かれている。どうやら正解らしい。

 彼はさっと自分の姿へ眼をやり、特に汚れが無い事を確認すると、その扉を軽く叩いた。返事は無い。名前を呼びつつ、もう一度扉を叩くと、慌しい足音が内側より聞こえ、

「ハイ、どちら様ですか?」

 直ぐに中から一人の小柄な青年が顔を出した。見下ろす様にその顔を見たモガールは、彼がヴェーバーである事を察した。何故といって、あの手紙の書き手らしく、青年の容姿は相当に奇妙だったからだ。

 彼は一見すると東洋人の様に見えた。彫りの浅い顔立ち、そして短く切り揃えられた黒髪が、異国の香りを発している。けれども喋った言語は(若干、土語訛りらしきものが感じられたが)風語だった。そして瞳。透き通った緑色の中に力強い自我を宿した彼の両目は、青白い肌の中にあって皇路覇(ヨーロッパ)人らしさ、土壱人らしさを感じさせてくれる。世にも珍しい混血なのだろう。だが何故その様な者がこの華璃に? 混じり合った多様な人種性は、詠国は論曇(ロンドン)、或いは阿真利火にこそ相応しいだろうに。

 半ば偏見の眼差しでモガールが青年を評していると、彼は小首を傾げて、不思議そうな顔を浮かべる。まだ若く、そして小さな彼には似合ったその態度にはっとなると、刑事は応えた。

「あぁ、あぁ、これは失礼した。私の名前はセヴラン・モガール。華璃警視庁で刑事をやっているものだが、これは君の出したものかね? この『M.T.WEBER』とは君の事かな?」

「刑事、さん? あ、はい。そうです、その手紙は僕が出したものですが……でも……何があったのですか? それは僕がジャン・フォーシュ氏に差し出したものです……まさか奥さんにばれましたか?」

 差し出された手紙に視線をやった後、ヴェーバーは疑わしげにモガールを見つつ言った。最後の方になるに連れて小声になる言葉に、モガールは、彼が何も知らぬ事を悟った。鷹揚に頷いて、

「そう、そうだ、その通り。私はね、マリエル・フォーシュ夫人の依頼を受けていた。今は亡きジャン・フォーシュ氏が彼女に対して不貞を行っていたのでは無いか、その相手、マリアという女を捜してくれ、とね。その最中にこの手紙が見つかった。怪しいと思って来たのだがね、何か知っているかね?」

「ちょ、ちょっと待ってください。今は亡き、って、あの人は亡くなられたのですか?」

 ヴェーバーは驚き、慌てて飛び上がった。何とも滑稽な様子であり、モガールは密かに青年を哂いたい気分になったが、後々の事を考え、努力して顔色を変化させずに続ける。

「あぁ、一ヶ月程前に、ね。酔っていた所をセーヌ川に落ちてしまったと聞いているよ。だが、それは今はどうでもいい、ヴェーバー君。私が知りたいのはジャン氏が付き合っていたマリアという女性についてなのだが……君はどういう関係だね。それともまさか、君がマリアかな?」

 何という事だ、と青年は一人呟いていたが、質問にはっとなって首を横に振れば、

「いえいえ、違いますよっ。でも……あぁ、そうですね、もうあの人が居ないんじゃ意味は無いか。解りました、説明しますので中へ入ってください」

 そう言って、アパルトマンの奥を示した。

 なかなかこれは好都合。モガールはそうほくそ笑むと、建物の中へ一歩を刻んだ。

 彼の前をヴェーバーが進んで行く。薄暗く、嫌な音を立てる廊下を通り抜け、階段を一階、二階、三階と上がった。その間、通り掛かる者は誰は居ない。モガールは尋ねた。

「ここの住人はどうしているのかね? 住んでいるのは君一人なのかな?」

 青年は脚を止めずに、嗚呼その事なら、と頷いて、

「このアパルトマンは僕が引き取ったんです。老朽化が激しくて、建物自体が売りに出されていたのを、格安で手に入れたんですよ。だから、住んでいるのも僕だけです……人間は、というのが正確ですけど」

 そう意味深な言葉を述べる。モガールは、おや、と訝しがり、

「何だね、それは。ペットでも飼っているのか?」

「いいえ違いますよ、ただちょっと……説明は難しいです。見て貰った方がきっと早いですよ」

 尋ねて見たけれど、ヴェーバーは微笑みを浮かべてはぐらかすだけだ。

 何かきな臭く、妙な感じである。モガールは、周囲を見渡した。確かに言った様に、この建物の中に生命の気配は無い。人どころか、犬猫の類も、である。軋む廊下は音を立てずにはいられないだろうし、壁は些細な音すら見逃してしまうだろう。誰か、何か居れば、直ぐに解る。その筈だ。

