Act23-2.「眠りネズミと三月ウサギ(下)」
草木も眠る夜半過ぎ。廊下を囲む大きなガラス窓の向こうでは、月が悠々と雲間を泳いでいる。白く柔らかな光の射しこむ、静かさの沁みる屋敷内。ギシ、と、一つの足音が二人分の体重を乗せて軋んだ。ミツキを横抱きにしたヘイヤは、自室の前で立ち止まる。塞がった両手で扉が開けられず困ったからではない。呼び止められたのだ。
「ヘイヤさん。何を、してるんですかあ?」
「なんでお前が、ここにいる?」
「……常盤さんに、戻るように言われたんですよう。あなたが変なことをしないよう、見張っていてくれって。まさか本当に何か起きるなんて、思ってなかったんですがねえ」
ラファルは平静を装うが、ヘイヤの腕の中でぐったりしているミツキに戸惑いを隠しきれていない。顔を覆っている面を外して、真正面からヘイヤを見た。
「ミツキさんを、どうするつもりです?」
ラファルの言葉が鋭さを帯びる。その目は彼への信頼と、それを裏切ってくれるなという想いを訴えかけている。ヘイヤはミツキをその場におろし、彼女を隠すように立った。
「お前には関係ないよ。邪魔するっていうなら、後悔することになる。……いや、死人は後悔できないね。後悔するのは、お前をここに引き返させた、常盤だ」
「ヘイヤさん、何をっ!」
その時、場の重力が変わる。暴力的に圧し掛かるそれの正体は、ヘイヤから発せられる殺気だ。魔力を帯びている。
ラファルは床に膝と腕を付き、吐き気に喘ぐ。そして目の前に広がる床板の上に、影がさっと覆うのを見て、慌てて横に転がった。自分が居た場所に突き刺さっている、ヘイヤの拳。それはバチバチと弾ける電撃を纏っていた。
ヘイヤは息つく間もなく、ラファルに攻撃を仕掛けていく。ラファルはその時初めて、普段の彼は往なすのみだったのだという事を知った。まるで歯が立たなかった。
――床に伏すラファルの後頭部に、ヘイヤは冷たい声を浴びせる。
「お前はここで退場だ。ここから先は、ただのモブはお呼びじゃない」
その声を最後に、ラファルは意識を失った。
ヘイヤは踵を返すが、その足にラファルの指先が触れる。意識を失っても諦めない、食いついてくるその気概。ヘイヤは大きな溜息を吐き、嬉しそうな顔をした。
「“ラファル”、やっぱりお前は、面白い男だった。もっと本気で、遊んでおけばよかったよ」
ヘイヤが足に纏わりつく彼の手を蹴り飛ばすと、背後で小さく息を呑む音がした。気を失っていたミツキが目を覚ましたのだ。ヘイヤは彼女を振り返り「あ、おはよう」といつもの調子で言った。
ミツキは強引に連れてこられたのだろう。その目にははっきりと警戒が浮かんでいる。しかし彼女もまた、先程までのラファル同様に戸惑いが大きいようだ。見間違いだと思いたいのか、伏したラファルとヘイヤを交互に見ている。だが何度繰り返しても、どう見てもいつものじゃれ合いではないと気付いたのだろう。ラファルの方へ寄ろうと床を這うミツキの前に、ヘイヤは立ちはだかり、その腕を引っ張り上げた。
「さあ、行こう」
和の屋敷に似合わない、鉄の両開き扉。重く閉ざされていたそれが開き、二人を呑み込みゆっくり閉じた。
「サンガツちゃんは、ここに来るのは初めてだったね」
ヘイヤの自室は、居住空間であり、彼のプライベートな研究室だった。その様相はまるで彼の脳内そのものである。
中央にあるデスクでは書類の山が雪崩を起こし、床の上には割れた薬品瓶がそのままになっていた。元は白かっただろう壁と天井には、焦げ跡や何かよく分からない汚れがこびり付いている。ヘイヤは、この場所で多くの魔術を生み出してきた。ゴミ溜めのように雑多に見えても、彼は必要に応じて引き出しを上手く引き当てるのだろう。
「ここには、楽しいものが沢山ある。じっくり紹介したいけど、時間がない。だから一つだけ」
ヘイヤはミツキを連れ、ガラス片を避けて部屋の奥に進む。ミツキがその手を振り解かないのは、力で敵わないのか、彼を拒絶出来ないのか。ヘイヤは四角く布を被った何かの前に立つと、バサリとそれを取り払った。
二人の目の前に現れたのは、大きな姿見だった。ミツキは鏡に映る自分の怯えた顔と向き合う。
「鏡のことは本で読んだ? ラファルに習った? ……その顔じゃ、よく知ってるみたいだね。偉い偉い」
“なんで?”とミツキが問う。責める。ミツキはこの世界の鏡が、人を惑わす恐ろしい物だと知っているのだ。それを自室に置き、今自分に見せるのは、何故なのか。
「鏡はね、サンガツちゃんが来るまでは、俺の一番の研究対象だった。本当に、不思議なんだ。見えているものを見えなくして、見えないものを見せる。可視世界と不可視世界。中と外。現実と夢。それらを隔て、時に入れ替える。ただ進む“時間”なんかより、よっぽど興味深い!」
