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雪の舞う夜。
当時、私は研修医で、病院近くのアパートにひとり暮らしをしていた。
夜11時頃、隣の一軒家からぱりん、とガラスの割れる音がした。
それが合図のように漏れ聞こえる怒鳴り声と破壊音。
またか、と思う。
2日に一度は隣の家から罵倒が聞こえてくる。
斜めの家の旦那さんは酒を飲むと豹変するのよ、
妻は愛想を尽かして出て行って娘とふたり暮らしで、
とアパートの大家さんが言っていたことを思い出す。
しかし、この日は様子が違っていた。
「お前なんか出ていけ!」
男の叫び声と、少女の悲鳴。
窓からこっそり様子を伺うと、雪が降りしきる中、少女が立っていた。
よく見ると、彼女は裸足で震えている。今にも消えてしまいそうで、あまりに儚い光景だった。
助けなければ、と義務感を覚えた。
そばにあったダッフルコートを抱え、サンダルを引っ掛けて外に出て、走る。
彼女との距離が少しずつ狭まる。
ゆっくり振り向いた彼女の細く震える肩にダッフルコートを被せた。
絶望の表情を浮かべる顔には無数の切り傷があった。
「風邪、引きますから」
うまいことなど何も言えず、私がどうにか口にできた言葉はそれだけだった。
返ってきた言葉は、ごめんなさい、だった。
傷の手当てをしましょう、と言って、私は彼女を家に強引に連れ帰った。
このままでは彼女は死んでしまう、と思ったからだ。
家に入り、彼女を座らせ、救急箱を取り出す。
これでも医者ですから、と言い訳をはさみつつ、私は彼女の顔の傷に脱脂綿を押し付けた。
会話は、ない。
「他に怪我はないですか」
そう訊ねたとき、彼女は左腕をかばった。
「帰ります、ありがとうございました」
思わず、玄関に向けて歩き出す彼女の右腕を掴む。
異様なほど、細い。
私は強引に左腕のニットをめくりあげると、丸い火傷のあとが多数。
……恐らく、煙草を押し付けられてできたものだ。
その他にも痣が複数。
「やめてください!」
と叫んだのは彼女だ。
「……あの家に帰るんですか」
「わたしには、帰る家はそこしかないんです」
彼女の顔に貼り付けられた、諦めの笑み。
「お父さんしか、もう家族はいないのです」
「あのひとを見捨てたら、わたしのお金で食べているあのひとは生きていけないんです……」
そう零して、ほろりと涙を流した彼女に抱いた、「守りたい」という感情は、今思えば一目惚れだったのかもしれない。
だから、私は思わずその言葉を口にしたのだと思う。
「ひとりになんてしません」
現場に立って、病気のショックでふさぎ込む患者さんをたくさん見た。
体を治すことができても、心は治すことができない自分が無力だと感じた。
私は彼女の傷だらけの体を治すことだけでなく、心も救いたいと思った。
「ここに私がいます。話を聞くことや、隔離することはできます。
私は医者です。あなたのお父さんの病気も治せるかもしれない」
彼女の腕から手を離し、その手を彼女に差し出す。
「現状を諦める必要なんかないんです。
あなたには自分のしたいことをする権利があるんです」
透き通った瞳が、私を映した。
お互いを見つめ合うその一瞬が永遠に感じられる。
彼女は目を閉じる。その光景すら、本当にきれいで。
「……ほんとうに、裏切りませんか、見捨てませんか、わたしのこと」
その声は震えていた。
彼女の母親は、彼女を救わず見捨てていったと聞いた。彼女は、こんなにも傷だらけだったのか。
「約束します。わたしはあなたを裏切りません」
私はそう言い切った。
「………たすけて、ください」
彼女がそっと、私の手を握る。
彼女を守ろうと思った。彼女の心を、ぬくもりを、守りたいと思った。