婚約破棄された銀髪令嬢は泣かない~だって王宮スイーツが美味しいから~
フィルモル王国王都。
春の舞踏会は、王都中の貴族が集う一年最大の社交界だった。
巨大なシャンデリアが黄金の光を降らせ、楽団が優雅な旋律を奏でる。
若い令息令嬢たちは未来の伴侶を探し、貴婦人たちは流行の噂話に花を咲かせていた。
そんな華やかな会場の一角。
「まぁ……!」
個々の物語に関係ない、一人のモブキャラな銀髪の美女が、目を輝かせていた。
月光のように美しい銀髪。
宝石のような紫の瞳。
誰もが振り返るほどの美貌を持つ令嬢だった。
しかし彼女の視線は、貴公子でも宝石でもない。
デザートだった。
王宮専属パティシエが腕を振るった豪華な菓子の数々。
苺のタルト。
マカロン。
シュークリーム。
そして数量限定の王宮特製ミルフィーユ。
「今年は当たり年ねぇ」
うっとりと呟く。
その表情は恋する乙女そのものだった。
「まずはミルフィーユ。それからタルト。最後にシュークリームかしら」
真剣な顔で攻略順を決める。
そんな時だった。
「見つけたぞ!」
怒鳴り声が会場に響いた。
全員の視線が集まる。
赤髪の青年が人混みをかき分けて近付いてきた。
ローザンヌ侯爵家の長男、ガレットンである。
彼は銀髪の美女を指差した。
「カヌレン!」
美女は首を傾げた。
「はい?」
「やはりお前だったな!」
「どなたかしら?」
ガレットンの額に青筋が浮かぶ。
今朝、彼はある噂を耳にした。
婚約者カヌレンが見知らぬ男と親しげに話していたというのだ。
実際は従兄だったのだが、そんな確認はしていない。
「白々しい!」
「そう?」
「浮気していたくせに!」
「まぁ」
美女はミルフィーユを一口食べた。
サクッ。
表情が幸せそうに緩む。
「聞いているのか!」
「聞いているわよ?」
「反省していないな!」
「何を?」
話が噛み合わない。
しかしガレットンは気付かない。
周囲も気付かない。
二人とも銀髪だったからだ。
「最低だな」
「ガレットン様がお気の毒だ」
「カヌレン嬢も終わりね」
ひそひそ声が広がる。
ガレットンはますます気分が良くなった。
観客が増えたからだ。
「皆の者、聞け!」
彼は大声で宣言した。
「私はこの女との婚約を破棄する!」
会場がどよめく。
「婚約破棄だ!」
「舞踏会でか!?」
「大胆だな!」
ガレットンは得意げだった。
まるで舞台の主役になった気分である。
「私は真実の愛を見つけた!」
「そうなの」
「だからお前は不要だ!」
「そう」
「悔しくないのか!?」
「ミルフィーユが美味しいわ」
「そういう話じゃない!」
あちこちから笑いを堪える声が漏れ始める。
婚約破棄されたはずの令嬢が、まるで興味を示していないのだ。
「慰謝料も払わん!」
「いらないわ」
「強がるな!」
「別に?」
完全に相手にされていなかった。
その時だった。
「ガレットン様ぁぁぁ!」
悲鳴にも似た声が響く。
銀髪の少女が走ってきた。
ガレットンが振り返る。
固まる。
「……カヌレン?」
「はい!」
少女が答えた。
ガレットンは再び目の前の美女を見る。
そしてカヌレンを見る。
また美女を見る。
「え?」
会場が静まり返った。
「え?」
二回目。
「え?」
三回目。
ようやく全員が理解し始める。
「じゃあ今婚約破棄された人は……」
「誰だ?」
ざわめきが広がった。
しかし美女は紅茶を一口飲む。
「美味しいわねぇ」
完全に他人事だった。
その時。
「ガレットォォォン!!」
雷鳴のような怒声が会場を揺らした。
ローザンヌ侯爵である。
顔面蒼白だった。
「父上?」
「馬鹿者!」
侯爵の拳骨が炸裂した。
鈍い音が響く。
「お前は誰に向かって婚約破棄したと思っている!」
「だ、誰って……」
ガレットンは震えながら美女を見る。
その瞬間。
年配貴族たちが次々と青ざめ始めた。
「まさか……」
「あのお方は……」
「嘘だろ……」
ローザンヌ侯爵は深々と頭を下げた。
「大変失礼いたしました」
会場の空気が一変する。
誰もが息を呑んだ。
「フランク王国最大の交易網を築き上げた大人物だぞ!」
「国王陛下ですら敬意を払うお方だ!」
「お前は何をしてくれた!」
