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Act17.「やさしい嘘」

 暗い、暑い、息苦しい。

 夢子は不快さで目を覚ました。


 体を前に折り曲げ、腕を枕にし、突っ伏した体勢。どうやらまた居眠りをしていたらしい……と、できるだけ小さな動きで顔を上げる。


 すると、正面には紫がいた。テーブルの向かい側で、串団子を片手に頬杖をついている。


「あら、おはよう」

「……おはよー」


 ――そこは見慣れた教室ではなく、街道に面した茶店のテラス席だった。作りは洋風だが、椅子の鮮やかな朱色やテーブルの上に立つ和傘は、縁台を思わせる和の雰囲気がある。


 桃色に染まる夕空。石畳の上を下駄を鳴らし歩く人々。涼やかなそよ風が、寝起きの顔に心地よく吹き付ける。


 紫は、串団子の最後の一玉に苦戦しているようだ。横から少しずつ齧り取るか、噛みついて一気に引っこ抜くかだが……その結末を、夢子が知ることは無かった。夢子の視線に気付いた紫が、恥ずかしそうに背を向けたからだ。再びこちらを向いた彼女の口は、もっちもっちと音を立てている。


 きっと一気にいったんだな、と夢子は思った。それはそうと……


(わたし、何してたんだっけ? なんで紫と甘味処に?)


 まだぼんやりした頭で、夢子は記憶を辿った。




 ――アリスにより消失の危機にある不思議の国。突如降り始めた雪。異変の発祥地、永白の国。フードの男。鏡の呪い。行方不明の三月ウサギ。


 散らばったピースがまとまり、一枚の絵となる。


(あ……そうだ。異変はもう解決したんだった)


 三月ウサギのヘイヤを追って森に入った夢子達は、鏡の中に閉じ込められていた彼を救い出した。ヘイヤは永白の国の虚無化を阻止しようとして、アリスに捕らえられたのだという。


 その後、皆でアリスとその手下のフードの男と直接対決。あと一歩というところでアリスは取り逃してしまったが、異変の雪はやみ、永白の虚無化も防ぐことができた。


 その後、嘉月会に戻った夢子達は英雄扱いされ、盛大な宴が開かれた。



 ――今は、その翌日である。

 永白での用事が済んだ夢子達は、夜までにはこの国を出ることになっていた。皆が帰還準備を整えるまでの、僅かな時間。その隙に、紫は夢子を街へと連れ出した。

『最近、ずっと気を張り過ぎよ。たまには息抜きが必要だわ』と。


 息抜きの場に選ばれたのは、嘉月会本部からそう遠くない茶屋。派手なネオンサインが乱立する花見街(はなみがい)の一角にありながら、この付近には正統派の和の風情があり、穏やかに時間が流れていた。


 夢子は久しぶりに紫と二人で平和な時間を過ごし、息どころか気まで抜けて、眠ってしまった。そして、今に至る。


「それにしても、春みたいに気持ちが良いわね。雪が降っていたなんて嘘みたいだわ」

 雪の名残を探すように天を見上げる紫。その頬に、白いものが舞い落ちる。雪ではなく桜の花弁だ。


「……花より団子。わたしも、お団子食べようかな。紫ももう一本付き合ってよ」

「いいわよ。次は餡子にしようかしら。あと、しょっぱいのも欲しいわね」

「あ、見て。おにぎりとかうどんもあるよ。わたしはみたらし団子と……クリーム餡蜜かな。あ、塩昆布のお饅頭なんてある。食べてみないと」

「ふふ。じゃあ私は……」


 夢子と紫は、後で苦しくなると分かっていながら、欲望のままに注文する。二人だと気が大きくなってしまうのだ。テーブルいっぱいに並べられた甘味と食事に、二人は顔を輝かせる。