 では一体何だというのだろう。まさかこの世ならぬ者だとでもいうのだろうか。モガールはごくりと生唾を飲み込んだ。はっきり言って、その手の類は多いに苦手とする所である。臆病者と謗られる事が嫌で公言こそしていないが、出来るならば避けたいというのが彼の嘘偽り無い本音だった。

「さぁ付きましたよ。この部屋です」

 ならばもうこっそり逃げてしまおうか、と心中穏やかで無い事を考えていた矢先、ヴェーバーが脚を止めた。モガールはぎくりとしながら、彼の前に佇む戸を見据える。それ自体はこの建物の入り口にあったものと大差無いものだが、しかしその中に何が居るかなど、解ったものでは無い。

「何も言いません。ただこの部屋に居る彼女と逢って貰えれば……どうしましたか?」

 だというのにこの発言である。モガールはこの大嘘付きめと、怒鳴り散らしてやりたくなったが、しかし終わった後の報酬を思ってどうにか踏み止まった。硬い笑みを浮かべつつ、

「あ、あぁ、いやいやいや。何でも無いよ何でも……では、逢ってみようじゃないか」

 一歩、二歩と進むと、取っ手に指を合わせた。心臓が早鐘の如く胸を打ち、掌からは粘着いた汗が滲み出ている。が、それもこれもマリエル夫人の為と我慢して、彼はぐっと指に力を込めた。

 取っ手を廻し、そして勢い良く戸を開く。

 その先でモガールが見たのは想像していなかった、だが確かに人では無い者達であった。


 窓の向こうで深々と雪が振り続ける中、二人の男女が椅子に座り、対峙している。

「まぁモガールさん、それは本当ですか? あの女性が、見つかったというのは」

 マリエル夫人は身を乗り出す様にして、対岸に腰を付けているモガールへと尋ねた。彼が現れたのはつい先程の事であり、しかもあのマリアが見つかったというでは無いか。未亡人の期待は高まらざるを得ない。遂に自分からジャンを奪い去った憎き女の正体を暴く事が出来るのだから。

「えぇそうです、マリエル夫人。しかし、なかなかどうして、これは意外な答えでした。もしかしたら、貴女は驚きの余り、酷い衝撃を受けるかもしれませんが……お伝え致しましょうか?」

「あ、当たり前です。その為に貴方にご依頼したのですから……さぁ、早く教えてください」

 この期に及んで出し渋る彼に、マリエル夫人は少し怒った風に言った。それこそ今更だ。不貞を図られていた、その事実だけでも充分自分は苦しんでいるというのに。

 モガールはそんな彼女の瞳を見据えた後、解りました、と言って、傍らに置いてあった結構な大きさの旅行鞄を膝の上に乗せた。マリエル夫人は首を横に傾ける。自分はマリアを見たいと言った筈だが、その鞄が何だと言うのか。

「あの……」

 彼女の中で疑問が沸き立ち、言葉となって紡がれようとする。

「彼女が、マリアです」

 それよりも早くに、モガールは鞄を開いた。さっと、その中身が良く見える様に差し出して。

 マリエル夫人は息を呑んだ。思考の歯車が音を立てて静止する。

 何故といって、鞄の中にあったのは、美しい女性の首であったのだから。

 彼女……もう、それ、というべきか……は、短く纏まった金髪の下、青い瞳を虚ろに開かせ、こちらを見えている。未亡人はその中に、怯え切った表情を浮かべる自分自身の姿を垣間見ていた。

 そんな彼女をモガールはじっと見ていたが、やがてふっと口元を緩ませると、

「大丈夫、ご安心してください。これは人形、元から生きては居なかったのですから」

 そう告げて、さっとマリアの頭を持ち抱える。ぐるっと、首の断面をマリエル婦人の方へ向ければ、確かに人形らしく、ぽっかりと虚空が口を開けていた。そう言われて良く良く見れば、確かに本物では無い。何らかの処置をしたとしても、それは余りに綺麗過ぎるのだ。

 だが訳が解らない。マリエル夫人は唖然とした様子でマリアを見ていた。

 するとモガールは、何とも言い難い表情を浮かべて、

「私は、ヴェーバーという青年と逢って来ました。彼は私に色々話してくれましたよ。自分が義体職人である事、ジャン氏に頼まれ、脳の無い義体人形を造った事を。性欲処理を目的として、ね」

「まぁっ」

 告げる言葉に、マリエル夫人は眩暈を覚えた。くらりと倒れ掛かった体を、刑事が止めてくれたが、しかし動揺は変わらない。あの人が、まさかそんな物を造っていただなんて。

 体を起こし、椅子に座り直した彼女は、差し出された珈琲を一口飲むと、青褪めた顔で尋ねた。

「でも、どうしてです? あの人は、何故またその様なものを……」

「それは……失礼ですがマリエル夫人は、ジャン氏との、その、夜のお付き合いは如何程に?」

 質問に更に返って来た質問は、とても人前で言える様なものでは無かった。マリエル夫人は言葉を無くしてモガールを見た。が、彼は至って真面目に手を組み、こちらを見ている。時折視線を流すのは、自身聞き辛い事なのを理解している為だろう。彼女は頬が赤くなるのを感じながら、横を向いて応える。

