朝ご飯は作れないけど、離縁されなかった話
小鳥が鳴く前の、まだ暗い早朝。
いつも通り目を覚ましてしまった私は、背中を包み込むふかふかのお布団に驚く。
そうか……私、嫁いできたんだ。
隣を見れば、既に夫の姿はない。形だけの初夜を終えれば、もう同じ空間には居たくないのだろう。
風呂敷から、生まれてこの方袖を通したこともない上等な着物を取り出すと、さっと身支度を整え、二人分の布団を畳む。床板の音を立てぬよう、すり足で廊下を歩き、まずは暗いお台所を覗いた。
まだ誰もいないわ……よかった。
桶を両手に下げると、勝手口から井戸へ向かう。
逞しい腕で釣瓶を引き上げ、あっという間に二つの桶を水で満たす。ついでに顔を清めさせてもらいサッパリすると、さて次は何をしようと考える。
薪割りにはまだ早いし、掃除もうるさいだろうし。静かに朝ご飯の準備でも出来れば一番いいのに……とため息を吐いたところで、凄まじい閃光が頭を貫いた。
──私、栗映米子が米子として生を受ける前は、ここよりもずっと文明の進んだ場所で暮らしていた。
そこは同じ日本だけど、異能も鬼も妖もないつまらない世界。名前は思い出せないけど、確か二十代の女性で、ブラック企業に勤める地味な会社員だった。
激務に追われ、ストレス解消の為によく読んでいたのが、なんちゃって大正時代な和風ファンタジー漫画。異能も妖力も持たない為に家族から虐められていた薄幸美女が、冷たいはずのスパダリ夫から溺愛されちゃうやつだ。
大好きだったけど、一つ。どの作品にも抱いていた疑問というか不満というか妬みがあった。
『何でどれも嫁いですぐに朝ご飯作ろうとするんだ?せめて一日くらい様子みりゃいいのに。ま、朝ご飯作るだけでスパダリ落とせるなら楽でいいよな~あはは』
……それだ。
死ぬ前に、ケロリーメイトを齧りながらそんな暴言を吐いたせいで、きっと米子は料理が出来なくなったんだ。ほとんど料理なんかしないくせに、健気に頑張るヒロインに対して偉そうにさ。
読みすぎてどの作品かは分からないけど、ここは間違いなく、そんなファンタジー漫画の世界。そして私は、そんな世界のヒロインだと思う。
異能一家に生まれながらも能力を持たない私は、母亡き後、後妻と優秀な妹に虐げられて育った。
朝から晩まで、使用人のようにこき使われ……ていたが、料理だけは免除されていた。というか台所に入ることすら禁じられていた。何故なら、恐ろしく料理が下手だったからだ。
米を炊かせれば炭になるし、おみおつけは塩辛い上に生臭い。沢庵は南京玉すだれのように繋がるし、煮物は火が通っていないか、溶けてペースト状になるかのどちらか。見た目だけでなく、もちろん味も激マズだ。
最初はふざけているのかと折檻されたが、どんなに手順を守っても、私が関わった食材は皆悲惨な最期を遂げる。ついには呆れられ、炊事の代わりに力仕事を全て押し付けられてしまった。
与えられる食事は質素なのに、何故か私は体格が良く腕力もあった。その為、水汲みや洗濯だけでなく、男衆がやるような薪割りや大工仕事まで任された。肌もすこぶる丈夫で、水仕事をしても荒れないし、折檻されてもすぐ治る。
仕事は疲れるし、いつも腹ペコだし、折檻は辛い。
なのに悲壮感が全くない。
おまけに顔も普通。痣とか傷とか呪われているけど実は美女だった……みたいなオプションもなく、とにかく普通だ。
──さて、妹の身代わりとして私が嫁がされたのは、名門梨美屋家の三男で、冷酷だけど金持ちでこれぞファンタジー! な美しい青髪の軍人。
普段通りのボロい着物でも着せてくれたら多少は薄幸感も出るのに、婚礼衣装も持たされた着物も、全て最高級品という余計な気の回しっぷりだ。
祝言を終えたばかりの初夜の寝室で、『貴女を愛することはない』と言われ胸が痛んだけど、前世の記憶を取り戻した今となっては、あ~はいはいと納得する。
ただ問題は、本当に愛されないまま離縁される可能性が高いということ。
朝ご飯が作れない、手が荒れていない、ガタイがいい、顔も普通のくせに無駄に良い着物を着ている。
境遇からして間違いなくヒロインなのに、ヒロインらしさが皆無というこのキャラで、どうやって溺愛されろというのか。
……こんな特徴的なヒロイン、読んだら絶対覚えているはずなんだけどなあ。
そんなことを考えながら、雑巾で静かに台所を掃除していると、昨日紹介された、優しそうな年輩の女中……麦さんがやって来る。
