Act15-1.「仮初エチュード」
「夢子、流石に遅すぎるんじゃないか?」
夢子が狼と共にキャンプを離れてから、もう三十分近く経とうとしている。ジャックの言葉に常盤も頷き、二人は彼女を探しに行く為に席を立った。
しかし丁度その時、夢子が森から姿を現す。ジャックは内心ホッとしながら「随分遅かったな」と揶揄うが、彼女の尋常ではない様子に目を見張った。
夢子は全力で走って来たのか、苦し気に肩で息をしている。血の気の失せた青い顔、今にも倒れそうな覚束ない足取りで向かってくる夢子に、ジャックは慌てて駆け寄り、その肩を支えた。
「お前……どうした、何があった?」
「森で、またあの……フードの男の人が現れて……狼さんがわたしを庇ってっ!」
ひどく震えた声。瞳一杯に涙を浮かべた夢子が、縋る様にジャックを見上げる。その切なげな視線に、ジャックはドキリとした。彼女がこんな顔をするなど思ってもみなかったのだ。いつも憎らしいくらいに飄々としていて、恐れ知らずに見えた彼女。か弱い一面を見せられ、どうしていいか分からなくなる。
「怖かった」と小さく呟く彼女は小動物のようで、庇護欲が掻き立てられた。
「ジャック、離れろ」
鋭く冷たい常盤の声。ジャックは、彼女に近付き過ぎた所為で怒りを買ったのだろうと、夢子の肩から手を離して若干の呆れを含んだ顔で振り返った。そして息を呑む。常盤はこちらに――夢子に銃口を向けていた。
「どうして、ですか? 常盤さん……なんで?」
夢子は信じられない、という顔で彼を見る。見開かれたその目から、溜まっていた涙がポロリと零れ落ちた。常盤は少女の反応に忌々しそうに顔を顰める。
「常盤、何やってんだ! 夢子に銃を向けるなんて、」
「夢子じゃない」
「……は?」
「下手な芝居はやめて正体を現せ。彼女の真似をするなど……烏滸がましいにも程がある」
常盤に睨まれた夢子は、深く傷付いたように顔を手で覆い「なんで、なんで」と涙声で繰り返した。……その声が徐々に変貌する。少女のか細い涙声に、男の濁りが混じっていく。
「なんで、なんで……なんで分かったんだ?」
もうそこに居るのは夢子ではない。ジャックは一目でその人物が“フードの男”だと気付き、男の醸し出す異様な空気に後ろへ飛びのくと、剣の柄に手をかけた。テントの中から状況を察した騎士達が出てきて、ジャックの後ろで臨戦態勢に入る。
男は多勢に無勢にも関わらず悠長に腕組みをし、不思議そうに首を傾げた。
「俺、“この演技”には相当自信があったんだけどな。なあ、なんで分かった?」
「……彼女は、あんなに安っぽくない」
「そうか? まあ、そうかもしれないな。もうちょっと捻くれた感じだよな」
男は何を思い起こしているのか“確かに”と納得した様子を見せる。ジャックは簡単に引っかかった自分を恥じつつも、どこかで安堵していた。儚く、触れれば壊れてしまいそうな繊細な姿。彼女にあんなに弱い一面は無かったのだ。……本当に、そうだろうか?
「流石に三回連続で見破られるとショックだな」
男は溜息交じりにそう言って、肩を竦める。声色こそ冷静だが、男はその“性質上”他人を真似ることに自信があり、正体を見破られることに屈辱を抱いていた。
男の言う三回……一回目は街で夢子に、二回目は今この場所で常盤に。ではあと一回は? その答えを示すように、男はローブの中からあるものを取り出して雪上に放り投げた。それは、二つに割れた狸の面である。赤く濡れた面を見て、常盤は顔を強張らせた。
「あいつに何をした」
「ああ、あの思い上がりのモブか。モブにしては勘のいい、骨のある奴だったな。出しゃばらなければ長生きできたものを。……狼じゃなくて、羊の方が無害そうに見えたか?」
男は騎士達の間に居る羊面に顔を向け、ニヤリとする。その言葉に、常盤は男が狼に化けていたのだと知った。いつ入れ替わったのか。可能性が高いのは、夕方に先遣隊が戻って来た時だろう。狸はその正体に気付き、狼を追ったのか。何故一人で? ……狼と共に森に入って行った夢子はどうなった?
