Act15-2.「仮初エチュード」
コンコン。小気味いいノック音で、ジャックは目を覚ました。
さらりとしたシーツの感触。瞼の隙間から差し込んでくる眩しい光。窓の外には懐かしい青空が広がっていた。
(ここはどこだ? ……あの男はどこへ行った!?)
ばっと飛び起き、周囲を探る。しかしどこにも男の姿は無い。それどころか、この場所は森ですら無かった。
クローゼット、ベッド、書き物机。カーテンも、絨毯も、その全てにジャックは見覚えがある。ここは――遠い昔、ロザリアの城で彼が使っていた部屋だった。
呆気に取られていると、またノックの音が鳴る。ジャックは咄嗟に、ベッド横の剣を手にした。しかしドアの向こうから聞こえてくる声に、すぐ手を離す。
「ジャック。まだ寝ているのですか。もう昼前ですよ」
凛と澄んだ少女の声。ジャックはベッドから転げ落ちそうになりながら、慌ててドアを開けた。見下ろせば、輝く金色の短髪。きりっと鋭い薄青色と目が合った。
そこにいたのは、ジャックが魂を捧げた唯一人の女性、ハートの女王ロザリア。
ジャックは思わず口元を手で覆う。
「あなたが寝坊するなんて珍しいですね。……どうしました? 幽霊でも見たような顔をして」
「え、あ、いや、」
“幽霊でも”ではないのだ。ジャックはあり得ない状況に言葉を詰まらせる。しかし――何故あり得ないのかが、よく思い出せない。
「ところで」
「は、はい」
「昼食のデザートに取っておいた、チェリーパイが行方不明なのです。何か知りませんか? もしかして、あなたが盗ったのではないですよね?」
至極真面目な顔で、パイ泥棒を探している女王。
そう、彼女にはこういう所があった。こういう所が好きだった。ジャックは頬を緩ませる。
「陛下がご自分で召し上がられたのでは」
「まさか。……あっ」
(やっぱりか)
「そうでした、そうでした。昨晩、夜中に目が覚めてつい。盗人呼ばわりしてしまい、悪かったですね」
「いえいえ。それより、まさか全員の部屋を回っていたのですか? ……お一人で男の部屋を訪ねるのは、控えた方がよろしいかと」
「何故」
「それは……色々と、危ないからですよ」
「この国で、私をねじ伏せることのできる者などいないでしょう」
「それは、まあ。ですが変な噂でも立てられたら、不本意でしょう」
「大丈夫ですよ。あなたの部屋にしか、来るつもりはありませんでしたから」
それはどういう意味かと、ジャックは動揺する。だがロザリアは平然としていた。
「あなたにパイを探して貰おうと思ったのです。女王がそんなことをしていては、暇だと思われてしまいますから」
「俺は雑用係ですか……女王の騎士が暇だと思われるのは、問題ないのですか?」
「ええ。現に昼前まで寝ているようなお寝坊さんですからね」
ちくりと刺すその言葉も、彼女の発する全てが、ジャックには心地よく感じられる。ヘラヘラしているジャックに、ロザリアは呆れた顔をした。
「いくら平和だからと言って、最近弛み過ぎですよ」
「はは、すみません」
「……仕方ないですね。久しぶりに、私が直々に稽古をつけてあげましょう。昼食前の運動は、いい調味料になりそうですしね」
くるりと背を向け、廊下を歩いていくロザリア。ジャックは急いで身なりを整え……ようとしたが、もう着替えは終わっていた。ハートの女王の紋章の入った団服。それに何か違和感を覚えながらも、急いでロザリアを追う。
颯爽と早足で歩くロザリアだが、小柄な彼女は歩幅が小さい。ジャックは追い越さないよう、その後ろをゆっくり歩いた。
(……こんなに小さかったか?)
ジャックは自分の胸下にある頭に、胸が締め付けられる。刈り上げられた金髪に、無性に触れたくなった。何故か少し、泣きたくなった。
外の訓練場では、ルイを始めとする騎士達が、木剣を手に鍛錬に励んでいる。彼らはジャック達に気付くと元気よく挨拶をした。そして、ロザリアがジャックと模擬試合を行うのだと教えると、彼らは羨ましがり、自分達も相手をして欲しいと申し出る。
昼食の時間を気にしているロザリアに、一人一人を相手にする余裕はない。彼女は「では私とジャック対、あなた達全員にしましょう」と提案した。
騎士達は望むところだと奮い立つ。話を聞きつけた騎士達が続々と集まり、ジャック達は最終的に、総勢二十余名に囲まれた。
開始の合図は、ロザリアが空に投げたコイン。
コインは青空をくるくると舞い――地面に落ちた!
