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微熱

作者: 川辺凪

眠たい目を擦りながら、大滝は身体を起こし、テーブル上に散らばった麻雀牌を見つめた。昨日あがった、リーチ、平和、ツモ、赤、赤で八〇〇〇点の手がまだ残っている。ちょっと飲み過ぎたらしいやと呟きつつ、テーブルの向こうのベッドで寝息をたてている笹原を眺めた。

 ベッドの足に立てかけてあった箱に向かって手を伸ばし、引き寄せる。そしてプラスチック製の箱に牌をがちゃがちゃと詰めていく。昨夜一番飲んでいた家主は、まだ起きる気配がない。放っておいたら、きっとお昼まで寝ていることだろう。

 天然パーマの髪をかく。床で寝ていたためか、身体が冷えている。

 麻雀牌を片付け終わると、次に床に転がっていたビールの缶を拾い上げ、キッチンのシンクに集めた。

 キッチンから戻り、壁の時計を見る。朝の七時になったところだった。

 大滝がパンパンと手を叩いても、笹原は微動だにしない。

 カーテンを開く。日光がさんさんと笹原に降りそそいだ。それでも起きなかったのでテレビを点けると、笹原の呻き声が聞えてきた。

「うぅ…………ん」

 笹原はのっそり起きあがり、布団を撥ね除け、大きく伸びをした。

「おはよう。もう七時だぞ」

「まだ、じゃないのか。まだまだ七時だ」

「でも七時は七時だ。別に言い方を変えたところで現実が変わるわけでもない」

 うるさいな朝からなんだ、とぼやきながらベッドから起きあがり、大滝の前に座る。しばらく黙って、

「あれ、麻雀牌………………あぁ、そうか、片付けてくれたのか。どうも」

「先に起きたから」

 そうか、と呟いてふっと立ちあがり、キッチンの方へ向かった。 

「コーヒー、飲むか」

「飲む」

「ブラックか」

「何も入れないで」

 大滝は眼鏡を取り、目を擦った。急に少し眠気が戻ってきたのだ。一度ぼやけた視界がまたクリアになっていく。

「あぁ、牛乳の賞味期限がもう切れてるじゃないか。せっかくカフェオレ作ろうってんのに」

 返事をせず、テレビをぼんやりと見る。朝の情報番組だ。

「松川は果たして進級できんのかな」

「そりゃあ無理だろうな」

 笹原の声が返ってくる。

「少なくとも四年じゃ駄目なタイプだろ。前期だって必修科目いくつ落としたと思ってるんだ? 大滝も知ってるだろう? 三つだ三つ。三単位じゃないんだぞ」

「昨日だって授業一つも来なかったしな。親に授業料払ってもらってるのに、親不孝だよな」

 昨夜は大滝、松川、笹原で三人麻雀を打っていたのだった。おまけに三人麻雀の点数計算方法を誰も知らず、普通の麻雀の点数計算でやったため、場は荒れに荒れた。跳満、倍満が続出し、点棒が複雑に入り乱れ、気がつけば笹原が一人勝ちしていた。麻雀しようと言いだしたのは大滝で、三戦連続で収支マイナスとなったのが大滝で、とにかく一番負けていたのが大滝だった。

 もし昨夜の麻雀が賭け麻雀だったなら、きっと今月分の食費を使い果たしていたに違いない。

 その三人麻雀が始まる前は、そこに笹原の彼女を加えた四人で場末の雀荘に行った。

 そこで一番強かったのが笹原の彼女だった。押しがめっぽう強く、かといって危険牌は鋭く残す。最終戦のオーラスでは国士無双まであがりきり、抜群の成績を残して去っていった。

 そこでも一番負けたのが大滝だった。なぜ自分が一番弱いのか。それは大滝自身が一番よくわかっていた。勝負所で勝負出来ないのだ。失点を過剰に恐れ、強気に押していくことができない。しかしそれが分かっていても、いざその状況となると勝負を諦める選択をしてしまう。そんな心の弱さが自分で憎かった。

 思うさま酒を飲みながら三人麻雀をした後、比較的近所に住んでいる松川は歩いて帰っていった。大滝は帰れなかった。大滝は隣の市から電車で通学しているのだ。麻雀に完全に飽きた頃には、終電はとうに行ってしまっていた。しかし、それを事前に予測して教科書を鞄に入れたままだったので問題は無かった。

 キッチンから、豊かなコーヒーの香りが漂ってきた。

「良い香りだな。良い豆なのか?」

「そうだ。鼻がいいな。猿橋珈琲って知ってるか? 有名な喫茶店の。そこのドリップコーヒーなんだ。今日は特別だぞ。高いんだからな」

「いいの? 僕なんかに。彼女さんに飲ませてあげればいいのに」

「もちろんもう飲んださ。俺はさ、みんなに猿橋の魅力を広めたいんだ。布教だよ布教。だから敢えて損して、その後に得をしようってんの。これは社会貢献さ。いいものをみんなに広めるためのね」

「それはどうも」

 言いながらも、大滝は嬉しかった。大滝もコーヒーは好きだが、普段は節約のためにインスタントコーヒーしか飲まない。単純にこだわりがないのだ。薄味の美味しくないコーヒーに慣れた舌には、さぞ美味に感じられるだろう。