常盤の中に、嫌な想像ばかりが膨らむ。生きた心地がしなかった。
「夢子はどこに居る? ……無事だろうな」
「ああ、心配無用だ。ここよりよっぽど平和で幸せな所に居るよ。だから、邪魔されないように足止めに来たんだ」
男の声に不穏な気配を察し、ジャックは剣を抜いた。男はわざとらしく「怖い怖い」と両手を上げる。
「全く、血の気が多い奴らだな。言っておくが、こっちは穏便にいくつもりだったんだぞ。森から出て行って貰えさえすれば良かったんだ」
「穏便だ? どの口がそれを、」
ジャックの言葉を遮る様に、男がバッと両腕を広げた。騎士達が「あ、あれは!」と声を上げる。男の行動と共に出現した、巨大な長方形。夜の森の色に染まるそれは“鏡”だった。
「あまり大人数を相手にしたくは無いんだが、仕方ない。出血大サービスだ。全員を醒めない夢に招待してやろう」
「薄ら寒いセリフ回しの野郎だな」と挑発するジャックに、男は「ハッ」と鼻で笑うだけである。
「可愛いお姫様と帰れるチャンスを、棒に振ったのはお前らだからな?」
鏡が妖しく光る。禍々しく、周囲の景色を歪めるような光。常盤がジャック達に「鏡を見るな!」と叫ぶ。フードの男はローブの下から長い太刀を引き抜き、威嚇するように突き出した。
「無駄だぞ。目を閉じたらその時はグサリ、だ。あの狼女と違って、お前らは視界に頼らざるを得ないだろ?」
光が強まる。現と幻の境界を曖昧にしていく。
――次の瞬間、その場に立っているのは男一人になっていた。焚火の燃える無人のキャンプは、一斉に神隠しにあったように不可思議な光景である。
男は息を切らせ、その場に膝をついた。
「はあ……流石に疲れたな」
酒場の男や先遣隊にしたように、一時的に相手の精神を乱す方法ならば、これ程魔力を消耗することはない。しかしその方法は相手が油断している時、上手く不意を突けた時以外は失敗の確率が高く、成功しても効力が落ちる。真正面から馬鹿正直に嵌めるのは、中々に難しいのだ。
男が今発動したのは、鏡のゲートを開き、鏡の中に対象者を閉じ込める術だった。鏡の中には表世界ともバックグラウンドとも違う、どこともつかない異空間が広がっている。世界を分かつ境界線の隙間。そこに、男が管理する鏡の世界がある。
通常、まともな精神状態であれば……それも鏡を警戒しているならば尚更、鏡に人が取り込まれることはそうそうない。しかし今この森は“通常”ではなかった。鏡の世界との結びつきが特別強力になっている。それは、森の奥の湖のお陰だ。異常気象で凍り付き、巨大な氷面鏡となった湖が、鏡の――男の力を強めているのである。
今のこの森は、“彼女”がこの計画の為に、男の為に誂えた舞台だった。
「精々、鏡の中で幸せな夢を見るがいいさ。……あ?」
男は黒幕さながらの顔を、何かに気付いたように硬直させる。そして一枚の鏡の中を覗き込み、そこに見つけた侵入者に舌打ちをした。
「くそっ、ネズミが一匹潜り込んでいやがったか!」
男はそう吐き捨てると、焦った様子で、自身も鏡の中に飛び込んでいった。
あいつの――あの方の、俺達の夢物語を、邪魔させるわけにはいかないのだ。