「見てみて。夢の“三角食べ”」

 夢子はお饅頭を楊枝で少し、みたらし団子を一つ、クリーム餡蜜のアイスクリームを一口、順番に頬張る。紫は返す言葉を考えるように、うどんをゆっくり咀嚼した。


「懐かしいわね、三角食べ。小学校の給食で習ったわよね? でも本当は、スープから飲んで次にサラダ、最後に主食、っていうのが太りにくいらしいわよ」

「ああ、血糖値が上がりにくいんだよね。でもさ、糖を前にして考えることじゃないよ」

「ふふ、確かに」

「食べたらいっぱい動かないとなあ」

「こっちに来てから結構運動してるんだから、この位ならゼロカロリーに等しいわ」


 調子の良いことを言う紫に、夢子も力強く同意する。


(やっぱり、紫といるのが一番だなあ)

 意見が合わない時もあるし、煩わしく思う時もある。だが、やはり自分が一番自分らしくいられるのは彼女の隣なのだと、夢子はこの瞬間を噛みしめた。まるで、久しぶりかのように。


「あーあ」

 楽しそうにしていた紫が、突然唇を尖らせた。その目は夢子の後ろを見ている。


「お迎えが来ちゃったわね」

「え?」


 振り返った夢子は、茶店に向かって歩いてくる常盤と目が合った。帰還の準備が整ったと知らせに来たのだろう。夢子はいっぱいになったテーブルを見られるのが恥ずかしく、とりあえず彼が来る前に饅頭を口に入れ、品数を減らした。


「夢子、紫、息抜きはできたか?」

「まだ一軒目よ。梯子するつもりだったのに」

「あ、ちょっと待ってくださいね、急いで食べちゃいますから」

「いや、ゆっくりでいい。花でも見て待っている」


 常盤はそう言って、夢子の隣の椅子に腰かけた。だが彼の視線は頭上の桜ではなく、隣の夢子に留まっている。花を愛でるようなその瞳に、夢子は緊張して餡蜜の寒天が上手くすくえない。見かねた紫が、メニュー表を盾に常盤から夢子を隠した。


「そんなに見てたら夢子が食べにくいでしょう! ほら、あなたも何か頼んで。ここ紅茶もあるわよ。あと私、カフェラテ追加で」

「あ、ああ。夢子、君も何か飲むか?」

「わたしはまだお茶があるので……」

「抹茶ラテに、きなこラテもあるわよ?」

「やっぱりきなこラテで」


 ころっと意見を変えた夢子に、紫と常盤が笑う。夢子はこの二人が自分を見る目は、どことなく似ていると感じた。

 ……だからだろうか? 幼馴染の紫と自分の間に、最近出会ったばかりの彼が混ざっていても違和感がない。寧ろこれが正しい形だという程、妙な安定感があった。


 それから、穏やかな時間が過ぎていく。

 フードの男に襲われた時のことが夢のようだ。


(あれ? そういえば結局、あの人はなんでわたしを攫ったんだっけ? あの時、紫はどうしてたんだっけ?)

「夢子、何考えてるの?」

「いや……」


 何となく言葉にできない。してはいけない気がした。この疑問を口にすることで、きっと何かが壊れてしまう。

 しかし発散されない疑問は、夢子の中でどんどん膨らんでいった。


『“彼女”は偽者なんですよう』


 狸の声が頭の中で再生される。

 それはいつの言葉だった? 何故、記憶の中の狸はこちらに刀を向けている? それからどうなった?


 瞬きの一瞬、夢子の見ている世界が変わる。

 舞い落ちる桜の花弁が真っ白な雪に代わり、明るい夕方は暗い夜へ沈んだ。

 目の前の二人は、そこにいない。


(なにこれ……)

 夢子はぎゅっと目を瞑り、顔を伏せた。


「夢子、頭が痛いの? きっと疲れが出たんだわ」

「大丈夫か? 出発を遅らせて、今日は休んでいこう」

「それがいいわ。戻ったらまた、すぐにアリスを探さなくちゃいけないんだから」 


「……うん」

 そうだ。ちょっと疲れているだけ。ゆっくり休んで、また紫と一緒に白ウサギをしなくちゃ。わたし達でこの世界を救うんだから。

 青いバラに襲われても、ヴォイドとかいう怪物に狙われても、繰り返す時間の中に閉じ込められても、鏡に呪われても。紫と一緒だったから怖くなかった。きっとこれからもそう。二人なら何があっても大丈――