ガレットンの顔から血の気が引いていく。
周囲の貴族たちも完全に引いていた。
「終わったな」
「終わったな」
「終わったな」
あちこちから同じ感想が漏れる。
さらに追い打ちが入った。
「ガレットン様」
カヌレンが冷たく告げる。
「婚約は本日限りで解消いたします」
「ま、待ってくれ!」
「確認もせず女性を侮辱する方とは結婚できません」
「違うんだ!」
「違いません」
一刀両断だった。
そして父も続ける。
「次期当主は次男に変更する」
「そんな!?」
ガレットンは膝から崩れ落ちた。
婚約者も。
後継者の座も。
一夜で失ったのである。
一方その頃。
「さて」
美女は立ち上がった。
「次は限定チョコレートケーキね」
周囲が盛大にずっこけそうになる。
国際問題寸前だったのに。
本人はデザートしか見ていなかった。
「お祖母様……」
カヌレンが呆れた声を漏らす。
その一言で、会場が凍り付いた。
「……お祖母様?」
「今、お祖母様って言ったか?」
「まさか……」
美女は楽しそうに笑った。
「だって、ケーキがなくなってしまうでしょう?」
銀髪が揺れる。
誰もが若い令嬢だと思っていた。
だが違う。
彼女はフランク王国マルセイユ侯爵家の未亡人。
そして、隣国スエ―デン王国のイケヤ公爵家出身の娘である。
実は、イケヤ公爵家は、エルフの血が流れる末裔で、時折、年を取らない、エルフ姫と呼ばれる娘が誕生するのである。
さらに、彼女は前世の記憶なる力で、数々の国王や貴族たちと交流し、巨大な交易網を築いた伝説的存在。
そして――。
今年で七十五歳だった。
会場中が絶句する。
「七十五歳!?」
「見えないだろ!」
「どう見ても十八歳だぞ!?」
驚愕の声が広がる中、本人だけは気にしていなかった。
なぜなら。
「このチョコレートケーキも絶品ねぇ」
すでに次の皿を手にしていたからである。
こうしてガレットンは婚約者も後継者の座も失い、社交界最大の笑い者となった。
そしてマドレーヌは――
最後の一口までチョコレートケーキを味わっていた。
「幸せだわぁ」
うっとりと目を細める。
周囲はまだ騒然としているのに、本人だけは春の陽気のように穏やかだった。
その時だった。
「マドレーヌ様!」
会場入口から慌ただしい声が響く。
人々が振り返る。
そこにいたのは、フィルモル王国の宰相だった。
王の右腕と呼ばれる男である。
そんな大人物が人混みを押し分けながら駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました!」
「まぁ、お久しぶりねぇ」
マドレーヌは紅茶を飲みながら微笑んだ。
宰相は深々と頭を下げる。
周囲の貴族たちはさらに青ざめた。
「宰相閣下が頭を下げている……」
「どれだけ偉い人なんだ……」
ざわざわと声が広がる。
その直後。
会場奥の扉が開いた。
「国王陛下、ご到着!」
近衛騎士の声が響く。
全員が跪いた。
ただ一人を除いて。
「このタルトも美味しいわねぇ」
マドレーヌである。
そして国王は、その姿を見るなり顔を輝かせた。
「マドレーヌ殿!」
「ごきげんよう」
まるで旧友のような会話だった。
貴族たちは絶句する。
ガレットンに至っては魂が抜けたような顔になっていた。
「陛下、あの方とお知り合いなのですか……?」
誰かが震える声で尋ねる。
国王は苦笑した。
「お知り合いも何も、我が国が二十年前の大飢饉を乗り越えられたのはマドレーヌ殿のおかげだ」
会場が凍り付く。
「は?」
誰かの間抜けな声が響いた。
国王は続ける。
「隣国との交易路を開き、大量の食料を届けてくださった。あの時、何万人もの民が救われた」
「な……」
「しかも利益は最低限しか取られなかった」
ざわざわどころではない。
完全な騒然である。
「そんな大人物だったのか……」
「伝説の商人って本当にいたのか……」
貴族たちの見る目が変わった。
ガレットンは震え始める。
自分がどれほどの人物に喧嘩を売ったのか、ようやく理解し始めたのだ。
「マドレーヌ殿」
国王が笑う。
「本日は例の件で来てくださったのでしょう?」
「あら、覚えていたのね」
「もちろんです」
そう言って国王は会場中に聞こえる声で宣言した。
