Act0.「幕間」
窓際でレースのカーテンが静かに揺れている。
薄布の向こうには白い光が満ちており、爽やかな朝にも見えたが、実のところ“ただ何もない”だけだ。有と無の境界。
世界の果てに、少女が立っている。
雪のように白い肌。濡羽色の長い髪。カーテンの奥で窓の向こうを熱心に見つめていた彼女が、闇を振り返った。ふわりと髪に触れるレースは、まるで花嫁のベールだ。無彩色の中、ほのかに色のある唇が、静かに紡ぐ。
「ねえ。世界で一番幸せなのは誰? 不幸せなのは誰? あなたには、私がどう映る?」
その瞳に世界の終わりのような絶望を宿しながら、微笑みを独り歩きさせる少女。問われた男が答えに窮するのを見て、クスクス笑った。
この人の笑顔はガラスに似ている、と男は思う。
透明で儚いガラスの笑み。危うい美しさ。それが割れる時は、どんなに綺麗で悲しい音がするのだろう。砕け散った破片は、朝靄のようにキラキラと空気中を舞うのだろうか。
だが、それがたった一度限りなら、勿体ない。頑丈な箱にでも入れて、ずっと守っていたい。
「全く……相変わらず気の利いたことは言えないのね」
「すみません。俺には、あなたは見通せない」
「ふふ。それでよく“私が務まっている”わね。ちゃんとしてよ? あなたが私になりきってくれないと、あの子が悲しむんだから」
そう言って、悲しげに伏せられる瞳。男は少女の一挙一動に見惚れた。なんと芸術的なのだろう、と。
何故彼女には、こんなにも悲しみが似合ってしまうのか。
彼女に悲しみをもたらし、どこまでも美しく輝かせる――ある人物が、男は憎かった。
「あいつの所為で、あなたはとても不幸に見える」
「あいつ、だなんて。あの子はあなたの親友じゃない」
「俺じゃない。あなたの、です」
「……そうね。あの子は私の親友。私の幸いで、私の不幸。私の全てだわ」
少女の視線は男から離れ、また白いだけの世界に吸い込まれていく。そこに、ただ一人の姿を探しているように。
「一番欲しいものなのに、手に入れた瞬間、私は永遠に手放すことになる。だから遠ざけておかなければならないのに……。私のことを知って欲しい、気付いて欲しい、なんて思ってしまうのよ。それが最悪の結末だって分かってるのにね」
それは罪の告白じみているが、ただの独白だ。男は「そうですか」とだけ答えた。それ以外に答えを持っていない。彼女も求めていない――と男は認識していたが、何故か少女は一瞬だけ不服そうな顔を見せた。
何と言って欲しいのか。何なら言うことが許されているのか、分からない。
男は誤魔化すように本題に移った。
「ところで――公爵夫人はいかがいたしますか? 今回の件で力を強めているようですし、あなたに反感を持ったに違いない。時間の力を使うあの娘を放置しておけば危険かと。……もう一度ヴォイドを送りますか?」
「もういいわ。それどころじゃないもの。“彼女以上の脅威”が来たんだから」
脅威。それを口にする顔も声も、言葉にそぐわないものだった。
「遂に、時間とも接触してしまいましたね」
「本当に順調で困るわ。“あの人”は全然邪魔してくれないし。あの子の意思に逆らえないのは、昔から変わらないのね」
懐かしそうな笑み。男は疎外感を覚える。
「……あいつは何故、白ウサギの役を引き受けたんでしょうか」
「それがこの世界の理だからよ。皆そうでしょう? 与えられた役に沿って、存在を証明しようとする本能。……でも最近、その仕組みが変わってきている気がするのよね」
「と、言いますと?」
「役を逸脱した勝手なキャラクターが増えているでしょう。眠らない眠りネズミとか」
「ああ、確かに」
男は昔の不思議の国を思い出す。そこは今より遥かに、不思議の国らしかった。
この変化が示すものは、物語の型の崩壊と、登場人物達の自立か。
(俺はどうなんだろうな。……それに、この方は)
「存在を確立させるのは、認識の力よね。他者からの認知も大切だけれど……自己の存在を認める強い自意識、自己承認が何より重要だわ」
「なる……ほど?」
「つまり役をこなしていなくても、本人がこなしていると認識できていればいいのよ。意識エネルギーの強い者なら、尚更ね」
少女の言うことに、男の理解はしばしば及ばない。そういう時は、少女がまさしく崇高な神のように見えるのだった。崇敬と寂しさの混ざる複雑な気持ちで、黙って次のお告げを待つ。
少女はしなやかな指を柔らかな唇に押し当て、目を閉じ思考に耽った。まるで時が止まってしまったかのような時間。男はそれが永遠に続けばいいと願った。しかし、実際にはほんの僅かな一時だった。
少女の唇が弧を描く。
「騙すのは、得意でしょう?」
その悪戯っぽい笑みと、人聞きの悪い言葉に、男は自分がすべきことをうっすら察する。
「……はい、得意です。あいつが役をこなすのに適切な“虚構”をご用意しましょう。演出には力を貸していただけますか?」
「ええ、勿論。“私達”であの子のために、優しい夢物語を紡ぎましょう」
“私達”という言葉に、男は喜びに沸いた。少女が自分を見ていなくとも、今この時一番近くにいるのは、自分なのだと。
「ヴォイドはあの子に触れられなかったから、あなただけが頼りだわ」
「……あの場にあいつを呼び寄せたのは、あなたの意志だったのですか?」
「さあ。どうかしらね?」
揶揄う口調だが、実際のところそれは本心なのだろう。少女は時々、どこからどこまでが自分の意志であるかを見失うのだ。
今、こうして会話をしている少女は、果たして本人なのだろうか? 男はその疑問を振り払う。
自分に出来ることは、この目に映る彼女をただ信じるのみだ。
例え彼女が自己を認識できなくなっても、彼女を繋ぎ止めておけるように。
「お任せください」
男の言葉に、少女は少しだけ微笑んだ。しかしすぐにまた、世界の終わりのような顔で物思いに耽りはじめる。……ような、じゃない。
彼女は――
彼女こそが、この世界を終わらせるのだから。