「夢子」


 それは、凛とした少年の声。紫の後ろで、息を切らせた黄櫨が立っていた。黄櫨はもう寒さは過ぎ去ったというのに、まだ真冬のようなモコモコの中綿コートで着膨れている。赤くなった鼻。小さな口から漏れ出る吐息は……何故か白い。


「黄櫨くん、どうしたの?」

「夢子、こっちに来て、早く」

 焦りの滲むその声は、黄櫨らしくないものだった。


「行く必要はない」

 そして常盤のそれもまた、あまりに彼らしくなかった。


 常盤は冷ややかな目で黄櫨を見ている。夢子は彼のその視線に、キルクルスの街で最初に自分が浴びた視線を思い出した。存在する筈の無い異物を見るような……否、彼の目はそれよりももっと攻撃的な、拒絶を超えた排除の色を宿している。


 常盤が黄櫨を相手にそんな目をするなんて、夢子には信じられなかった。

 

「夢子」

 黄櫨がまた、夢子を呼ぶ。ただならぬ様子を察して夢子は立ち上がるが、その手を紫がテーブルの上に縫い留めた。


「夢子、あれは黄櫨じゃないわ。よく見て」

「え?」

「迂闊だった。まだアリスの仲間がうろついていたのか」


 常盤の言葉に反応するように、黄櫨の姿が揺らいだ。

 そこにいるのはもう黄櫨ではない。青いバラであり、黒く巨大な怪物であり、フードの男であり――近付いてはいけない、恐ろしいものだ。


「夢子、僕だよ。信じて」

「夢子、騙されちゃ駄目よ。敵が幻を見せるって知ってるでしょう?」

「僕は本物の黄櫨だよ。そっちが幻だ」

「夢子、私のことを信じてくれるわよね? 子供の頃からずっと一緒にいたのは誰? どっちが幻かなんて、考えるまでもないでしょう?」


 紫が責めるように、懇願するように夢子を見上げる。夢子は眩暈を覚えた。


 体から青いバラを生やしたヴォイドが、ゆらりとこちらに近付いてくる。その大きな手には小さなナイフが握られていた。しかし夢子は恐怖を感じない。恐れる様子の無い夢子に、紫が焦れる。


「ちょっと常盤! あいつを早く何とかして!」

 紫の叫びに応じ、常盤が銃を取り出しヴォイドへと向けた。ヴォイドの身体が感電したようにビクリと跳ね、硬直する。夢子は心臓が冷えた。


(……あ、駄目。これは絶対に駄目。黄櫨くんが、常盤さんに銃を向けられるなんて)


 夢子は紫の手を振り解き、ヴォイドに駆け寄った。そしてその大きな体を庇うように抱きしめる。


 見えていたものと違う大きさ。形。柔らかい感触。冬の匂い。胸元で、冷たくなった丸い耳がピクリと動いた。ナイフを握っていた手が力なく下ろされる。揺れる黄色い瞳が夢子を覗き込んだ。