「……実は、余りしていませんでした。その、最初は人並み、だったと思うのですが……」

「けれどもジャン氏はそれでは満足出来なかった。だから……なのでしょうね」

「……そういう、事ですか」 

 ふぅと吐息を零しながら、マリエル夫人はモガールの方へ腕を伸ばした。マリアの、ジャンの性的な愛を一心に受けたという人形の頭を掴む。その顔を間近で見詰める。別に拒んだつもりは無かった。ただ積極的で無かっただけだ。誘われれば応えただろう。けれども主人にとってはそれが不服だった。だから、こんなものを造った。そうして愛した。あんな日記を書いてしまわねば収まらなかった程に。

 マリエル夫人は自分だけに聞こえる声で何事か呟いた。

 そうして彼女はぐっと人形の首を頭上へ振り上げると、勢い良く床に向けて叩き落す。

 陶器製の皮膚が、硝子細工の眼が、本物の毛を植えた髪が無残にも四散した。


 小さくも肩で息を切る夫人を見ていたモガールは、足元に転がって来た眼球をひょいと掴んだ。繕って出来た生真面目な顔面の下で、勝利と嘲笑と、ほんの少しの羨望を抱きながら、彼は青い瞳を見下ろす。

 マリエル夫人に対し、モガールは嘘を付いていた。

 いや正確には嘘では無い。彼はただ本当の事を言わなかっただけだ。自分の為、同時に彼女の為に。

 その一つは、ヴェーバー青年について。彼は確かに義体職人である。だが、そこらに居る出来の悪い紛い物ばかり造る様な職人では断じて無い。本名モリ・トミタロウ・ヴェーバー。日本人の人形遣いと土壱人の貧しい娘との間に産まれた彼は、義体大国・土壱の地でその頭角を現し、技術一辺倒、実用至上主義であった義体技術に、美的、芸術的観念を取り入れさせ、人間のそれと寸分の違いなく見える義体を造り出した天才である。かのグルムバッハ兄弟で有名な『七人教授』の一人で、『混血の人形遣い』と言えば、その筋において知らぬ者の居ない……同僚刑事に言われるまでモガールは知らなかったが……存在だ。

 そんな彼が何故華璃の地に居るか、はまた別の機会に語る、或いは語ったから置いておくとして。

 ヴェーバーが本気を出せば、人間と人形の区別が付くかどうか、際どい所である。特性の合成樹脂で覆われた皮膚は柔らかくすべらかで、そして生々しい。マリエル夫人がマリアの首に驚いたのも無理は無い。モガール自身、驚愕したのだ。彼もやはり職人に言われるまで気が付けなかったのも共通している。

 そしてここでもう一つ。ジャンが何と言って人形を造らせたか、だ。ダッチワイフ一つ造るのに、ヴェーバー程の腕は要るまい。いや、もし本当に性欲処理が目的だったならば、売春宿にでも行けばいいのだ。風蘭守最高の高級娼婦とて、人形制作に関わる費用程はしない。それは高級娼婦のお世話になった事があり、職人が貰った依頼費を聞いているモガールには、断言出来る事実である。

 ではジャンの目的は、理由は何だったのか。半年前、近場の喫茶店の主であり、ヴェーバーとは知り合いの女性の名を上げて職人の元を訪れた彼は、代金は構わないから、と言ってから、こう依頼したそうだ。


「『私のマリアを造ってくれ』そうです、あの人はそう言いました。にこやかに、手付け金だからと僕が断るのにも関わらず、大量の金を押し付けて来て、ね。えぇ、参りましたよ。僕はアッシェンバッハ卿じゃ無いから人工頭脳なんて作れない。それでもいいと言われたって、似た様な目的の果てに精神を病んでしまった知人を知っていましたからね。でも、同じ位意欲は沸きましたよ。当然でしょう? 職人として、創る事は何事にも優先される。まぁ……ちょっと、お金に困っていたというのもありますが」


 それからヴェーバーは造った。マリアを、ジャンのマリアを。半年間ずっと造り続けた。

 そうだ、マリアは一つでは、一人では無い。あのアパルトマンの一室、そこに居たのは、今はマリアと呼ばれる人形と、そして、かつてはマリアと呼ばれた人形達の成れの果てだった。