「本日、フィルモル王国とマルセイユ侯爵家の新交易協定が締結される!」
どよめきが起こる。
マルセイユ侯爵家との取引は巨大な利益を生む。
貴族たちは目の色を変えた。
「ぜひ我が家とも!」
「お話だけでも!」
「紹介を!」
さっきまで遠巻きに見ていた者たちが、一斉に擦り寄り始める。
しかし。
「順番よ?」
マドレーヌが微笑む。
それだけで全員が静かになった。
絶対的な格の差だった。
一方。
床に膝をついていたガレットンは震えていた。
「お、俺は……」
顔面蒼白。
汗が止まらない。
そんな彼の前にマドレーヌがやって来る。
「ひっ!」
思わず悲鳴を上げる。
だがマドレーヌは怒っていなかった。
むしろ不思議そうだった。
「あなた、名前は何だったかしら?」
その一言が致命傷だった。
「ぐふっ」
周囲の貴族が吹き出す。
人生を終わらせるほどの失態を犯したのに、相手は名前すら覚えていなかった。
「ガ、ガレットンです……」
「そうそう。ガレットン君」
覚えていなかった。
完全に覚えていなかった。
笑いを堪える声が広がる。
「あなたね」
「は、はい……」
「次からは確認してから怒った方がいいわよ?」
「……」
「世の中には銀髪の女性がたくさんいるのだから」
会場中から笑いが起きた。
ガレットンは真っ赤になる。
だが反論できない。
全部事実だからだ。
「それに」
マドレーヌは優しく続けた。
「本当に大切な相手なら、噂より先に本人に聞くものでしょう?」
その言葉にカヌレンが目を伏せる。
ガレットンは何も言えなかった。
確かにその通りだったからだ。
もし最初に話を聞いていれば。
こんなことにはならなかった。
「若いうちは失敗するものよ」
マドレーヌは微笑む。
「ただし、失敗には責任が伴うけれどね」
その言葉にガレットンは完全に項垂れた。
終わった。
本当に終わった。
婚約者。
後継者の地位。
社交界での評判。
全て失った。
その時だった。
「マドレーヌ様!」
王宮パティシエが駆け寄ってくる。
「今年の新作をご用意いたしました!」
「あら!」
マドレーヌの瞳が輝いた。
一瞬でガレットンへの興味が消える。
「新作!?」
「はい! 苺とホワイトチョコの特製ケーキです!」
「いただくわ!」
満面の笑みだった。
国王が苦笑する。
宰相も苦笑する。
カヌレンも苦笑する。
会場中が苦笑した。
伝説の商人。
各国の王と渡り合った大人物。
七十五歳にして十八歳の美貌を持つエルフの末裔。
そんな彼女が一番好きなのは。
結局のところ。
権力でも名誉でも金貨でもなく。
甘いケーキだった。
「美味しいわぁ」
幸せそうな声が響く。
その姿を見ながら誰もが思った。
――この人には敵わない。
こうして春の舞踏会は幕を閉じた。
そしてガレットンの愚行は後世まで語り継がれることになる。
『伝説の未亡人を婚約破棄した男』として。
もちろん本人は不名誉すぎて、二度と聞きたくなかったのだが。
春の舞踏会から数日後。
フランク王国王都にあるマルセイユ侯爵邸は、朝から大騒ぎだった。
「奥様がお戻りになられたぞ!」
「本当ですか!?」
「十年ぶりだ!」
使用人たちが慌ただしく走り回る。
伝説の商人にして、マルセイユ侯爵家先代夫人。
マドレーヌが帰ってきたのだ。
その知らせを聞きつけ、一人の男性が玄関ホールへ駆け込んできた。
「母上ぇぇぇ!」
現マルセイユ侯爵レオン=マルセイユ、五十二歳である。
威厳ある侯爵だが、母親の前ではただの息子だった。
「あら、レオン」
「あら、ではありません!」
レオンは額を押さえた。
「困りますよ!」
「何が?」
「わたしを置いて行かないでください!」
使用人たちは揃って苦笑した。
また始まった。
毎度のことである。
一方、初めてこの光景を見た来客たちは混乱していた。
「今、母上と……?」
「侯爵様のお母上?」
「嘘だろ……」
無理もない。
レオンは五十代。
だがマドレーヌはどう見ても十八歳の美少女だった。
親子どころか、父と娘にしか見えない。
「むしろ侯爵様の娘と言われた方が納得できる」
「いや、孫でも通るぞ」
ひそひそ声が聞こえる。
レオンは慣れた様子でため息をついた。
「それより母上」
「なぁに?」