騎士達が一斉に二人へ向かって行く。ロザリアは華麗にそれをいなし「芸がありませんよ」と窘めた。攻撃を躱しつつ、最小限の動きで足払いをして、相手を地に伏せさせる。
仲間の陰に潜んでいた二人の騎士が、左右から彼女に遠慮なく剣を振り下ろした。ロザリアの剣が、難なく二本の剣を弾き返す。
彼女はそのまま自らの剣を空高く放り、飛び上がった。そして空いた両手で二つの頭を掴み、ガン、と思い切りぶつけ合う。その場に崩れ落ちる騎士達の前に降り立ち、落ちてくる剣を手に取る彼女に、意識ある者は皆、見惚れた。
ジャックは負けていられないと、自分を囲んでいた三人をまとめて薙ぎ払う。
「弛んでいる訳ではなさそうで、安心しました」
「陛下も、お見事です」
顔を見合わせる二人。ルイが「まだ終わってませんよ!」と声を張り上げると、残っている騎士達も士気が上がったようだ。今一度体勢を整える彼らに、ロザリアが満足げに微笑む。
「流石は、私の騎士達ですね」
彼女の言葉に更にやる気を出した騎士達の攻撃は、凄まじかった。絶え間ない猛攻にジャックが息を切らせていると、その背に小さな体がトンとぶつかる。彼女もまた息を切らせて――否、弾ませていた。
「あなたとこうして、背中合わせで戦うのも久しぶりですね」
ジャックは何か答えようとしたが、彼女の言葉があまりに嬉しく、悲しく、何も言えない。
「しっかり私についてきなさい」
――命が湧く感覚。
ああ、生きている、と感じた。
強く美しい彼女の隣で、共に歩む日々。こんな時間がずっと続けば良い。彼女のために生き、死んでいけるなら、これほどの幸せはない。
彼女が、命の理由だ。
*
――最後の一人が膝をつき、訓練場に立っているのは、とうとうロザリアとジャックの二人だけになった。
「ここまで!」
ロザリアがよく通る声で終わりを告げると、騎士達はふらつきながらも何とか立ち上がり「有難うございました!」と深く頭を下げる。
熱い彼らに対し、ロザリアは「はい」と応えただけだった。部下に疲れを見せないよう、取り繕った顔。その氷の顔が「さて、ようやく昼食の時間ですね」と少しだけ溶けた。
「ああ、でもチェリーパイが無いんでした。どうしましょう」
「先程キッチンで、イチゴのタルトを作っていましたよ」
「ああ、タルトもいいですね」
ルイの言葉にロザリアがそう返した瞬間、ジャックは言いようのない不快感を覚えた。胸の中に、ドロリとしたものを流し込まれた感覚。金属が液体になって、それを大量に飲まされたかのようだ。冷たく、重く、内臓を圧迫する何か。全身にぞっと寒気が走った。
(この感じは何だ? ……俺は、本当に分からないのか?)
「ジャック、どうしました?」
ジャックの顔を覗き込むロザリア。その額を、汗が伝う。汗はまるで涙のように彼女の頬を流れ、ぽたりと地面に落ちた。
ジャックはロザリアが泣いている姿など見たことが無い。にも関わらず、そのすまし顔に涙でぐちゃぐちゃになった顔が重なる。
信じられない、忘れられない、あの時の彼女。
誰かの名前を呼びながら、枯れるまで泣いていた彼女。
壊れてしまうまで、その弱さに気付かせてくれなかった彼女。
(あいつも、そうなのかもしれない。……あいつって、だれだ?)
視界が二重になる。今見ている世界とは別の、もう一つの世界。そこには小さく震えながら涙を浮かべる少女がいた。ジャックは“ここには存在しない”その少女を、確かに知っている。――いや、知っていると言っていいのか分からない、掴みどころのない不思議な少女だった。
一見すると淑やかで、か弱そうな少女。だが意外と度胸があり、強か。真面目に見えて、割とふざけている。表情豊かとまではいかないが、結構笑う。
いつでも自分のペースを保ち、独自の正義に生きているような所は少しだけ、ロザリアに似ていると思った。
ならばあの少女も、儚く弱い一面を隠し持っているのだろうか? それに自分が気付くのは、また壊れてしまった後なのか。
「さてはエネルギー切れですね? 朝食を摂らないからですよ。たまには昼食、一緒にどうです?」
「……申し訳ございません。俺は、戻ります」
「部屋に? そんなに疲れているのですか?」
「いえ……」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、ジャックに迷いが生じる。彼女を、この美しく優しい世界を、壊してしまっていいのか。
ジャックが答えに窮していると、ロザリアの目が責めるような色を帯びた。
「では、どこに戻るというのですか? ここが不満なのですか? ――もう、私は要らないのですか」
ロザリアの白い頬に、後ろから誰かの手が伸びる。だらしなく袖の余った服。骨ばった手は纏わりつくように、彼女の柔らかな頬を、薄紅色の唇を、細い首を撫でた。ジャックが誰よりも憎んでいるその男は、ロザリアに頬ずりしながらニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
「折角の俺のいない世界を手放すのか? お前にとっても女王サマにとっても、可哀想な結末に戻るのか?」
「助けて、ジャック!」
ロザリアの悲痛な叫び。彼女を受け入れれば後ろの男は消え、また穏やかな昼が何事もなく続いていくのだということが、ジャックには直感で分かった。怯えに歪んでいる彼女の蒼白な顔を見て、ジャックは残酷な事実を認める。
――これは自分にとって都合の良い妄想、幻でしかないと。
ロザリアは決して可哀想ではなかった。彼女はあの男を、タルトをこんな風に拒絶したりはしない。そして、自分に助けを求めてこない。
ジャックは手元の刀身を強く握りしめる。訓練用の木剣はいつの間にか、愛用の真剣に変わっていた。手に走る鋭い痛みが、心を落ち着かせる。痛烈に、真実を思い出させる。
いつしか太陽は消えていた。騎士達の姿も無かった。ロザリアとタルトの二人だけが、暗闇の中にぽつんと残っている。ジャックが彼女達に剣を向けると、ロザリアは「どうして?」と悲しい声で問い掛けた。
「俺の幻想で、あなたをこれ以上穢す訳にはいかない」
ジャックは覚悟を決め、剣を振り上げる。目の前で驚いたような顔をしているロザリアに、思わず目を瞑りたくなるが、だからこそ最後まで見届けなくてはいけないと思った。
ジャックの剣が、ロザリアの姿を“割る”。
世界に皹が入る。
消えゆくロザリア。
彼女の残像は、うっすらと微笑んだように見えた。