「夢子、僕が分かるの? 正気に戻ったの?」

「いや、まだみたい」

 夢子は自嘲の笑みを浮かべて、黄櫨を背に隠しながら紫達の方を振り返った。常盤は銃口を下げ、目を見開いている。紫は悲しみと怒りに顔を引き攣らせていた。


「夢子、何してるのよ。危ないわ」

「だって、黄櫨くんが泣きそうな顔してるから」

「僕、そんな顔してない」

「してたよ」


 いくら偽物だと理解していても、黄櫨は常盤から殺意を向けられたことがショックだったのだ。黄櫨の常盤への親愛の深さを知っている夢子は、その状況を見ていられなかった。


 だから、どちらが幻であるべきか選んだのだ。自分の中に積もっていた疑念を受け入れた。


 しかしそれでもなお、心は“あちら”に戻りたがっている。


「黄櫨くん。幻覚からはどう醒めればいいの?」

「あれが現実じゃないと否定することだよ。夢子が見ているのは、鏡が映している君の心の中。僕が壊してしまおうと思ったけど、君があれを信じている限りは無理みたい」


 黄櫨は夢子の手にそっと何かを持たせる。夢子は硬い感触に驚いて自分の手を見た。そこには黄櫨が握っていたナイフが鈍く光っている。


「多分、君が自分でやらないと意味が無いんだ」


 夢子の心臓がどくん、と鳴った。

 否定すること、壊すこと。それはつまり。


「ねえ夢子。お願いよ、こっちへ戻ってきて」

 それは全身に染み付いている、慣れ親しんだ声。紫が両手を広げて、夢子のよく知る顔で微笑んだ。


「これからも私と一緒にアリスを追いかけて、不思議の国を冒険しましょうよ。ね?」

「……行かない」

「どうして? 私の方が偽物だって言うの?」

「……とてもそうは見えない」

「じゃあどうして? 危ないわよ、そんなもの持って」


 紫にそう言われて、夢子はハッとした。手元のナイフの切っ先が、自然と紫に向いていたのだ。慌てて刃先を下に向ける。


 例え紫達が幻だったとしても、それを壊すなんてできない。

 ……本当に幻なのだろうか?


「夢子……あっ!」

「黄櫨くん? え、それ、なに⁉」


 夢子は驚愕した。地面から黄櫨の足へ氷が這い上がり、膝まで侵食されている。


「君の幻が僕を排除しようとしてるのかも。早く出ないと……」

「そんな、でも」


 夢子は微かな希望に縋り、紫を見た。紫はふわりと優しく微笑む。

 だから夢子は絶望した。


 やはり、これは自分を惑わす幻でしかないのだと。本物の紫ならこの状況でそんな顔をしている筈がない。こんなにも本物なのに偽物なのだ。テントでも森でも、今さっきまでだってあんなに楽しかったのに、全部嘘だったのだ。


「ごめん」

 夢子は口の中で小さく呟く。紫によく似たソレは首を傾げた。その姿が一瞬、きらりと輝く。それを見た夢子は駆け出し――戻って来た自分に嬉しそうな顔をする少女へ、勢いよくナイフを突き刺した。


 もう迷いはなかった。偽物なら、一刻も早く壊さなければならない。


 紫の紛い物は要らない。許さない。


 ――パリン。

 少女の顔が悲痛に歪み、皹が入る。周囲が暗く、寒くなる。常盤も、夕空も、茶店も、みんな消えていく。しかし紫の姿だけはまだそこに残っていて、苦しげな表情を浮かべていた。


(くそ、往生際が悪い!)

 その表情が本物めいていればいる程、夢子は怒りを感じた。


 もう一度、二度、ナイフを突き立てると、ソレはようやく崩れ落ちる。夢子はブーツの底で破片を砕く。もう何も見えないように、何度も何度も踏みしだく。



「……夢子?」


 色の無い顔、開いた瞳孔。夢子の中の狂気を見て、黄櫨は恐怖を覚える。それは幻に騙されていた時よりよほど、正気ではないように見えた。


 粉々になったその上で、夢子は膝に手をつき、深く呼吸した。何度かそれを繰り返した後、黄櫨に歩み寄る。そして再びナイフを強く握ると、黄櫨の足元の氷を砕いた。

 黄櫨はその時一瞬だけ、殺されるのではないかと思った。


「夢子、ありがとう。えっと……大丈夫?」

「うん。ごめんね心配かけて。さあ、早く出ないとね」


 夢子は何事も無かったような――何事も無かった事にしたい、という顔をしていた。それに、黄櫨は言い知れぬ不安を抱く。鏡の呪いを受けながら、自らの心に打ち勝った彼女は強い。しかしその強さは危ういものにしか思えなかった。


「ところでここはどこなの?」

「ここは鏡の中だよ」

「鏡の中?」

「迷路みたいになってるけど、どこかに出口はあると思う。入口があったんだからね」


 黄櫨が夢子に手を差し出す。夢子は、随分可愛らしく頼もしいヒーローだな、とその手を取った。ナイフを返されると思っていた黄櫨は驚いたが、そのまま彼女の手を握り返した。

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