九月二十三日
九月二十二日。文化祭片付けと前期終業式。また原票に不備があった。公欠の生徒を欠席でつけてしまっていたらしい。藤本が私の声真似をしてきてむかつく。私だってもうこのオドオドモード止めたい。自信ない時ってものの言い方とか目線とか、自分で自分が気持ち悪い。人に上手く話ができなくて実際の三割増し以上に間抜けになる。
バトミントン部の女子二人がとうとう辞め・・・すはずが強引に休部にされる。去るもの追わないって言ってたその口で今度はどんな屁理屈こねるつもりなんですか鈴木先生。生徒が何をいっても「嫌なことがあったらすぐ物事をなげだすのか」とそこに持って行きたがる。なんかい「すぐ」ではないといったら分かるのか。私も何度も相談したし直接の訴えもあったのにすっかり忘れてる。しかしいいよな生徒は。いやならやめられるんだから。
牛乳を買って甘いものを我慢したのに結局体のためを思って買ったアーモンドを過食嘔吐してしまった。こういう生活があと何年続くんだろう。とても耐えられない。つらい。苦しい。全部投げ出したい。気力がわかなくて酒を買いにさえいけない。鬱。
九月二十三日。ココスのバイキングで過食しようと思ったのに体がつらすぎて無理だった。舌が荒れて、しかもパンパンに腫れて、とても食べ物を食べる気分じゃなかった。まあ半日したら完治してるんだけど。十一時まで寝こけて、そのあとも祖母の家に無理やり連れて行かれるまでうとうとしていた。なんにもいらないからとにかくいつまでも眠っていたい。サバランはあんまりおいしくない。甘いだけ。祖母の家は昔と違って何から何まで汚くて気持ち悪い。ケーキを食べてる横で痰の絡む咳をされたり、不幸のうちに死んでいった年寄りの話を何回も何回も聞かされたり、わたしもはたから見るとこう見えるのかな。小さい頃は気がつかなかったけれど、おばあちゃんって他人と自分を不幸にするひとだ。せめて早くみっちゃんがなくなってしまえばおばあちゃん単体ならうちに来てくれてもいいけど、おばあちゃん+みっちゃんじゃ我が家が背負い切れる不幸ゲージを簡単に振り切ってしまうだろう。ただでさえ私っていう疫病神がいるのに(でもうちほどモラル意識厳しい家じゃなければわたしこんなに責め立てられないと思う。そもそも人殺しだって五年六年で娑婆に出てきてなんのわだかまりもなく社会復帰してるのになんで私はこんなに長いこといつまでもいつまでも忘れさせてもらえなくて苦しまなくちゃいけないんだろう。酷い不公平だと思う。要するに世の中は反省しなくて顔の皮の厚い奴の一人勝ちなんだ。さらに声がおっきいとなおよし。あたしに子供が産まれたら他人のことなんかなんとも思わなくてあたしとその子自身だけ大事にする子に育てる。それこそが幸福への道だと思う。)