「はい、お待ちどう」

 笹原がマグカップを二つ手に持って現れ、大滝の前に一つを置いた。白地に白馬が描かれたカップだった。中には黒々とした液体がなみなみと入り、暖かな湯気を立ちのぼらせている。

「猿橋珈琲のオリジナルブレンドだぞ。俺が飲んだ中ではこのブレンドが一番だな。コロンビアとかグアテマラとかも良いけど、ブレンドが一番間違いない味だったぜ」

「そうなんだ」

 空返事をしつつ、コーヒーを口に含む。詳しいことは分からないものの、雑味が少なく、美味しいことは伝わった。

「おっ、北上雛子が出てるじゃないか」

 笹原がテレビを見ていた。画面の中では小柄な女性がアコースティックギターを持って歌っていた。ありがちなメロディーだったが、透明でよく通る声をしていた。

「この人、有名なの?」

「まぁ、有名とまでは言えないな。まだデビューしてから間もないからな。だが、俺は間違いなく売れるって確信してるね」

 笹原がコーヒーを口に含みながら、カップを持ったのと反対の手で画面を指さす。

「美人ではないが、この、ほら、済ました顔とかがこう、何というか素晴らしいんだ。それに俺の見たところ、作曲センスも悪くなさそうだし。こういう才能ある子がうちのサークルにも居ればいいんだけどな」

 ふぅんと相槌を打ちながら、大滝は笹原の様子を横目で見る。コーラでも飲むようなスピードでコーヒーをがぶ飲みしながら、視線は画面にしっかり注がれていた。笹原は音楽オタクなだけあって、流行には敏感に飛びつき、すぐに飽きるところがある。

「真結さんって音楽はやってないのか?」

「まあ、好きは好きだが、楽器とかやるタイプじゃないな。自分で作るより、とにかく消費者って感じだよ。ライブとかは通ってる」

 北上雛子の特集が終わり、テレビの画面はすでに別の内容を映していた。

「自慢じゃないけどさ、あいつは美人だろう?」

「そうかも」

 昨夜の姿を思いかえして、大滝は頷いた。笹原の彼女である真結さんは、合コンで知り合った、近くの女子短大の出身だそうだ。今はアパレルショップで働いているそうで、土日出勤が多くて大変なんだと愚痴をこぼしていたのを昨夜聞いた。

「本気で音楽やってたら、きっと男がたくさん寄ってきて大変だったと思うぜ。大体、うちの大学で同じクラスにいたら、きっと俺なんかとはくっついてないさ」

「なんで?」

「大滝だって分かるだろう。村田だよ村田。もしうちの大学にいたらあっという間に村田の女になってるだろうよ。恋愛ってのは残酷なもんさ」

「でも辻堂さんは村田のものになってないぞ」

「辻堂はきっとそういうのに感心ないんだよ。高校のときと全然変わってない。蝿のように集まってくる男どもを蠅たたきで叩くのに忙しすぎるんだ。たぶん、村田も狙ってるだろうが、村田に簡単にほだされるほど単純な奴じゃないんだよ。何というか、クレバーなんだ、辻堂は。俺は男と歩いてる姿をほんと見たことがないね」

 笹原はコーヒーをぐいっと飲み干し、リモコンでテレビを消すと、ふいに大滝を見た。

「お前は女っ気がないよな。なんつうか冴えないっつうか……」

「恋愛をするには人間性ができてないんだ。僕にはまだ早い」

 早いとかねぇだろ、と笹原が叫ぶように言う。

「いいか、恋愛ってのはそういうことじゃないんだよ。人間性っていうんならな、みんな不安定で欠点もあるだろうさ。だけど、それを二人の関係の間で補うのが理想的な恋愛なんだよ。誰もがみんな、一人じゃいられないのはそのためなんだ。だから、早く恋愛しろよ」

 何も言いかえせずにいると、続けて、

「だいたい、大学時代に浮いた話の一つや二つ出来ない奴はこの先もずっと出来ないぞ」

 と脅しの文句を吐いた。

 大滝は黙った。何か言い返したかったが、気の利いた言葉が思いつかない。きっと図星なのだ、と述懐する。だが、別にいいじゃないか。恋愛する自由があるなら、恋愛しない自由もあっていい。そう言いたくなったが、結局何も言わずにマグカップに口をつけた。

「振られることを怖がっちゃいかんぞ。若人よ」

「何様なんだよ」

 それを無視して、

「村田の話、知ってるか?」

「何のこと?」

「先週、ついにバイト先の上司にまで手を出してバイト先クビになったらしいぞ。だから、今のあいつはやばい。絶対気がたってるから刺激すんなよ」

「はいはい。別に僕だってあいつと付き合いたくて付き合ってるんじゃないんだ。あいつが勝手に寄ってくるんだよ」

 本当にあいつはクズだよな、と笹原が言う。

「なんで教育学部にいるんだよ。絶対教師向いてないだろ。教え子に手を出して逮捕されるタイプの奴だろ」

「それは言い過ぎだろう」

 苦笑しつつ、村田の顔を思い浮かべる。

 村田とは同じクラスの人間で、端正な顔だちと、それに似合わぬ旺盛な欲望とで、悪い意味でクラスの間で知らぬ者はいない存在だった。一見すると爽やかな容貌だが、よく見れば目つきが悪く、金髪も似合っておらず、妙に好ましくない感じがするのだ。風の噂にすぎないものの、富裕層が多い附属高校出身だそうだ。

