『2008/08/02 am:9:00〜10:00 熊本市内にて』
隆君、いつもありがとうね。これは今日のお礼よ。受け取って」
そう言って、青年に茶封筒を差し出す女性。
「いや、優花さん、これは受け取れませんよ!だって、ちょっと荷物運びと手伝っただけなのにこんな・・・」
「若いもんがつべこべ言うな!大学生なんだから色々と入用でしょう?いろいろと!分かってるって!分かってるから皆まで言うな!この優花さんはすべてお見通しなんだから!私も大学生時代はいろいろとあったものねえ?ねえ?あなた?」
御近所でも評判の、「大概分かってない賢者」の通り名を持つこの女性、もとい優花と呼ばれた女性が、話を隣の夫に振る。
「ああ、そうだな、本当に色々とあったな。本当に。・・・特に江藤とやらかした「狂言結婚式」は今でも後輩に語り継がれていると思うぞ」
「何よ、昇。そのおかげで私と結婚できたんだから儲けもんでしょう?いや〜、今でのあのときを思い出すと照れちゃうわ。あんなプロポーズ、昇しかできないと思うよ!」
優花は頬に手を当てて勝手に照れてるし、優花に昇と呼ばれた男性は苦笑している。
「まあ、そうだろうな。あの時はようやく見つけた俺の「願い」が消えてなくなるかもしれないって状況だったからな。あんな状況じゃなければ、誰もあんなことしないっと、話がそれてるけど、隆君、それは何も今日の分だけじゃなくていつもの分だよ。明がいつも本当にお世話になってるからね。それも含めた御礼だよ。本当は家庭教師代を払っても良いくらいだと思ってるんだけどね。どうだい?ここらで一つ、家の明の家庭教師を正式に引き受けてはくれないかな?」
「ははは、そんな大したことしてないんでホントに気にしないで下さい。俺自身、榎本道場で教師の真似事させてもらってる間は楽しいんですから」
彼らの話だけ聞いててもまったく状況が分からないと思うので、ここらで一旦話を整理しておこう。
現在この場に居るのは江藤夫婦(昇・優花のペア)と、隆と呼ばれる人物である。
彼らの関係は御近所さんというよりは師弟という関係に近い。正確に言うと、隆が弟子で優花が師匠だ。
優花の旧姓は榎本で、彼女の家系は代々から空手の道場を営んでいる。先ほど彼らの会話に登場した榎本道場において優花はその5代目の師範であり、その道場に隆は通っている門下生なのだ。
基本的に稽古は月・水・金の週3回、時間帯的には午後5時から6時半の1時間半に渡り行われている。 そして、隆が先ほどから家庭教師うんぬんかんぬんを言われているのは、週3の稽古が終った後に道場で小一時間ほど希望する子供たちに無料で勉強を教えているからだ。
隆は隈本大学教育学部に通う学生であり、教師になるために日々勉強にいそしんでいる。そんな隆にとって複数の人数を相手に授業できるという環境はありがたいもので、自分の将来への投資という意味もこめてタダで子供たちの勉強を見ているのだ。
そんな子供たちの中に明という少年が居る。
彼は昇と優花の子供であり、現在小学校4年生の男の子だ。性格的には活発な子で、それが災いして粗相をしでかすことも多い。一説によると性格的には「もう1人の江藤」なる人物に似ているため、一時期彼らの身内の中で「もしかして明の父親は・・・」と波紋を呼んだらしいが、よく考えてみると、その「もうひとりの江藤」なる人物と明の母親である優花の性格が似ていために、そう見えるのだろうと彼らを知るもの達の間では一応の決着がついている。
現在その明は家中の窓の鍵が閉まっているかを確認している。しばし、三人して明の帰りを待つ。
♪
「お母さん、全部鍵かかってたよ。火の元も閉めてあったし、水道も大丈夫だった。」
確認を終えたらしい明が家から出てきた。
「よし、よくやったぞ息子!母がほめて遣わす!じゃあ、隆君に今日のお礼を言って、車に乗りなさい。おじいちゃん家に行かなきゃならないからね」
これに素直にうなずく明。
「うん、分かった。今日はありがとう、隆さん!今日はいっぱい手伝ってもらって助かりました!だから隆さんに一つ言いこと教えていくね!夏は二人を開放的にする季節だから忍さんと仲良くしないとだめだ!そろそろ決めないと、愛想着かされて捨てられちゃうぞ!」
薄ら寒い風が吹く。夏なのにね?