『奥さまが朝早くからお作りになったんですよ』『手際がよく味付けも素晴らしくて』『どうか一口だけでも召し上がってくださいな』
なんて風にヒーローの警戒心を解き、ヒロインとの仲を取り持ってくれる重要キャラに違いない。だけど朝ご飯を作れない私に対して、どんな印象を抱くのだろう。
「まあ奥様! こんな朝早くからどうされたのですか?」
「……何かしようと思いまして。とりあえず水は汲んだのですが」
「まあまあ、そんなことなさらなくてもよろしいのに。朝ご飯が出来るまで、ゆっくりお休みになっていてくださいな」
「……すみません。せめてご飯だけでも炊こうとしたのですが、私は料理がめっぽう苦手で。他所様のお宅で、大事なお米を炭にする訳にはいきませんから。あっ! でも薪割りとか力仕事は得意ですから、何でも言い付けてくださいね」
袖を捲り力こぶを作って見せてみれば、麦さんは目を丸くし、おほほと愉快そうに笑う。
「そのようなこと、奥様がなさる必要はありませんよ。住み込みで働いているのは私だけですが、通いの女中と男衆もおりますし。汲んでくださったお水でお茶を淹れますから、そちらに座って休んでくださいな」
「……はい。すみません」
これ以上麦さんの仕事を増やす訳にはいかない。
私はトボトボと座敷へ上がると、綺麗な畳の上に座り、少しずつ明るくなる障子を見つめていた。
「どうぞ」
しばらくして、麦さんが運んできてくれたお盆の上には、お茶とカラフルなお皿が載っていた。
頬擦りしたいくらい大きくてまんまるの紅白まんじゅうと……
「クッキー?」
「はい! こちらがお抹茶、こちらが胡麻入り。緑茶にもよく合うと思いますよ」
わあっ、嬉しすぎる!
甘いもの自体滅多に食べられなかったし、西洋風の焼き菓子なんて、前世以来じゃないかしら?
若い女性のお茶菓子にしては結構な量だけど、この見た目だもん。ついわしわし盛りたくなるわよね。実際腹ペコだから食べられちゃう。むしろ足りるかな?
「ありがとうございます! いただきます! ん~うんまっ! おいしっ! 幸せ♡」
忙しなく食べては喋り続ける私を、麦さんはにこにこと見守ってくれた。
お腹が三分の一くらい満たされた私は、いつの間にかうとうとと寝落ちてしまった。
「お食事ですよ」と優しく起こされ、甘ったるい涎を拭いた時には、炊き立てのご飯とおみおつけの香ばしい匂いが漂っていた。
ああ、大失態……せめて配膳だけでも手伝おうとするが、既に旦那様がお待ちですのでと追い立てられてしまう。
案内された居間は、和室ではなく洋室だった。
西洋風のハイカラなテーブルの上座では、旦那様が静かにお茶を飲んでいる。
「おはようございます! 米子、ただいま参上いたしましたっ! お待たせして申し訳ありません!」
もっとこう、儚げに挨拶をするつもりが、どうしても体育会系になってしまう。
ほんとになんなのこのキャラ。
「おはよう。……どうぞこちらへ」
旦那様のすぐ傍の席へ着くと、麦さんが手際よく朝ご飯を並べてくれる。
うわあああぁぁ……
艶々ほかほかのご飯、葱とお揚げのお味噌汁、何かの切り身魚、分厚い卵焼き、それから蓮の金平と胡瓜の漬物と梅干しまで!
甘い口内が、一気にお食事モードへ変わる。
ううっ……こんなご馳走……久しぶり!!
「お嫌いなものはありませんか?」と訊いてくれる麦さんに、涙と涎を拭いながら「ありまひぇん。最高れす」と返事をする。
麦さんはおほほと笑い、「お代わりもありますから、遠慮なさらず申し付けてくださいね」と、大きなお櫃と共に、続き間に控えてくれる。
「いただきます!!」
まずは、小さな茶碗にこれでもかと盛られたご飯に挑む。米本来のふくよかな旨みを何口か楽しんだところで、漬物を放り込み、塩味で甘味を引き立てる。次は何にしようかな……と迷うけれど、心のままに箸が掴んだのは卵焼き。この重み! この弾力! 朝の太陽にも負けない黄金色の輝きよ! 大きな口にぽいっと放り込めば……
いけない。グルメ漫画じゃないのに。
気付いた時には、ご飯を五杯……とおみおつけを三杯と金平と漬物をお代わりして、全てを平らげた後だった。
大正風和風ファンタジー小説において、旦那様との仲を深める重要な朝ご飯イベント。それなのに私は、朝ご飯を作れないばかりか、旦那様のことなんかそっちのけで(すっかり忘れて)、食に全集中してしまった。
恐る恐る上座を見れば……旦那様は箸を止め、ぽかんとこちらを見つめている。
そうよね、そうなるわよね、ごめんなさい!
