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雪の降る夜に  作者: 佐宮 綾
出逢い
6/11

5

 それから、彼女の父親が死ぬまでに、2ヶ月もかからなかった。


 彼女の父親が亡くなったのは、雪の降りしきる真夜中。

 私と彼女は、安らかな表情で彼の呼吸が止まる様子を見ていた。


 彼は初めて、私が死亡診断書を書いた患者さんだった。

 死亡診断書を書き終え病室に戻ったとき、彼女の細い背中は、タンパク質の塊となった父親を見下ろしていた。


「雪絵さん」


 そっと、声をかける。

 私を見上げる彼女の瞳は、涙で濡れていた。


「萩村……せんせ……」


 ひとりになってしまった、と彼女は呟いた。

 その言葉を合図に彼女の表情が崩れる。


 守りたい、という感情に突き動かされ、近づいて壊れそうに細い彼女の肩を抱いた。


「見ませんから、」


 思い切り泣いていいんです、それが私の精一杯だった。


「……っう、あ……ああ……っ」


 私の胸で彼女は泣きさけんだ。


 私は彼女のぬくもりを感じながら、降りしきる雪が強まるのを見ていた。



 *



 日々が過ぎ去るのは早いもので、彼女の父親の死から3ヶ月。

 研修医として過ごす日々は、覚えることも多いけど充実している。


 一日の仕事を終え白衣を脱ぐ。

 白衣をロッカーに収め、零れるは溜め息。


 一日を終える度、思い出す。

 救いたいと願った彼女のことを。 


 彼女の父親の死後、彼女は姿を消した。

 怒号の飛んでいた一軒家は売りに出されている。


 彼女はいなくなったのに、雪の夜に震える彼女の肩、掴んだ腕の細さ、傷だらけで眠り続ける彼女の花瞼、ちいさな彼女の声、逝った父を見つめる彼女の背中……それらは、いなくならない。


 私のしたことは、結果的に彼女と彼女の父親を引き離しただけだった。

 先輩の言うとおりになった気がしてならなかった。

 ただ興味本位で、彼女の人生に中途半端に介入してしまっただけなのではないか、と。


 それで、彼女を救うだの、あなたの父親の病気も、治せるかもしれないだの、甘い言葉を吐いた私の滑稽さが、痛い。


 外に出ると、雪解け水が小川を作っていた。

 季節が流れるのは、早い。


 彼女と出会ったのも、彼女の父親が死んだのも、雪の日の夜だった。


 病院そばの小路を奥に入り、5分ほど歩くと、アパートが見えてくる。


 しかし様子がいつもと違っていた。


 玄関前に立っている小柄な影の主を、私は一人しか知らない。


「萩村先生、お会いしたかった」と微笑む姿を見たのが、えらく久々に感じた。


「ほんとうに……ありがとうございました」


 春らしいコートを身につけた彼女は頭を垂れる__うなじが見えるくらいに、深く、深く。


「そんな……私は、何もできなかった」


「お父さんは……楽に逝ったと思います。おくすりのおかげで苦しまなかったと思います。ほんとうに安らかな顔だった……。

 病院に連れて行ってくれた、あなたのおかげです」


 彼女の目元に朱が透ける。

 その瞳は、涙に濡れていた。


「私は……雪絵さんとお父様を引き離してしまった」


 あのとき、自分に何ができたのか。何をすることが最善だったのか。

 今となっては、もうわからない。


 滲んだ視界の中で、彼女は首を横に振った。


「それで良かったのだと思います。そうでなければ、きっとわたしはいつ終わるかわからない苦しみに壊れてしまっていました」


 涙を拭う。


「萩村先生が、あの夜に『救う』と言ってくださって、嬉しかった。わたしには神様みたいに見えました。

 ……母がいなくなってから、わたしは、誰にも頼れないと思ってた。頼っていいんだって教えてくれたのは萩村先生でした」


「萩村先生は、わたしのために最善を尽くしてくれました。

 そのおかげで、久しぶりにアルコールの抜けた優しい父と話す時間を持てた。解放された。

 それだけで充分すぎます。先生が、気に病む必要は全くありません」


 そう言って、彼女はにっこりと笑う。

 彼女はいつも、必要以上に優しい。


「必ず、先生に追いついてみせます。

 勉強して、看護師になるつもりです。先生に救ってもらったから、今度は誰かを救うお手伝いがしたい」


 そんな彼女は、きっと、良い看護師になるだろう。


 彼女にはもう会えないのだ、と、ふと実感した。


「がんばれ」


 私はその4文字を、心を込めて言うことができたのだった。


「では、これで」


 もう一度頭を下げて、彼女の姿が遠ざかっていく。

 それは、ひとつの恋が終わった瞬間だった。



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