 つい昨日も、三限の西洋史の授業の後、脇に彼女を連れて大滝の前に現れた。

 よう大滝、という声に対応して、大滝はチャールズ・ディケンズの文庫本から顔をあげた。げんなりとした感情を押し殺しつつ、曖昧に返事を返す。村田の声はとても親しげなのに、どういうわけか大滝には、何か不気味な感じが否めなかった。目があまり笑っていないのだ。

 村田は児童心理学の教授と話してきた、と言った。大滝の頭に、白髪で度の強い眼鏡をかけた、気弱そうな女性の顔がふわっと浮んだ。

 授業の後、僕は呼び出されたんだ。村田が言った。僕のレポートの内容が素晴らしいってさ。

 大滝はふぅん、と思った。村田は何かにつけ、自慢が多い。一つ一つの自慢はそれほど偉大なことでもなく、先輩に認められたとか、小テストで満点だったとか、誰でも時には経験するようなものだ。そういったことを満面の笑みで話すので、そのたびに無邪気な感性だなと思ってしまう。そのくせ、学期末の成績優秀者の掲示には名前がないのだから面白い。

 児童心理学の話が終わると、次に村田は、背後にいる女性に声をかけ、彼が大滝だよ、と紹介した。

 その女性は村田の腕に触れながら、髪を触り、おずおずと挨拶のようなものをした。村田は「もう行って良いよ」と言うと、女性は踵を返し、教室を出て行った。

「見たかい」村田が笑みを浮かべる。

「見たけど」欠伸を堪えながら返す。

「光奈は、俺のどこが好きだったと思う?」

 村田が言った。

「わかんない。どこなの?」

「女に好かれるところさ」

 村田は胸を張って答えた。

 実際のところ、大滝はこのとき、あまりの回答に瞬間的に頭が真っ白になったのを覚えている。そしてなるほど、と思う。さもありなん、と考えたのだ。

 この後、今日の授業はこれで終わりなんだと言って、村田は意気揚々と胸を張ってすぐにいなくなった。

 こんなことが、去年大学に入学してからずっとあるのだ。全くやってられない。彼はいつ僕に目をつけたのだろう、と大滝は考える。新入生の顔合せを兼ねたオリエンテーションの時に初めて顔を合せたのだが、その時にはまだ会話すらしていなかった。そして、別に村田に自分から声をかけた記憶もない。いつの間にか寄ってこられて、言いたいことを言って去っていく。そんなことばかりだ。

 この大学には、大滝と同じ高校出身の人が何人かいる。そんな人達が村田と一緒にいるのを見るたび、何か胸の奥が痛くなるような、苦しい感じを覚えることがあった。村田となぜ一緒に居たいと思うのか、大滝には信じられなかったが、だからといって「村田はやめろ」と言うわけにもいかない。そんなもどかしさと悔しさを、大滝は抱えていた。

 自分にはそこまで大胆にはなれない。そう思うと、嫌な記憶が頭の底からフラッシュバックして、大滝を更に苦しめる……

「おい、もう八時四十五分だぞ。さっさとコーヒー飲みきれ」

 大滝ははっとなって、テレビ画面を凝視した。ニュース番組の左上の数字が、目の前で五から六に変わるのを見た。

「なんか急に喋んなくなったと思ったら、何か変な顔してたぞ」

「変な顔ってなんだよ」

「なんか、嫌な過去でも思い出してそれを振り払った、みたいな顔だな。いや、そんなことはどうでもいい。あれだ、一限、大坂先生だよな? とするとやばいな」

「あっ、遅刻すると単位出さないっていう」

「そうだそうだ。本当かどうか知らねぇけど、一限なんだから勘弁してほしいってもんだよな。大学生は夜行性なんだっつの」

 口を動かしつつも、笹原の両手は休まず動き、本棚の一番下の段に重なっている教科書を選別して鞄に入れていた。

「しかも地味にテストが難しいらしいぞあの禿頭。サークルの先輩もけっこう単位落としてた」

「じゃあ尚更行かないのはまずいな」

 大滝は立ちあがり、自分のコーヒーをぐいっと飲み干すと、笹原のマグカップもついでに持ち、キッチンのシンクに置いて戻ると、自分の鞄を持ちあげて、軽く教科書を点検した。

「準備できたか? さっさと行くぞ」

 リモコンでテレビを消し、笹原も立ち上がる。

「学校保健って、こんな講義受けなくても授業できそうだよな」

「そうだな。授業自体はな。外部講師呼んでやったりするしな。……いいんだ、そんなことは。それよりこの授業でねぇと大学が出れねぇな」

 二人共に部屋を出て、笹原が鍵をかけ、アパートの階段を降り、大学まで無言のまま小走りで動いた。走れば五分。だが学校保健の講義は三階であり、たどり着く頃には肩で息をするほどにバテていた。

 薄暗い教室の教壇には教授が肩肘をついて座っており、学生達は自由に雑談に耽っている。

「間に合ったか」

「危なかったな」

「危なかったじゃねぇよ」

 大滝の肘を小突く。

「あんたがぼけっとしてたのがいけないんじゃないのか。まぁいいや。前の方しか席が空いてないな」

「そうだな」

 二人が席についた途端、教授が咳払いをして、講義がはじまった。

 講義が始まってすぐ、気がつくと笹原は寝ていて、そのまま講義終了まで寝続けた。なんだこいつと思いつつ、大滝も欠伸をかみ殺しながら話を聞いていた。一度、それでも起こした方がいいのかと思いたって笹原の身体を揺すったのだが、全く起きる気配がなく、すぐに諦めた。

