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七月五日

暑い。

 期末考査の二日目。朝から調子が悪くて(身体の健康状態のことではない)手提げ袋に突っ込んだ袋から豆菓子をつかんでばりばり噛み砕きながら電車に乗っていた。塩のついた手をどうしようかと考えながら歩いていたら先輩教諭の田淵がおはようございまーす、と言いながら葉子を追い抜いて行った。菓子を食べながら歩いていた自分に今更ながら恥ずかしくなって、挨拶を返す声はやや裏返った。ふと前を見ると葉子と同期の上村が歩いていて、田淵に気がつくと頭を下げた。二人は親しい友人同士のように並んで話しながら歩いて行く。

 自分にはああいうことはできない。

 みっともないのが分かっていても菓子を口に運ぶては止まらなかった。胃も限界だし顎も痛いし、これ以上カロリーをとるなんてとんでもないのにどうにもならない。暑さのせいばかりでなく、校門をくぐるころには葉子はからだじゅうがじっとり汗ばんでいた。

 職員室に入るとすっと空気が涼しい。挨拶をしながら席につき、さりげなく見渡す。阿部の姿がないのにほっとして、考査問題をとりに教務用ロッカーに向かった。昨日は出勤したらすでに監督の教師の机に一日分の考査問題がおかれてしまっていた。専用の袋に入れてからロッカーに提出された考査問題を監督の先生に配って歩くのは葉子の仕事なのに上司にやられてしまってはなんというか非常にまずい。学校は他の業種に比べて縦関係が薄い。またそうでなければならないものとされている。でもやっぱりそれは真に受けてはいけない建前だし、分かりづらい暗黙のルールはたくさんある。

 葉子は22年間かけて自分がただでさえ人の輪から外れやすい人間だとようやく認め、その危険性にも気がついた。だからそういうものにはことさら敏感でありたいと思うのだが、奈何せん、上手くいかない。

 半日はあっという間に過ぎて、昼になった。担当教科のテストが返ってきたのでマルつけをしていると、鈴木がメモボードを手に横に立った

「先生、この日部活の大会あるんで、不参加です」

「そうでしたっけ。すみません、ありがとうございます」

 そうでしたっけ、といったあとで葉子は以前その時期に大会があると知らされていたことを思い出した。なんでわざわざ『忘れてましたアピール』しちゃってるんだろう。

「あ、そうだ。鈴木先生、今週の土曜って練習あります?」

「ありますよ」ああ。あるんだ。

 葉子は今週末オールでカラオケに行く予定だった。六時から翌五時まで、アルコール飲み放題がついて三千円というお得なコースだ。

「午前ですか?午後ですか?あたしできたら午前のほうがいいかなー、なんて・・・」

「・・・バレーとバスケにもよりますけど・・・午前ですね」

 いった瞬間また後悔した。これでは部活が自分の都合の妨げになると言っているようなものではないか。

「そうですか。ありがとうございます」

 部活いやだ部活いやだ部活いやだというのがもうたぶん全身からオーラになって飛んでいるんだろう。そうだよわたしは働くのなんか嫌いだし汗かくのも苦労するのも大っきらいなんだよ。こんな仕事辞めて新宿とか池袋に戻りたい。ちょっと服買ったり過食用食材買うくらいのお金なら何の苦労もなく調達できる環境に戻りたいんだよ。あああああああでも正社員にならないとだし、事務も営業もできそうにないしでもこんなんじゃ正採用されるかどうかなんかわからない。そのための努力をするとかするふりをすることすらいやでいやでしかたがない。このついさっきだって業務時間中に携帯をいじっていたところを主任に話しかけられてしまった。しかもその内容はむしろ自分のほうから伺いを立てなければならない類のものだった。気が利かない、サボりたがり、仕事はミスばかり、知識ならあるのかというと別にそういうわけでもない。教育実習生よりたちがわるい。そしてなにより周りの輪に溶け込めない。

 三時を過ぎるとみんな中学校訪問やら下校指導やらで学年の先生はいなくなってしまった。他の学年は人数は少ないもののデスクに人がいるのに二年生だけガラガラだ。

 周りの談笑を聞きながらペンを動かしていると急に猛烈な孤独と焦りを感じた。

 給湯室まわりの掃除もひとりきりでやった。ゴミ袋を二つ抱えて、足で扉を開けたのを教頭に見られた。教頭は何とも言えない顔をして

「大丈夫樋口さん」

「大丈夫です、すみません」

 ゴミ置き場は雑然としていて、ジュースのペットボトルを入れたポリ袋の表面には普通より一回り大きく黒々としたありが多数這いまわっていた。考査中だからかサッカー部の声も聞こえない。まだ夏の日は明るい。静かで、うだるように暑かった。

 定時になるのを待って葉子はこそこそと逃げるように帰った。帰り際下田と岡本が連れだって帰るのに会った。下田は自分と同じ電車を使っているのでもしかしたら先を歩いているかもしれないと思ったが、ほんの数分しかたっていないのに学校の前の長い一本道には誰の姿もなかった。岡本の車で帰ったんだろうな、と思った。

 職員室の窓から笑い声が聞こえてくるような気がする。結局私は昔から何一つ変われない。じっとりと夏の暑さが染みてくる。駅までの道を歩きながら葉子はいままでの、ありとあらゆる思い出したくな事柄をつぎつぎと思いだし、叫びだしたくなりそうな衝動をこらえていた。

 いつだってここではないどこかへ行きたくて逃げたくて仕方がなかった。ここが淵なのか、とおもったら無性にやりきれなくなった。自分の人生とは何か、なんて中学生見たいな感情があとからあとからあふれ出てやまない。

 帰りにピノの抹茶味を買って帰った。まだ火曜日か。一生かかっても休日が来ないような気がしてきた。

 






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