かつてのウズメ・『舞』だった頃(2)
(_____大丈夫、『今度』は絶対失敗しない。
あの時の『上京したばかりの』私は、『ブラック企業』なんて単語も分からなかったから、合格通知を
出した会社の内情を、調べる事もしなかった。
でも、この失敗をきっかけに、今度こそ自分に合った会社を見つけられたんだ。
何とか『面接』の日に、貴重な有給が取れるように、上司に信頼できるように頑張った。
次に就く会社については、ネットとかSNSで検索済み
___少なくとも、今の会社よりはマシだった。
もう感覚が狂っている私が判断する事でもないのかもしれないけど、この会社から抜け出す事ができ
るなら・・・!!!
だからそれまでは、何があっても堪えるのよ、私。
いつもと変わらない私、上司に従順な私を演じ続けるのよ・・・)
窓を震わせている木枯らしは、静かなる決意を秘める女性社員の心情に発破をかける。
11月を迎えたオフィス街では、コートを着ている会社員も目立つ。
男性社員はブレザーを羽織り、マフラーや手袋でしっかり防寒対策をする人もちらほら。
このオフィス街には、様々な企業が肩を並べているのだが、このブラック企業に関しては、名前すら知られていない。
しかし、就職活動が周りよりも遅れていた『女性社員』にとっては、無名な会社であっても、働ければどこでもよかった。
その軽はずみな行動(即入社)を後悔するのに、そう時間はかからず。
彼女にとっても意外だったのは、自分と同じように、騙されてこの会社に入社した新人が、思いのほか多かった事。
そして、入社したその日に、『彼女』だけではなく、新入社員全員が、寮へ帰ることはなかった。
入社初日に、『教育』として、長時間廊下に立たされ、長時間デスクワークを叩き込まれ・・・
気がつくと『彼女』も含めた新入社員全員、社内の床で倒れるように眠っていた。
スマホで時刻を確認すると、もう朝の5時少し前。
一部の新入社員は、寮に戻ったのだが、8時に出社して来た上司に引きずられて戻って来た。
社内の至る所に設置されている防犯カメラが、上司がいない間の部下を見張っている。
映像を確認した上司によって連れ戻された社員は、空気椅子状態でのデスクワークを強要され、定時で帰る上司を跪いて見送った。
上司に歯向かった社員は、他の社員よりも壊れるのが早い。
そして、精神を限界まで削り、決して壊さない上司の手腕は、社員全員の思考を完全に支配していた。
『彼女』と共に、この地獄(会社)へ誘われてしまった同僚とは、四六時中一緒にいるにも関わらず、まだお互いの名前を知らない。
社内では当然『私語厳禁』 『報・連・相』ですらも。
そもそも、自分たちに任された仕事で手一杯な状況で、同僚の名前を覚える余裕すらない。
だが、そんな同僚たちに囲まれつつ、『彼女』だけが、逃げ出そうとする意思があった。
『彼女』自身、どうして自分自信を保っていられるのかは分からない。
ただ、『彼女』はこの気持ち(逃亡する意思)を折りたくない執念があった。
折れてしまったら、その時点で自分の人生が終わってしまうような、そんな気がして。
他の同僚全員の心がとっくに折れた頃、彼女はこっそり『転職活動』を始める。
上司に気づかれないように、こっそり、じっくり。今度こそ、失敗しないように。
(落ち着け・・・落ち着くのよ・・・・・
大丈夫、私の心はまだ壊れてない。絶対バレてる筈がない。
この会社から抜け出せれば、また新たにスタートできる。
だから慎重に・・・でも手を止めず・・・)
バクバクと鳴り響く心臓の鼓動音が、キーボードを叩く音と連動して、いつの間にか過呼吸になる。
しかし、『彼女』はそんな荒い息遣いさえも、隠そうと必死だった。
何か少しでも、おかしな行動を取れば、上司が飛んでくる。
転職を考える前は、叱られないように必死だった彼女だが、今は違う意味で必死。
自分の転職活動を勘付かれないように、必死に『いつも通り』を心掛けている。
だが、意識すればするほど、人間の意識はどんどん傾いてしまう。
今の『彼女』にとって、上司の大きなあくびや、下品なゲップでさえ、『何かに勘づいたサイン』として捉えてしまう。
もちろん、上司の些細な仕草を気にしているのは『彼女』だけではないのだが、極限の精神状態が続いた結果、周りにいる同僚でさえも信用できなかった。
こんな状況下では、どんな相手でも疑ってしまうのは仕方ないものの、まだ『彼女』には、『身勝手に相手を疑う罪悪感』を実感できる。
「おい、中富、これ洗ってこい。」
おかずやご飯の粒が、あちこちにベタベタ張り付いているお弁当箱を綺麗にするのも、部下の仕事。
もちろんこれの雑用も『5分以内』で。
だが、上司が綺麗に食べないこともあり、ギリギリ5分以内で終われるかは、その日(運)次第。
洗い終わった後は、上司がきっちり確認、『家庭科の先生』の如く、泡でも水滴でも見逃さない。
誰もが、その役に当たらないように毎日祈るのだが、その日の貧乏くじを引いたのは自分ではなかったことに、『彼女』は安堵した
貧乏くじを引いた哀れな中富は、お弁当箱を受け取ると同時に給湯室へと駆け込む。
そして、残った社員は、彼が無事に5分以内に帰って来れるように祈る。
___此処はまるで、『神』の如き上司に祈りをささげる信者(部下)の集う、新興宗教の集会所。
唯一、社内で穏やかな顔をしている上司に関しては、自分がどれほど憎まれているのか気づいていないのか、懲りずにまた部下を呼び出して叱責の嵐。
もはや、上司の仕事は『怒鳴る事(部下を責め立てる)』以外にない。
社内全体に響き渡る罵声は、部下たちの『鼓膜』さえも鈍くしてしまう。
その怒鳴り声に耐える生活に終わりが来る・・・となれば、『彼女』も必死になる。
しかし、その強い決意(覚悟)の反動で、今まで以上に疑心暗鬼に。
今の彼女が信じられるものは、自分自身以外にいない。
「おいっ!!! 草凪!!!」
上司が怒鳴る声と同時に、彼女の肩にのしかかる、上司の油に塗れた手。
ジャケットを羽織っていても分かる、じっとりとした気持ち悪い体温。
そして、対面していなくても鼻に忍び寄る、色んな食べ物をゴチャゴチャに混ぜたような口臭。
緊張の限界だった『女性社員』の心臓が、上司のその一声で止まり・・・・・
気づくと、『ウズメ』は古びた茶色い天井を見ていた。