 講義が終わり、学生同士がざわつき始めると、机に突っ伏していた格好からのっそり身体を起こした。

「ようやく起きたな」

 笹原は目をこすりながら、周囲を素早く見回した。慌てた様子もなく、枕になっていたノートをゆったりとしたペースで片付け、大滝の顔を見る。

「ノートとかどうするんだよ」

「あんたのを映せばいいじゃないか」

 さも当然のように言い放ち、大きく伸びをする。大滝はその言い方がすこし癪に障ったが、何も言わずに鞄をもって立ち上がった。

「次は空きコマだし、食堂でも行こうぜ」

 教室を出て階段を降り、校舎を出る。二人で食堂への道を歩いているとき、髪の長い女性が向こうから歩いてくるのが見えた。

「あっ、辻堂」

 笹原が声をかける。辻堂は教科書を胸に抱いたまま、「笹原くんと大滝くん。またね」と言って笑顔を向け、足早に通りすぎていった。端正な顔で、通りすぎただけでぱっと振り返りたくなるような顔だと、大滝は実際に振り返りながら思う。辻堂とは同じクラスで、笹原と同じ高校の出身である。

「何ぼーっと立ってんだ。早く食堂行くぞ」

「わかってるよ」

 再び歩き始めながら、頭の中では繰り返し辻堂の顔を思い浮かべる。

「さては辻堂のこと意識してるだろ」

 笹原がにやけた表情で大滝を見た。どうして分かったのかと言いかけてやめ、代えて、

「意識してないわけじゃないけど、なんで?」

「やめとけよ」

 強めの語気で笹原が断言した。

「前から思ってたけどよ、あんたにはちょっと荷が重すぎるぞ、辻堂は。高校三年間で、辻堂が何回告白されたと思ってるんだ。それで誰一人としてうまくいってないんだぞ。あいつは変に男と友達になるんだ。人付き合いがいいんだよ。それでいて、深く踏み込んでくる奴からはうまく身をかわすんだ。別にこんなこと言いたくないが、辻堂は期待するには不適当だな」

「別にそういう意味で意識してるわけじゃないよ。友達になれればそりゃいいけどさ」

「はいはい。まぁ認めるかどうかは関係ないね。辻堂は異性に興味がねぇんだ。きっと面倒なだけとか思ってると思うぜ。それに」

 笹原が大滝に顔を近づける。反対に大滝は遠ざかった。

「村田が狙ってるんだ」

「村田が?」

「そうだ。あの村田だよ。これは高橋から聴いたんだが、村田は辻堂だけ自分と仲良くしてくれないのが相当障るらしい。まぁあいつの仲良くなるってのはイコール恋人になる、みたいなもんだからな。そりゃあ無理な相談なんだろうが」

 大滝は黙った。黙って、思考を巡らせた。脳内を辻堂と村田の顔が駆け抜けていった。

「だから、申し訳ないが、たぶんあんたのポジションはないぜ。正面からいってもまず村田には勝てないだろうな」

「そうか。まぁ、別に僕には関係ない話だよ。辻堂さんが誰とくっつこうが、特にショックも受けないし。勝手にどうぞって感じ。でも、あれだな、村田と辻堂がくっつく未来は見えないな」

「それは俺だってそうさ。村田は軽薄な男だと思うしな。だけど、もし辻堂と一緒になるような男が現れるとしたら、たぶん村田だろうな。実際世の中そんなもんだぜ。ほら、資本主義と一緒だよ。一番上の奴にすべてが集まるんだ。俺達はそのおこぼれを頂戴できれば幸せなのさ」

「もういいよ、この話は。こんなゴシップみたいな話よりビートルズについて語っていた方がずっと有意義だと思わない?」

 少し辛くなって、大滝は話題を変える。話題の衝撃を、すぐには消化できない。頭の隅に、嫌な不快感が住みついた。

「まぁ、それはそうだ。なんたって世界で一番偉大なロックバンドだからな。俺みたいな音楽やってる奴にとっちゃ神も同然さ。聖職者が聖書をありがたがるのと同じことだ」

「ビートルズで一番凄いアルバムって、サージャント・ペパーズじゃなくてリヴォルヴァーなんじゃないかって思うんだけど、笹原はどう思う?」

「いい質問するじゃないか。熱心なビートルマニアだったら頭を抱えてるだろうなこの質問は」

 ニヤリとしながら話を続ける。

「俺も実はそうは思わないんだ。サージャント・ペパーズの方が歴史の転換点だって主張はそりゃそうだと思う。だがな、音楽の価値ってのはもっと多面的なものなんだ。歴史的に意義深いってのはもちろんポイントが高いんだが、楽曲一つ一つの出来で言うと、俺はリヴォルヴァーの方が優れてるんじゃないかって思うんだよな。実際、音楽評論家の意見とかでも、リヴォルヴァーの方がよく聴くっていう意見は多いんだ。俺もそうさ。サージャント・ペパーズはア・デイ・イン・ザ・ライフっていうビートルズの中でも最強の名曲が入ってるけどな、リヴォルヴァーだってエリナー・リグビーとかトゥモロー・ネヴァー・ノウズとか、弩級の名曲が入ってるんだ。むしろ楽曲の総合点ではリヴォルヴァーに軍配があがるだろうね」

