第3話:保健室の光景
休み時間。
普段なら雛森は席で本を読んでいるはずだが、今は姿がない。
具合が悪いとか言って、1限が終わった後に、保健室へ行ったらしい。
クラスメイトの誰かに声をかけて暇でもつぶすか。
「奏汰! ちょっと職員室まで来てくれ!」
教室の喧噪の中でもハッキリと聞こえる声の持ち主は、担任だった。
「あっ、はい……わかりました!」
クラスメイトの視線がいっせいに向けられ、背中に刺さるようだったが、俺は黙って担任の背中を追った。
職員室に向かう途中、ここ数か月の素行を思い返しながら、注意されるようなことがなかったかと必死に探していた。
だが職員室に着いてみれば、その心配は杞憂だった。
担任は机の上に山積になったプリントに手を置いた。
「次の授業で使うから、教室に運んでほしくて。頼んでもいいか?」
「そんなことだったんですね……。はい、大丈夫です」
「なんだ、やましいことでもあったのか?」
「いえ、特に……」
「冗談だよ。先生はちょっと作業するから、先に行ってくれ」
担任が見せる白い歯は、茶色く日焼けした肌に映えていた。
俺は、両手で山積みのプリントを抱え、土砂崩れさせないよう慎重に歩いて職員室を出た。
ゆっくりと廊下を歩く。
胸の高さまで積まれたプリントが重たく腕にのしかかる。
早く手を休めたいと思っていると、前方の保健室が目に入った。
普段なら特に目にとめないが、前に部屋を出た人が閉め忘れたのか、扉が半開きになっていることに気づいた。
俺と保健室の距離は近くなり、扉の前を通り過ぎようとした。
その瞬間、視界の端に保健室の中が映った。
――見えてしまった。
そこには、窓の外を見つめる女子生徒がいた。
具合の悪い生徒が保健室に来て、ぼーっと外を眺めているだけのように見えた。
特に変わった行動をしているわけじゃない。
だけど、俺は足を止めてしまった。
なぜなら、その女子生徒が雛森だったからだ。
いけないのは分かっている。
でも、なんか気になるんだよな……
好奇心と理性を天秤にかけるも、針が振れたのは――好奇心だった。
ちょっとだけなら……
扉の隙間から、そっと中を覗いた。
雛森は窓から目を離して、保健室の隅に置かれた鏡と向き合った。
そして両頬にそっと手を添え、ゆっくり動かし始める。
最初は何をしているのか分からなかったが、やがて気づく。
表情を作っているんだ。
それも、おそらく――笑顔を。
手で口元を引き上げたり、ゆるめたり。
思い通りにいかないのか、何度も繰り返している。
でもそれは、文化祭のときみたいな輝く笑顔じゃない。
無理やり作った、どこかぎこちない表情。
卒業アルバムの撮影で、カメラマンに「もっと笑って」と言われても、どうしても笑えなかった、あのときのように。
すると雛森の手が、止まった。
彼女が、そうする理由が言葉にされなくても分かった。
それは、雛森の頬に一筋の涙が伝っていたからだ。
彼女の涙に目を奪われる。
その光景に釘付けになるあまり、プリントの束が斜めに傾いていく。
手から力が徐々に抜けていくと、束がずるりと滑り落ちた。
次の瞬間、教室の床にバサッと散らばった。
落下音が保健室に響き渡った。
落下音にびくりと、雛森が肩をすくめる。
反射的に顔を向けたその目と、ばっちり目が合った。
その瞬間世界が二人だけになった感覚に陥る。
雛森も、この状況に理解が追いつかないのかこの世界に居続ける。
その後、数秒見つめあったのち、俺は現実に戻る。
この空気を破ろうと、声を出そうとする。
でも、喉が詰まったみたいに言葉が出てこない。
それは、覗きの現行犯で捕まることを恐れたとか、そんな理由じゃない。
ただ、この光景の異様さに頭がついていかなかった。
ふと我に返ると、この状況を説明するために扉を開ける。
雛森は慌てて制服の袖で涙を拭った。
「瀬川君だよね」
普段の様子からクラスメイトなんて、ちっとも気にかけていないと思っていたが、俺を覚えていたことに少し感動した。
いや、何を考えているんだ。
早く弁明しないと。
「なんというか、たまたま目に入って。全然覗いてとかじゃなくて」
何言ってんだよ俺。これじゃ逆に怪しいだろ。
「今の見ましたか?」
「ええっと、はい」
雛森の目が細くなり、眉が吊り上がる。
「いや、ちょっと待って。たまたまなんだって」
「入口のドア、半開きになっててさ。ほら、俺、プリント運んでたし」
自分で話していて、全然理由になっていないが、勢いでどうにかするしかない。
「だからって、見ないでよ……」
「はい、その通りです、すみません」
「絶対に誰にも言わないでね……」
「もし、誰かに話したら……」
「この事、先生に言うから」
「別に今、言ってもいいけど、変に目立ちたくないから、今は見逃してあげる 」
静かな声だったけれど、その中に確かな“怒り”と“拒絶”が混じっていた。
「わかったら、どこかに行ってくれないかな……」
「あと、もう私に関わらないで……」
雛森との関係は終わったが、首の皮一枚つながった。
このまま何も言わずに引き下がるのは、さすがに後味が悪すぎる。
せめて、悪意はなかったことだけでも伝えないと。
――たぶん俺は、こういうときに引けないから、ダメなんだろうな。
「だから、悪気はないんだっ……」
肩を叩かれた。
誰だよ、こんな時に、今俺は忙しいんだよ。
邪魔するなよ。
そう思いながら振り向くとそこには、担任がいた。
「おい、奏汰!何道草食ってんだ。それに、プリント散らかして!」
まずい。
この状況を見られたら、俺が覗いていたってことがバレる。
脳のすべてのリソースを言い訳に割き、今年一の集中力を発揮する。
だが答えを導く前にタイムリミットが来た。
担任は目を見見開き俺と雛森を交互に見比べる。
そして、あっけらかんと笑いながら口を開いた。
「おお、雛森!調子はどうだ?」
「はい、大丈夫です……」
「それは良かった!」
「いやー、意外だったな。お前ら友達だったとは」
「クラスに知り合いがいないっていうから先生心配してたんだぞ!」
「じゃあ、雛森今から授業に合流してくれ」
ホット胸を撫でおろしたが、それも束の間。
雛森は一切俺と目を合わせずに、担任を間に挟んで歩く。
鈍感な担任が、まるで巨大な盾のように俺たちのあいだに立ち、
彼女を連れて教室へと戻っていった。
一体、あの行動は何だったんだろうか……