「・・・うん、そうならないように頑張るよ。ありがとうな、明」
「明、後で少し話があるからお父さんのところに来なさい。優花、明に変なこと教えるな。まだ小4だぞ。いくらなんでも・・・」
「いやいや、私じゃないし。明、怒らないから誰からそんな話聞いたの?大体想像つくからいいんだけど、確認のためにね?」
「うん?メトウおじさんだよ?恋の妖精にして愛のキューピットのメトウおじさん!そしてあるときはお母さんの愛人さん!」
どこかに携帯を握りしめながら駆けていく優花。おそらく恋の妖精さんに用があるのだろう。
その顔はまるで聖母。でも、内心は阿修羅だと思う。
「明、お父さん明に話したよな?あの馬鹿は愛のキューピットなんかじゃないって。現に あの馬鹿は奥さんに見限られて捨てられてるんだぞ?愛のキューピットはそんなへまはしないだろ?しかも奥さん、愛想尽かしすぎて今はブラジルだ。地球の裏側だぞ?どんだけ嫌われたんだよ!って思わないか?まあ、確かに哀のキューピットといえなくもないけど。まあ、だからあのおじさんとあまり会話しちゃいけません。馬鹿になるから。」
「え〜、でもメトウおじさん面白いのに。」
抗議する明。
それに乗っかるように隆が話しに入ってくる。
「メトウさんって、卓也さんのことですよね?確か昇さんと苗字が同じだったと思うんですが。」
「そうそう、そいつのことだよ。あの馬鹿、何をやらかしたのか知んないけど、奥さんの・・・って言うか隆君は知ってるか。明里さん。たまに家に来ると見物人が寄ってくるぐらい美人な人だから覚えてるだろう?で、あの馬鹿は折角結婚してくれた彼女を結婚生活8年目にしてえらく怒らせてね。今じゃ別居状態だよ。しかも日本とブラジル。どんだけだよって思うだろう?」
「はあ、それはまたすごいですね。前々から話に聞いてて、ずっとすごいなと思ってたんですが、今回のはまた一段とすごいですね。何よりも奥さんの行動力が凄すぎですね。夫婦喧嘩で地球の反対側まで行くってバイタリティは尊敬に値します。」
「お父さん、でもメトウおじさんは明里さんと喧嘩してないって言ってたよ。あれは迎えに着てあなたっ!ていうシチュエーションだから気にしなくて良いんだって。いわゆるギャルゲーの・・・」
隆 が明の会話を中断しに入る。これ以上は危なそうだから。
「明?そろそろ車に乗ったほうが良いんじゃないかな?ほら、お母さんもちょうど帰っ・・・って優花さん怖い!ちょっとそれは怖すぎです!あっ!明振り返るな!今の優花さんはちょっとお見せできない!」
「優花、顔が狼になってる。ほら、また明が泣き出すから落ち着け?な?江藤は逃げないから。逃げたらあいつもどうなるか分かってるから、な?だから落ち着け?」
男連中にえらく失礼なことを連呼されている優花の顔は未だに聖母その人だ。しかし、この顔のときの優花の二つ名は「閻魔」。このときの優花を見かけたら近くに救急車を必要としている人が居ないか確認することが、この近所近辺の常識となっている。
「何よ。隆君も昇も失礼だよ?人を化け物みたいにさ?まあ、いいけどね。それはそれとして、明?速く車に乗りなさい?予定よりも遅れちゃってるんだから。」
「閻魔」の一声を聞いた明は慌てて車に乗り込む。このときの母親の機嫌を損ねるとえらい目に会うのは当の昔に学習済みなのだ。
明が車に乗り込んだのを確認して優花は隆に向き直る。
「今日はホントにありがとうね、隆君。ほんとに助かっちゃった。それで、これはそのお礼なんだから、ちゃんと受け取りなさい。そして忍さんのために使いなさい。さらに言うなら、使った後はどんなことに使ったのかきちんと報告するべきだよね?私に。逃げたらだめだよ?じゃあ、昇行きましょうか。」
そう言って車に乗り込む優花。
男どもはその後ろで。
(マジですまんな、隆君。今日のところはそれを受け取っておいてくれ。さもないと、優花が暴れだす。)
(了解です。今日はこちらこそありがとうございました。このお礼はまたいつの日にか) とアイコンタクトを交わす男二人。
無言のうちに意思疎通を図った男二人の内、昇は車の運転席へ、隆は最後のあいさつをするために明が座る上席の窓から顔を出す。
「じゃあな、明。優花さんと昇さんの言うことちゃんと聞くんだぞ?それと雫ちゃんに出すメールを忘れるなよ?そっちこそ愛想つかされないようにな!」
そう言って笑いかける隆。
「分かってるって。お母さんに逆らうわけないじゃん。隆さんこそ、しかっりな!」
そう言って笑い返す明。
「それじゃあ、昇さん、優花さん、失礼します。久しぶりの帰郷、楽しんできてください。」 「いろいろとありがとう。隆君。そっちこそ、楽しい夏休みになることを祈ってるよ。」
「しっかりするのよ隆君。私たちが帰ってきてあっちに進展がないようなら。「あれ」よ?」 第三者からすれば、「あれ」って何だよ!と言いたくなるが、男三人が黙り込んでしまった様子からすると、ろくなことではないらしい。
エンジンがかかり、車が動き出す。
では、と短い別れのあいさつを交わし、彼らは一旦別れることになる。
しかし、数奇な運命の末に彼らはこの夏休み中に再び会うこととなる。そうなることをこのとき彼らはまだ知らない。