しかもこのタイミングで、麦さんはお茶を淹れましょうと部屋を出て行ってしまう。
二人きり……気まずいけど、ただの大飯食らいだと思われないようにフォローしなくちゃ。
「……申し訳ありません。今日の朝ご飯、私、少しも作っていないんです」
「構いませんよ。麦の料理が貴女の口に合うのなら」
「合うなんてもんじゃありません! ご飯の炊き加減神! お出汁と味噌のバランス神! 魚は死んでいるはずなのに魂を感じましたし、卵焼きは優しくて鶏の母性まで感じました。蓮は噛む度に舌に花が咲いたし、胡瓜の糠漬けは河童が嫉妬するくらいの完成度だし、梅干しはお日様の味がする本物の宝石でした!」
「……そうですか。そのまま伝えてくだされば、麦もきっと喜ぶでしょう。私は少食で、この通りあまり食べられませんので」
旦那様のお膳を見れば、確かに全てがちまっとしている。上背があるし、軍人らしいがっしり体型なのに。一体どこから栄養を摂っているのかと、不思議になる。
「麦さんはお料理だけでなくお菓子づくりもお上手なのでしょうか? あ、実は朝から美味しいお菓子を頂いてしまって」
「……もしかして、クッキーですか? 抹茶と胡麻の」
「はい、そうです。あと紅白まんじゅうも四つ」
そんなに食うのか? 信じられないという風に目を瞠る旦那様に、私は申し訳なさそうに腹を擦ってみせる。
「紅白まんじゅうは柰楼堂のもの。引き出物の残りでしょうね。クッキーは手作りです。……私の」
思わずええっ! と叫んでしまった私に、旦那様はもじもじと語る。
「……私は昔から変わった体質で。料理を作ることで体力が漲り、腕力や異能も増すのです。菓子作り、特にクッキーが一番効果が高いと知ってからは、毎日暇があれば焼いていて。私は甘いものが好きではないし、麦は歳だし、食べきれずにどんどん溢れてしまうのです。捨てるのも勿体ないので、若い女中らに持って帰らせたりはしているのですが、だんだん飽きてしまったようで。味に変化をと、抹茶と胡麻で試してみたのがそれです」
それがこの、マッチョで綺麗な旦那様の裏設定?
なにそれ、可愛すぎるんだけど。
エプロン姿を勝手に想像し、萌えてしまう。緩む口元を手で覆いながら、私はニマニマと食レポをする。
「抹茶と胡麻クッキー、とっても美味しかったです! 抹茶は程よい苦味が絶妙で、色合いも綺麗。胡麻は香ばしく、食感も素敵でした」
「そっ、そうか!? 今日は生姜を試してみたいと思っているのだが……どうだろう?」
「わあっ! ジンジャークッキーですね! それ絶対美味しいです。私が保証します」
「そうか! ならぜひ味を見てくれるか? 来月の訓練に備えて、異能を蓄えねばならなくて」
「もっちろん! いくらでもお供しますよ」
頼もしい腹を叩く私に、旦那様はぽっと顔を赤らめた。
その頃麦さんは……部屋の向こうで耳をそばだてながら、「坊っちゃま、ようございましたね」と涙を拭っていたらしい。
それから私は毎日、旦那様のお菓子作りにお供することになった。割烹着に三角巾姿のマッチョな美丈夫は、エプロン以上の破壊力で。大きな身体で可愛い型抜きに挑む姿に、ニマニマが止まらない。
オーブンに入れ焼き上がるまで、私達はいつも色んな話をする。最初は当たり障りのない世間話から……次第に互いの辛かった境遇まで。
特殊な体質を知るまで病弱だった旦那様は、お父上と腹違いのお兄様達に疎まれて育った。その冷たいお兄様達の身代わりに、望まぬ結婚を強引に押し付けられてしまったのだ。貴女は何も悪くないのに、酷い態度を取ってすまないと謝る彼を、私は逞しい胸で慰めた。
旦那様も、ヒロイン要素皆無の私の話を信じて、空腹は辛かっただろうと涙まで流してくれた。
『愛することはない』は、甘いクッキーと共にほろほろと溶け……私達は自然と本当の夫婦になっていた。
ひと月後、異能をたっぷりと蓄えた旦那様……改め琳様を、お庭でお見送りする。
遠方での訓練の為、二週間は戻られないと思うと、口も心も寂しくて仕方がない。
「米子の可愛い食べっぷりをしばらく見られないなんて……寂しくて寂しくて仕方がない」
同じことを口にしてくれる琳様に、きゃっと悶えてしまう。大正風和風ロマンスファンタジー小説らしく、品のいい抱擁と接吻を交わした後、旦那様は名残惜しそうに地面を蹴り、ふわりと空へ舞い上がった。
眩しい空を駆ける青い龍に、私はふとこの世界のタイトルを思い出す。
『無駄飯食いと言われた爆食令嬢は、青龍軍人の甘い◯◯に溶かされる(R18)』
──あらすじだけで、そっ閉じしたやつだ。
ありがとうございました。