 食堂の扉に手をかけながら、笹原は話を止めた。


 三限は東洋哲学の講義だ。テストが非常に簡単で、寝ていても怒られず、配布される出席カードを複製すれば出席日数をごまかせることも手伝って、教育学部の学生はほぼ全員履修しているとの噂もあるほど人気のある講義である。

 二人が直前に階段教室に入ると、教室の後方に同じクラスの人間が固まって座っているのが見え、そちらへ向かう。村田と辻堂の姿もあった。村田は両脇の席に女性が座り、その両方の肩に腕をかけ、肘掛けのようにしていた。その二列前には辻堂が座っていて、その一列前に二席空席があり、二人はそこに腰掛けた。

「松川の席はとっておかなくていいの?」

「いや、なんか来ない気がするな。あいつ、今日も午前中バイトらしいし、来ないと思ってた方がいいだろ。だいいち先週だって来なかったぜ」

 笹原が教科書を出し、机の上に横向きに置いた。枕にする気なのだ。最初からまともに講義を受ける気など毛頭ない。大滝も教科書を出し、何となく開いた。その時だ。

「恋愛ね」

 一瞬で、辻堂の言葉だと分かった。同時に、自分がどれほど敏感になっていたかを恥じた。後ろめたさを感じつつ、こっそり背後の会話に聞き耳をたてる。

「友理子は気になる人いないの?」

「えぇー」

 辻堂は間延びした声で応えた。辻堂もまた眠いのかもしれないと大滝は想像する。

「でも、うん、実はいるの」

 胸が高鳴る。大滝の神経に緊張が走った。

 えっ嘘、と驚いた声。

「えっ、同じクラスの人?」

「ふふ。そうかも」

「でも、なんかショック。友理子ってそういうの無いと思ってた」

「そんなことないよ。私だって恋愛くらいするよ?」

「誰なの? ねぇ、後で良いから教えてよ」

「秘密。でもいつか分かるかもしれないけどね。ずっと気になってたの」

 なぜ、自分の息が苦しいのか、大滝はすぐに分からなかった。けれど、すぐに自分が息を止めていたせいだと気づく。軽く深呼吸しながら、教科書を閉じた。講師が教室に入ってくるところだった。

 大滝はもう一度聞き耳をたててみる。だが、もう話題は別の話に映ってしまっていた。

 誰なんだ。大滝は心底落胆していた。

 おーい、という声が降ってきたので、ふっと頭をあげる。ばたばたと長身の全身を動かして、松川がこちらに近づいてくる。

「遅いぞ。あと、来ないと思ってたから席もないぞ」

「いや、いいんだ。これ、出席カード。出しといて」

 そう言うやいなや、松川は踵を返して教室の扉の方へ歩いていった。

「おい、松川!」

 笹原が声をかけるも、届かない。松川の姿はすぐに消えた。

「出さないで捨ててやろうかな、これ」と笹原は指先で持った、記名された出席カードを見た。

「そういう出席カードってどうやって入手するんだろうな」

「あれ、知らないのか? 売ってんだよ。四年生が中心になって、テニスサークルの部室とかで一枚いくらって売ってるのさ。それを買ってんだろう。ったく、あんな奴がどうして教師になろうって学部にいるんだよ」

 松川は前期も必修科目をいくつか落としているため、留年が目と鼻の先まで近づいているはずだ。それなのに全く懲りてやしないな、と思う。

 電気が落ち、スクリーンにスライドが映し出されて、講義が始まった。

 三限は一瞬で終わった。寝支度を済ませていた笹原だけでなく、大滝もついつい寝てしまったのだ。お昼に食べた親子丼のせいだな、と考える。講義の内容は老荘思想だった。道教かどうとか朱子学がどうとか壮子がどうとか、単語が断片的に頭に入ってくるだけで何も繋がらず、意味不明な呪文にしか聞えなかったのだ。

「なぁ、こうやって寝てるだけなら、松川みたいに出席してなくても何も変わらないんじゃないか?」

「うるさいな」笹原が小さく叫ぶ。

「ここにきて座ってるってのが大事なんだよ。ほら、会社だって仕事出来ない奴も取りあえず会社の机に座っていれば給料出るだろう? そんなもんだぜ。来もしないのが一番悪いんだ。俺達はテストさえ出来てれば、授業自体を聴いてるかどうかなんてどうでもいいんだ。要領よく生きるってのは、こういうことさ」

「いいのかそれで」大滝が呆れて言うと、

「良いんだよそれで。大体、哲学なんて暇人の学問じゃないか。科学的根拠もない戯言をひたすら並べて、一体何になるってんだ? それにどんな価値があるってんだ? 俺には全然分からないね」

「ビートルズだって、東洋哲学には影響されてるだろう?」

「それはそれ、これはこれさ。俺は四限はサークルに行くから行かないよ。板書よろしく頼むぜ」

 都合良く使われているようで不愉快な気分になりながらも、はいはい、と返事して鞄を手に持った。

「じゃあなんだい、あの教授は、無駄なことに生涯をかけてるのかい?」

「まぁそんなところだろうな。無駄だって事がなんで分からないかな。全く、いつの時代も若者の言うことが一番正しいんだ。あの教授はきっと、真理なんてもんが本当にあると勘違いしてやがるんだ。そこは俺の方が賢いな」