「いつ戻られたのです?」
「つい先日よ」
「どちらから?」
「スエーデン王国」
レオンの顔が引きつった。
十年前。
マドレーヌはこう言って出掛けたのだ。
『ちょっとシュガーのところへ遊びに行ってくるわ』
そして帰ってこなかった。
「まさか十年間ずっとシュガー叔母様のところに?」
孫娘カヌレンが尋ねる。
「いいえ?」
マドレーヌは首を振った。
「途中から旅に出たの」
レオンは嫌な予感しかしなかった。
「どのような旅ですか?」
「シュガーが紹介してくれた女商人さんと仲良くなってね」
「はい」
「世界中のスイーツを食べ歩いていたの」
レオンは天を仰いだ。
「やっぱり……」
「楽しかったわよ?」
マドレーヌは満面の笑みだった。
「東方の蜂蜜餅」
「はい」
「砂漠王国のナツメヤシケーキ」
「はい」
「南海のマンゴープリン」
「はい」
「北方諸国のチーズケーキ巡り」
「完全に観光旅行ですよね?」
レオンが叫ぶ。
しかしマドレーヌは胸を張った。
「違うわ」
「違うんですか?」
「市場調査よ」
その場にいた全員が沈黙した。
「市場調査……」
「そう」
「十年間……」
「そう」
誰も信じなかった。
だがマドレーヌが取り出した分厚い帳面を見た瞬間、レオンの表情が変わる。
「これは……」
各国の特産品。
砂糖や香辛料の価格推移。
交易路。
有力商人の情報。
新商品の企画。
びっしりと書き込まれていた。
遊んでいるように見えて、しっかり仕事もしていたのである。
しかも一流以上に。
「母上」
「なぁに?」
「やっぱり化け物ですね」
「褒めてくれてありがとう」
「褒めていません」
カヌレンが吹き出した。
使用人たちも笑いを堪えている。
そんな中。
マドレーヌがぱんっと手を叩いた。
「あら、そうだわ」
レオンが警戒する。
「今度は何です?」
「王都に新しいケーキ屋ができたそうなの」
嫌な予感しかしない。
「行ってくるわね」
「帰ってきたばかりでしょう!?」
「限定商品があるらしいの」
「母上!」
悲鳴が響く。
しかしマドレーヌは涼しい顔だった。
「大丈夫よ」
にっこり微笑む。
「今度は十年も空けないから」
「本当でしょうね?」
「たぶん」
「たぶん!?」
屋敷中に笑いが広がる。
七十五歳。
伝説の商人。
各国の王族とも対等に渡り合う大人物。
だがその本質は昔から変わらない。
美味しいスイーツのためなら世界の果てまで旅する少女のままだった。
「それじゃあ行ってくるわね」
軽やかに手を振るマドレーヌ。
その後ろ姿を見送りながら、レオンは深いため息をつく。
「世界を動かした伝説の商人を止められるものがあるとしたら……」
「あるとしたら?」
カヌレンが首を傾げる。
レオンは真顔で答えた。
「世界一美味しいケーキだけだろうな」
その言葉に、屋敷中が大きな笑いに包まれたのだった。
◇
翌朝。
フランク王国王都の中央大通りは、朝から活気に満ちていた。
焼きたてのパンの香り。
行商人の呼び声。
荷馬車の車輪の音。
そんな中を、一人の銀髪の美少女が上機嫌で歩いていた。
もちろんマドレーヌである。
「限定ケーキ、限定ケーキ♪」
七十五歳とは思えない軽やかな足取りだった。
後ろでは護衛役として付き添わされたカヌレンが疲れた顔をしている。
「お祖母様」
「なぁに?」
「どうして朝六時から並んでいるんですか?」
「限定だからよ?」
当然のように答える。
まるで説明になっていなかった。
やがて二人は目的の店へ到着する。
王都で話題になっている新店舗。
《月うさぎ洋菓子店》。
まだ開店前だというのに長蛇の列ができていた。
「まぁ!」
マドレーヌの目が輝く。
「期待できそうねぇ」
職人としては最高の評価だった。
実は菓子職人たちの間では密かな噂がある。
マドレーヌが美味しいと言った店は必ず繁盛する。
逆に首を傾げただけで客足が減る。
それほど絶大な影響力を持っていた。
そして開店。
店内へ入ったマドレーヌは真っ先に限定ケーキを注文した。
名前は《春の妖精》。
苺と生クリームを贅沢に使った一品である。
一口。
ぱくり。
そして――。
「……」
マドレーヌが固まった。
店内の客たちも息を呑む。
伝説の商人が無言になった。
