第5話 夕陽なんて大きらいだ
電車がゆれて、色とりどりの家の屋根を、そびえ立つマンションを連れ去っていくが、私の頭はぼんやりとしている。
莉央のかわいらしいちっちゃなくちびるからこぼれ出すとりとめのない話も、しっかりととらえておくことができない。
髪にのこる、やさしくてなめらかな指の感触を思い出す。「かわいい」と、言ってくれた莉央の笑顔を、ことばを、何度も思い出す。
えっ、かわいいってどういう意味で?
いやいやあれでしょ、かわいいなんてペットにでも友だちにでもぜんぜん言うでしょ。軽い、風船みたいな軽さのあれでしょ。
でもあの、慈母のようないつくしみに満ちたほほえみはなにごと?
いや慈母、つまり母性から噴出してるんだったらそういう恋愛的なあれやないやないかい。
いや実際恋愛的なあれやないからしかたないやないかい。
頭から黒い煙がぷすぷすと出そうなほど、私はひとりで混乱していた。
そのうち、電車がトンネルにはいり、ガタゴトと振動と静寂と人工的な光だけが満ちる空間に没入する。
人の少ない時間帯らしく、私たちののる車両には、だいぶはなれたところにかぞえるほどしか人がいない。
私がぼんやりと窓にうつる黒を視界に入れていると、ポツリと莉央が言った。
「あー、あの、好きな人ってさ」
照れくさそうに人さし指で自分のほおをかき、向かいのだれも座っていないイスを見やる。
「具体的に、だれかいるの? 好きな人ができたらって話?」
私の頭に「?」が満ちた。「えー……っと」なんの話をされたのかパッと思いあたらず、時間かせぎの声を発する。
「あ、さっきの話。『月がきれいですね』ってことばの話をしてるときさ、夕陽が『好きな人から言われるのが夢』みたいに言ってたじゃん。あれって、具体的に、いま好きな人から言われたいみたいなことなのか、それともそのうち好きな人ができたら言われてみたい、って話なのかなーって」
「あ」
私は思わず声をあげる。
具体的もなにも、
目のまえのあなたがうちに泊まって、
夜なかに近所のコンビニに行った帰り、お菓子を買ったビニール袋をさげてアイスを食べながらならんであるいてて、
そんなときふときれいな満月を見つけて『月がきれいだね』って、
あなたからいとおしさがあふれ出たような笑顔であまくささやかれることが、
そしてそのときにそっと手をにぎってもらうことがより具体的なる私の夢です、
ということは、言えない。
「あー、あれね。ま、あのー、具体的、具体的にといいますのはどこまでかはっきりしないところもありますが」
意味のないことばをならべて考える時間をかせぐ。
恋人と楽しそうに、しあわせに満ちた笑顔であるく星野くんのすがたが思い浮かんだ。
決然とした表情で、いっさいの躊躇なく、ふたりを肯定した莉央が思い浮かんだ。
「まあ、あの、います」
思いきって、告げる。
「好きな人」
足が落ちつかず、膝の先を少しこすりあわせた。
「やっぱり!?」
莉央が、目をかがやかせて私のほうへ身をのりだしてくる。
「夕陽、ぜんぜんそういうの言ってくんないだもん! はじめてじゃない? 夕陽から恋愛関係の話聞くのって。あのときしゃべってた感じからしてさ、これ、好きな人が実際いるんじゃないかなーって思ったんだよね。なに、なに、高校の人? いつから?」
「いや、高校の人ではないんだけど……」
「どんな人?」
「うー、いや、あの……」
ドキドキと心臓があらぶって、恥ずかしさから、目をつむる。
星野くんよ、私にちからを。
「実は、あの……女の人なんだよね。私の、好きな人」
ことばとともに、心臓が、のどから飛び出るかと思った。
こわくて、莉央に顔がむけられない。
親にも言えない、だれにも言ったことのない、同性を好きになってしまったこと。
親にこそ、言えない。ときどき、心のすみのどこからか申しわけなさがわき出てきて、死にたくなる夜がある。
でも、自分の気もちにうそはつけない。
私は、あの日からずっと、莉央のことだけを見てきた。
「そうなの!?」
莉央は両手にこぶしをつくって、ますますきらめいたひとみで、至近距離にまで顔を近づけてきた。
「あたし、応援するよ。ぜったい応援する! 夕陽のよさをだれよりも知ってるのあたしだからさ、あたしにできることならなんでもするよ。同性が相手だと、いろいろむずかしいこともあるのかもしれない。でも、それでも、夕陽にはのりこえていってほしい、夕陽には、ぜったいに、しあわせになってほしい」
莉央が、やけどしそうになる熱量で、私の手をにぎった。
「夕陽なら、ぜったい、のりこえられると思う」
私はそのことばに、浮かれた。
のりこえて、私に想いをとどけてという、莉央からのメッセージだと変換した。
私は莉央の手を、つよく、にぎりかえした。
「好きなの」
沸騰する頭が、視界のなかで、莉央以外のすべてをぼやけさせる。
「私は、莉央のことが好きなの。世界のだれよりも」
言った。言ってしまった。
電車はちょうどトンネルをぬけ出て、夕焼け空が、あざやかなオレンジの光が、莉央の小ぶりだけれど清らかな丘のような鼻すじを、指でそっとなぞりたくなるくちびるを、私のいつもうらやむ髪を、すべてを照らした。
――莉央のひとみは、驚愕と狼狽で大きく見ひらかれていた。
にぎってくれていた手はかたくこわばり、近づいて体温をわけあっていたはずのひざは、逃げるように私のもとからはなれた。
「…………えっ?」
その表情で、その反応で、すべてのこたえがわかった。
私の頭は、胸のなかは、奥の奥までからっぽになって、気づいたらとまっていた電車を飛び出すようないきおいで降りた。
はしって逃げた。
運動神経のわるいおそい足で。
だれも追ってこない、知り合いのひとりもいないぼやけた町を。