「あぁ、そう」

 言いながら大きな欠伸をして、邪魔にならない程度に両腕をのばした。

「笹原、行くぞ」という声がして、振り返ると、楽器ケースを持った男が笹原を手招きしていた。そういうわけだから、と言い残して笹原がそちらへ歩いていく。笹原が以前、俺は世界最高のミュージシャンになるんだ、と宣言していたことを思い出した。世界で最も偉大なアーティストはビートルズだから、それをカバーしている俺は世界最高のミュージシャンなのだという。大滝は笹原が偉大な音楽家になった姿を想像しようとしたが、具体的に何も浮ばなかった。

 四限は教育心理学概論の講義だった。大滝は気持ちを笹原に引き摺られたのか、寝はしなかったものの全く身につかず、ノートをとる手は途中で止まり、机の下で川端康成を読んでいた。

 講義が終わり、教員が教室を出て行くのを見ながら、大滝は文庫本を閉じ、机から立ち上がった。そのとき、背後から声をかけられた。

「大滝くん、ちょっといいかな」

 同じクラスではあるものの、殆ど話をしたことがない女性だった。茶髪で、黒い帽子を被っている。

「辻堂に呼んで来いって。空き教室で待ってるって。上の二〇七教室で」

「分かった」

 分かった、と言いつつ、自分が何を理解したのが、すぐには分からなかった。何が分かっただ、ともう一人の自分が小馬鹿にする。

 辻堂が呼んでいる? よりによって僕を?

 大滝は聞き間違いかどうか確認したかったが、教えてくれた人は既にその場にいなかった。

 そんな馬鹿なことがあるのか? 

 いやいや。大滝は首を振る。

 教科書を貸してくれ、とか笹原の何かとか、そんなところだろう。

 膨らみはじめた妄想を抑えつつ、鼓動が鳴るのを感じとった。待たせてはまずい、と手早く机の上を片付け、教室を出る。思わず耳を押さえる。耳を塞いでも心臓の音は聞えてきた。階段を一つ飛ばしに駆けあがり、二階の廊下を小走りに歩く。

 二〇七教室はこの校舎の一番奥の教室だった。

 扉の前に立つ。緊張して少し表情がこわばっていた。

 軽く頬を叩き、扉をそっと開く。

 中は薄暗く、窓から入った光が床に射している。

 中には誰もいないようだった。急ぎすぎたか、と大滝は独り言を呟きつつ、教室の中に足を踏み入れた。ついでに蛍光灯の電気を点け、教室の中心近くにある机から椅子を引きだし、そっと座った。

「まだかな」

「待たせたな」

 教室の入り口から突然返事が飛んできて、大滝は驚いて顔をあげた。

「村田も呼ばれたのか」

 立っていたのは村田だった。扉に寄りかかるようにして斜めに立ち、前髪をかきあげている。

 村田は後ろ手で扉を閉め、大滝に向かって歩いてくる。

「違うんだな」ニヤリと笑って言う。「俺が呼んだんだ」

 チャイムが鳴った。大滝が出席する予定だった、児童文学論の講義が始まった音だ。そんなことはどうでもいい。これはどういう状況なんだ。大滝は判断に迷った。

 村田が大滝の近くの椅子を引きだし、大滝に向かいあうように座る。

 どうして。ようやく声が出た。

「どうして君が来るんだ」

「だから、言ったじゃないか。呼んだのが俺なんだって」

 笑顔をつくって返した。

「何の用だい? 僕だってそんな暇じゃないんだけど」

「お前、なんか勘違いをしているようじゃないか」

 村田は笑顔で言った。鴉のような、冷たい目だと大滝は思う。

「あれだな、君は頭が悪いもんな。はっきり言わないときっと理解が追いつかないだろうな」

「何のつもりだい?」

 村田が顔をぐっと近づける。

「辻堂を狙うな」一旦言葉を区切って、また続ける。

「あれは俺の女だ。俺の横にいるべき女だ」

「あんたは何を言ってるんだ? 別に辻堂さんと仲が良いわけじゃない。仲だったら笹原の方が」

「辻堂がお前の名前を出すんだ。他の誰よりも頻繁に。今日だって」

 村田が舌を出し、唇を舐めた。

「二回だ。二回。二回もお前の名前が出た。お前がいないときにだ」

「それが何だと言うんだ。まさかその程度で意識してるだなんて思っているのかい?」

「いいか」

 村田は更に顔を近づけた。大滝は頬を引き攣らせ、顔を背ける。

「俺の辻堂に手を出すな。君みたいな蝿は、ゴミみたいな女にたかって発情してろよ」

「僕は……」

「お前、高校時代に振られたらしいな」

 村田が足を組みながら、大滝を指さした。

「ばらされたくなかったら、俺に従え。お前だって自分の社会的生命くらい惜しいだろう」

「なんでそれを知ってるんだ」

「クラスに、お前と同じ高校出身の奴がいるだろう。あの女が俺に教えてくれたのさ。こう言われたんだろう」

 村田は満面の笑みだった。

「大滝君と付き合うと、私の箔が落ちるでしょう」

 大滝が口を噤む。

「これを言われたのは卒業式の前日だったってな。中庭で、意を決して告白したのに、このザマとはな! ねぇ、大滝くん、ご自分の男としての価値に、気づいてらっしゃらないのかしら?」