 職人は、ジャンの為にマリアを造り続けた。彼の注文に逢う様に顔を整え、愛し合う(出来るかどうかは知らないが)為の体を産み出して。

 最初の内、ジャンは満足した。アパルトマンに通い詰め、マリアを抱き続けたという。

 けれどもそれも短い間だけ。暫くすると彼は決まってこう言うのだ。『これは私のマリアじゃない』と。

 その都度ヴェーバーは一から造ったという。細部を変えるだけでは、前と代わり無いと言って、ジャンは受け付けなかったそうだ。日記帳の中で『今日のマリア』と言っていたのは、何の事も無い。昨日と今日でそのマリアは別物、いや別人なのだから、違うのは当たり前なのである。

 造っては捨てられ、捨てられては造る。その月日の果てに、残骸は山と積まれていった。

 ベッドに座らせられた今日のマリアは美しく、モガールは危うく理性を失い掛けた。人形だと告げられた後も、彼の一部は昂揚し、硬くなっていた程である。

 が、ベッドの向こう側で、無造作に置かれた人形達の部品を見て、一気に覚めてしまった。

 無毛の頭部。諸々の体勢で転がっている首。繋がっていない胴。寸断された手足。焦点の定まらぬ目玉。

 マリアという総体の中である種の特徴を共有させた、しかし個々においては全く違うそれらの存在は、恋に生き、愛に死ぬだろうモガールへある強烈な既視感(デジャビュ)を与える。聖母に成れなかった人形達。それは男達から見放された少女達と、女性達と同じだ。見放して来た男だからこそ、彼は解るのだ。

 ある意味でモガールとジャンは似ているのだろう。己の欲望が何よりも勝るという意味で。

 だがしかし、彼等は決定的な所で違っていた。

 モガールは情欲に身を任せているとは言え、生身の、現実の女に対象が向けられている。

 しかしジャンは違う。彼の対象は『私のマリア』、彼が思い描く『マリア』という名の理想像なのだ。

 だからこそ人形達では我慢出来なかったに違いない。当然だ、自分の世界にしか無い理想が、この世界に完全な形である筈が無いのだから。マリエル夫人と結婚したのも、マリアを求めてのものでは無いかと思えてくる。彼女は気付かなかった様だが、人形と夫人の容姿は、名前と同じ位似通っていたからだ。何がジャンをそこまで駆り立てたのかは知らないが、彼女達は夢見る男の被害者。そういう訳だ。

 そしてこうなると、あの男が事故で死んだというのも怪しく思えてくる。酔って河に落ちたというが、本当にそうだったのだろうか。理想のみを見ている限り、現実に置いて決して救われない男は、何処かで自分の境遇を理解してたのかもしれない。それを悟ったジャンは、無意識の内に身を投げたのでは無いか。そうして今頃はあのアパルトマンの一室で、彼のマリアと共に居るのでは無いか。生と死を超えた先の、永遠の華璃で。先程マリエル夫人が人形を壊した様に、この世の全てを投げ捨て、追い遣った果ての、変わる事の無い幸福なる地平で、二人だけの恋愛模様(アバンチュール)を愉んで――


 いや、とモガールはそこで思考を断ち切った。こんなものはただの想像に過ぎない。根拠等ありはせず、仮令解決した所で誰も救われない謎だ。ならば、そのままにしておくがいい。彼はそう考えた。

 そして手を伸ばす。その瞬間、モガールの頭はがきりと切り替わった。彼を悩ましめていたもの全部が全部もうどうでも良いものとなり、記憶の片隅へと押し込まれる。

 彼は、その両手をマリエル夫人の元へ乗せた。優しく、宥める様にしてそっと。

 そして唇を耳元へ寄せながら囁く。今の彼女にとって、恐らく最も相応しいだろう言葉を。

 マリエル夫人は顔を上げた。潤んだ青い瞳が、黒のヴェール越しに見通せる。その頬は紅葉していた。

 思い通りの反応に心密かに笑うと、モガールは、口元には紳士の笑みを浮かべる。

 彼岸の事は関係無い。今はただ、この情事を愉しむだけ。そう、本当のお楽しみはこれからなのだ、と。


FIN


蛇足

 セヴラン・モガールとマリエル・フォーシュが密なる付き合いをし始めたのは、この直ぐ後である。が、それも直ぐに破局となった。モガールが別の女とも付き合っていた事が、露呈してしまったのだ。

 周囲の者はまたかと笑ったが、マリエルは二度目の裏切りに激怒し、モガールを攻め立て、遂には華璃警視庁をも訴えた。事態を重く見た(というよりも、見て取った)当局はこれを機に彼を辞職させた。

 モガールは暫く華璃の恋人達の元を点々としていたが、やがて大ブリテン島に渡り、探偵家業を始めた。

 その地でも彼の性質に変化が無かったどうかは、蛇足の蛇足であり、あえて割愛させて頂こう。


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