熱っぽく、饒舌に語るヘイヤ。未知の物をこよなく好む彼は、随分前から鏡に魅せられていたらしい。ヘイヤの熱弁に付いて行けず、取り残された顔のミツキの肩を掴んで、彼は鼻息荒く続ける。
「鏡は境界。それを超えた向こうには、別の空間が広がってる。そこは、現実が関与しない特別な場所」
ヘイヤの紫色の目は、夢見心地に溺れていた。
「そこではもう誰にも、何にも邪魔されない。怖がらなくていい、傷つかなくていい」
ミツキは彼の甘い声色に、戦慄を覚える。
「俺と二人、永遠の夢の中で生きていこう」
「……ヘイヤ、流石に気持ち悪いよ」
閉じた扉の近く、実験器具の影から少年が姿を現した。ミツキは聞き慣れた声にホッとするが、すぐに顔を凍り付かせる。そこに居たのは見慣れた姿ではなかったからだ。白い髪と赤い瞳。肩で息をしている黄櫨に、ミツキは絶望の息を漏らす。黄櫨は彼女の表情が耐え難く、目を逸らした。(だからミツキに会いたくなかったんだ。こんな悲しい顔、させたくなかった)
「黄櫨か。ああ……まさに“ネズミが紛れ込んだ”ってやつだね」
「全然驚いて無いね。僕が尾けてたの、気付いてたんだ」
ヘイヤは「さあ」と惚けるが、黄櫨はその余裕の態度が答えだと思った。
常盤を見送った時、ヘイヤの様子に不安を覚えた黄櫨は、ラファルがヘイヤを呼び止めるよりも前から、ミツキを連れ去るヘイヤの後を尾けていた。気配を消すことには自信のある黄櫨だったが、ヘイヤだけでなく、恐らくラファルにも気付かれていたのだろう。彼は黄櫨がヘイヤの視界に入らないように立ち回っていた。彼は最後まで黄櫨のことを隠し……黄櫨に二人のことを託したのだ。(結局、バレてたみたいだけどね)
黄櫨が途中で姿を見せなかったのは、ヘイヤの目的を知るためだった。
「そんなにフラフラで、何しに来た?」
「それはこっちのセリフだよ。ミツキに何しようとしてるの」
「話、聞いてたんじゃなかった?」
「――聞いてたよ!」
声を荒げる黄櫨に、ヘイヤは表情を失くす。冷酷な男の顔に、黄櫨は悲しみと怒りを抱え、向き合った。
……ヘイヤは、狂ってしまったのだ。ミツキを失う恐怖に狂い、彼女を連れて現実から逃げようとしている。
鏡がどのような物であるかは、ヘイヤ程ではないにしても黄櫨もいくらか知っていた。その一枚先にあるのは先程彼も言っていたように、夢幻。虚構である。そんなまやかしに“大切な二人”が奪われることは許せない。
「ヘイヤ……“三月ウサギが本当に狂う”なんて、笑えないよ」
「……それでも“眠りネズミは眠るべき”だ」
ヘイヤは詰まらなそうな顔で、パチンと指を鳴らした。彼の手に電撃が走るのを見て、黄櫨は体を硬くする。
「病に冒されたお前は、サンガツちゃんに、残酷な現実を思い出させる。俺達の夢の邪魔だ」
「……っ!」
ミツキが声にならない叫びを上げ、ヘイヤを止めようとその背にしがみ付いた。が、いとも容易く振り払われ、彼女は床に倒れる。
「ミツキ!」
「他人の心配をしている場合?」
熱でぼやけた視界の中、心を許した友人が、殺気を向けて迫ってくる。……もう彼が、普段どんな顔をしていたのか思い出せない。どんな風に彼と喋っていただろう。どうして、自分の言葉なら彼に届くと思い上がっていたのだろう。
ヘイヤが拳を振りかざす。黄櫨は抵抗することも出来ず、頭に強い衝撃を受け、顔面から床にぶつかった。それは単純な物理攻撃ではない。魔力の込められた一撃は、黄櫨の神経に作用し、意識を遠のかせる。黄櫨は薄れゆく世界の中――優しく微笑むヘイヤを見た。
「さて、サンガツちゃん。邪魔者は居なくなったよ。うわ、なんか怖い顔してるね。この死に掛けがそんなに気になる? まだ息はあるけど……気になるって言うなら、殺そうか」
「……!」
「俺を止めたいなら、一つしか方法は無い。……そう、理解が早いね、流石。お前が負けたら、お前は俺のもの。俺が負けたら、俺はお前のものだ。生かすも殺すも、サンガツちゃんの自由。黄櫨も助けられる」
(ヘイヤとミツキは、一体何をしてるの……?)
「ふふ、なんか楽しくなってきた。俺、一度異世界人と戦ってみたかったんだ。……さあ、武器を取れ」
黄櫨はその場の空気が一気に冷たくなるのを感じた。それは以前、炎を前にしたミツキから漂っていた気配に似ている。――彼女の魔力だ。
「鏡の影響かな。俺に対する憎悪と敵意が増幅してる。楽しい戦いになりそうだ。もし殺してしまっても、夢の中で蘇らせてあげるから安心して」
(ミツキ、ヘイヤ、駄目だよ……戦わないで)
世界が暗く、閉ざされる。
どうしてこの時、気を失ってしまったのか。ヘイヤの想いに気付けなかったのか。
黄櫨はこの先、ずっと後悔することとなる。