「逆にさ」

 大滝が言い返す。

「あんたは自分が男として何だっていうんだ? 自分を大層上に置いてらっしゃるけど、一体何の根拠があるっていうんだい? あんたと付き合った方が、よっぽど人としての箔が落ちるけどね。それが分かってるから辻堂さんだって手を出さないんじゃないの?」

 村田が何か言いかけたので、そこに重ねて言う。

「あんたは辻堂に選んでももらえない、それだけの価値の男なんだよ。いい加減、自分の価値に気づきなよ。僕が過去にどうだったとか、そんなことは何の関係もない。別に僕が辻堂さんに気があるわけでもない。妄想を語るのはほどほどにしなよ。村田くん」

「お前さぁ、誰に向かって話してんのか分かってんのか?」

 村田が激しく頭を掻きながら叫ぶ。

「痛いくらい分かってるよ。そこの君さ」

「バラすぞって言ってんだろ! 分かってんのか自分の立場が」

「分かってるに決まってるだろ。他に何がある? 君が本当に女性に好かれるってんならさ、こんな僕に恐喝する必要はなんじゃないの? 本当は自分に自信がないからそんな物言いになっちゃうんじゃないの?」

「彼女もいなくて、頭も悪い。お前なんかどうせ負け犬だろう? 何を言ってんだか」

「負け犬に張り合う君も負け犬なんじゃないかい?」

 大滝も頭に血がのぼっていたが、一方で、どこか醒めた自分がいることも自覚していた。同レベルの人間の間でしか対話は成立しないのだ。

 さっさと切り上げて帰った方がいいんじゃないか? 

 そう思いつつ、言葉を止められない。

「頭が悪いってんならさ、東大でも京大でも行きなよ。僕を見下したいなら、いくらでも勉強すればいいのさ。僕と同じ大学の同じ学部にいるのに、頭が良いも悪いもないだろう」

 村田の身体が動いた。気がつくと大滝は胸ぐらをつかまれ、充血した目で睨みつけられていた。

 ここで退いたら終わりだ。

 覚悟して奥歯を噛みしめ、掴まれた両手を押さえる。

「全然怖くなんかない。暴行の罪に問われるのは君の方だ」

 村田はしばらく黙ったままじっと大滝の目を睨み続けていたが、やがて我にかえったかのように掴んだ手をゆっくり離し、突然勢いよく突き飛ばした。不意の攻撃に対応できず、椅子に身体をぶつけながら背後の床に倒れこんだ。

「お前なんかここでくたばって死ねばいいんだ! それが俺の役目なんだ!」

 村田がだしぬけに叫んだ。

 その瞬間、大滝は急に思い出した。

 村田はバイト先の上司に手を出して首になった。笹原はそう言ってなかっただろうか。

「必ずお前の秘密をバラしてやるからな!」

 大声で叫び、村田が助走をつけて殴りかかろうとした。

 その時、教室の扉が大きな音をたてて開いた。

 反射的に村田の動きも静止する。

 大滝は顔をあげ、思わず声をあげた――――――。


 *


 道が高架下にさしかかった時、ちょうど上を電車が通ったので、音がわんわんと響きわたった。 

 そのおかげで言葉が聞きとれず、大滝はなんて言いましたか、と訊いた。

「だから、大滝くんは熱い男なんだなって。あんなに正面きって戦うことないと思うのに」

「僕は自制心がないんです。攻撃するようなことを言ってしまって今後悔してるところなんです」

「敬語だよ」

「あっ。なんか、まだ緊張してて」

 辻堂は穏やかな笑みを見せて、

「礼儀正しいんだね。大滝くんは。そういうところ、私可愛いと思うな」

「辻堂さんもそんなこと言って。だいぶ酔ってるでしょう」

「あれだけ飲めばそうなるでしょう。飲み過ぎ」

 辻堂さんがこれほど飲むとは、と大滝は驚いたものだった。焼き鳥屋に着くなり頼んだ一杯目を一気飲みした時点でおかしいなと思ったが、その後もペースは落ちず、ビールをジョッキで六杯も飲み干し、さらに日本酒まで頼もうとしたので、さすがに大滝も止めた。介抱するのは自分なのだ。今日は飲まないとやってられないの、と辻堂は言ったが、それにしても限度があるだろうと思う。寡黙な人だという大滝の事前の印象に反して、ジョッキを一杯飲むごとに饒舌になっていき、最後はほとんど一人で喋り通しで、大滝もさすがに疲弊した。

「あんな男の厄介になるなんて、それこそ女が廃るわ。私だってね、頭の中お花畑だけど、そのくらいの良識はあるのよ。今日の村田の態度はそれにしても最悪。あんなミソジニー野郎がこんな近くにいるなんてちょっと考えちゃうわ」

「そこまで言わなくとも」

「あら、擁護するの? 私の可愛い大滝くんにあんなこと言うなんて」

「その言い方やめてよ。なんか恥ずかしいんだ」

 信号が赤だった。二人ならんで止まる。

 前照灯の光が彗星のようにいくつも通りすぎていった。

 辻堂が教室の扉をがらりと開いたとき、村田は明らかにそれとわかるほど狼狽した。身体の輪郭が震え、言葉が言葉にならずに口から漏れ出ていた。その様子を見てとるなり、すっと教室を横断して、大滝の前まで進んだ。そして、