これは良い意味か悪い意味か。
誰もが注目する。
数秒後。
マドレーヌはそっとフォークを置いた。
「店主さん」
「は、はい!」
若い店主が飛んできた。
二十代半ばほどの青年だった。
栗色の髪。
少し眠そうな目。
だが手には職人特有の火傷の跡がある。
真面目に修業してきた証だった。
「この苺」
「はい」
「南部産?」
「わかるんですか!?」
店主が驚愕する。
周囲もざわついた。
「生クリームは北方酪農組合のものね」
「そ、それも正解です」
「でも砂糖が惜しいわ」
店主の顔色が変わる。
図星だった。
「輸入品が高くて……」
「東方産を使ったのね?」
「はい」
完全に見抜かれていた。
マドレーヌは優しく笑う。
「味は悪くないわ」
店主が安堵する。
しかし。
「でももっと美味しくなる」
その一言に店主の目が見開かれた。
職人にとって最高の言葉だった。
まだ上を目指せる。
そう言われたのだから。
「教えていただけませんか!」
思わず頭を下げる。
すると周囲の客が一斉に驚いた。
「おい!」
「相手は侯爵家の大奥様だぞ!」
「そんな気軽に頼むな!」
しかしマドレーヌは楽しそうだった。
「いいわよ?」
「本当ですか!?」
「ただし条件があるわ」
店主がごくりと唾を飲む。
「なんでしょう」
「私に新作ケーキを食べさせてちょうだい」
全員がずっこけた。
カヌレンは額を押さえる。
「予想通りでした」
お祖母様である。
どこまでもお祖母様だった。
その時。
店の外が騒がしくなった。
「どけ!」
「我々はローザンヌ侯爵家だ!」
聞き覚えのある声だった。
店内が静まる。
現れたのはガレットンだった。
春の舞踏会以来、社交界中の笑い者となっている男である。
しかし彼は以前にも増して険しい顔をしていた。
「見つけたぞ!」
誰に向かって言ったのか。
全員が理解していた。
マドレーヌである。
「また?」
カヌレンが呆れる。
マドレーヌはモンブランを食べていた。
「何かしら?」
「あなたのせいだ!」
「ケーキ?」
「違う!」
店内から笑いが漏れる。
ガレットンは真っ赤になった。
「俺は後継者を失った!」
「そう」
「婚約者も失った!」
「そうね」
「全部あなたのせいだ!」
その瞬間。
店内の空気が冷えた。
誰もが呆れていた。
完全な逆恨みだったからだ。
すると。
「違います」
静かな声が響いた。
若い店主だった。
全員が振り返る。
「自分の失敗でしょう」
ガレットンが固まる。
「なに?」
「確認もしないで婚約破棄したんでしょう?」
「……」
「だったら自業自得です」
はっきりと言い切った。
ガレットンの顔が歪む。
「平民風情が!」
「平民ですけど?」
店主は全く怯まない。
「でもおかしいことはおかしいです」
店内の客たちも頷いた。
ガレットンは初めて気付いた。
もう誰も自分の味方をしていない。
社交界だけではない。
街の人々まで知っている。
自分が愚かな失敗をしたことを。
「くっ……!」
何も言い返せない。
そして逃げるように店を飛び出していった。
静寂。
数秒後。
マドレーヌがぱちぱちと拍手した。
「素敵ねぇ」
店主が慌てる。
「すみません、勝手なことを」
「いいえ」
マドレーヌは微笑んだ。
「あなた、とても商売向きよ」
「え?」
「味だけじゃなくて信用も大切にする」
店主は目を瞬いた。
「商人も職人も同じなの」
マドレーヌは紅茶を飲む。
「信用を失えば終わり」
それは七十五年を生きた伝説の言葉だった。
「名前は?」
「ルークです」
「そう」
マドレーヌは満足そうに頷いた。
「ルーク君」
「はい」
「うちと取引しない?」
「……え?」
店内が凍り付く。
カヌレンも固まる。
マルセイユ侯爵家との取引。
それは王都の商人なら誰もが夢見る話だった。
「えええええっ!?」
ルークの悲鳴が店内に響く。
マドレーヌは笑う。
美味しいケーキを作る者。
誠実な者。
そんな若者を見つけるのもまた、彼女の旅の楽しみだった。
そして誰もまだ知らない。
この《月うさぎ洋菓子店》が数年後、
王国最大の洋菓子店へと成長することを。
その裏には、今日たまたまケーキを食べに来ただけの伝説の未亡人がいたのである。