「大滝くん、そろそろ約束の時間だから、一緒に行こうか」

 そう言い放って、大滝の手を優しくとって立たせ、鞄も持たせて早足で教室を抜け、校舎の外まで連れ出したのだ。辻堂は一部始終をすべて聴いていた。そして、村田に一番こたえる方法を選んだのだ。

「村田の彼女の光奈ちゃん、昨日村田を振ったらしいよ。使いっ走りばかりやらされて、もう限界だって。それが本当にショックだったんじゃない? でも、あんな八つ当たりしなくてもいいのにね」

 枝豆を口に含みながら、辻堂はそう言った。

「まさか自分が振られる立場になるなんてって思ったんじゃない?」

 信号が青になり、歩きだす。

 不思議な恍惚感を味わいながら、人混みの喧噪の中を進んでいく。

 辻堂の方が少し早足だった。

 こんな夜がずっと続けばいいのに。

 朝になんかならなければいいのに。

 酔いのまわった頭で考える。この陶酔感はいったい何だろう?

「手を繋ごう」

 うん、と大滝は空返事で答えてから、突然激しく動揺した。

「えっ、どうして?」

「まぁ、いいからさ」

 大滝がおずおずと手を出すと、それを奪うようにして手を取る。

 柔らかくて少し湿った手だった。

「動揺してる?」

「そりゃあ、してるよ」

 大滝が憮然と答えると、そりゃそうだよね、と茶化すような口調で言ってのけ、腕をぶんぶんと左右に振った。通りすぎる人に当りそうで少し心配したが、そんなことはお構いなしだ。

「顔真っ赤じゃん! もう、お酒飲み過ぎだってば」

「それはそっちもそうでしょう。健気な僕をもてあそんで」

 辻堂が爆発したように大笑いした。手を離し、両手を叩いてお腹を震わせる。

「自分で健気なんて! 大滝くんって本当に可愛いよね。なんかさ、無害でさ。養ってあげたくなっちゃうもん。よしよし、良い子だねって、頭撫でてあげたい」

「恥ずかしいよ」

 再び大滝の手を取り、今度はスキップをし出したので、うっかり転びそうになる。両足でバランスをとって、ペースを感じとって懸命に合せた。

「恋愛って単純なものでしょう? 人間の心なんてこれくらいファジ―なものなの。ちょっとやそっとで、すぐに影響されちゃう。大滝くんみたいな単純な子ほど私は好き。ずっとそのまま、汚れないでいてほしいもの」

「仕方ないだろう」

「大滝くんのことは信用してるからさ。また講義ノート貸してね」

 あぁ、とかうん、とか、曖昧な返事をぼそっと喋り、大滝は朱に染まった頬を襟に埋めた。

 駅の階段を上り、改札の前にたどり着く。

 辻堂が広告の貼られた柱にもたれかかった。

「たぶん、乗る電車は反対だよね? だから、ここまで」

 大滝は辻堂の顔を見る。辻堂の顔もまた赤く染まっていた。赤い顔で目を伏せ、大滝の足元をじっと見ている。

 次のお店に行きませんか。

 大滝はそう言いたかった。焼き鳥屋を出てからずっと、そう伝える自分の姿を何回もシミュレーションしていたのだ。まだ終わってほしくない。終わりにしたくない。それは何としても嫌だ。熱い衝動が大滝の身体の底から湧きあがってくる。

「また、行きましょう」

 そう言ったのが自分の口だと、大滝はすぐには信じられなかった。

 僕は何を。

 話したいことはまだ沢山あった。どんな高校を出たのか。将来は教師になるつもりなのか。それとも、そうではないのか。何も知らない。僕は何も知らないのだ。

「えぇ、そうね」

 辻堂が微笑む。

「じゃあ、またね。次は大学で」

 辻堂は手を振ると、身体を反転させ、改札口の方へ吸いこまれていった。

 その一部始終が、大滝にはスローモーションに見えた。あらゆる人の動きがゆっくりになって、辻堂がゆっくり離れていく。それなのに自分の口も身体も動かなくて、ただ立って見ているしかできない。そのまま姿が人波に紛れていって、見えなくなる。駅員のアナウンスが、構内に重くこだましていく。

 気がつくと、大滝は帰りの電車に乗って、揺られていた。

 酔いが急速に襲ってきて、睡魔が意識を奪っていく。両手を強く握りこんでいたことに気づいて、ゆっくりと解くと、それは汗でべとべとになっていた。

 きっと、次はないだろう。もしかしたら、時間を掛ければ、僕たちは友達になれるかもしれない。けれど、きっと、それまでのことだ。

 夜の街を、電車は静かに疾走していく。踏切の赤い光が、窓の外を賭け抜けていった。

 陶酔感は、もう無かった。代わりに、疲労感がこみあげてきて、シートの端にもたれかかる。 

 悪くない一日だった。

 大滝は目を瞑り、村田の顔を思い出す。もう怒りはなかった。だが、爽快感もなかった。ただ、すべてが時の流れによって消えていく、些細な事のように感じられた。

 体温が熱い。大滝は目を開いた。降りる駅まであと三駅だった。少しでも早く布団に戻り、死んだように眠って、すべて過去にしたい。

 額に手をあてる。

 微熱くらいはあるようだった。



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